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仮題:カシューム星人と地球人について 1 [仮題:カシューム星人と地球人について]

【1回目】

追伸——カシューム星人は
    いかにして時間を知り、そして
    知識を失ってしまったか?      

【前置き】
 この話しの中で、『彼女』は『彼女』であり『旧マスター』は『旧マスター』、『友人』は『友人』である。
 わたしは未だに言葉をよく知らなくて、人称を代名詞という機能を使用して説明することができないのです。モーガンはわたしに言葉をよく教えてくれなかった。そもそもモーガンが使っていた言葉は英語で、旧マスターたちのしゃべる言葉とはちがっていたのだ。それはニッポン語といわれるものだった。面倒くさい惑星だ。

【以下記憶から】

 わたしはバーのカウンターに飾られていた宇宙産カドミウムでできた置物である。色々な姿に変わってきたが、最後はバイオリンを弾いたネコだった。ネコの顔は笑っていて、身長は二十五センチだった。
 わたしが話すのはひとりの女性のことである。なんの『因果』か、わたしはこの女性が思春期から巣立ち、彼女の時間を『放棄』してしまうまで——彼女のその間をすべて見取ることとなる。わたしにはそこまでしなければならないような思い入れは存在しなかった。だが、わたしは彼女の一生を見取ることとなる。それが結果だ。

 わたしの記憶のなかの彼女は、十八歳からはじまる。彼女は免許証を取得したばかりだった。その写真の彼女は、赤い薄めのリップスティックを塗っていた。彼女の肌に化粧品は要らなかった。その肌は卵のようだったから。

 彼女はよくこのバーに通っていた。といっても酒をたしなむわけではなかった。このバーは彼女にとってひとつの『家』であった。それは『別荘』だった。
 バーの元マスター——元マスターはこの話しの最後で彼女と同じように時間を放棄することとなる。彼は彼女が高校生のころ、三十九という年齢だった。その年齢のわりにバーの様相には多分の古めかしさがあった。今もそのバーは時が刻む歴史相応の様相を見せ続けている。古い家造りに合掌——。
 バーのマスター——彼のことを『旧マスター』と呼ぼう。彼はわたしにとっても大事な友人である。
 旧マスターには『本名』といわれる名がある。だがわたしはその名を聞いたことがない。店の人々の口から発された覚えもない。それはなぜか?——簡単な結論だった。その街には旧マスターを知ってどうにかなる他人はいなかったからである。旧マスターはよその人だった。彼の出身はこの街ではなかったのである。そういった意味で旧マスターはわたしと同じで『外人』なのだ。
 旧マスターは客からなんと呼ばれたか?——それは『マスター』だった。それは勤め先において自分の会社名で呼ばれるようなものだ。それであるから会社の名前は大切である。だれでも呼ばれたくない名前はある。

 わたしの星では——わたしの国でも社会があり『ディンギ』があった。わたしたちはディンギをつかって色々買い物をしたものだ。しかしわたしの国ではディンギは稼ぐものではなく与えられるものだった。いったいどうしたわけか?——実をいうとわたしたちにはディンギでものを手に入れるという欲望がなかったからだ。
 だが一切の欲望がなかったわけではない。欲望のない生物で構成される国が発展することはない。わたしたちには『知識』という欲があった。わたしたちの知識欲はつねに前進していた。覚えたいことや知りたいことがたくさんあった。わたしを産んだ、わたしより若かった母親は早く絵本から脱皮したがった。彼女は次の知識に——絵本よりもっと高尚な知識を欲したのだ。だがわたしはいうまい——絵本はそこらへんの文学よりもとても高いところにあって、そしてとても自然な働きを持っている。絵本は文字を使わずに会話するのだ。とても原始的でかつシンプル——その偉大なところは何か?——理解するために必要なもの——それがわずかな想像力だけであるということだ。それであるからたいがい子供にしか楽しめないし、大人には読めない。だが大人のなかにも絵本を好むものがいる。彼らは想像力以上の知識を得るのを止めたのだ。想像力——なんという聖域だろう。誰もそれを足で踏んづけることはできない。
 そうかといって、わたしは抽象的な絵をバカにすることはできなかったし、今でもできない。
 すっかりわたしは地球人となってしまったようだ。わたしは物事を評論するといった行動をとったことがなかった。わたしの国には評論家がいなかった。そもそも○○○家うんぬんといったものが存在しなかった。わたしの国は評論家が現れるほど悪いところではない。評論家に評論させるほどあらゆる学問や科学は落ちぶれていなかったし、○○○家に頼るほどわたしたちの頭は悪くなかった。
 生き残るであろう人々の持つものは勇気である。だがそうではない少数派の持つものはディンギだった。
 おっと失礼——。ディンギとは金のことである。そのディンギという言葉はある共産圏で使われていたものである。だからといってわたしの星は共産圏ではない。そういった主義うんぬんは皆無だった。「主義は自分のなかにあるものかなあ? そもそも必要なものなのか? なあ分身よ」——わたしが産まれるきっかけを与えてくれた父親はそういった。彼もまたカドミウムの身体をふりしぼりながら勉強中の身であった。
 わたしの母親がわたしよりも若かったのは、わたしの国ではよく時間の変化が生じるからだ。彼女はついその間にはまってしまった。いつの間にか彼女は子供になっていた。父親は悲しまなかった。となりの家でもそうだったからだ。まあ、東京に雪が降るようなものだろうか。でもそれほど人工的じゃないだろうな。とても自然なものだ——うん。

