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仮題:カシューム星人と地球人について 7 [仮題:カシューム星人と地球人について]

【7回目】

 【旧マスターの新しい小説
   第五章——他人を見るボク——】

 ナエちゃんは、利香ちゃんの彼氏が店の娘にとられたことを、とても可哀想に思っている。それだからそのことを話すとき、彼女の顔は笑っちゃいなかった。ときおりからめたりする指には、忍耐強ささえ感じられるし、大きい目玉が寄り目になるのも笑えない。真剣になるってのはいいことだよね。そんな彼女を笑ってちゃ、人間おしまいだ——そう思うけれど、結局きらわれたくないだけかな。人からきらわれたくなきゃ好きな人を作らないことだよな——ボクはナエちゃんにそういった。彼女は思ったより慎重で、「そうかしら」と、応えただけだった。なかなか訊けないことなんだけれど、彼女って好きな人がいるのかな。彼女があまりに利香ちゃんのことを心配するので、ボクはふとそんなことが気になった。それにナエちゃんとボクとの間には、そんな話しらしい話しはでなかったんだ。でもナエちゃんに、「誰か好きな人いるの」なんて訊くのはなんだか洒落にならないような気がして訊くのを止めた。
 ここは帰った方が身のためだ——今は何時だろう——そう思って自分の時計を見た。こういう店には時計など置いていないんだ。なるべく人を帰らせたくないからね。でも女の子はみんなに帰って欲しいんだ。接客がなけりゃみんなも早く帰れるじゃないか。でも客も来ないときには来ないんだって。女の子の飲むウーロン茶だって、一杯でも飲めば店が赤字になってしまう。そして二晩も続けば閉店だよ、なんてマスターが洩らしていた。マスターは美少年が接客する店を開きたいんだ。これからの店は今やっているような普通の店じゃダメなんだって。不況が続いたり、会社がきびしくなったりすると、いらいらや、悩みがつのりつのって、みんなストレスがたまるようになる。髪の毛もだんだん薄くなっていったり、そしてハゲにでもなれば、家族、とくに娘さんだろうな——から、かっこ悪ーいとかいわれてきらわれちゃう。そこでとにかくストレスを発散させなきゃいけないんだ。いけないんだけど、それもできずに、みんな気が変になりそうだ、と感じてくると、急に本来の自分を取り戻したがるようになる。それが幼児退行、ほらあるだろう、いい年(こういういい方はきらいだけど)したお父さんが、赤ん坊の服を着てバブバブいったりするやつ。他には、口の中に排泄されて喜んだりするのもいるんだって。マスターのいうことが本当かどうかは知らないけれど、本当だとしたら、人間の本来の姿っていったい何なのだろうね。そんな刺激より、ボクは一睡もできない夜が欲しいんだ。
 帰るといったら、みんなお決まりのようにボクを引き留める。これは上手いよな、なんだかこう、何ていうか——、そう、かゆいところを掻かれちゃうっていうか、思い出してはいけないことを心にぷかぷか浮かべちゃうっていう、そんな感じ。でも帰るよ、ああ、高い勘定だね。
 ドアを開けて階段を降りたところで、見送ってくれたナエちゃんがボクにいった。
「大池さんは正解よ。女の子が少女マンガを読んだらエッチ。それってあやしいわ。女の子は男の子のマンガをよまなきゃだめよ」
 ナエちゃんて、本当に真剣なんだな。目玉がくりくりしてる。はれぼったいまぶたを、血管が青くお化粧をしてる。
 じゃあ男は何を読むんだい。——これはいわなかった。

 橋の上を、おかっぱ頭で、鼻の下には鼻水あとのある女の子が歩く。五歳くらいというのにチョコレート色の汚れがついたよだれ掛け。
「スイカ、スイカ、おっきなスイカ」小声で鼻歌を歌いながら、下を見て歩く。橋の下の川向こうでは、夕日が赤い。染まる空に、女の子の赤い顔が溶けていく。
 重いスイカは、自重で揺れる。女の子の小さな力は、それについていくのが精一杯。スイカを包むビニールのひもが、銀杏のような女の子の手のひらを真っ白にする。
 橋の真ん中で、スイカは宙を舞った。夕焼けの中で、月食の太陽みたいに黒く浮かび上がる。そうかと思うと、スイカは落ちた。
 真っ赤な実は夕焼けの色だった。
 ああ、ベトナム兵とアポロの二人、一体どちらが大切なんだい?
 ボクが一人暮らしをはじめた夜に、「眠れない夜」を聴いたときにフォークを忘れてしまったとナエちゃんにいった。そして、廃盤から復活した「スローバラード」を聴いてロックを忘れた、といった。そしたらナエちゃんは「わかる、わかる」と頷いた。でもそれはウソだ。だってナエちゃんとボクは十といわずとも、八九歳は違うのだ。

 【第五章——終わり】

 そうそうクロである。クロは友人がひろってきたネコだった。友人はクロを旧マスターの店に置いていった。旧マスターはミルクを皿に入れて飲ませてやったりした。クロはそこそこ静かにしていた——静かすぎたのかもしれない。クロはときどきいなくなっていた。最初出ていったとき、戻ってきたのは三カ月後だった。
 クロは何かにつけて喉を鳴らした。ゴロゴロゴロゴロ。クロは甘えている風を見せながら。たいがい何かの中毒者はネコが好きである。中毒者たちはネコを溺愛する。中毒者たちはネコを人間より優れていると思っている。また、自分を理解するものはネコだけだと思っている。ネコは彼女にもゴロゴロした。甘えて見せたのである。

