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仮題:カシューム星人と地球人について 8 [仮題:カシューム星人と地球人について]

【8回目】

 【旧マスターの新しい小説
   第九章——他人のボクを
         消してやりたい——】

 遺書を書く辛さは一日経つと軽くなった。最期になるまでに気楽に考えよう、そう思いはじめたんだ。ボクには後二十年ある——ボクの家系は早死にする方なんだ。でもいったい、ボクの意志を支配しているのは誰なんだろう。遺書を書こうなんて思ったりさ。とにかく他人の考えることなんて訳が分からないよ。あえてボク本人が言い逃れをするなら、生きている彼女の喪服姿をまだしばらくの間は裸眼で見てみたい——そんなところかな。
 それでも、さっきのキスは素晴らしかったな。ナエちゃんと思うかも知れないね。けれども違う女の人。もちろん喪服の彼女でもない。
 ボクは人の唇を見てキスしたい気持ちになるけれど、誰もボクの唇には触れたくないのだと思う。そりゃそうさ、こんなかさかさの唇じゃね。指で触るのもいやな感じで、少しでもなめらかにしようなんて舐めてみたりするんだけれど、そいつは裏目。ますます変さ。ほら、わかるかな? 歯磨きをした後の唇。何だか乾いていて、清潔かな、と思うけれど突っ張っていて接着剤でも塗られた感じ。あの気分。誰もボクの唇なんて触れたがらないと思っていたさ。
 最初に入った店のマスターは、相変わらずヒゲを生やしていた。ヒゲっておかしい。なんだか本当はそうじゃいけないだけれど、当たり前のような顔をしている子供みたいな感じがする。おかしかったのは電車の中で見たおかっぱの女の子。ボクはその子に気づかなかったんだけれど、一緒に乗っていた仕事の先輩が、「おい、あの子ヒゲが生えてるぜ」といった。ボクは読んでいた文庫本を膝の上に置いて、そんな子がいるのかな? 何て思いながら顔を上げた。すると、ボクの目に赤いズボンをはいたおかっぱの女の子が飛び込んできた。その子には本当に失礼なことをしたと思うよ。ボクは顔を先輩の方に向けて口を押さえるのが精一杯だった。思わず声がもれそうだった。実際、我慢しすぎて喉の鳴る音が周りに聞こえちゃったのかも知れない。でも確かにその子の鼻下にはヒゲが生えてた——あ、もちろんほんとのヒゲじゃない、産毛だよ。でもその毛が何だかすごく色が濃くて、まるでヒゲみたいに見えたんだよ。あの子には申し訳ないと思うけれど、本当におかしかった。あのときは、どうして母親は産毛を剃ってやらないんだろう、と考えたけれど、今にして思えば、色がもっと濃くなることを心配したのかも知れないな。
 ヒゲ面のマスターの顔を見ながら、時間のかかる酒を頼んだ。酒がなかなか出て来ないことにはあまり苛つかない。もともと暇つぶしと考え事のために来ているんだからね。それだから、最初の温かいカウアミルクを飲み終わると、ウォッカをひっかけるやつより少しだけ大きなグラス——要は小さいんだけれど——に注がれた強くて辛い酒を注文する。これは飲むのに時間がかかるんだ。え? そんなものクィって傾けたらすぐ無くなっちゃうだろうって?——うん、実はそうなんだけれど、それは店長自慢の一品でね、「思いっきり強くて飲めないだろう」なんていうように顔をにやりとさせるんだ。ボクはそんなマスターの期待に応えるようにちびりちびりと口をつける。こいつはすごいって顔でね。今まででいちばん長かったのは一時間かな? その酒のおかげでボクはずいぶんと有意義な暇つぶしをさせてもらってる。考え事に行き詰まったときに、それを少し口につけると、辛さで頭が冴える。あの辛さはペパーミントの入れ過ぎなんだろうな。
 ボクがそこで酒を飲んでいることには理由があった。女の子を待っているのさ。ボクが勝手に解釈してもいいのなら、デートってところかな。夜の九時からデートっていうのは、遅くなっていく時間もあって、いっちゃうところまでいくのかなって感じだけれど、そんなことはまず無いな。ボクの計画では十時くらいには帰りたいね。とかいいながら、その人がボクのキスのお相手なんだ。でも知ってるかい? ボクはちょっと緊張してたんだ。その子と逢うのは別のバーなんだよ。都合よくいえば、そこの店はボクのホームバーで、彼女と逢おうとする店は好きなジャズを聴かせてもらうところ。普通ならレコードを片面聴いて帰るんだけれど、その日は両面聴かせてもらったよ。
 彼女はとても好い人だ。笑うときには笑ってくれるし、飲みたければ自分で頼む。もしかすると泣きたいときには泣くんじゃないかな(そんなことって当たり前のことだけれど、なかなかできないことだよ)。ボクはそういう彼女の気持ちがとてもよく分かっているような気がする。夜空がとても広がりすぎているくらいに広くて、目をいくら皿のよう見開いたって全てを把握することができないもどかしさって、天体望遠鏡を担いだ、若い観測者にはわからないだろうな——変な例えであるけれど、いいたいことは、彼女がそれだけ得体の知れ無い女ってことなんだ。そりゃ何というか——見た目はすごくわかりやすいよ、例えば、——少し(というかけっこう)胸が小さくて、それだから彼女は痩せている。髪の毛はおかっぱというんだろうな、襟足の首がとても白く見える。みんなが気になるのは、彼女の少し離れた両目の位置じゃないかな? ヒラメみたいとはいわないけれど、とにかく離れているんだな。でもそこがいいんだ。何ていうかすごく安心する感じがしてね。目は近づきすぎるくらいなら、離れている方がよっぽどいいよ。きつい感じがしないし、何というか、ゆとりすら見いだされるんだ、ちょっぴり高級なね。ぱっちりと横長に開いた目は全部真っ黒に見えて、その上にのっかった眉毛はとても細かった。よく見れば鼻もちょっと低い、——カウンターに座る彼女の横顔を見てボクはそう思った。でも何て肌の色が白いんだろう! 女の子を前にして失礼なことだけれども、思わずボクはナエちゃんを思い出してしまった。アイシャドーの入らない、静脈の透きとおったまぶた、でも病弱なんかには見えない。とてもきれいなんだ。ボクは自分のいけないところをよくわかっているつもりさ。そのよくないところというのは、人をほめすぎること。好きな人をね、何だかんだとほめまくっちゃうんだ。きっとそうしなきゃいられないんだろう。いくらその子の頬がこけてたって角張っていたって、それをひっくり返したりほじくるようにいいところを見つけようと努力してしまうんだよ。それが悪いことだ何ていわれたくないけれど、このおべんちゃら野郎なんて噂する友だちが入ることも確かなこと。でも普段のボクはあんまりしゃべらない方だから、言葉の量を較べれば、みんなと変わらないか、たぶんちょっと少ないくらいさ。控えめだろう? 好きな女の子の前でぐらい、たくさん話しをしたっていいじゃないか。ボクは好きなんだよ、ママやパパ(本当は父ちゃん母ちゃんって呼ぶんだけど)、兄妹にだってできない話しをするっていうのが秘密めいてて好きなんだよ。ボクは華々しい失恋の話しを全て聞かせる、けれども、大池さんのことは話さない。それはついついナエちゃんにしゃべってしまったけれど、ボクはそのことを胸の中を酸っぱくしながら後悔してる。
 カウンターに座る彼女とは失恋の話しなんかしなかった。彼女は身体が悪いんだ。彼女がいうに「悪かった」らしいんだね。胃腸が弱くって、学校なんかよく休んだらしいよ。何ていう病気かなんて、話しの腰を折るようで訊けなかったけれど、たぶん彼女が胃下垂ってことは間違いない事実だな。とにかく彼女とは身体が悪かったという点で話しの的がぴったりと合った。ちょうどボクは仕事先で肉を食いすぎて、帰ってきて受けた健康診断では、高血脂症なんて診断。医者がいうんだよ、「血圧に注意しなさい」ってね。最近じゃ小学生までコレステロールに悩まされるっていうんだから、ボクはまだまだ若いのかもしれないな——。というわけで、医者のいうことを真に受けるなんてそんな気持ちは更々ないけれど、ボクは血圧に注意をしてみようかな、と思い、小さな血圧計を買っていつもバッグに入れていた。指を差し込んで計る最新型。でも買った次の日にもっといい奴が出たけれどね。日々の進歩って、ほんとうにすごいよ。彼女はボクの血圧計で自分の血圧を測りながら、自分が入院していたときの話しをした。それは中学校の終わり頃からはじまったらしくて、主に胃けいれんがその症状らしい。それじゃ緊張したときとかそうなるわけ? とか訊いたんだけど、そうでもないらしい。ただ、道端を歩いているときにもなったりするらしくて、そんなときはただしゃがんで我慢する、それしかないらしい。冬休みに家族で雪祭りを見に行ったとき、結局ホテルの部屋で寝ていたことを今でも悔しがっていて、雪がふるたびに不愉快な気持ちになるそうだ。今ではそんな身体も少しはいいらしいけれど、店の方はたびたび休んでしまうらしい。それも一日とかじゃなくて、三日とか一週間とか。彼女はボクにごめんなさい何ていうんだよ。ボクは何だか胸の内を見すかされてしまった感じ。つまり、彼女は「わざわざ店に来てくれたのにいなくてごめんなさい」といったように思えた。ボクはそんなことないよ、といいそうだったけれど、自分をごまかしてるようで止した。これが好きでもない子だったら、無難に、「何いってんだよ」、なんて口にするんだろうけれど。ボクは何もいわないで、ただ頷いた。「客相手のお愛想じゃねえか」と、みんなは思うかも知れないけれど、ボクにはそんなこと問題じゃないんだな。だってわかるかい? 簡単なことだよ——ボクは彼女が好きなんだ。好きな子には何をいわれてもうれしいもんだね。例え、「このチビ」とか「ホコリっぽい」なんていわれても、少なくともボクのことを見たり考えたりしてそういっているわけだ、それを考えると幸せな気分にならないかい。ボクは幸せだね。それだから好きな女の子って最高さ。