 旧マスターはもともとその街にいた人間ではなかった。わたしの知っているかぎり彼は二人いたように思える。ごくありふれた話しかもしれない、——ひとりは『仕事』中の彼で、もうひとつは仕事をしていないときの彼だった。彼は客の前ではそれなりに口を開いたが、独りのときはまったくしゃべらなかった。わたしはその理由を『独り者』であるということに結論づけた。そうやって他人を断定することは、地球上では神だけがなせる所業であるらしかった。が、わたしの知識欲はすべてが『なぜ?』からはじまる。
 なぜ?——彼は無口であったか? 彼には話し相手がいなかった。それではなぜ彼は独りだったのだろう? わたしにはわからなかった。たぶんそれは彼自身にもわからなかったにちがいない。
 だが実際には彼を——旧マスターを慕うものはおおぜいいた。店の客の共通項のほとんどはそれであった。たぶんそうなのだろう。
 店の客はよくしゃべったが、実際には静かなものがほとんどだった。彼らは連れがトイレに行くとその口を止めた。
 みな口数の多い人間ではなかった。
 ほんとうの地球はとても静かである。
 わたしが宇宙から地球を見たとき、地球は物音ひとつたててはいなかった。とても静かなものだった。それはそれは静かな星だった。宇宙から見たときは——

 夜の地球はわりと静かである。だが陽が落ちるほどに人の心はすさんでいった。この星では太陽をエコロジーの源——つまり唯一のエネルギー源としてとらえているが、わたしの星ではちがう。太陽は母親だった。
 わたしたちの星は地球からとても遠いところにあった。わたしたちにとって地球はひとつの伝説であった。太陽を間近に見たことがなかった。たとえば地球上から太陽を見るように。わたしたちは太陽光をリフレクトする装置を宇宙のあちらこちらに浮かべた。太陽の光をわたしたちの星の大地へ届かせるために。太陽の放つ光の粒子は理論が約束するとおりに反射をくり返し、圧倒的な粒子の重みとともに地上を突き刺した。それがわたしたちにとって唯一の資源であり、生活を支えるエネルギーだった。今でもそうである。わたしたちの生活は安い。
 旧マスターの店では暖をとるために灯油という鉱物が変化した汁を使っていた。その汁は、ときに『弁当』と呼ばれる食料を入れるうすっぺらな箱になったり、人の足を包むタイツにもなる。それは『化学繊維』と呼ばれるものだ。薄いがとても丈夫である。
 鉱物はガソリンという汁にも変化する。これは主に自動車という世界規模の産業からつくり出される製品を稼動させるために用いられた。その自動車にはガソリンを使わなければならない内燃機関が設けられていた。それはシンプルで原始的だが非常にデリケートな調整が重要となる機関で、熟練した人の手にかかれば想像以上に強烈な力とスピードを与えてくれた。たくさんの『おなら』を鳴らしながら。
 ここでわたしの結論づけたひとつの事実をいっておこう——
 地球人が創造し、そして生き残ってきたもののすべては実に簡単なものばかりなのだ。そしてたいがいのものがひとつの材料ででき上がっていた。なおすのは簡単で、それがバカらしくなるくらいなので、逆になおすのが空しい気がするほどで、最後には捨てられてしまった。
 この地球にはわたしの星には存在しない『雑踏』とよばれる混雑さがある。地球上の地理的なものから、社会、そして人の精神にいたるすべての事柄は、糸がからむようにひどく入り組んでいる。だがそのひとつひとつはとても簡単なことなのだ。けれどその簡単さはその簡単さゆえ、大量に、そして無秩序に沸き出し地球の表面を埋め尽くしていった。そして今、この世の中は荒れ放題である。だが見る人はきれいだというだろう。それもいいかもしれない。彼等はみな前衛芸術家でアジテーターなのだ。旧マスターの口からもれたウオホールという地球人のように。たぶん彼——ウオホールは地球人ではない。かといってわたしの星の人間でもない。どこかへんぴな場所にある星だろう。だまされるのはいつも地球人である。
 知識にどれだけの意味があるというのだろう?——わたしの知識欲はしだいにしぼんでいった。それだけこの地球は知識を得ることに対する意欲を失わせる。
 わたしの星は知識を得ることだけが明日への希望だった。

