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仮題: welfare, warfare とか 9 [仮題: welfare, warfare とか]

【9回目】

 ・・・・・・・・・
 ゼンジは自分の部屋に戻る。手にしていたメモをリサイクルボックスに投げ捨てた。結局彼は情報の発信源――モシアズの居所をつかめなかった。スタンに目をやると彼は英語―ニッポン語の辞書に目を走らせていた。どうやら机の上におかれた情報の内容について調べているらしい。ゼンジが遠目に見ているのに気がついたのか、まるでいけないところを見られたようにスタナーは辞書を机の引き出しにしまいこんだ。そして、別なプリントを手にしながらゼンジに近付いていった。
「ボス、ちょっと変だな。ここのところこういう情報が多いんだが」
 スタナーはそういいながらゼンジにプリントを見せた。ゼンジはRationedタバコをくわえながら机の上のコーヒーカップを手にした。トウガラシ入りコーヒーは冷え切っていた、辛みの成分が上澄みのように上がっていた。口にすると舌がすっぱくなった。
「独自本能――」ゼンジはそう口にしながら頭の中に記憶を呼び起こす。考えがまとまったところで口を開いた。「ビラ――号外だ。街にバラまかれていたやつ――」ゼンジはプリントを覗き込んだ。「そいつといっしょじゃないか」
「ああ、そうかもしれない。たぶんスキャンしたんだ」スタナーがいった。「でも多すぎる。オペレータたちのモニタ回路のすべてがこれをチェックている。まんべんない。だから宛先を特定することも意味ない」
 その情報はスタナーのルーチンチェック――ひとつの情報が発見される頻度を計測するチェックプログラムに引っかかった。だからスタナーはこの結果をゼンジにレポートする。意外ではないことだった。
「この情報の発行者を突き止めなければならないか」とスタナーが訊いた。スタナーは必要なら自分の仕事のいっかんとしてオペレータたちに作業を指示しなければならない。彼が質問してくるということは、情報密度ランクがあきらかに規定を上回っているということだった。
 ゼンジは正直迷っていた。
 性質の問題だ。今や犯罪は、未成年だとか自己管理能力が発達していないといったことで左右されはしない。犯罪の結果はすべて何らかの刑が与えられる。この情報や号外に載っているやつらのほとんどはその最たるもの――一生を刑務所で暮らすはめになっていた。そんな彼らに対して既に人権はなくなっていた。もっともこいつらが刑務所に入ったころはまだ、未成年の権利が与えられていたので、彼らの行き先は運良く保護監察院止まりだったが、法の改正に伴い、中学校から高校にエスカレータ式ではい上がるように、彼らの身柄は刑務所へと移され、永久の命が与えられようと、永遠にそこで暮らす羽目となった。すべてがスムースな移行だった。油を塗ったようにすべてが潤滑に進んだのだ。これもイサオ・セキグチの功績だ。彼は法務省から検察、行刑の組織を抜き出し、ひとつの法人企業――ニッポン行刑コンサルタントを作りだした。裁判はない。たいがいの刑は、国民に強制命令を与える警察から発行される書類に応じた刑を行刑コンサルタントが与える。短時間なものは四時間で刑務所に入れられた例がある。たぶん回線が混雑していなければさらに早くなっただろう。物好きな人間は裁判を要求するが、その機構は民間に委ねられており、裁判官に成り代わる民間は多大な額を要求する。そしてたいがいにおいてすべては有罪になった。
「どうせ、こいつらはクソったれだ。人権どうのこうのなんていえる立場じゃない」ゼンジがいった。だがスタナーはゼンジがいっていることが独り言なのかどうなのか判断がつかなかった。それだけゼンジの言葉は力無かった。まるで空気を吐いているようだった。
「ボス、なんだ? なんなのか?」スタナーが訊いた。ゼンジは思い起こしたようにいった。