 【第九章——終わり】

 旧マスターの視野はせまい。旧マスターには彼女しかいなかった。それは正解である。旧マスターは彼女の思いを知ることなく時間を放棄した。彼女もまたそれを知らせる『かけら』も残さないまま時間を放棄したのだった。旧マスターよりも早く。
 もしかすると旧マスターは、彼女との時間が開き続けることから逃れたかったのかもしれない。——そう思うわたしは長いこと地球で暮らしている。

 彼女が旧マスターの店のカウンターで、スタウトビアをゆっくりと口にしていたとき、いつも話しをする年上の女性が現れた。その時間は閉店から一時間前のことだった。
 女性は宣伝会社の社員だった。その年令は男のならば課長くらいにはなっているほどで、彼女よりはるかに上だった。女性が頼んだものは缶ビールだった。
 缶ビールの『缶』はボーキサイトから抽出されたアルミナから作られていた。地球上においてアルミニウムはたいへん有用な金属だった。これは製品のボディや窓枠に使用されており、建造物を創造するさいに広く一般的に使われていた。その金属は今でも健在である。
 わたしはどうだろう——わたしはメッキという金属の処理工程で使われはじめた。地球上の生産者たちは、わたしの存在をあまりに軽く考えすぎていた。わたしの扱いを粗雑にしたとたん、わたしはこの地球の人類に苦痛を与えた。それはわたしが故意に与えた『苦痛』ではない。それは人間が与えたものだ。それはわたしが与えたものではない。それは——、といい続けても過ぎ去った時間における出来事は変わらない。わたしが原因になって発生した公害は地球の歴史のひとつである。わたしが悪の元凶として歴史に残されたのは、わたしのせいではない——わたしを扱った生産者のせいなのだ。これはわたしの言い訳だろうか?
 わたしは今、ウランのたぎっている原子炉の制御に使われている。これはわたしに与えられたしょく罪であろうか?——人間がつくりだした懺悔ですか?
 わたしの存在は金属だった。人間が存在するうえにおいて必要のない物質だった。これ以上ゆるぎない事実がありますか? そしてわたしが知識を得ようとし、知識がわたしの栄養であることを知っている人間はいない——ラダに乗って地球の回りをうろつくモーガンを除いて。
 女性は人間の過去と未来を担ってきた有料金属『アルミナ』製の缶を傾けた。女性は別な店で飲んだ帰りだった。お酒を飲んでいつもどんな話しをされるんですか?——旧マスターが訊いた。女性はキャリヤを背負った自信と過去を持つ女性の開き直りが入り交じった口調で応えた。
「だいたいグチばっかり。わたしたちが上の悪口をいうように、上もその上の悪口をいってる。結局、こっちがグチをいっているつもりが、グチを聴かされてるって感じね。まあ、今の上はまだ許せるわ。ずっといっしょにやってきたし——それに変わりそうにない人にグチをいってもしようがないしね。うん——そう——今の上はいいほうよ」
 女性は彼女を見た。わりと遅い時間であるが、いつもこんな時間まで飲んでいるのか?——女性が彼女にそう訊いた。彼女は店に来たばかりでこれは一杯目なのだと応えた。どうりで——女性は彼女の顔が赤くないことを納得した。それでも——
「よく独りで飲みにくるの?——あんた若そう——じゃなくて、若いんだから——まあ勝手だけどね」旧マスターが女性の名前を呼んでいった。——さんもよく独りですよね——「そうだね——まあ、コーヒーか——お茶でも飲んで休む感じ、疲れた身体のひと休みってところよ」そして女性が彼女に訊いた——「仕事してるんでしょ、仕事は調子いい?」
 彼女はまあまあと応えた。すると女性はほほえみながらいった、「『まあまあ』か——ってことはたぶん調子悪いのね」
 彼女は気分を悪くしただろうか?——それはなかった。わたしは彼女にテレパシーを送ってみた。その内容はあまりに『プライベート』なものなので秘密である。けっこうたわいのないことだった。それは、それは——『そんな年寄り女に負けるな! 元気を出して!』——だった。それでもわたしはカシューム星生まれだ。
 わたしはあきらめたようであきらめていないことがあった。わたしは彼女や旧マスターにテレパシーを送り続けていた。あいかわらず精神波はくすぶったりしながらも放射され続けていた。百パーセントの会話はなくても意思の疎通は続けられていた。
 女性はアルミナ製の缶をつぶすとおかわりを旧マスターにオーダーした。女性はビールが好きだったが、それは彼女が飲んでいるものとはちがった製法のものだった。
 女性は自分のキャリヤについて話した。仕事におけるキャリヤとは、何年働いたかということである。女性が費やしてきた時間と彼女のそれを比べてみればそれは当然のことだった。それだから彼女は内心いらだった。だが彼女はいったのだ——長いこと働いているとたいへんでしょうね——ああ、なんとやさしいんだ! そして旧マスターが女性に訊いた——いつも店に来るの遅いですよね?
「お客さんが夜型だからね——うちのダンナとも顔を合わせちゃいない。ダンナといってもあいかわらず籍は入れちゃいないけれどね」
 彼女は女性に夫がいるとは思わなかった。わたしも思わなかった。が、旧マスターは知っていた。旧マスターはたいがいの客の素性を知っていた。それは客と話すことによってである。何を話したか?——たわいもないことだった。それらはこんなふうにはじまる——『お仕事の帰りですか?』そして『いつも遅いんですか?』以下似たような質問が続く。旧マスターの記録は続く——が、それは記憶にとどまったもので記録ではなかった。
 彼女は女性に対して、特に好意を持たなかったが、きらいでもなかった。