 そう——『希望』である。

 さてわたしは宇宙産カドミウムでできているのであるから、わたしの故郷は宇宙であり、その広い宇宙のなかで地球と同様に存在するカシュームという星で生まれた。わたしたちの特徴は、身体が非常に柔軟にできているため、あらゆる姿に変貌することができることにある。その過程においては血生臭いまでのホラー的変容を伴う。『ホラー』とはわたしが地球で学んだ言葉である。それはこんな感じである。——のど仏が見える程に大きく開かれた口で苦悶をたたえた形相とともに、身体がまっぷたつに割れてしまう——とかいったことである。そのなかから異形の悪魔が粘液とともに誕生する。——といった感じである。他にも、斧という刃物で頭をたたき割られたりもする。そういったときは血がブワーっと吹き出すのだ。『ブワー』というのはある種の擬音で、旧マスターの店にくる客がよく使う言葉だ。その男はよくわたしにつばきを飛ばしながらその言葉を使う。何でも『何かが吹き出す』とか『広がる』だとかそういったときに使っているようだが、その意味が不明瞭ながらもわたしはときどき使ってしまう。「ブワーっと飛び出したりしてね・・・」
 考えてみるとそれがこの星でわたしの知識欲が減退していった理由かもしれない。この星では多少適当なやり方や考え方でも何とかことが済んでしまうものなのだ。とりあえずは。

 希望=知識=適当
 これはたいがいの人が知っている公式である。

 わたしがホラー的要素をもって身体を変容させる説明はあくまで『たとえ話し』である。全然そんなことはありません。実際わたしの星——カシュームに生存する人々の表情や形相はあまり変わらない。だいたい二種類くらいだろうか? ひとつは起きているときの顔。もうひとつは寝ているときの顔。笑ったよりよろこんだりするときは身体で合図する——地球人が親指を突き出すような感じだろうか。ちなみにモーガンが教えてくれた火星宗教では、親指を鼻の穴に突っ込んでその手のを広げてみせる。そしてこういうのだ——「ブー」
 回りくどい話しでしたが、わたしには表情と呼べるものがない。それだから今のわたしは笑ったネコの顔である。笑っていれば無難だった。そしてバイオリンまで弾いている。
 カドミウムは人間の近くにいた。たとえばカドミウムイエロー。それはとてもすばらしい芸術的な色だ。疲れたら食べたくなるような——そんな甘い色をしている。それは元来埋もれていた色で、芸術家たちが探り当てた色だった。芸術家たちを認めない人は不幸な人だ。将来この星には、数々のできないこと——今まではできていたが、どうしようもない理由でできなくなることがいくつも発生するだろう。動的な人間の自由が束縛される日がくるだろう。そうした状況で人の心を満たすものは何か?——それは芸術であり知識だろう。わたしたちが——いやあなた方が得ることのできる自由はたぶんに静的なものになる。
 そんなとき、あなた方はカドミウムの優しい芸術に心を癒されることになるだろう。
 つまりカドミウムって身近でしょ——
 と、いうわけである。そして案外役に立っているんです。自分を正当化するわけではありません。