「え? ああ、いいんじゃないか、別に――」
 スタナーは怪訝そうな顔でゼンジを見た。そしていった。
「ボス、ほんとうにいいのか? この情報を放っておいて」
「かまわないよ。スタン」そこまでいってゼンジはいいなおす「少し様子を見よう。明日になれば減っているかもしれないし――」
 ゼンジは自信がなかった。防諜部にはマニュアルがある。表紙がよれた年代物に見えるが、ただ作りが安すぎるだけのもの。それを見たって、この情報をどう取り扱えばいいかなんて書いちゃいない。つまり判断は自分の頭の中だけにある。ゼンジは面倒くさいと考えるが、反面うれしく思った。しょうがない決めてやるさ――『オレ』が。
「かまわない、スタン、とりあえず保留、再チェック――そのあとまた考えよう」

 アユムはベッドの上で横になっていた。彼は寝ていた。ゼンジが病室に入ってからすでに三十分が経過していた。ゼンジは病室備え付けの凶器――パイプイスに腰を落ち着け本のページをパラパラとめくっていた。『子供を産んで』だ。看護婦が置き去りにしていった本だった。文字を追う気にはなれなかった。単なる暇つぶしに、写真がプリントされたページを選んで見ていた。母親と子供がテーブルに座って食事をとっている。普通の家庭でも見られる何でもない情景の一場面を映しだした写真が、ニッポンに残されるべき遺産のようにゴシック体のテロップ入りで掲載されていた。このオバサンが生きていたことがニッポンを左右したのだろうか。たいがいの人間は『たらねば』といった修飾語を使って想定するが、しょせん仮定で何の意味も持たなかった。この本を書いたオバサンは女優をしていたというが、彼女がなぜ本を書かねばならないのか、もしくは書かなければならなかったかという理由がゼンジにはわからなかった。ゼンジは古本屋の情景を思い出した。古本屋で必ず見かける本があった。今ゼンジが手にしている本はそういった本の中に入る手のものだった。暴露本といわれる本の中のひとつだった。ゼンジはそういった本の存在をしっていたが、今まで手に入れたことがなかった。そういった本が存在する理由――例えばオバサンがこの本を書いた理由をゼンジは考えてみた。カンニングするように本のあとがきに目を通してみた。
「わたしがこの本を書いた理由は、自分の息子の教育に行き詰まった母親たちを励まそうと思ったからです。そう思いはじめてから、わたしが本を書く手は止まりませんでした」
 止まりませんでした――これは明らかに誇張だろう。そういったゲスな勘ぐりは止めるとして、このオバサンは自分の不肖な息子を世間に公表することで、同じような息子を持った人間たちに「あなたたちだけではないのだ」と諭そうとした――それがオバサンが本を書いた理由だという。本人がいうんだから間違いないやね――ゼンジはひとりごちた。だが実際は納得していなかった。ほんとうにそれだけの理由か?
 昔し、らい――ハンセン病で苦しむ患者の多くはへき地の病院で隔離された。患者の家族はそれをひた隠しにした。オバサンの息子が独自本能に犯されていたのはあきらかだ。息子は独自本能ウィルスにより、多数のなかの自己免疫となっていた。彼は若い身空でいっぱしのヤク中になったあげく自分の恋人の時間を放棄させた。そしてこの本には書かれていないが、さらには母親までも強姦し、その母親を半身不随にさせたのだ。そういった人間は隠すべき存在ではなかったのか? 隠す前にそれが様々なメディアで公開されたのは事実だ。しかしそれに追い打ちをかけるように彼女は息子のことを本に書いた。そこまでする必要があったのだろうか。そしてゼンジが思い当たったこと――それは女優であるオバサンが息子に対して行った復讐ではなかったか。報復手段のひとつとしてこの本を発刊したのだ。この息子は未成年。その生い立ちや犯罪の経緯、そしてパーソナリティを本の中で暴露するなんて、じっさい裁判沙汰じゃないか。これが不肖な息子に対する報復と見なくてなんだといえる?