 旧マスターが気がついたとき、目の前は真っ暗だった。それはなぜか——顔の上にはタオルがかけられていた。
「痛い?」と女が訊いた。女はマッサージ嬢だった。旧マスターはマッサージの店に来ていた。時間は人間たちの手で朝三時半を指していた。旧マスターは店を閉めてからマッサージ店に来たのだった。旧マスターは思ったより疲れていて、マッサージが開始されて二十分後に寝てしまったのだ。
「寝てたでしょ」と女が訊いた。寝起きで真っ白になっていた旧マスターの頭の中は、一瞬混乱した。果たして寝ていたのだろうか?——
 間違いなく旧マスターは寝ていたのだ。数時間と思えた睡眠は、実際には八分程度だった。旧マスターは時間を飛び越えた。破壊されつつあった時間は、女の声と言葉で平静さを取り戻しつつあった。
 女の言葉は、明らかに国がちがうことのわかる方言以上のアクセントがあった。女は別な国から来た女だった。国毎に時差の決められた星の中で、女は一時間遅れてこの国にいた。女は時間のエネルギーを余分に浪費してしまった——時差、じさ、ジサ、時差!——時間のエネルギーは太陽なのか?——そして引力も同罪だった。
「あなたオイル好き?」と女が訊いた。女の手には時間を得たばかりの赤ん坊が使う『ベビーローション』があった。時間は常に交差していた。クロスオーバー!——にゃおん!——これはネコの鳴き声である。子猫や赤ん坊、そして成人や老成した人間さえも、このオイルを塗られればみんな喉を鳴らす。クロスオーバー!——鳴き声の融合だった。ロマンチックでグロテスク。
 旧マスターは赤ん坊が塗ってもらう『ベビーローション』で胸の肉や、腿の付け根あたりをひくひくさせた。ただそれだけだった——クライマックスは『まな板のコイ』だった。
 真っ赤なカーテンのひかれた部屋を抜け出し、店を出たとき、すでに今日の陽が輝きを見せていた。旧マスターはけっこう店が気に入った。それはマッサージ嬢やそのサービスに対してではない。ではいったどういった点に旧マスターは惹かれたのか?——それは部屋に敷かれた布団と畳の雰囲気がいちばん最初に借りたアパートに似ていたからである。今旧マスターが住んでいる場所は、そのアパートにくらべて数倍の広さがあった。これは時間が与えたものだった。旧マスターは時間に縛られながらもその代償としてディンギを受け取った。代償はどこにでもある。だが代償と得たものをくらべる術はない。
 当たり前だ!——時間の持つエネルギーは? それがわからないのだから!

「ねえ、今夜おかまバー行かない?」そういったのは彼女と同じ職場で働く女子職員だった。女子職員は彼女より二つ下だった。高校を出たばかりの雰囲気が抜けない女子職員の顔はピカピカに光っていた。痛んだ髪の毛はどうにか再生しつつあった。女子職員の髪の毛は生え代わりを要求していた。大丈夫——その髪の毛は立派に再生した。そう、生き返ったのだ。時間は栄養を餌にしつつもまるで永久機関のように練り返す。
 彼女はおかまバーに行ったことがあったろうか?——なかった。彼女の行き先は旧マスターの店か、元関取が経営するウナギ屋、そしてレモンティーが飲める喫茶店だった。おかまバーなど彼女の頭には存在しなかった。当たり前だ——必要でないものがどうして存在するものか? わたしがこう考えるのはこの星——地球に来てからである。地球はいい星だった。あいかわらず太陽の回りをぐるぐる回るしか脳のない星であり続けるだろう——地上の人間、イヌ、ネコ——あらゆる生物が死に絶えようとも回り続けるのだ。グルグルグルグルグル——時間のエネルギーは引力か? 時間もグルグル振り回されるしか脳のない奴なのかもしれない。そうだとしたら?——ああ、かわいそうな時間よ!
 グルグルグルグルグルグルグルグル——
「わたしの友だちが知ってるのおかまバー。東京まで行かなくても下りの方にあるんだって。このあいだよくその店に行く居酒屋のダンナに教えてもらったの」彼女はあほらしいと思いつつも話しにつきあった。そんなところに行って危なくないの?
「だいじょうぶよ、ちゃんとダンナが話しをしておいてくれるって」——でもなんでわたしを誘うの?——彼女は無理しながら笑った。
「だって時間がありそうなんだもん」
 時間がある?——不思議な表現だった。
 その夜彼女はおかまバーへ行っただろうか。イエス! 行ったのだ。汚い家の表だけをきれいにしたその店の店内は、カビが生えるか生えないかの湿気具合だった。八つあるボックスのうち五つの席が埋まっていたが、イスの有効面積に比べて人の数は少なかった。それでもいつもと変わりないであろう照明が輝いていた。
 彼女は一人のおかまと仲よくなった。おかま君の名前は男だったが、店では女の名前だった。おかま君はあそこに自分のシンボルが残っているとても気にしていた。それはなぜか?——シンボルが残っていることで、男が自分のことを好きになってくれたり愛してくれないと思っていたからだ。おかま君は彼女を観察するように何度も目配せをした。いったい何を見ているの?——彼女はおかま君に訊いた。
「女らしいところを見習っているの、あなたってとても女らしいわ。声も小さいし」
 声が小さいのは生まれつきだった。彼女は人並みの声を出すために声を裏返さなければならなかった。わたしはその声が好きだった。おかま君は彼女をほめたたえた。
 店では中国語のジャズが流れていた。直径六十センチメートルのステージの上で歌っていたのはよその国から来た女だった。彼女は芸能ビザという許可を得て来日していた。誰にも後ろ指の指されることのない立派な資格だった。歌手が来ていた青いベルベットの衣装はプロモーターが買い与えたものだった。
 いつのまにか彼女はおかま君と寄り添ってその歌を聴いていた。最初言葉がわからなかった彼女はおかま君に訊いた——これってニッポン語じゃないでしょ?
「ニッポン人じゃないわ。歌がとってもうまいの——ほんとにうらやましいわ」おかま君は自分の声を嘆いた。
「また来てよね」——店を出たときおかま君は彼女にそういった。彼女には小さなバッグの他に荷物がひとつ増えていた。それは女子職員という荷物だった。酒が回って力の抜けたその身体はけっこう重かった。最後におかま君が握手を求めたとき、紙切れが彼女の手に渡された。それはおかま君の電話番号だった。それは求めもしないのに現れた唯一の人間だった。