 【旧マスターの新しい小説
   第十章——ボクの他人——】

 ボクが他人であることは前にも話したかもしれない。でもそれをもっと痛感するときがある。それは少し飲んじゃった時だな。たぶんその時のボクは絶対別人だと思うよ。少しおかしな、どこかのおやじ。コートが似合わなくなったら——じゃない、普段着にコートを着てしまうことがあったら注意したらいいさ。まるで似合わないコート、それは変態の目印だよ。まさか、自分のあそこを隠していると思うわけじゃないけれど、他人にはそう見えるかもね。まあ見えてもいいなら別だけれどさ。そんなことを思ったって、自分には隠すほどのものはありはしない。ほら、年がら年中、起きたままじゃ頭に血が回らないと思うんだ。
 ボクは夜にいやなクツ音を聞いたよ。それは飲んだ帰りのことで、ボクは帰り道を真っ直ぐ歩いていた。昔聴いた音楽を口ずさみながらね。あ、歌じゃないな、ギターさ。ボクはよく、ギターの音を真似して口ざすむんだ。クィーンとか、ギュワーンとか、さもディストーションを効かせたようにね。そんなことをしてる本人はとても満足なんだけれど、もしも他人が聞いたならすごいだろうね。調子も節もあっていないし、まさかそれを前衛音楽だなんて、調子よく解釈してくれる人なんて、そこらへんの道端にはいやしないだろう。でも、それだから、ボクは口ずさむんだ。ある時はジャズっぽいアコースティックな音を、またあるときは——といってもこれが殆どだけれど——エレキな音をね。で、話しが長くなったけれど、ちょうどクツ音がしたんだよ。よく聞かないかい? コツン、コツンって。底の堅いクツ、きっとハイヒールの音だ——ボクはそう思った。それはだんだん大きく響く。ついさっきまでは、遠い向こうでしていた音が、変に高い建物の関係かな、それが自然と——あ、建物とかが関係するんなら、人工的といっていいのかな?——いかんせん、話しを科学的にはしたくないし、そんな話しには突っ込まれたくないな、ちょっと酒が入って気持ちのいいところをじゃまされたくはないよ。とにかくその音はだんだんと大きくなっていった。ボクの悪いことは、その音がハイヒールの尖ったところが、カツンカツン、と鳴っていると勘違いしたところ。ボクはその音を、本当にハイヒールの音と勘違いしていたんだ。ああ、いよいよ来るな、女の人が、って。ハイヒールなんていったら、どんな人を想像するか? いっちゃ何だけれど、ボクはSMの人を想像しちゃった。すごく怖い人さ——そりゃ怖いよ。だってあのプレイって、自分が何もできないことを想定してするもんじゃない? ボクはケンカが弱いけれど、負けると思いながらもケンカをするときもある。そんなときには、「どうにかなるさ」って思うから何でもできる。けれどSMはどうだい? そんなプレイをしたことはないけれど、絶対服従なんてご免だよね。誰でも手込めにしたい、とは思うけれど、されたいなんて思う奴は神経がどうにかしてる。
 足音がボクの前へ出ていった。下を向いて歩いていたボクは顔を上げて反対側の道端を見た。そしたらそいつはネズミ色のコートを着たどこかの親父だったよ、背中の丸まったさ。
 あ、ごめん。結局他人が話しているから、それに割り込みたくなるし、口を挟んで茶々も入れたくなるんだね。漫才師だって、相方に突っ込まずに惚けながら突っ込む人もいるかな。もし、そんな人がいるなら、その人はきっと正直で、かつ、下手な漫才師だよ。まだ、つっこまれっぱなしの方がエッチでいいよね。でも、その間違えた足音の話しもまんざらじゃないと思うよ。その足音はボクだったともいえる。ボクにとてもよく似た他人のね。
 とにかく、コートの着すぎは止した方がいいね、じじいになっちゃうよ。

 【第十章——終わり】

 果たして——旧マスターの思いは彼女へと届くのだろうか? 誰も旧マスターの思いを評価することはできなかった。思いを評価することは難しかった。たいていの思いは本人の中で閉じこめられているからだ。ときどき思いは埋め立てられる。だが埋め立てられた思いは結局掘り起こされた。たいていにおいて地球人が付加する技術力は無力だった。たとえば土砂崩れを防ぐためのコンクリート補強や、面積を広くするために海を埋め立てて造られたにせ物の土地——たいがいそうしたものは無力だった。たぶん自然は技術を要求していなかった。神以外に誰も技術を持つことが許されない世の中はすぐそこに近づきつつあった。
 誰が除いているのかもわからない世界——地球をまわっている衛星は投げ捨てられたタバコの吸殻を見つけていた。人間が進化を論ずるとき、その内容のほとんどが差別のかたまりだった。たぶん自然のほとんどが差別によりできているのだとわたしは思った。今までの重ねられていた時間を通してみても、なくなるものはなくなっていった。
 星も淘汰されていく。消えていく星を誰が見つけるだろうか?
 どこの国のものだかわからない衛星はわたしを見ているし、わたしを構成する成分さえも見分けていた。
 ひとつのものを見かけましたか?——そこには必ず複数のものがある。それがただひとつであっても、ただ『ひとつ』とは限らなかった——それはこんなふうにもいえます——『一匹のゴキブリを見たら百匹いると思え』
 わたしもひとりではなかった。わたしの分身——わたしと同種のものはたくさんあった。わたしはその中のひとりだった。旧マスターにいわせれば『歯車』だった。彼女も自分自身のことを歯車だと思っていた。それでも彼女は自分自身を歯車でないとするためにいくつかの行動をとった——それらの行動のほとんどがプライベート過ぎて話す気にはならない。あまりプライベートではない行動のひとつ——それは転職だった。彼女はひとつの歯車と化す前にその仕事を辞めた。そしてまたひとつの歯車を求める仕事を探した。
 そしてもうひとつ——それは日記だった。彼女は毎日日記をつけていた。それは時にたった一行で終わった。七文字で終わることもしばしばだった。たとえばこうである——「今日は何もなし」
 旧マスターは結婚と思いこんだ同棲の破局を経て自分の姿を隠すことにつとめた。そして静かに化石となって過ごすことを決めたとき、旧マスターは自分の血を引き継いだ人間がいることに気がついた。自分自身の血は自分で止められるべきだったに——旧マスターは自分の血がまだ五十年は続くであろうことに恐怖を感じた。計り知れない恐怖——自分のまともではない血はもしかすると——延々と生き残るかもしれない。自分の血はたぶん怪物の血である——外見では牙が見つからなかったり、耳がとがったりしてはいないけれども、完全に普通ではない精神を放射し続けるしか脳のないイドの怪物だった。
 そのイドの怪物は車にも乗れなかった。
 彼女にしろ旧マスターにしろ、数え切れないなかのたった独りだった。
 だが果たして本当に独りだったろうか?
 数多くのなかの独りではなく、独りのなかのひとつ——『部分』ではなかろうか?
 これはわたしが時間について考えたあげく、時間こそが人間ではないかと考えざる終えなくなった。動物もしかりである。
 すべての生きているもの——呼吸しているものたちはすべて時間から分割されたものなのだ!