 ゼンジは我に返る――くだらない。しらぬ間に真剣になっていた自分を恥じた。この本をなぜオバサンが書いたかって?――決まってるじゃないか。ディンギに困ったのさ。印税は無理だとしても、少なくとも執筆料は入るじゃないか。
「おお、きみ、来てたのか」アユムの声だった。ゼンジはその声を聴いても席を立たなかった。彼は疲れ気味の声で「ああ」と返事をする。そして、「やっと起きてくれたか」
 アユムはゆっくりと半身をあげる。彼は胸に風を送るようにパジャマの襟元せわしなく上下させた。
「すまなかった。どれくらい待っていたんだい」彼はそういって両手でまぶたを押すようになでる。「医者がクスリを飲ませてくれたんだ。バルミタールかもしれない。このめまいの感じはたぶんそうだ」
 ゼンジが見ても、アユムが異常に汗をかいているのがわかった。生きている人間の顔には見えなかった。
「ゼンジくん、バルミタールをとりすぎるとどうなると思う?」
 ゼンジは首を振った。そしていった「しらない」だいたいバルミタールというものをしらなかった。
「アルコール中毒と似たような症状になる。パーソナリティが崩れるんだ。ウソをつくようにもなる。持っていた職さえ放棄するようになるな。つまり普通に生活するのは無理になるな」アユムは天井を仰いだ。そしてまたベッドの上に身体を横たえた。「吐き気がする。少し横になるよ」
「そんなクスリを飲まされているのか?」
 アユムは応えなかった。寝息が聞こえた。その感覚は少し早かった。しょうがない――アユムは廊下に出た。タバコを一服するためだ。人気はなかったが、病院という場所がそうさせたのか、彼は灰皿のある場所を探しはじめた。下の階で休憩所があったのを覚えていたが、そこまで降りるのは面倒だった。廊下をあてどもなく歩くゼンジは病院控え室というプレートのかかっている部屋を見つけた。彼はその扉を開けた。
 手前にカーテンのかかった二段ベッドがあった。奥には窓があり、窓際にはテーブルがあった。運良くテーブルの上には灰皿があった。彼はテーブルの側にあったイスに腰掛け、Rationedタバコに火を点けた。新鮮な空気を入れようとして窓を開けると、吹き込んできた風で二段ベッドのカーテンが揺れた。小さな声が聞こえた。それは女の声だった。ゼンジはタバコをくわえながら二段ベッドの側へと歩く。彼はカーテンを開けた。下の方のベッドで男女――それはアゴに肉がついた太り気味の医者と看護婦だった――が抱き合っていた。医者は下半身を丸出しにし、看護婦の方はというと、制服を腰まで下げていた。つまりオッパイが丸出しだった。看護婦はゼンジから目を離し、急いで制服を整えると部屋を出ていった。残された医者は恥ずかしげもなくゼンジにいった。
「急患ですか?」

 医者はテーブルを前にしてゼンジの前に座った。立場を考えてみれば、いただけないところを目撃したゼンジの方が優位だった。だが医者には恥じる様子もなく、寝起きの服を着替えるように自分の服を整えたのだった。
「胸でやってもらってたのか」とゼンジが訊いた。
「ああ、それが好きなんでね」医者が応えた。
「しょっちゅうか?」
 医者は少し考え込んだ。そしていった「そうでもないな。自分でたまったなと思ったときに。もやもやしたまま診察してたんじゃ正しい判断はできないものだ。かといってこの年じゃもう自分じゃ処理できないものだ」医者は髪の毛を手で整える。「プライドもあるしね」
「やれっていわれてやってくれるんじゃ、いい看護婦を使ってるね、この病院も」
「いいや、彼女にはディンギを払ってる。あともう一回はできそうだったのに。きみのおかげだよ。できればきみからディンギを取り返したいところだよ」
 これが医者を無恥にする原因だった。ゼンジはあきれかえった。こいつも独自本能だな。まあ、人通りのなかでやらないだけまだましなところか――ゼンジは心の中でそうつぶやいた。
「ところで、あの患者、アユムさんに飲ませたクスリはなんですか? 彼はバル何とかといっていたけれど」
 医者は首を振って訂正した「バルミタールだ」小さく咳払い「熟眠剤だよ。いわゆる眠り薬。あの患者はここのところずっと不眠症でね。規則正しい生活を送らせているはず何だが、このまま眠らないわけにはいけないのでクスリを与えたんだ。寝ないと身体に悪いよ。最悪の場合もあるし」医者はあくびをした。何の緊張感もない。
「けっこうつらそうに見えたけれど」
「たぶん、クスリが効いている間に目を覚ましたんだろう。きみが無理矢理起こしたんじゃないか?」医者が怪訝そうな目をゼンジに向けた。ゼンジは気が遠くなりそうだった。こいつはなぜオレを責めるんだ。オレが起こしただと――勝手に起きたんだ、あんたの処方がまずかったんじゃないか?