 【旧マスターの新しい小説
   第六章——スーツ男のデータベース】

 ある夜、ボクは男友だちの家に行った。彼はスーツ姿だった。彼の服は、はっきりいってスーツしかないんだ。毎日毎月、年がら年中スーツ姿。その他にはTシャツが二枚に一通りの下着。あとは寝るときに着るペイズリー柄のパジャマ。会社からごく普通のアパートに帰る。そして、寝るまでスーツを脱がないんだ。
 ボクがそいつの部屋をたずねたとき、そいつはスーツを着たまま部屋の真ん中に置いたちゃぶ台の前に座ってた。
 これって古そうだね——ボクはそいつにいった。彼のことをボクは「フルちゃん」って呼んだ。古そうだっていうのは、ちゃぶ台の上に置いた、小さなコンピューターのことなんだ。画面なんか小さくてコンピュータって感じがしなかったな。キーボードがあるからわかるようなもの。それはもともとまろやかな白い色をしていたらしいけれど、タバコのヤニや、見えないホコリのせいで黄色がかっていて、それがいかにも古そうだった。フルちゃんは機嫌よくいう、
「いつまでも使えるっていいことと思わないか」
 新しいの買えばいいんじゃない? なんてボクの言葉には耳を貸さない。フルちゃんは、こいつ何も知らねえな、という意味を込めた笑顔を見せる。ボクはそのコンピュータを前から見ることはあまりなかった。部屋に入ってボクがフルちゃんと向かい合わせにちゃぶ台に座ると、自然と目に入るものは、コネクタや、それに繋がったケーブルが見えるコンピュータの裏側と、画面の明かりが反射しているフルちゃんの顔だけだ。ボクはコンピュータというものに別段興味はないし、これからも好きになることなんてないと思うよ。寒い日にはファンが回っているのか、そのコンピュータの裏側から吹いてくる暖かい風が顔にあたって気持ちいいんだね。こいつは暖房機なのかな、と思ったりするよ。実際それはコンピュータに見えなかったな。それにそいつは白黒画面だったんだよ。普通、コンピュータってカラーじゃないのかな?
 白黒のコンピューターって珍しいんじゃないの?——ボクはは身を起こし、フルちゃんに対するお愛想のつもりで画面の中を覗き込んだ。画面の中には絵が映っていた。影のような絵だった。けれどそれが誰かの顔であることはわかった。フルちゃんがいった、
「こいつは点でできてるんだ」
 ボクはフルちゃんのいっていることがよくのみこめなかった。点でできているって?——その意味を直ぐに把握できなかった。ただ、画面の中のネガを反転させたような絵にいやな感じはしなかったな。逆に懐かしさや、親しさを感じたよ。何よりも、そのなかにはみじんのいやらしさもなかった。ボクは少し目を細めた。目が悪いんだ。それは確かに点でできた絵だった——これってフルちゃんが描いたのかい?
「違うよ。こいつ本当は色が着いているんだけれど、白黒の画面の中では色の階調が点で現されるんだ」
 確かにその絵は無数の黒い点が集まってできている。そして、暗いところは点で塗りつぶされ、明るさを増すに従い、それはまばらになっている。その点の数によって、波のように流れる髪の毛までが表現されていた。それでもどうしてフルちゃんはこんな絵を見てるのかボクは不思議になった。彼はカラー画面の、もっといい機械を持っているのに——そして、それは机の上で鎮座しているというのに。
「何故かな。そういえば俺ってモノクロフィルムが好きだな」——色盲じゃないよ、そうフルちゃんはいい添えた。
 フルちゃんは次々と画面を変えていった。色々な画像——それは全て女性の顔であった——が現れるが、どの画像も、ある決まったフォームの中に埋められていて、何かのデータかな、と考えた。でも全部女の顔だ。何なんだろう?
「見てのとおり女のデータさ」フルちゃんはそういいながら画面を指さした。映っている文字を読めというのだ。ぼくは目を凝らして小さな字を読みとろうと努力した。それでもフルちゃん越しではなかなか読みとれず、目が悪いんだなあ、とこぼすフルちゃんを後目に、画面に顔を近づけた。画面をさしている、フルちゃんの爪をきれいに切った指のとなりには、点で描かれた女性の顔が映っている。どれどれ——。
 Card No1 源氏名・『ラン』、名前・『広沢かな子』、好きな色・『赤』、血液型・『A』、年齢・『二十一』、誕生日・『二月九日』、店・『夜長姫』、勤続・『四カ月』、電話番号・『224—3234』——そういった箇条書きの羅列のあとに、コメントがあった。『昼間は寝ている。両親と三人暮らし。高校卒業後、専門学校に行くが中退。遅刻が多く、単位不足で卒業を断念』
 ボクはわかったようなわからないような曖昧な顔を見せた。うーん、書いてあることはわかるけれど、いったいこれは何なの? ちがうよ、読めないんじゃない、つまり字がわかっても意味がわからないんだ。フルちゃんはボクの顔をちょっと見ると、キーを叩いた。すると、画面には白紙のフォームが出てきた。ボクは目が疲れたんで、その場をフルちゃんにゆずった。ああ、メガネを持ってきたらよかったな。
「さあ、新しい人を登録するよ」見ろよ、という意味も込めてフルちゃんがいった。フルちゃんは立ち上がり、部屋の隅に投げ捨てた鞄の中からカメラを取り出した。不思議なカメラだよ。だってそのカメラには細いコードがぶら下がっていたから。「こいつが点の正体さ」フルちゃんは黒いコードを四角く小さなコンピュータの裏側に差した。手慣れた操作とともに、幾枚もの小さな画像が画面上に重ねられた。なるほど、これが点の正体か——ボクはさっき見せてもらったのと同じ様な画像が出てきたことに、フルちゃんの言葉が理解できた。その画像を見ながらボクは点になったナエちゃんの顔を想像した。彼女の顔は白すぎるくらいなので点の数も少なくていいはずだ。「デジタルカメラさ」とフルちゃんは説明した。そのカメラは自分の持ち物ではなくて、彼の職場のものらしい。そのカメラから入力された画像が何枚ものフォームの中に埋め込まれ、一通り終わらせると、フルちゃんは上着のポケットから、黒い手帳と、数枚のカードをちゃぶ台の上に置いた。
 カードには女の名前が書いてあった。そして店の名前も。そしてフルちゃんのめくる黒い手帳には、その場にある筆記具で書いたのだろう、赤い色や、黒い色、青いボールペンでメモされていたり、なかには太い鉛筆で書かれた、一見では判読しにくい文字が連なっていた。手帳の間には店のテーブルに置いてあるナプキンなんかが挟まれていて、そこにも何かの走り書きが見えた。これは仕事のものじゃないことはわかったけれど、それが何であるかフルちゃんにたずねようという気は起こらなかった。フルちゃんは説明するより、やって見せる方なんだ。つまり見せびらかせ屋さんだ。フルちゃんは放っておいても自分から説明すると思ったからね。
「これは女の子のデータベースなんだ。ちゃーんと写真付きのね」でもその手帳は何なの? 「これは聞き込みの結果さ。といっても、ろこつに訊くわけじゃない。ごく普通の話しをメモしておくだけのこと——忘れないように店のトイレで書いたりするときもあるな。だいたい、女の子っておしゃべりなんだよ。こっちは少し糸をほつれさせればいいんだ」でもその写真は? 「店で撮るのさ。こいつは便利だよ。前は本物の写真を撮ってスキャンしていたけれど、なかなか面倒でね。それにすっげー値段が高いんだ」(フルちゃんはときどき若者のような口振りをする。「すっげー」とか、「むかつくぜ」なんて言葉を平気でいうんだよ)いくらするの、とボクは訊いた。「七万くらいかな。これは会社の経費で買ったんだ。他に使いそうな奴はいないし、いつも俺のカバンの中にある」
 フルちゃんのデータは、カードにして六十枚くらいたまっていた。カード一枚に対して一人の情報であるから、約六十人のデータがたまっていることになる。
「俺、興味があるんだよ。この女の子たちにね。水商売なんて不思議な仕事だと思わないか。どんな普通の子だって、すごくきれいに見える。だいたい、水商売の『水』っていうのが面白くないか。不堅実、不確実な商売——そういったものをいうらしいけれど、彼女たち自身がどことなく『水』っぽくないこともないし」
 ボクは頭の中で水をイメージする。ちゃぷちゃぷと音を立てながら跳ねる水が、次第に静けさの中で細波へと変わって、最後には触れてはいけないほどに繊細で独立した存在感を殻に閉じこもることなく見せつけてくれた。
 この中にナエちゃんのデータはあるの?——ボクはそう口に出そうだったけれど止した。だって、何だか——悪いことをしてるような気がしたから。
 でもあの写真の点が点じゃなくて玉だったらとしたらどうしよう——それが黒でなくたっていいんだ。とにかくあれが玉だったら——。