 わたしが旧マスターにひろわれた頃、わたしは奇妙なビンの形をしていた。軌道を外れて地球の大気圏へと突入したわたしは、炎で真っ赤になりながら地球の大地に着地した。その大地がニッポンと呼ばれる——つまりこの国のことだ——と知ったのはずいぶん後のことだった。わたしが着地したところはゴミ捨て場のなかだった。わたしのそばには、透明や茶色の『ガラス』という非晶質で構成された『ビン』というものが転がっていた。
 ビンとは液体や軟化物を納めるために使われるものである。それは人間が人工的につくり出したもののなかで、リサイクルという回転が可能な数少ないもののひとつである。
 そういった『ビン』がゴミ捨て場に捨てられているのはごく自然なことであるのだが、それにはルールがあった。旧マスターは大量に発生するビンを、そのビンに詰められた液体を売った店に引き取ってもらったり、ある決められた日に捨てていた。それは『ルール』というものだった。
 そう、それはルールと呼ばれるものだった。わたしの星にはルールという言葉はない。ルールが必要のない星もあるということ——ただそれだけのことだ。
 わたしは極力そのビンの真似をしてみた。それはカシュームの持つ擬態本能につかさどられた行動だった。ただ人工的につくり出されたビンの形を完全に真似することはできなかった。
 わたしの姿は旧マスターの目に止まった。旧マスターはわたしの身体——わたしの形に興味をもったらしい。わたしはバーのなかで旧マスターが客に話すことを聞いた。それはわたしに関することだった。
「わたしはこんなビンを見たことがないんです。今まで色々な酒ビンを見てきたけれど、こんなビンは見たことがないんだ」——よっぽどわたしは変な形をしていたらしい。

 ビンになったわたしは旧マスターのコレクションが並べられる棚に納まった。わたしがバイオリンを弾くネコの姿になるのはもう少し後のことである。
 わたしがネコになるには独りの女性の話しをしなければならない。それは先に語った女性——つまり『彼女』のことだ。

 彼女が旧マスターの店に顔を出すようになったのは、彼女が高校一年生のころだった。
 そのころ旧マスターは四十歳だった。彼が店を開いたのはその三年前のことだった。開店してしばらくの間は夜のバーだけでは採算がとれず、昼にはランチでスパゲティなんかも提供する喫茶店になった。
 彼女が旧マスターの店に顔を出したとき、その店は喫茶店となっていた。それは昼下がりのことだった。彼女が店に入ったとき旧マスターは何かいっただろうか?——いや、何もいわなかった。彼女を迎えたのはドアが開くと鳴るように取り付けられたちいさな鐘の音だけだった。
 わたしの仲間の金属でできたその鐘の音色は丸くて、とても金属の感じはしなかった。耳障りは木の音だった。それは旧マスターの趣味である。彼がいろいろな店をめぐった挙げ句に選んだひとつだった。その鐘を置いてあった店は今はもうない。ただその店の名前はひどくレアなものだった。とても、とてもひどくレアなものだった。
 彼女は百八十円を払ってコーヒーを飲んだ。それは煎った豆をこしただけのコーヒーだった。旧マスターはコーヒーをつくることがきらいだった。それはなぜか?——彼はコーヒーがきらいだったのである。彼は子供のころからコーヒーがきらいだった。その苦い味ともうひとつ——コーヒーを飲むと背が伸びなくなるらしかった。
 旧マスターは我流だが、プースカフェをつくることもできた。黄色や青色のアルコールが幾層にも重なった飲み物である。それは、それぞれのアルコールが持つ比重を知らなければつくることのできない飲み物のである。マスターは厚さが五十ミリメートルの本を見ながらそれをこしらえた。そのプースカフェはマスターのお気に入りだった。だが彼は生涯それをメニューに載せることはしなかった。
 それはいったいどうしてだろう?——旧マスターの体力はプースカフェの注文に応じる程若くはなかったのだ。それをこしらえるにはたいへんな集中力が必要だった。それに——旧マスターは酒類調合学の免許を持っていなかった。
 体力といったことに関していえば、彼はシェイカーを振らなければいけないようなカクテルをつくることを極力さけるようにしていた。それは表向きには「面倒臭いんだよ」——客に対する笑い話しだ——という理由だった。しかし実際のところは、彼は激しく音をたてなければできないようなカクテルを好まなかった。つきつめていえば——旧マスターは非常に恥ずかしがりやだったのである。人前で派手なことができないたちだった。それは彼の少ない口数とも関連している。
 とにかく——プースカフェをつくることは旧マスターの密かな楽しみとしてのみ存在していた。閉店後のお楽しみ!