 友人のスペイン語はなかなか大したものだった。日系の人々の手助けで延長し続けているビザのおかげで、友人のスペイン語は上達していった。
 友人はブエノスアイレスで会ったひとりの男優と舞台に立った。その男優はモップと呼ばれていた。モップのように細い身体をして、頭には豊かな髪の毛が生い茂っていたからだ。モップは確かに逆さにして立てかけられたモップだった。
 友人がモップと合ったのは、ある大学の授業を聴講していたときだった。モップはその大学の生徒だった。そして演劇部に属していた。モップはかねてから大人数の演劇ではなく、二人くらいで——しゃべることを中心にした劇を——喜劇をやりたかった。だが、もともとプライドの高い人々の多いこの街では自らをバカにする芝居をやりたがる人間がいなかった。特にモップの通っていた大学はそうだった。高慢ちきで、鼻の高さが二十センチの男や女でいっぱいだったのだ。
 しょうがなくモップは大学の校庭にある掲示板に相方募集のチラシを貼った。そのちらしは何日も、何カ月も風雨にさらされ、その半分がちぎれかけようとした一年と二カ月後に友人がそれに目を止めたのだった。
 それは友人にとって悪くはない——全然悪くはない機会だった。友人は「なぜいままで気がつかなかったのかしら」——そうした思い半分モップに連絡をとった。
 モップは大喜びだった。人が来たことでさえうれしいことなのに、そのうえ現れた女はハポネサだった。ハポネサ! 一年と二カ月待ったあげくがハポネサだった!
 うひひ——ハポネサ・ハポネサ・ハポネサ・ハポネサ——ニッポン人! 肌が黄色いようで白いようにも見える、そして身体はまるで栄養失調、人目じゃ年などわからない、声が尻上がりな変な人間!
 モップは顔に出さないものの実際は半狂乱だった。モップの頭には長い間暖め続けた台本がため込まれていたが、それは友人を見た一瞬で消え去った。ところが——モップの頭にはまた新しい台本ができあがっていた。その底辺にあるものは「うひひ——ハポネサ!」だった。
 キャバレー・グランデは大盛況だった。モップの台本にしたがって、友人はときどき尻を半分さらさねばならなかったし、衣装やカツラもしょっちゅう取り替えた。どんな芸なのかわたしにはわからない。ただそれを見て多くの観客が笑ったことは確かだった。

「知ってますか?」——そうきり出したのは旧マスターだった。
「ほらあの手紙に書いてあったダンサー——行方をくらましたダンサーが見つかったんだって」旧マスターがいうのは家出少年のことだった。家出少年は友人に踊りを妨げられて一晩を一緒に過ごしたあと、行方をくらました。それはそれでスポーツ新聞を賑わせたが、いちばん賑わったのは家出少年本人だった。
 家出少年は踊りながら放浪した。踊っていると誰かが食べ物をくれた。そしてパンパの草むらで寝た。また、家出少年はワインを造るためにブドウを踏んだりもした。本来ブドウは女が踏むものとされたが、農園の誰かがひきつるように激しいステップでブドウを踏ませたらおもしろいといいだしたのだった。家出少年の足は血を流したように真っ赤に染まった。
 彼女は家出少年がうらやましいと思った。
 そうしたとき——彼女に思いもかけない客が現れた。——それは脚本家だった。