 【第六章——終わり】

 旧マスターの新しい小説は遺書になるべくして書かれたのかもしれない。遺書とは時間を放棄したあとのために書き残されたものであると同時に、後世に残す書物でもある。これはわたしが地球にいて得た知識のひとつである。旧マスターがしていたことはわりかしまともだったかもしれない。引き続き——

 【旧マスターの新しい小説
   第七章——他人のボクが
         勝手に動く——】

 ボクはまた恋をした。一体なんてこと! だって、もう三十二になるってのに! 髪の毛をいくらとがらしたって、ボクの心は全くシャープじゃない。髪の毛は寝起きのまま。なんど手でなでつけても立ってしまう、まるで朝立ちの如き元気のよさ。でも本当にボクの心は晴れちゃいない。何だか、重い、ビロードのカーテンが身体をおおっている。けれど、間違いないことに、ボクは恋をしてしまったのだ。ああ、小学校の頃の経験なんて、ちっとも役にたちはしない。これも全て、欲を知ってしまったせいだ。汚いギターがうぶな心をかき回して、中年男が恋を知る。彼女の黒い髪の毛は、光の中で茶色にも見え、ボクの髪の毛は明るい洗面所の光で真っ白だ。それも光るように輝く銀色。でもすっかり忘れていた。——ボクは目が悪いんだ。ほら、よく見てみなよ、なんてまだらな白髪模様。ボクは乞食で浮浪者だ。明るい光の中じゃ決して歩けない。誰もボクを見ていないようで必ず見ている。ハンバーガーをかじりながら、寒い空の下であろうともコーラをすする。けれど忘れちゃいけないさ、病院でもらったばかりの抗生物質。薬屋じゃなかなか買えないけれど、仮病を使えばすぐにもらえるさ。でもたまには本当に病気になったりする。ほら、急に雪が降ったり、テレビで「今朝はいちばんの冷え込みとなりました」なんていうアナウンスがしゃべりまくる頃に、「ああ、風邪をひいたな」なんて思うこと、——そんな日にボクは背中の震えを覚える。普通なら風邪のひきはじめと思って薬なんか飲むのだけれど、ボクは絶対飲まない。そのまま風邪を悪化させるんだ。辛いと思うかい?——いや、決して辛くなんてないよ。だって簡単じゃないか。ボクはベットの中で寝ているだけでいいんだ。青い毛布を被りながらね。それに自分で悪くなろうと思っているから、平気で本なんか何十冊と読んじゃうし、(その時にあの作家を知ったんだけれど)でも病気で寝てるなんて最高さ——くしゃみをする犬、ペダルを踏むボロッカスは酔っぱらったように常に回転をし続ける。額だけ熱くて冷え切った身体。何枚毛布をかむっても、分厚いスェットを着たとしても、冷え冷えとして、いうことをきかない身体は、自分のものとは思えなくて、夏ミカンみたいにみずみずしい。これはリンゴじゃあ決してないよ。蛇は冷血動物らしいけれど、とっても長いニシキヘビを顔中に巻き付け、ラジエータとなって額の熱を取り去る。でもここが肝心、ボクは絶対によくなろうとは思わないけれど、悪くなろうとも思わない。とにかく薬が欲しいんだよ。けれど、いやだと思うことがある。それは、その日の医者によって出される抗生物質にものすごいばらつきがあることなんだ。ある薬は、体中の肉を筋肉痛にさせた。——ちくしょう、ボクの大好きなお医者さんの目は節穴なのか——そんな後悔をさせるほど、あの薬は強力だった。もしもボクがもう少し年寄りだったらベットのシーツを洗濯しないまま息絶えていたかも知れない。
 でも今のボクには薬が必要だ。それが自殺用であれ、とにかくボクには薬が必要だったんだ。例え、危ない薬みたいに頭がぶるったり、心が青と黄色で彩られなくたって、少しだけ身体を震わせてくれる——ただそれだけでいいんだ。とにかく——とにかくさ、ボクの脳ミソを埋め尽くしているあの子を忘れない程度に身体を震わせたいんだ。今のボクに彼女を忘れることなんてできやしない。
 ああ、なんて彼女は可愛い子なんだ。
 ——彼女の髪の毛は茶色がかって見えるけれど、決して染めちゃいない。
 ——パーマのとれかかった髪の毛は素敵である。
 ——彼女は時折、鼻の頭を指で擦る。でも蓄のう症じゃない。
 ——彼女は黒い服を持っているし、赤い服だって着る。
 いくつかの事柄を頭の中で箇条書きにする。寒いときに服を着込むのを止めて、ボクは毛糸のセーター一枚になる。ちくしょう、編み目から入り込む風は冷たいし、脂を脱しきっていない羊の毛のおかげで、白い肌は可哀想なくらい赤くなってる。こいつはまいった! 自分の顔まで真っ赤じゃないか。鏡を見なきゃわからない顔なんて、情けなくて涙が出る。好きで好きで好きで好きでしょうがなくて、口を尖らした顔を埋める布団は泥だらけだ。おまけに羽まで飛び出して、畳の上は羽が生え変わる頃のガチョウが歩き回ったみたいに羽だらけ。その中に抜け落ちた髪の毛が混じりこんで、部屋に住んでいるのは毛の生えた野鳥人間だ。
 恋をしたのは三度目かも知れない。この数を少ないと思うかい。ボクは絶対思わないね。一目惚れだなんて子供っぽいことを信じてるな、なんていうやつもいるけれど、一目見たときにピンとくるなんてボクは信用できないね。話さなきゃ絶対わからない。ボクはそう思う。絶対そうさ。でもときどき突っ込まれる。どうして話そうとなんてするのか、なんてね。どうして? って好きだからに決まっているじゃないか。話すことは大事なことさ。小さい子犬にだって恋をする若い娘にとって、匂いは恋の大事なファクターなんだよ。わかっちゃいないんだな。

 彼女の喪服姿を知っているかい。だいたい、喪服なんて普通は着ないよね。あの炭みたいに黒い服。誰もあのダイナミックさなんてわからないよね。夜みたいに真っ黒で、ちょっとは学生服に似ているいやらしさ。でも本当は悲しくて、それを着ている人がきれいなら、なんてむごい悲哀。そんな風に哀れみまで感じちゃうけれど、喪服を着た彼女の姿はとてつもなくきれいだった。死んだ奴——そいつ、いやそんなことを言っちゃ死んじまった人が浮かばれないな——亡くなられたおじさん、そのおじさんがすごくうらやましかった。ボクは喉元まででかかったよ。