 彼女は旧マスターのつくるプースカフェを見たことのある数少ない人間のひとりであった。そのころの彼女は十七歳の高校生であった。
 彼女がどうしてそれを見ることができたのか。それにはこうした経緯があった——
 彼女は学校の帰りだった。彼女はその学校では転校生だった。彼女は自分の時間を放棄する直前もとても美しかったが、そのころの彼女も美しかった。わたしは覚えている。まだそのときのわたしはネコではなく、ガラスビンだった。旧マスター以外の視力では、わたしはただの空きビンで『ゴミ』なんかと同じものだった。
 彼女が旧マスターの店を知ったのは、店が帰り道の途中の路地にあったせいだった。バスの窓から見える店は自然と彼女の目にとまった。バス通りに面してはいなかったが、路地に入って二軒目の店は割と広い通りも手伝って何かしらの印象を彼女に与えた。目立った店ではないものの、回りの派手さに比べると逆にその地味な店構えは目立った。幽霊小屋のように興味をそそる旧マスターの店は、いつも通る景色の中の出目として、自然と彼女の心のなかに焼き付いていた。これは旧マスターにとって幸運なことだった。ほとんどの幸運は待つ必要があるのかもしれない。
 その店はいつも変わらない様子で、開いているのか閉めているのかわからなかった。たぶん出入口であろう黒い扉が開くところを見たこともなかった。その店が喫茶店であることは扉から遠目に置かれた看板でわかった。最初はそのコーヒーメーカーの名が浮きぼりにされた看板でさえ、その店のものではないと思われた。それだけ看板は遠くに置かれていた。
 ここで説明しておくと、旧マスターはコーヒー会社の名前が入った看板がきらいだった。だがコーヒーを扱う喫茶店として必要なものだったのだ。
 ここでもうひとつ。看板というのは店の門を飾るものとして非常に価値の高いものである。それだからそれをイタズラでも壊すということは大変な金額を支払わなければならないと同時に、ただひたすら平な謝罪が必要である。つまり——世の中はディンギだけでは終わらない。これは人間の特徴でもある。
 カシュームには壊すものがない。第一に捨て去るものがない。唯一あるとすれば『知識』である。カシュームにおける最大の刑は知識を消去することである。
 わたしはこの地球上で生きるかぎり、知識の自然消去という運命を背負いつづけることになる。知識は補充し続けなければならないもので、古い知識は消え去る宿命にあった。ここにはわたしが得るべきものは何もない。とくに旧マスターと彼女が時間を放棄してしまってからは。

 ある日、彼女はバスを途中で降りた。その日は夏という季節が終わり、秋の涼し気な風がわずかに吹きはじめたころだった。彼女の制服は冬用に変わっていた。それでも彼女は素足だった。
 その店に入るのが初めてであろうとも、いったいなにがあるかわからない得体のしれないものであるにしろ、彼女の心臓は平静だった。新しい『コンビニエンス』に入るのと変わるものではない。コンビニエンスとは『便利』という意味でもある。
 そのころの彼女が心臓をドキドキさせるほど心に思っていたことはなにか?——それは友だちが行っている売春行為だった。
 開いているのかわからない店はそんな事実の足下にもおよばなかった。それでも彼女はコーヒーが苦手だった。コーヒーを飲みなれていなかったのだ。彼女の母親は幼少のころの彼女にコーヒーをすすめなかった。その理由はコーヒーが身体の発育に支障を来すものであると信じていたからだった。そういった迷信は多い。今——つまりまさに旧マスターの店に入ろうとしている彼女は普通の女性であった。彼女の身長は百六十二センチメートルだった。身長には平均こそあれ個人差がある。平等はなかなか見つからない。