「あのクスリはアルコール中毒になるんだって」
「『似た』症状にはなる」医者はゼンジに質問に驚くことなく応じた。どちらかというと医者のくすぐったいところをついたつもりだった。「きみは彼がアルコール中毒になることを心配しているようだが、肉体面からみて、彼はもうすでになっている。彼の肝臓はしじゅう肝繊維症を繰り返している。精神面では健忘症の兆候があるし、問診票は日毎に変わってるよ」
「それは進行中という意味なのか? 彼はアルコールを口にしちゃいないのに」
 医者はため息をついた「バルミタールだね。彼は眠るためにバルミタールを飲む。それが少しは影響しているだろう。だが他にも手当を考えている。いずれ――非常に緩やかではあるが――彼の症状は良くなるよ」
「そうすると彼が今、口にしていることのほとんどが真実ではないということか?」
「健忘の種類によるな。追想性か逆行性か――逆行性ならあやしいな。彼の脳ミソの記憶の島から正確な述懐を引き出せるか――時の運だね。数多くの意見をうまくまとめてそれらしい結果に自分自身を満足させるしかない」
 ゼンジがいった「それじゃこまるんだな先生。オレはあの患者から聞き出さなきゃならないことがある。どうしてもだ」ゼンジはRationedタバコの煙を思い切り吸い込んだ。少しリラックスできた気がした。そしていおうかいうまいか迷っていたことを口にした「すまないがこれは政府の仕事なんだ。オレがここに来ているのは公務なんだよ。基本的には合意してもらわなきゃならない」
 医者の顔色は変わらなかった。
「人が愉しんでいるところのぞき見するのも公務なのかね」そういいながら彼は股間をさする。そして続けた。「政治だろうが公務だろうがわたしのしったことではないね。イサオ・セキグチはりっぱだが、結局政治は民間企業の手でもできるという事実をさらけ出して、実をいえば国民は拍子抜けというのが正しいところだ。たしかに財閥系企業の多くは古くから政治へのつながりを密にしてきた。ほぼセンチな人間たちは彼らが政治だといいきってもいた。高嶺の花というところか。ちょっと表現が古いがね。きみにはわかるだろう。けれどどうだ? 近代における企業の多くは高卒もしくは中卒程度の頭なんだ。トップさえ中学校も卒業していない苦労話しを看板にしている」
 ゼンジは医者の口振りに焦燥の念に駆られた。こいつはまるで番頭だ。
「つまり程度が低いということか?」
「そういう言い方もあるな。けれどこういわせていただこう――彼らは『特別』じゃないんだ」医者がそういったとき、ゼンジは疑義をはさむ目を医者に向けた。「特別ということば抽象的なら、きみのいうとおり程度が低いということにしておこうか。多くの人間は企業が必要としているものだけに着目して採用されてきた。底辺はハローワーク――ありゃ最低の雇用促進機関だったね――低賃金労働者紹介の頂点だ」医者は咳払い「イサオ・セキグチだけには質があるとしておくが。人格の問題だな――うん」医者は自分を諭すようにうなづいた。ゼンジは比較的冷静を努めていた。勝手にいわせておけという心境だった。だがそれも結局、手を出すのを恐れる臆病者の側面が顔を出しただけのことだった。
「けれど結局は政治をしている人間たちが企業以下だということを証明しているわけだろ」
「わたしがいうのは質だよ。現代の企業はパーソナリティの意味を理解していなかった。ほんとうの意味を。彼らは無個性を悪とし、企業を活気づけるのは卓越した、目に見える奇抜で斬新な個性を、企業を飛躍させる真のパーソナリティとしてとらえてきた。だがそれは表面の話しのことで、ほんとうに彼らを支えてきたのは無個性の人間たちだ。彼らは人柱だ」