「ボクが死んだらその喪服でお葬式に来てくれるかい」

 ちょうどボクは仕事をしていた。原稿用紙よりも薄っぺらな紙に向かって、「拝啓、御社におかれましては・・・」なんて、シャープペンシルの芯をなめて、消しゴム片手に書いていた。もう胸の中は真っ黒で、消しゴムをかけすぎるせいで、指先は火傷したみたい。そんな指先をたまに作業服の袖で擦りながら、頭を悩ませてた。そんなときに彼女がやってきた。ボクは最初、彼女の着ている服が新しいユニフォームのように見えた。喪服というのも色々あるんだぜ、スタイルがさ。上と下が別れていたり、全部つながったワンピースとか。でもミニスカートは見たこと無い。いずれ出るかも知れないな、だって黒いストッキングをはいていりゃわからないだろ、特に足の短い人はね。やけに腰の低い女——お尻がボクの膝くらいにある女のことさ。
「これ、きのうのお金」
 彼女はそんなことをいった。ボクがお金を貸していたわけじゃない。夕べの飲み代を渡しに来ただけのことだった。割り勘がいちばんさ、男女平等を目指すならね。でもそれはあくまで、義務の話しだけで、賃金体系に「うん」なんて頷く女はどこにもいないだろうな。彼女の手から放たれた二枚の千円札が机に向かっているボクの目の前に置かれた。大丈夫だよなんて、差し障りのない言葉を口にしながら、半分「仕事をじゃますんじゃねぇ」と思いながら、ボクは頭を上げたんだ。
 ああ、何てことだろう、彼女は妙な姿だった。前にいっちゃたけれど、彼女は喪服だったんだ。最初はやけに長いスカートだと思った。それに普通は真っ白のブラウスが、女の子の制服になっていたから、彼女の喪服の黒は見間違いをしたとは思えないくらいに、ボクの目の健康さを疑わせた。信じちゃくれないだろうけれど、ボクは彼女の身体が見えなくて顔だけが空に浮かんでいるように見えた。喪服を着た部分の彼女の身体は、野暮ったい作業服だけを残して、蛍光灯をつけた明るい職場の中に溶け込んでいた。いや、彼女の喪服が周りに溶け込んだというよりは、ボクの目が黒い、それは深い黒色の中に吸い込まれてしまって、周りの景色がきれいさっぱりと消えてしまったせいかも知れない。目を奪われるってのはこのことだ——後からボクは本当にそう思ったね。三十年間使った目にもついに寿命が来たか、身体のほうはまだ五年くらい保ちそうなのに——そう思いながら、いつかボクの身体は恋をする重みに耐えられなくなるんじゃないか?——なんて不安になった。けれど実際の話し、ボクは彼女が喪服姿で会社に来るであろうことを知っていた。彼女の小さな口はいっていたんだ、
「明日は上司のお葬式に顔をださなきゃならないの」
 夕べ彼女はそういって、明日の荷物の多さ——つまり、喪服なり普段着、おまけに会社帰りのお稽古事の道具までバッグに詰めて持ってこなくてはならないこと——を氷が一杯のワインクーラーを片手にしゃべっていた。そんなことを思い出したけれど、それは彼女の喪服姿を見たしばらく後のことだった。
 ボクは彼女が姿を消してしまってから仕事に戻る。そのときにまた思ったんだ、

「絶対その喪服で来ておくれ」ってね。

 死ぬことに憧れるって、そんなものかな。でもおかしいよね、恋をしたってのに、死んでしまったらとか、葬式のことまで考えてる。遠い昔のお嬢さんと丁稚みたいに、純粋な恋ってのは命がけなのかも知れないな。でもボクならそんなことは思わない。だけど『ボク』だから思うんじゃないかな。

 【第七章——終わり】

 家出少年は友人の部屋でダンスの練習をした。最初は大家の家の裏庭で試みたが、地面が足に食い込んでステップが踏めなかった。家出少年の足は堅い地面をめざしてさまよった——そのあげく——そこには友人の手引きもあったが——その足は友人の住む離れの部屋にへと入っていった。
 家出少年のステップは激しくなった。徐々に——激しく踏みならされる結果、足音が音楽になった。そのステップを受け入れる床のタイルは割れようとしていた。つらい出来事も吹き飛びそうに!——これはおかしいことだった——家出少年に『つらい』出来事などあったろうか!
 家出少年の身体に時間は存在しなかった。家出少年の意識は宇宙のなかのブラックホールのなかにあった。

 もうすぐわたしの星は飲み込まれてしまうかもしれない。巨大な宇宙の穴に——その質量は膨大だった。地球のまわりを回る一台のロシア製自動車があった。その名前はラダといった。乗っているのは火星宗教の開祖モーガンだった。モーガンはマーレー・フラスコとうその火星人を作り出していた。

 家出少年の中に不要なものは存在しなかった。すべてが必要なもの——すべてがいかなる情報にも左右されない自然の欲求だった。時間に支配されるはずのない欲求だった。だがその欲求は新たに別な欲求を産み出すことになる——それは友人から放たれた。
 家出少年のステップを止めたのは友人の自然発生的欲求だった。すべての時間——二人の間において——時間は止まった。
 家出少年のマネージャーの手帳に書かれたスケジュールはその四日後に帰国となることが記されていた。マネージャーの手帳のページは一時間毎に線が引かれていた。
 屈託のない笑顔は友人の顔から生まれていた。ベッドの中で横たわる友人の身体から精神波が発射されつつあった。友人のとなりでは『お腹が空いた』と寝言を唱える家出少年がいた。
 時を越えることなく追い続ける精神波は海を越えた。