 脚本家は何人かの客を連れて店に現れた。脚本家の髪の毛はうわっつらのお飾りのために金髪に染められていた。眉毛は真っ黒だったで、細く剃られていた。実際の眉毛は濃くて左右の眉毛はつながりかけていたはずだった。
 脚本家は彼女の姿を見つけると、細い身体にまとった眉毛のように真っ黒のスーツをただしながら近づいていった。
 脚本家は『なれなれしい』態度だった。
 彼女は『逃げよう』とした。だがカウンターを動けなかった。彼女はいった——『待ち合わせ』をしてるんです。彼女の声は脚本家を心底いみきらいながらも、丁寧だった。彼女は『悔し』がった。
「待ち合わせ?」そんなのないんだろ?——脚本家がいった。「ねえ、どうしてんだい、元気だったかい? 久しぶりじゃないか——飲もうよ——」そういう脚本家は何のオーダーもしていなかった。「どうだい、ボク——かっこいいだろ? いまじゃ課長だよ——ほら、知ってる?——ハム会社さ、超バイオテクノロジーのハム。ボクはそこの広報課長なんだ。今日はCMが完成した打ち上げの帰り。ぜんぶボクが書いたシナリオ——脚本なんだ。すごいぜ」脚本家はの口は動き続けた。「あそこに見える禿げたやつはカメラマンさ、いい写真を撮るんだぜ。それからとなりの女の子はヘアメイクで全然下手、だけどそころへんの子よりはうまい——君もやってもらう?」
 言葉はヘビがうねるように脚本家の口から発され続けた。ヘビはイブにリンゴを食べさせた。そんじょそこらのリンゴではない。
 彼女は店内の公衆電話にかけ込むと、ダイヤルを回した。一度目のダイヤルには何も応えなかった。そして二度目のダイヤル——それはおかま君の店だった。——彼女はいった——ねえ、早く来て!
 働いていたおかま君ではあったが、動作も俊敏に店を出た。店を出る前に店内では三人のおかまと二人の客が倒れた。そしておかま君の背中に罵声が投げられた——「おい! 何してやがんだ——仕事中だバカヤロー!」それはマスターはマスターでもおかま君の店のマスターだった。そのマスターもまた男性自身のついたおかまだった。
 おかま君は途中でタクシーをひろい、何枚かの札を気前よく放り投げた。
 おかま君が彼女の姿を見つけたとき、脚本家は何をしようとしていたか? 脚本家は彼女の手を握っていた。二人はカウンターの側に立っていた。脚本家は彼女に何の危害も加えていないように見えた。
「あ、待った——ごめん!」おかま君がいった。彼女はすぐに後ろを向いた。そこには額に汗をかいたおかま君がいた。おかま君の姿は、店に入るなり客たちに静かなインパクトを与えた。旧マスターも驚きはしたものの口からは何も発されなかった。
「待ったわよ!」彼女がいった。
「こいつが待ち人か?」脚本家がいった。おかま君は脚本家の目を見た。だが何もいわなかった。おかま君は彼女の肩に手を置いた。そして目配せをすると同時に彼女は立ち上がった。——不思議な精神波だった。
 彼女がいった——「さあ、行こうよ」
 二人は立ち上がり歩き出した。彼女は旧マスターに向かって頭を下げた。旧マスターはその意図がわかったらしい。まったく不思議な精神波!
「ま、待てよ——」脚本家がそういったのは、彼女とおかま君がドアから出ようとしたときだった。
 彼女とおかま君は通りに出た。
 かわいそうに脚本家は二人を追いかけて外に出た。彼女の肩をつかむために——。
 脚本家はなんとか自分の目的を達成することができた。脚本家の手は見事彼女の肩をとらえたのだ——脚本家のがい骨ような手が彼女の肩をつかんだ瞬間——彼女は後ろ側につんのめった。それはなぜか?——彼女の重心はおかま君の支持により前へ前へと傾いていたからだった。彼女の身体がつんのめった瞬間、その衝撃はおかま君へ即座に伝わった。彼女の手を握って前へと歩み続けたおかま君の身体を静止させようとする力が彼女を通じて伝わったのだ。その力が伝わった瞬間——おかま君の交感神経をアドレナリンたちが刺激しはじめた。その結果——ほんのわずかな時間差で——飛び出したものはおかま君の拳だった。
 その拳は彼女の肩をつかむ脚本家の顔に命中した。鈍い音がしたのは、脚本家の鼻が折れたためだった。と、同時におかま君の人差し指に傷がついた。ひるんだ脚本家の前でおかま君のアドレナリンは噴出しっぱなしだった。おかま君はスカートをひるがえして続けざまに三回尻もちをついている脚本家の脇腹をけった。四回目は右腿をけった。次には右腿を押さえる腕をけった。そして肩をけった。次にはまた脇腹をけった。けるばかりではなく、おかま君の足は脚本家の身体を踏みつぶした。脚本家は思わず自分の腹を両腕で守ったが、おかま君の足はがら空きになった胸を踏みつぶした。何度も——八回くらい踏みつぶすと、今度はふくらはぎを思いっきりけりつけた。これもまた何度もけりつけた。
 脚本家の顔は青ざめた——地球の殻の上に敷かれたコンクリートの上で仰向けになったり横になったりしてうめいた。うめいていたのはほんの少しの間だった。そのうめきは沈黙に変わった——おかま君が脚本家の側頭部をけったのだ。脚本家の意識は布団もかぶらずに寝てしまった。
 おかま君が脚本家に対して保身的な行動をとっていた間、彼女は何をして時間を過ごしていたのか?——彼女の身体は電信柱により支えられていた。彼女の小さな口からは、吐息の他、具体的な言葉が発されることはなかった。彼女の手は電信柱にそれを支えるように添えられていた。彼女の足の力は、おかま君の行動が続いていくたびに抜けていった。空気が抜けていくように。脚本家の身体に衝撃が加わるごとに彼女は意識が遠のいていくことを感じた。実際、おかま君の身体から吹き出す情熱的な汗とは違った種類のもの——それはいわゆる『冷や汗』——が彼女の額や背中を潤ませていて、それが彼女の身体から体温を奪いつつあった。それでいて彼女は脚本家になんの哀れさを持ちえなかった。そうされて当然とも思った。だが実際には、脚本家が痛めつけれるたびに自分の身体や意識が世界から薄れいくことに戸惑いや恐怖——を感じた。彼女は時間から放り出されそうになった。
 それは彼女にとって矛盾だった。わたしは知った——『人の感情は状況で変わる』それは矛盾といえるかもしれない。だが所詮目的次第だった。
 たぶん通り過ぎていく人々にとって、おかま君と脚本家の間で起こっているもめ事を予告なしに放映されたドラマとしか見なかったかもしれない。なぜそう思ったか?——人々はテレビや演劇を見るように二人を見ていたからだ。そしてチャンネルを変えるように、またはテレビカメラに写ることを避けるようにその場を去る人々もいた。
 おかま君と脚本家の間で交わされている行動がドラマや演劇とするなら——その台本を書いたのは皮肉にも脚本家ではなかった。
 旧マスターは彼女と見たことのないおかまが店を出ていったあとに繰り出された客の注文をさばくのに多忙だった。多忙さに一区切りがついたとき、旧マスターは外の様子をうかがおうと思った。だがその前に客の勘定を済ませなければならなかった。その会計は時間がかかった。酔っぱらった客が「金がない」と小さな騒ぎを起こしたためだった。金とはディンギである。旧マスターは本当なら受け付けたくない『カード』など、ディンギに変わる支払方法の提案を持ちかけたり、客の連れに助言を求めた。結局客の連れが払った。本物のディンギでの勘定をもらい一安堵の体の旧マスターは、店のドアを薄目に開き、顔が見えない程度の遠さでそのもめ事を見た。旧マスターは電信柱に寄り掛かっている彼女を認めた。認めると、旧マスターの足は店の中から一歩、外へと踏み出された。旧マスターの身体は彼女に近づこうとしていた。
 だが旧マスターの目的は達成されなかった。旧マスターが彼女のもとへ到着するより先に、彼女はおかま君に手を引かれて、磁石の同極が反発しあうように旧マスターから離れていった。離れていくスピードは旧マスターが近づくスピードよりもはるかに早かった。
 旧マスターは時間を十分に活用することができなかった。