 こいつはその人柱の上で生きてきた男だとゼンジは考えた。底辺の人間を肯定する奴らほど、そういった人間を欲しがるものだ。中流といわれる人間の多くは底辺の人間をうとんずる。こいつらは底辺の人間を欲しがっている。生活に必要な知識だけを持った人間を――彼がいう『無個性』というパーソナリティを持った人間を。ゼンジはまたRationedタバコを深々と吸い込む。紫色の煙の固まりが上に上がりながらあたりの空気に馴染んでいく。その様子をながめながら頭を冷やす。
「結局、先生は古き政治を懐かしんでいるわけか。当たり前に大学を出た低脳な政治家――自分が望みもしないのに首相になってあわてふためく様子と、それに足を引っ張り続けられる人をまっこうから批判することのできないその周囲の存在――それがあんたを有頂天にさせてきた。あんたからみれば医学的に欠陥のある人間たちだったのだろう。最後の閣僚を批判するのに精神医学が全面的に持ち出されたのは政治裁判の歴史上初めてのことだった。そのときあんたら医者は自分たちが政治家以上の存在であると悟ったにちがいない
 しかし、イサオ・セキグチの登場はあんたらの行き先を危うくさせた。彼のようにインテリでタフで、自らの意志をつらぬこうとする政治家は存在しなかったからだ。彼にあなたができることは何もない。イサオ・セキグチはあんたらを完全に押さえ込んでいる。だから不満なんだな」
 医者は顔を赤くした。図星だったらしい。ゼンジは嫌な気分になった。いたたまれない感じだ。医者が気の毒になったわけではない。この雰囲気という宇宙が底なしの空間に見えてたまらなく不安な気持ちになったのだ。ただ浮いているだけいう感じ――安定しない、宙ぶらりん――浮き足だっている――よろこびじゃないし、耳元では歓喜の声さえ聴こえない。ああ、たまらないじゃないか――人間はなぜこうなんだろう? 目の前にいるメガ感性と独自本能を混合させたような生物――ゼンジにはそれが人間に見えなかった――がかっては半ば自分の思い通りに世界を動かしていたのだ。それはたぶん彼の思い過ごしだろう。世界はこいつらの思い通りなんかにはなっちゃいなかった。しかし彼はある時間点において頂点にいる自分を確実に目撃していたのだ。そういう仮想の上ではあるとしても現実がそうであると思いこんでいた生物の脳ミソが恐ろしい。世界は彼の手にあった。しかし宇宙を見下ろす神はそれを許さなかった。素晴らしいじゃないか――それが救いだ。モーガン・サザーランドが親指をハナの穴につっこんで手のひらを見せ、そして『ブー』という。火星宗教の挨拶。ゼンジの脳裏をよぎる一瞬の回顧は、懐かしさへと変わった。火星宗教かぶれのモーガンはくだらないことを世界中にまき散らし、復活すべきキリストをディアナの姿で再臨させた。そうしたくだらない構想でしか、目の前に座るハレンチな医者の存在意義をかき消すものはないように思えた。モーガンにしろ、なんといったか――フラスコ?――マーレー・フラスコだ――彼らが熟考し、切望した結果ほぼ偶然から産まれたディアナとなって結実したが、ディアナは神でも何でもない。自分の子なのだ。オレはヨセフじゃない。当たり前だ。モーガンたちもそう思っちゃいない。ただモーガンはディアナを神の身代わりにさせたかったし、マーレーは火星人を造り出したがった。彼の純真な夢は企業力を集結させてあのトランスポータを創造した。
 いいじゃないか。世の中をひっかき回すやつがいれば、小さなことにこだわり続けるやつもいる。責任の所在は家庭内だけの話しで、宇宙規模の人工を凝縮させた世界には存在しないのだ。今までの事実をひとつひとつ拾い上げて並べてみることだ。
 ゼンジは医者にいった。
「あの患者を治してやってはくれないか? 彼の経歴がしりたいんだよ」
「あんな病気に治療法はない。迷惑だね。わたしは中毒患者を治すほど人道的じゃないんだ」
 もうおしまいだなとゼンジはそう考えて席を立った。ただタバコを吸いたかっただけなんだが――ろくなことになりゃしなかった。絶不調のバイオリズムだ。ドアを開ける。ゼンジがいった。それはほとんど自分の気分を表現するものだった。