「ねえマスター、手紙が来たよ」
 彼女はうれしそうに手紙を見せた。しわのできた封筒に入っていたものは友人からの手紙だった。
「へえ、なんだか久しぶりだね」
「ほんとに久しぶり」彼女は旧マスターに手紙を渡した。カウンター越しに渡された手紙を結ぶ旧マスターと彼女の手はもう少しで、あとほんの少しで融合していたかもしれない。なぜわたしがそんな勘ぐりをしてしまったか——その理由は彼女の顔色である。その顔色は薄いピンク色だった。それはすてきな色だった。
「このダンサーって子知ってる?」と旧マスターがいった。
「——なんだか同じ劇団だったみたいね」と彼女がいった。その口調は話しの雰囲気——そのときはわりと楽しい雰囲気だった——を崩さないようなものだった。だが、旧マスターは彼女の口から発される言葉の出だしがためらいがちだったことを見逃さなかった。そのとたん、旧マスターの心には戸惑いが現れた。
 旧マスターは何を発見したか——口にするのもおぞましい——あのやせっぽちの脚本家である。大バカ者の脚本家だった。脚本家の将来は、あくまで脚本家である。脚本家はアメリカからの来訪する教団招へいに対する脚本を書くことになる。そのときの彼は五十四歳になっているだろう。その年令はまっとうな人でも時間を放棄してしまう年令だった。ほんとうにそうなのだ。
 彼女はすぐに立ち直った。二人の話しは、『なぜ友人がアメリカからアルゼンチンへ渡ったか?』ということだった。二人の意見は表面上、友人が求めている何かがそこにあったのだろう、ということでおさまった。
 二人は友人の友だちが尻から血を流しながら川に浮かんでいたことを知らない。だが知らなくても関係ないことだった。なぜって?——知らなくてもいいことがあるからだ。
 わたしは知識に対する欲求で凝り固まっていた自分を少々見直すべきなのかもしれない。わたしは地球人のように——すべての地球人にいえることではないが、ある程度知識欲をなくし本能から派生する欲求で生きるべきなのか——。そう考えなくても今のわたしはたぶんそのように生きている。
 だが問題は——知識はわたしの栄養だったのだ。
 旧マスターがいった、「とにかく無事なんだからよかったよ。——でももっと手紙をくれるとうれしいよね」

 【旧マスターの新しい小説
   第八章——遺書を書く——】

 遺書を書いてみようと思った。彼女の喪服がきっかけかな。酒のせいじゃないことは確かだ。でもまともな頭で考えたんだとしても何か変だ。とにかく遺書を書こうかと考えた。けれど、いざそう思ってみても、なかなか言葉が思いつかない。「保険金の全ては——」そう思っても、すでに行き先は決まっている。しかもそれが母親じゃ格好がつかないよね。やっぱり、最愛の人とかでなけりゃイメージが悪い。「ボクの全ての財産は——」と書こうとしたって、財産——そいつはいったいなんだろう、って考えこんでしまう。お金とか、なにか金銭的なものとか、そういったやつについて書けないとなれば、昔のよき思い出に感謝することを書いてやろうと頭をめぐらせるけれど、いくらかき回しても出てきゃしない。ひとつふたつ——それはボクの小学生の頃かな——といったら、どうしても大池さんのことを思い出してしまう。初めてデートをした中学生の頃の思い出さえ、大池さんのショックの前に立てば喪服に着いた小さなホコリ。カーディガンに包まれた華しゃな両肩のカーブを撫でたいくらいのじれったさ。手に持っている筆ペンは、ボクが頭を抱えている間、原稿用紙の一点をにじませ、机の天板を汚す。遺書に書くことのできる、何かいいことがあるかしら?——友だちの妹が初めて家に遊びに来た日のこと、初めて夢精をした日のこと、初めてギターを手にしたときのこと——思い浮かぶどれもが、顔が赤くなるくらいに恥ずかしく、大事だと思っていたけれども、実はくだらないことなんだと思い返し、あまりにつまらないので悲しくなったりする。何でボクはエロ本なんか見たんだろう。
 ボクって遺書ひとつ書くことができないんだな。そうやって、筆ペンを机の上に置いたとき、さて、遺書というのは原稿用紙に書くべきものなのかな、と考えた。うろ覚えであるけれど、たしか自筆なら有効なはずであった。けれど、遺書にはやっぱり真っ白な半紙なんかがあうんじゃないかと思った。なんだか侍みたいだろう、白装束に真紅の血、——真紅の血? あ、そうか、黒じゃなくて、朱墨か赤インクを使って書いてみようか——。実をいうと、ボクは本当の遺書などを見たことがない。じゃあ、何で遺書なんてものが存在することを知ってるのかな。テレビで見たのか、それとも新聞を読んだせいか。存在ってのはまったくうすっぺらだね。ボクは知ったことは人並みくらいにあるかも知れないけれど、普段の生活習慣すら全く何も知っちゃいない。