 旧マスターがその男が友人から聞いたことのある『脚本家』であることに気がついたのはずいぶんあとだった。

 【旧マスターの新しい小説
   第十一章——どっちかのボク】
          よく失敗する——】

 改札に近づくにつれ、鼻がぐずぐずしてきた。最初は風邪かと思った。そしたら今度は目の下が熱くなってきた。と、思ったら今度は涙さ。鼻水で鼻は大きな音を鳴らすし、その音は思った以上に響く、こっちは静かにすすっているつもりなのに。胸の中に詰まっていたものが、止めどもなく吹き出してくる感じ。まさか胸の中が涙や鼻水で一杯になっていたなんて信じたくはないけれど。ああ、恥ずかしいこと、でも鼻水は止まらないよ、それに涙だって。ボクは駅員に定期を見せることが辛かったし、何より人目の多さが辛かった。けれど顔は下げなかった。ボクの顔は正面を見ていた。その顔は涙が溢れ出るにつれて上を向いた。ひそひそ話しがやけに大きく耳に入ってくる。女の声だったり、若い男の声だったり。
「あの野郎泣いてるぜ」
 いいたいだけいってくれ——ボクにはその憎らしい男の顔は見えなかった。可哀想なんて声も聞こえてくる。ああ、優しい声だな——ボクはそんなことをいってくれる女性の顔さえ見えなかった。ちくしょうちくしょう、なんて自分の涙をうらやむけれど、腹なんて立たなかった。ただ悲しいんだ。ただただ悲しいだけでいっぱいだった。昼間の間じゅう抱えていた想いは悲しさだった。
 ——やっぱり失恋って悲しいんだ。
 ボクが悲しい悲しいというのは、好きな女の子——あの喪服の子だよ——が他の奴とくっついちゃったからだ、——そうだろうな、うん、多分そう思う。ボクの胸の中のもやもやの理由はたぶんそれしか見あたらなかった。相手の男を彼女に近づけたのは、何を隠そうこのボク本人。でもそうしたのはきっとボクじゃない。ボクじゃない誰か——そうだろう? 何でわざわざそんな危なっかしいことをしようなんて考えるんだい。だいたい予想がつきそうなもんじゃないか、これはとても起こりやすいことだよ。しょちゅうさ。けれど悲しいかな、ボクはあの男みたいな目にあったことはない。もっともあいつもあいつで人の彼女をとったなんて、微塵も思っちゃいないだろう。ボクは彼女と本当に友だちだったんだ。これは本当、友だちだったんだよ。よくご飯を食べたり、いいたいことを聞いてあげたりしてさ。そんな間柄だったんだ。ボクはあの子に、だから好きなんだよな、なんていったりしたこともあったけれど、どれも空気みたいな相づちのひとつに過ぎなかった。そんな彼女がある朝、昨日と同じ服を着て会社にやってきた。うーんちょっと違うか、そうブラウスは違っていた。そして、次の週にあったらあいつはいったよ、
「あの子と飲みに行ったんだ」
 ってね。ボクは楽しかったかい、なんて訊いたりした。でもボクは本当にアホだよ。もう事ははじまっていたんだな。
 歩行者天国の日、ある土曜日、休日出勤をした帰り、あるおもちゃ屋、ボクは好きな女の誕生日プレゼントを買ってやるんだという先輩と一緒に、可愛い商品の並ぶ店内にいた。伝統におおい被せられたフランス人形、糸だらけの上品なピエロ、淡いピンク色をしたオルゴール。先輩は何も決めていなかったらしく少し戸惑いながらも、目を皿のようにしながら店内に並べられた商品を見回していた。けれどボクにはてんで興味がわかなかった。どれもバカらしく思えたんだ。特に人形にはね。あんなものは小学校の頃に卒業したじゃないか。小学一年の頃だったと思うけれど、近所にいた歯医者の女の子、その子と一緒に家族で一杯の人形で遊びすぎたボクは、もう人形になんて興味はなかった。どれもボクにとっては見飽きたもので、ただ毛が生えていたり、肌が陶製だったりするだけのものだった。先輩は決めたらしい。木製で縁に彫り物を施してある小さなスタンド型の額縁だった。小さいといっても普通の写真を二枚横に並べたやつが入るような大きさだった。ボクはそれと同じやつを手に取ってみた。割と重かった。よく考えてみれば写真好きの先輩が、そんな額縁を選んでしまうのも納得できないことはない。フーンと思いながら、通りに面したショーケースの中に熊のぬいぐるみの後ろ姿を見たんだ。
 胸が高鳴った。ボクは思ったよ、彼女——喪服の子じゃないよ——はテディベアが好きなんだ! ってね、ボクの頭の中はスパークしたよ、ババババババババーン、ってね。一瞬の時を目がパチパチと瞬きしている間じゅう、ボクの目前——っていったって、周りの人には見えるはずないけれど、——に彼女の顔が一個が二個に、二個が四個に細胞分裂を繰り返しでもするように広がっていった。まるで複眼のトンボみたいに、目の中にはいくつもの彼女の顔が映った。すごいことだよ、これは——、ボクの祖先、遥か何十億年も前に巨大トンボが飛んでいたころの話しを裏付けちゃうね。そうさ、最初はみんな昆虫で、骨なんか持っていなかったんだよ——だから見てみなよ、このフニャヌニャとした生き様を! 生きるって本当に全角度方向だよね、でも脳ミソがついていかないんだ、菌でも入れて腐らさない限りは!
 ああ、何て可愛いテディベア——、彼女は少し汚れたネズミ色のベアを持っていた、身長三十センチくらいのやつ。だけれども目の前に飾ってあるやつは違った。茶色で上品な毛並み、そして六十センチくらいの背丈、まるまるとして柔らかそうなお腹——色は白い、まるでワニのお腹みたいに——をした特別第一級のテディベアだった。とかなんとか、そいつのごたくを並べたらきりがないけれど、結局の話し、ボクはそれを買ってしまったんだ。そして、同時進行のパラレル変換、効率的な思考テクノロジーの奇跡的なバカ力で、彼女に電話をしよう——ボクはそう考えていた。店員は「ラッピングしますか?」と訊いてきたけれど、ボクは断った。テディベアを裸のまま抱えて店を出てきた。その首には、商品を包むときに使う店の名前が入ったひもがくくってあったんだけれど、店を出て直ぐにそれを外して、そこらへんに捨てる勇気もなくポケットに押し込んだ。そいつはけっこう大きくて、手を腰に回してできる輪にちょうど収まるくらいだった。抱えている内に腕が暖かくなってきて、まるで生きている犬とか、動物でも抱えている感じがしてきた。先輩と屋台の焼鳥屋で煙の臭いがうつらないようにテディベアを抱えながら、五六本の串を、晩飯代わりにつまんだ。コップ一杯のビールとね。通勤ラッシュも終わって快速電車の無くなる時間、夜の八時頃、駅前、空はまだほんの少しだけ明るかったと思う。何もないただ広いだけの駅前。歩くのさえ気恥ずかしい感じがする。閉まりそうな五階建てのデパートの下で、ファストフードの店だけがキラキラときれいな明かりを灯してる。実際ボクは反対側の出口を好んでいたけれど、アパートに戻るにはこっちの出口の方が近かった。反対側はガード下に小さな飲み屋がいっぱいあって、日除けのついた商店がいくつも連なる通りへと続いていた。そこはゲームセンターやパチンコに入り浸りの子供や若者、顔を赤くしたおやじに、子供を放り出すパチンコおばさんで溢れていたし、買い物帰りの人もいた。片手に裸のままのテディベアを抱えたボクはたぶん自然とへんぴな出口へと足を運んだんじゃないかな。だってやっぱり恥ずかしいものね、人混みの中でこんな素晴らしいものを見せびらかして歩くのは。でも、考えてみればへんぴな通りを歩く方が、目立っちゃうし、それにいい年をして変態かと思われるかもしないし、もっともっと恥ずかしいことかもしれないよね、よくよく考えてみたらさ。それにボクは電車の中でもこいつを抱えていたんだぜ。さてさて、そのときのボクはそんなことひとつも考えなかった。何故なら、あの子へ電話をすることで頭がいっぱいだったから。ボクは駅前でちょっと戸惑ったよ。だって公衆電話がなかなか見つからないんだ。いつも出たり入ったりする駅なんだけれど、電話の場所も覚えてないらしい。おまけにボクはそのときメガネをかけていなかった。そもそもそこの電話なんて使ったことがなかったんだね。ボクは大きくて素晴らしく素敵なテディベアを抱えながらきょろきょろとあたりを見回した。この姿、想像できるかな? そんなものどうってことないわ、なんていってくれるかも知れないけれど、ボクにとっちゃえらく不自然な行為だったよ。大きな熊のぬいぐるみを持ちながら度の悪い目で電話を探さなきゃならないなんて、生まれてこの方考えたこともなかったからね、仏様だってわかっていたかどうか怪しいものさ。ボクは胸ポケットにしまってあるメガネをかけようと思ったけれど、ボクを見つめている人の顔がくっきりと浮かび上がるのが怖かった。とにかくボクは電話を探すために、あらぬカンを働かせて、あちらこちらへと歩き回った。結局三度目のカンが当たった。駅の直ぐとなりの交番の横の陰、そこに、電話ボックスを見つけたんだ。それも三台! ボクは迷わず、交番からいちばん離れたボックスに入った。いかがわしいチラシを剥がしたあとがいっぱいあったよ。おお神様、あなたはなんて優しいんだ、素敵なテディベアは電話の下の台には収まらず、ボクは脇に抱えたまま狭いボックスの中で十円玉を出すためにポケットをまさぐらなきゃならなかったんだ。きれいなテディベアがボックスのガラスで汚れないようにね——だってこれは雑巾じゃない、あの子にあげるものなんだもの! ボクはあの子の電話番号を二回間違えた。どうしても最後の一桁が曖昧だったんだ。その上、一度は市外局番まで回しちゃった。何事三度、ホップ・ステップ・ジャンプのジャンプでようやくあの子の電話のベルを鳴らしたよ。
 あの子は電話に出たかって?——うん、出たよ、少しかすれた声を聴いた。間違いなくあの子の声さ、すぐに顔も浮かんだし——。
 話したかって?——話したよ、元気とか、何してるのとかね。でもぬいぐるみのことはいえなかった。よく考えたらあの子にそれをあげる理由がなかなか見つからなかったんだ。ボクってウソをつけないね。「誕生日を勘違いしたかな」なんて口が裂けてもいえなかったんだ。
 早くしゃべれ?——そんなこといったって、その次は無いよ。電話越しのあの子がはしゃいでいることに気づいてはいたんだけれど、あの子が「ちょっと待ってね」っていったあと、ボクの握る受話器のスピーカーから聞こえてきたのは男の声だったんだ。大阪弁の下品なところをことさら強調した感じの声でね。あの子をたらし込んだとか何とかいっていた。詳しくなんかいいたくないな。ボクの胸は男——そう、あいつの声を聞いて影も形もなくなってしまった。どこかへいってしまった。ボクは一瞬呼吸することを忘れたんじゃないかな。でも苦しさなんて無かった。苦しさも、他の何ものをも感じなかった。薬もやってないのに頭の中が真っ白さ。
 結局?——結局ボクは受話器を電話に叩きつけてボックスを出た。あいつの声がすごく不快だった。酒も入っていたのかもしれない——たぶんそうだよ、彼女の声も何だか浮ついた感じだったしね。あいつが普通に話してくれていれば、ボクはこんな想いをしなかったかもしれないな。小心者の冷静さってやつ。要は流れに素直にのみ込まれる、争い下手な弱虫なだけなんだけど——
 ぬいぐるみはどうしたかって?——テディベアは駅の外からホームの中へ消えていったよ。空高く舞い上がってさ——。けり飛ばしたんだ。運動音痴のボクがあそこまできれいなキックを決めれるなんて、皮肉なことだよ。なんでラグビー部の時に上手くけれなかったんだろう。あれだけハイパントが決まれば即レギュラーだったのにな。ボックスの中にいる間に暗くなった空の中、ホームの明かりに照らされながらテディベアは飛んでった——余計な回転もせず、空の上に浮かぶようにね。
 これでおしまい。