「あんた、気分が優れないようだけれどそれじゃ満足な診断はできないな。どうだい、一発やっちまえば、あの看護婦と」

 部屋に戻ると患者、アユムはまだ寝ていた。いつまでも眠り続けるのではないかと不安になった。手詰まりだな――ゼンジはそうひとりごちた。
 廊下で医者の世話をしていた看護婦に会った。ゼンジは捨て鉢な気分で彼女にいった、
「どうです、オレと少し時間をつぶさないか?」
 看護婦は仕事があるといった。だが少し間を空けてまた口を開いた。
「それって脅迫かしら? 脅し文句?」
「いいや、素直な気持ちだよ」ゼンジがいった、「もやもやしちまった。現実にオレはあんたの、その――オッパイを見ちまった。本モノを見るのはけっこう久しぶりでね。少し興奮しちまったらしい」ゼンジはかぶりを振る。そして改まった口調でいった――「まあ、気の迷いだね。気にしないでくれ」
 看護婦は何かをいいたそうだったが、ゼンジはそれを無視してその場を離れ、そして立ち止まる。少し離れた場所から看護婦に声をかけた。
「あの患者が起きている日があったら教えてくれませんか」
 看護婦が連絡先を訊いた。ゼンジは下の受付で控えているはずだといった。本人に訊くなんて遠慮じみたことはしなくてもいいさ。たいがいは誰かがしっているんだ。オレの年? オレの性別、もっともっと――しりたいことはたいがいしられちまっている。それを考えれば自分は独りじゃないって気にもなる。良い世の中じゃないか。なあ――
 ゼンジは胸の内で誰となく話しかけようとした。何人かの想い出がよぎる。彼はつぶやいた。
「なあ、Aっちゃん」
 なぐさめボックスに自分の考えを話してみたい。今、自分が話しかけたい相手は誰ですか――と。ボックスはなんと応えるだろうか。たぶん訓練が少ないうちはこう応えるだろう。
「わたしはあなたのことをよくしらないのです」
 カタログに書いてあったこと――〈なぐさめボックスは学習することで、あなたの会話に即答する能力が身に付きます〉
 サギの典型だ。彼は教えたことしか話せない。

 ゼンジはメガ感性の雰囲気に浸りたい気分だった。つまり過去を思い出すこと。そして明日を考えないこと。そうはいっても彼は引見に明日のことなど考えたことはない。彼が考えることは仕事のことだ。それだけ生理現象以外に起きうる毎日のことであるのだからしょうがなかった。メガ感性にたどり着くそのもっとも簡単な方法は映画だった。それは確かに起こっていたはずの現実を振り返るにはもっとも適した方法だった。あとはテレビかラジオでも観る――それくらいだ。その時代が仮に自分が経験したことのなかった世界であっても、映画館を出るときには、自分がその時代に生きていたと錯覚させる。ヤクザ映画を見た人間が肩を怒らせて家路につくのと同じこと――ある鮮烈な体験が精神を乗っ取ってしまった例である。彼がプログラムを探したとき、何本かの古い映画が上映されていた。ジャンルや国境はごちゃまぜで、SFや喜劇、そして時代劇といった映画がひとつのルーチンに組み込まれていた。
『SF・緑の原子人間』
『結婚を総括する家族』
『大岬峠』
 他にも色々――『結婚・・』という映画には、五十五年前に日本一の美女として名をはせた女優が出演していた。『大岬峠』は時代劇といわれる映画の中でもっとも人を斬る場面が多いといわれた映画だった。『緑の原子人間』は観てみたい映画だった。一九六二年に作られたアメリカ映画で、あまり古すぎると笑うしかなく、この頃に作られた映画がいちばん性にあった。原子廃棄物がたまったドラム缶に入れられてしまった、正直な男が醜く変貌し、徐々に心を病んでしまう。どんな攻撃を受けても時間を放棄しきれない彼に、軍隊はついに小型原子爆弾を使ってバラバラにしようとする。