 遅くなったけれど、ボクが何故、遺書を書こうなんて思い立ったかというと、それは夕べ、今までに感じたことのない頭痛を経験したせいなんだ。——ボクは横向きに寝てた。寝はじめた頃は、枕が薬屋で売ってる氷枕みたいにひんやりして、こめかみの冷えるのがとても気持ちよかった。これは快適な睡眠が期待できるな、——ボクは本当にそう思って、一回だけリバースをかけたカセットを聴きながら眠りにつこうとした。歌は『眠れない夜』、ボクはこの歌が好きだ。ひとりぼっちの歌かも知れないけれど、基本的に田舎もののための歌だ。そう認めることができたのはつい二年前のことだった。この歌を最後まで聴こう、目を閉じながらそう思っていたら、逆に目が冴えてきた。よく考えたら、眠れないことも当然で、実際ボクは眠くはなかったし、ただ、明日の朝早く起きようといつもより一時間早く布団に入っていたんだから。明日のために、なんて思ったら、遠足や運動会の前の日の子供みたいに、逆に眠れないものだよ。
 頭痛を感じたときは、その歌が終わって、あまり好きでもない曲がかかったときかも知れない。いつか編集してやろうと思っていたテープだから好きでもない歌まで入っているんだ。最初の痛み、——それはキーンと、ズーンが一緒になってこめかみの裏側からじわじわとわき上がってきた。それは脱脂綿に濃度の高い水がじわじわと染み込んでいくような感じだったけれど、次第にスコップで穴を掘る、歯医者が歯を掘るのに使う、ドリルみたいな電動器具の振動へと変わっていった。それに加えて、よく聞く話しかも知れないけれど、最後には万力で締め付けられるって感じ。でもそれだけじゃない、その上に、ねじ回しでビスをねじ込まれるような痛さっていうのかな、そんなものが交代しながらも、ある瞬間は一緒になって襲ってきた。ボクはすぐに終わるだろう、そう思って我慢した。けれども終わらない。ボクの足——ふくらはぎあたりに力が入った。身体全体が堅くなった。頭の痛みを忘れるために、他のことに神経を集中させた。
 ボクは正直怖くなった。目を閉じ続けた。食いしばった歯の隙間から、ゆっくりと呼吸をした。なかなか頭の痛みは治まらず、情けない話し、足までつってきた。足の小指と薬指は変な格好をしていたにちがいない。頭を抱えてみようと思ったけれど、胸元で組まれた腕は少しも緩ませることができなかった。布団の中でボクは一本の棒になった。掛け布団がみののみの虫になった(ボクは蓑虫が動くところをみたことがなかった。彼らは、ただじっとしているだけじゃないか?)。これで限界だ——いよいよボクは自分の頭が壊れる瞬間を待った。頭の中の痛みは、ある一点に集中した。こめかみのずっと奥、そこが脳なんだ——ボクはそれが壊れるのを待った。もうダメなんだ——頭が壊れた後はどうなるのか——
 そう思ったとき、痛みは消えたよ。
 しばらくの間、痛みの余韻は消えなかった。
 ボクが閉じていた潤んでいる目を開いたとき、聞こえてきたのは、あまり好きでもない曲だった。その曲はリフレインを三回繰り返すと終わった。次にかかったのは電子音を多用した軽めの曲で、そのくだらなさに鼻で笑っちゃって(恥ずかしいけれど本当に口に出して笑ったんだ)、そのおかげが、体の堅さが緩んだ。けれど、気を許せばまた足はつりそうだったし、頭を触ってみるのもなんだか怖かった。頭に手が触れた途端、頭の中の何かがピンと切れそうな気がしたんだ。情けないけれど本当の話し。痛みはなくなってしまったけれど、何かをすることに臆病になってしまったのだろう。それでも好奇心というか、幼稚心が働いたのか、過ぎ去った痛みのことを思い出そうとしたよ。痛みは三十分も続いたのかと思ったのだけれど、実際は短かった。だってまだあのいやな曲が終わっていなかったんだからね。
 これがボクが遺書を書こうと思ったきっかけってわけ。
 でも、とにかく遺書ってのは難しいよ。ボクの筆は止まったまま。上等な半紙もきれいな白い色を発光させて、さっきからボクを照らしっぱなしだ。まるで蛍光灯みたいで、ボクの部屋に電気は要らないよ。これこそ文化だよね。変に思うかも知れないけれど。それがボクにとってこのせまい部屋の中に咲く文化。一輪のバラとはいわず、白か黄色い菊だね。