 旧マスターにとって客の来訪のほとんどが急なものであったし、それが当たり前だった。それは彼にとり試練でもあったが、そんな風も見せず、ただ淡々と客を迎え、そして注文をきいていた。それは彼が時間を放棄するまで続けた生活でもある。
 旧マスターはいつもなにもなさそうな顔をしていた。その裏側は月の裏だった。なかなか見えないものである。
 旧マスターの月の裏は、彼女の出現により、そのあばたを一瞬へこませたが、すぐに平坦となった。作り笑いであるにしろ彼女が笑ったからである。その表情は彼の心をゆるませた。
 二人の間の年の差は——そう、まるで『親子』みたいなものだった。それは片方の時間がなくなってしまうまでそのように思えた。
 地球は幸せである。この星には時間の裂け目が存在しなかった。わたしの母親はいまだに十歳の子どもである。そして父親はすでに生きるべき時間を失っていた。わたしたちはわたしたちが考える限り無毒なカドミウムなのだ。

「レモンティーください」
 ——これは彼女と旧マスターが関係するための礎となる感動的な言葉である。それは彼女が旧マスターに放った最初の言葉だからだ。その言葉はその後もときおり彼女の口からもれることとなる。だがそれもほんのわずかな期間のことであった。——彼女が『アルコール』という合法的な薬草の味を知るまでは。

 旧マスターは「レモンティー——」という言葉を聞いて、どれだけ安心したことだろうか。彼女はかわいい、ほんとうにかわいい高校生の姿であったので、その口から未成年者が口にしてはならない飲み物の名が発されることを恐れていたのだ。旧マスターの知識からいって、それは『不良』のすることであり、国で制定されている『法』に触れることだった。
 旧マスターはその安堵感からレモンティーの作り方さえ忘れてしまった。それは実に簡単なものだった。その行程は業務用の粉を水に溶かして氷をいれるだけである。彼は酒を選ぶ以外になんの主張ももたなかった。だいたい二日おきの昼間、彼の店にやってくるコーヒー売りの男がいる。灰色の背広をきたその男は業務用のコーヒーや紅茶を売りにくるのだ。コーヒー売りの男は少量のサンプルを持ってそれを売り込みにくる。そして注文をとったのち、作業服を着た男が実物を持ってきた。実物はサンプルの入ったかわいい小瓶とは似ても似つかない灯油缶に入っていた。ローマ字でメーカー名が印刷された缶は輸出を考慮してのものだったが、お世辞にも『すてき』なデザインとはいえなかった。ただ値段はすてきに安かった。
 そのメーカーは輸出向けの商品を主力としていて、国内では後発のメーカーだった。国内での商品販売に力を入れだしたのは、輸出向けのものが余剰気味になったためである。少しでも在庫をなくすべく、メーカーは国内での販促に力を入れたのだった。旧マスターはそのことを後で知ったのだが、それだからどうすることもなかった。それは『どうでもいい』ことだったから。
 昼に店を開けているのは、夜へのつなぎと、少しでも金を稼ぐためであったから、その灯油缶入りコーヒーや紅茶の味などは知ったことではなかった。問題はディンギだけだった。
 コーヒーは飲み物ではない。それは香りを楽しむものだ。『嗜好品』と呼ばれるものはたいがいそうである。ところが——わたしはコーヒーを飲んだことがない! 旧マスターがつくったコーヒーは特に飲みたいとは思わなかった。それはなぜか?——コーヒーをつくるときの彼の顔は地球人の言葉でいえば『死んでいた』のだ。
 わたしはなぜ旧マスターがそんな顔をするのかよくわからなかった。だが今ではわかる。それは自分の『好き』なことではなかったからだ。
 わたしの星では地球で『嫌』に相当する表情はない。この星の言葉でいい換えれば、みんな好きなことをしているせいだからだと思う。
 ところで、よその世界の言葉を覚える最短の道はなにか?——それは比較することである。それは言葉を見つける場合に限った話しではなくて、すべての知識に通づることだ。
 さあ、みなさん比較してみてください。ディンギを払って覚えた知識を使おうと思っても無駄です。ただそれも時と場合によります。たとえばこういった場合——避妊の仕方を覚えるとか。——?