 でもそれで泣いちゃったの? なんて思わないで欲しいよ、今までいったことは長かったけれど、口にしたかっただけのこと。テディベアの話しは改札の話しとはちがう——古い話し。ボクがどうしようもないボクに一言いいたかっただけなんだ。あまりに恥ずかしい他人のボクにね。
 ボクが涙を流してしまったのは、前に見た夢のせいだ。
 ——真っ白い世界だった。白いのは雪だった。家並が見えるけれど、すっぽりと雪の中に埋まっていた。ボクは橋の近くに立っていた。その下には氷が張って流れの見えない川がある。その橋のたもとに、黒いコートを着たあの子がいた。ボクはしきりと彼女に話しかけるんだけれど、彼女は背を向けたままだった。時折、何かに気づいたように顔を動かすけれど、ボクの方までは振り向かない。一見誰かを待っているかのようだった。ボクは何回も彼女の名前を呼ぶんだけれども、振り向こうとはしない。何回呼んだかわからないけれど、場面は変わってしまった。たくさんの場面があったような気がするけれど、夢っていうのはなかなか覚えていないもので、うっすら覚えているのはあとふたつ。やっぱり白かった。ボクは白い壁のものすごく寒い城の中を歩いていた。目の前には後ろ姿の彼女。黒いコート姿。ただ、へんな爺さんや、見たことがあるけれど思い出せない男や女の人もいて、彼女と同じように後ろ姿を見せる。けれど、ただひとつちがうのは、やっぱり彼女は振り向かず、他の人たちはボクは見た。ボクはまた何回も彼女の名前を呼ぶんだけれど、彼女は振り向いてくれない。そしてゆっくりと白い壁の廊下を歩いて行くんだ。そして最後、これがボクの覚えている最後の場面、そこは登山者が憩う山小屋みたいだった。やっぱり雪、外は真っ白。ボクはその時初めて、彼女を前から見ることができた。けれど彼女はボクに気づかないのか、やっぱり目を合わすことはなかった。彼女は上がり段に腰掛け、たたきに放り投げた足のクツひもを結んでいた。彼女のクツはとても小さいんだ。ボクは彼女を見おろすように立っていた。彼女の周りには山男然とした男が三人、それなりの格好で彼女と同じように腰掛けていた。彼女が立ち上がった。山男が手を貸して、彼女の背中にリュックを背負わせた。ボクはその間、何度も彼女の名前を呼んだ、彼女のすぐ側で。けれど彼女は気づいてくれない。山男に囲まれ、彼女はボクを通り過ぎて外へと出ていく。強い吹雪だった。雪が勢いよく山小屋の中へ吹き込んでくる。ボクは彼女のあとを追った。名前を呼びながらね。でも彼女は気づいてくれないんだ。山男に囲まれ、彼女は山へと入っていった。ボクは何度も何度も彼女を呼ぶけれど、それは無駄なことだった。彼女の姿は雪の中に隠れてゆき、終いには見えなくなった。
 ——そしてボクは目が覚めた。
 目が覚めたときはどうってことなかった。変な夢だな——そう思っただけだったよ。そしてボクはまた寝たんだ。その日の朝、会社に来てブラウスだけ取り替えた彼女を見たんだ。それがきっかけになった訳じゃないと思うけれど、現実の彼女を見て、昨日見た夢の中の彼女の——何度呼んでも振り向いてくれない——姿が思い浮かび、何故かボクの胸は熱くなった。踊り出すよう熱さじゃなく、得体のしれない、なんだかはけ口のない衝動が石のように固まって、ただじっとその熱さを堪えていた。そんな熱さを感じながら、その日は口数も少なく、その訳の分からない想いから逃げ出すように、ただ仕事をこなした。でもどうしようも無くなって、残業も途中で止め、七時半に会社を出た。外は寒かった。マフラーを首に巻き付けた。その寒さに当たっても胸の内の熱さはいっこうに醒めやらず、逆にその寒さのおかげで昨日の夢がくっきりと頭の中に広がっていった。そして改札付近の人混みの中、ボクはついに涙を流してしまったんだ。切ない?——そんな言葉は浮かばなかった。
 ただ泣きたくなったんだ。

 【第十一章——終わり】

 旧マスターが新しい小説第十一章を書き上げたとき、彼女はおかま君といっしょのベッドの上で目を覚ました。
 おかま君のアゴにはうっすらとヒゲが生えつつあった。それでも化粧は残っていたし髪の毛のウェイブはまだ残っていた。彼女が目を覚ましたときの感覚は、昨晩におかま君としたことよりも奇妙だった。おかま君がはだけている小さく膨らんだ胸を見て、その感覚がまたよみがえった。
 人間——いや、生物が持つ本当の意味や真意は、容姿だけできめられるものではない。だが、彼女は本当は男でありながら、とりあえず容姿だけでも女に近づこうとしている人間としてしまったに戸惑いを感じた。だがそれが正しいことであるのか悪いことであったのかわからなかった。彼女は横で寝ているおかま君の胸に触った。そこにはしこりのような感触があった。少し触るとおかま君の喉が鳴った。それは間違いなく男のものだった。起こすのがもったいないような気がして彼女はそれ以上胸を触るのを止めた。
 彼女の精神波は友人へと届きつつあった。