 ゼンジはマリアを誘ってみた。たぶん彼女は行かないだろう。だがとりあえずゼンジは彼女を誘ってみた。どんな映画よ――マリアはゼンジにいった。ゼンジは説明したくなかったが、古い映画だ、色々なタイプがあるといった。彼女は気乗りじゃなかった。ゼンジに目にもその様子がわかった。どうして行かないんだ? この映画がきらいなのか――するとただ行きたくないだけよ。観たくないだけ、それだけなのと応えた。そうか――ゼンジは予想通りではあったけれども落胆した。その失望を何とか隠そうと努力した。彼女はこの映画のどこがきらいなんだろう。彼女に訊いてみようと思った。古い映画だからか? それとも出ている女優、もしくは男優がきらいだからか――チャンバラが好きでないのか。でもこのアメリカ映画は面白いはずだ。ストーリーだけじゃない、古さのなかに考古学的おもしろさ、日常の生活場面においても嗜好やファッションにおいても――一度それを経験したよう錯覚に陥ってしまうような、妙なリアリティを与えてくれるはずなんだ。ゼンジはもう一度訊いてみた。いったいなんで? どこがきらいなんだ。
「興味ないのよ、わたし。古いものってイヤ。まるでメガ感性のかたまり。なんていったっけ――『温故知新』――あんたが味わおうとしているのはそんな経験でしょ。まるでクスリの力に自分を漂わせるような。そんな感じだわ。わたしはきらいなの。それにしってるの? そんな古い映画をやるところって決まって汚いところなのよ。掃きだめね。いたるところに浮浪者がいるわ。そんなところに誰が足を運びたいと思うのよ。ごめんね――そんな顔をしないで。どっちかといえば古い新しいに限らず映画って嫌いなの」
 マリアは部屋のドアを閉めた。最後にはゼンジをなぐさめる調子になっていた。ゼンジの様子は悲哀にまみれていた。どちらかというと――マリアはおそろしかったのだ――何が?――ゼンジの『悲哀』にみちた感情を表現する顔がだ。彼は神経的に弱くなっているみたい――マリアはそう思った。ゼンジの様子はまるで街の中を目的もなしに歩く、変化に鈍感なメガ感性たちの姿と変わらなかった。たしかに誰から見ても変化はとても緩慢、またはトロい、ぐうたらだ。たいがいの人間は自然とその変化を受け入れることができる。けれどメガ感性を持ってしまった人間たちは一見変化を許容するように見えるがじっさいは拒んでいる――退化していくのだ。ゼンジはその感性にむしばまれつつあるかもしれない。ああ、独自本能そしてメガ感性――世間じゃ様々な性格ウィルスが漂っている――あの情報が教えてくれたとおりだ。なんといったっけ、モ、モシアズ?――そうだ、ナフカディル・モシアズだ
 マリアは自分の端末をチェックしてみた。人捜しだ。たぶん公的機関の台帳、つまり過去に存在してた住民票を探すよりは、アングラデータサービスが提供しているタイプ別特殊データサーチを利用した方がいいわ――マリアは基本的に流出情報とワークカードやクレジットの利用状況から構成されているデータサービスに接続してみた。あまりに素っ気ない画面が現れる。文字だけ。マリアはキーワードとして『ハウスガールのノリコ』と入力した。時間が経過するこの間にシリコンの上を信号が駆けめぐっているのだ。シリコンはあらゆるものに変化した。シリコンはあらゆるものに変化する。あるとき彼はオッパイの中に存在し、イチモツの中にもその姿を隠した。そして半導体や合金にも姿を変える――その利用価値は多種に渡る――なんという節操のなさなの――マリアはそら恐ろしくなった。だがわたしたちの環境をはその利用を要求している。不可欠の存在だった。
 マリアが指定した『ハウスガールのノリコ』に引っかかった間抜けな情報は四百件ほどだった。

《《ここまで第9回》》




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