 彼女を目の前にした旧マスターは『独り者』であった。独り者とは男性の場合、妻帯していない者のこと指していう。この呼称を持つ者は、ある程度の時間を越えると普通の人間と見られなくなり、またある盛りを過ぎればファッションになる。ファッションとは着飾ることであり流行でもある。
 旧マスターは独り者であるが、一度は妻帯していたころもあった。彼が妻と別れた理由は、彼が車に乗ることができなかったからである。
 ・・・・・・・
 旧マスターの三つとなりの路地を入った元大関が経営する店での一コマ。
 頭がはげて色つやのいい、首に少しの肉がだぶつく小柄の男性がいった、
「なあ、マスターは俺はもう直行するで——そう、何でも直行だ! だから俺はマスターのママを抱えてホテルに行ってやるよ」
 ママがいった、
「いやだよわたし、自転車の後ろに乗ってくのは」
 ・・・・・・・
 寝ることに関していえば——自転車はあまりふさわしくないかもしれない。
 それでもわたしは知っている。若い高校生が二人そろってラブホテルの入っていくのを。そこには全く罪の意識が感じられなかった。それどころか——あまりに自然である。自然とは『あるがままに』といった感じを示すことにも使われる。また、ついでにいえば『感じ』というのは、人間の身体にあるが物的には存在しない臓器『心』の動揺を指す。

 わたしはこの星に落ちてきてから——ではない、たぶんそれは最近のことだ——思うことがある。この星に知識は不要ではないかと。自然を好む者の間に知識は要らないのではないか?
 彼らは火の起こし方を会得するが、それは不自然的に会得するものではないだろう。そうやって得た起こし方はウソである。起こし方そのもののではなくそれを得たこと自体がウソなのだ。

 彼女は高校を卒業し、なつかしい日々を思い出すような女になった。
 彼女は独りでバーに来た。
 そしていつも誰かを待っている——という振りをした。だが本当に待っていたのかもしれない。
 そうならば誰を待っていたのだろう——それは、なつかしい日々をいっしょに過ごした仲間だった。
 彼女は犬を連れてきたことがあった。彼女はよくいったものだ——「犬はわたしにかみつかないのよ」
 ただその犬はわたしをよく舐めまわした。別にわたしにとって苦痛はなかった。その犬はわたしに一回だけかみついたことがあったがすぐにあきらめたようだ。
 ある日彼女は若い女性を連れてきた。彼女は務めている会社の同僚だった。その若い女性は彼女に何を相談したのか。
 彼女は恋に憧れる若い情熱で溢れていた。
 それは結婚のことだった。

 彼女の仲間に『友人』がいた。友人は演劇を志した女性であった。
 友人はいった——「今度の舞台では『ショービジネス』が歌えるの!」
 わたしもその歌は知っている。わたしはそれを旧マスターの店で聴いた。何回も。

 わたしの星でディンギに相当するものは——わたしの星で通貨といえるもの——それは『知識』だった。
 ああ、あこがれの知識よ。わたしの知識は萎えつつある。わたしの将来は萎んだフーセンである。
 地球の地下にはたくさんの化石が埋まっている。そして地上にも化石がいる。旧マスターは死なないうちから化石になった。炭の方がよっぽど役に立つ。

 高校生の彼女が旧マスターにいった。
「わたしバレリーナになりたいんだ」
 するとマスターはこういった。
「バレエ教室に行くといい」
 彼女はその返事で旧マスターが好きになった。
 彼女の父親はそのころ何と応えていたろう——
「そんなのなれっこないじゃん!」
 『じゃん』とは若者が使う言葉であって父親が使うべき言葉ではない。間違いなく父親はバカだった。そんな父親のもとに生まれた子供はかわいそうである。
 ある日彼女の友だちが時間を放棄した。自らの時間を放棄したのだった。生まれて十八年を経過しようとしていた。友だちといっても、別段親しい間柄ではなく、たまに廊下をすれちがうときに挨拶をする程度だった。
 旧マスターはいった。
「よほどの訳があったのか——」
 彼女の父親はいった。
「ばっかじゃん」
 ほんとうに彼女はかわいそうだ。

【続く】



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