 友人は尻の他にときどき自分の胸を見せるようになっていた。モップ男の持っていた芝居の方向性は、友人を見たときにすべてが取り壊されたが、それが再構成されたときには違った角度へと向かったようだった。
 キャバレー・グランデは相変わらずのホームグランドだったが、友人とモップ男は、すてきなイスが並ぶオペラハウスにも登場するようになった。友人は間違いなくスターだった。友人の身体はその国に住む人々から見ると間違いなく貧相だった。が、それが新鮮だという者もいた。
 友人は幸せだったろうか?——たぶん彼女は幸せだった。ある程度芝居のパターンが馴染みになり、客の受けが一定になった頃、モップ男は友人にも台本を書かせた。友人はその中で、自分では長い間——ほんとうに長い間無視し続けていた自分の国の伝統を加えることを試みた。実際友人が考える伝統のほとんどが想像の域にあった。友人は着物の前を左右どちらにあわせるかも知らなかった。
 だがとにかく——友人は幸せだった。友人の名はその国中で広まっていた。友人はわざと下手にタンゴを踊って見せた。その下手さに客は喝采し笑った。友人はわかっていた——伝統を重んじる国の人々のほとんどが、その伝統をよそ者に上手に真似されることをきらうのだ。それだから友人はしゃべる言葉にさえ妙なアクセントをつけてしゃべった。
 それでも——「うまくいってるからいいじゃないの!」——それが友人の胸の内だった。そう、うまくいっている——自分はうまくいってるのだ——友人はそう自分にいい聞かせた。
 そして誰よりも満足しているのはモップ男だった。友人にとってモップ男は悪い男ではなかった。おかまじゃないから尻から血を流して時間を放棄することはないだろう。それに——あの『脚本家』よりはよっぽどましだ——『月とスッポン』!

 彼女はその次の日の晩にガスを吸って自らの時間を放棄した。
 旧マスターはその二カ月後に同じくガスを吸って時間を放棄した。その二カ月の間に旧マスターは店のすべてを新マスターに引き継いだ。犬のトンとネコのクロも。
 旧マスターが自らの時間を放棄する前に、店を訊ねてきた男が二人いた。一人は男になったおかま君だった。おかま君——いや、そのときは『好青年』の体だった——は彼女がいなくなってしまったことを心から嘆いた。好青年はおかまをやめた理由を話さなかった。だがその半年後、好青年はまた『おかま君』になった。
 もう一人はダンサーの家出少年だった。誰もが家出少年を著名なダンサーであるとは、家出少年が店を出るまで気がつかなかった。家出少年はいった、「マスターですか?」旧マスターは、はい、と返事をした。「これ預かりものです」家出少年がそういって手渡したものは、一通の手紙だった。宛先は彼女になっていた。
「渡してくださいと頼まれたんです」
「そうですか」旧マスターがいった。
「それじゃボク帰ります」家出少年がいった。
 旧マスターは一杯の酒を家出少年におごってやった。旧マスターにはそうする理由があった。こういったのだ——「手間賃です」
 旧マスターは家出少年に訊こうと思った——友人は帰ってくるのか?——だがやめた。

 そして旧マスターの小説——最終章である。

 【旧マスターの新しい小説
   最終章——ボクが逝った後——】

 ナエちゃんは本当に優しいよ。
「その子にテディベアをあげるウソをいえなかったってことが、彼女を好きだってことをそのままいっているじゃないかな?」なんていうんだからね。でもウソの電話番号は教えないで欲しいよ。ボクはこれでもけっこうショックだったんだ。仕事を放り投げて帰っちまうくらいにね。ボクの友だちには本当の番号を教えているのにね。ボクは本気で君と映画にでも行こうって考えていたんだ。今のボクは、君と顔を合わせても、テレビのくだらない会話さえ言葉が浮かばないよ。
 昼間には雨がざあざあと、音を立てて降っていたっけ。
 雨後の青白い空は、左右に裂けていた。そのどちらも微妙に違っていた。右の空には黒が混ざっている。左のは青だというのに血の色を連想させる。その二つを裂くものは一筋の雷だった。けれどもそれは突出しないで、ただ、深く空にめり込んで空を押し裂けた。裂けるってそんなものかな——駅の階段の踊り場でただ空を見た。光の後に音が遅れてやって来たけれど、耳に飛び込んでくるほどの上品さを持ち合わせてはいなかった。空って空じゃない——、ビロードの幕を思い浮かべたよ、あのいやらしい肌触りのね、それかセロファンかな——、とにかく空は別物で、普段見る空は、空ではなくて幕だった。それに気づかせてくれたのは、日暮れの空だった。日が沈んだ後の空はまるで作りものだ。
 ナエちゃんはそんな空の下に立った。空に飛び込もうとしたんだ。
 そしてボクは六メートル下へと飛び込んだ。鞄を持ったままね——。足の骨を折っただけだったけれど、生きている。けれど生きているのは他人のボクかもしれないし、本当のボクが死んでしまったってこともあり得る。けれどまた本当のボクっていう奴が現れるんだ。ボクは一人だけで十分なのにね。
 あ、そうそう——病院でナエちゃんを見たよ。バツの悪そうな顔をしてたな。それがまた可愛いんだけれど。
 理由は訊かなかった。彼女がそうした理由が、何となくわかったような気がしたから。
 ボクの手首には傷があったはずなんだ。今はもうきれいになっているけれどね。
 誰にもいわなかったけれど、大池さんと焼き肉屋をロッカーの中で見たときに、ボクは一度この世からいなくなったんだ。
 でも理由は何だったかな?——二人の愛に失望したせいかってうかも知れないな。でも本当にそんな簡単なもんかね。ボクは信じたくないな。きっと失敗した後にそんなこと忘れちゃうんだよ。だってそうしようとしたのはボクじゃなくて他人のボクなんだからボクにわかるわけないよ。ナエちゃんもきっと忘れちゃったにちがいないな。
 でもあんなに利香ちゃんのことを心配していたナエちゃんがそうしたがっていたなんてボクは知らなかったな。本当にみんな他人を抱えて大変だよね。でもちょっと惜しかったな。あの世がどうなっているかわからないけれど、もしかしたらあの作家の新しい本だって読めるかも知れなかったんだものな——あの世でね。

 結局ボクは、彼女があの喪服を着てボクの葬式に来てくれたら最高に幸せなんだよ。

       【永遠に終わり】

 その店で残されたものはトンにクロだった。そしてトンも自分の時間を放棄した。トンは自ら時間を放棄することはしなかった——というよりはできなかった。トンは老衰により時間を放棄した。
 クロは相変わらずときどき家出をした。新マスターはクロが男であることに安心した。
 わたしは自らの身体を変えようと考えた。もう『バイオリンを弾くネコ』にもあきた。
 わたしの知識はくだらなさでいっぱいだった。人間でいう『栄養』が不足気味だった。
 わたしにわかったこと——時間はひとつだった。そしてたぶん生物は時間から分裂したものだった。そして時間は重力のおかげで永久機関的動作を続けている。宇宙がある限り——

 彼女と旧マスターは時間から解放されて今は宇宙に住んでいた。誰が二人のことを『死んだ』なんていったろうか?——二人ともそうなっちゃいない。二人は生きている。
 モーガンがドライブするラダの後ろに乗りながら。
 もう二人とも時間に縛られることはないのだ。

【終わり】



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