 それでも彼女は書きあげることのできない遺書を抱えたボクの葬式に、あの喪服で来てくれるのだろうか。

 【第八章——終わり】

 おかま君は彼女からの電話を待っていた。だがそれには長い時間が必要だった。おかま君は携帯電話を持っていた。だが彼女は持っていなかった。それだけのことだろうか?——ここはいわざるおえまい——彼女は電話をする気がなかったのだ。
 おかま君は火曜日を除いて店に出た。おかま君の火曜日は休みの日である。休日であろうと時間は過ぎていった。買った弁当の正味期限も終わりが近づいていく。おしまいは腐ったカボチャが残った。くどいようですがすべては時間でった——いや『だった』——呂律さえまわらない。
 おかま君は掃除が好きだったので、休みの日は特に念入りに掃除をした。いちばんきらいなものは——日差しの中で舞う綿ぼこりだった。ベッドからピンク色のシーツを取り去って洗濯機に入れる——そして枕カバー——それが洗濯機の限界だった。
 おかま君はいつも携帯電話を赤い小さな棚の上に置いている。その場所はぬいぐるみの場所でもあった。ぬいぐるみはテディベアとウサギだった。そのふたつの本物は森の人気者だった。本物はいつも木の実を食べていた。燃費のいい身体——すべては生きるために。テディベアはときどき人を食べたがそうしたテディベアはたいてい撃たれて時間を止めた。残された身体は、それを生業とする者によって解体され、人間の身体を通り過ぎて大きな○ンコになって下水へと流された。ウサギちゃんは人間を食べないのに食べられた。その果てもまた下水の中である。ある人間はこれを弱肉強食といったり、ペシチオ・プリンシピーのせいだともいった。
 仮に弱肉強食とするなら——この星でいちばん強い生き物はクジラだと思う。
 寝ているときのおかま君はクジラのように寝返りを打つ。クジラが海の中を漂うように寝返りを打った。ときどきおかま君はそれをはしたない行為であると思ったが、となりに人が寝ていない以上、誰に迷惑をかける行為でもなかった。
 おかま君の朝食は彼女や旧マスター、そして友人たちよりすばらしいものだった。新鮮ではじけるような卵を崩さずに作った目玉焼き、程よい焦げ目がついたわたしにはわからない魚——これは先日の晩に買った魚屋の売れ残りだった——そして半切れのトーストに茶碗に半分のごはん、最後はタマネギの浮かんだスープだった。旧マスターたちの誰もが朝にそういった食事をしたことがなかった。
 おかま君は部屋で時間をかけた朝食を一人食べることに疲れはてていた。旧マスターや彼女たちはそうした疲れを知らない——まともな朝食を用意したことがなかったからだ。創造しないことも逃げ道である。
 創造されたものを食い尽くすのは家出少年の食欲だった。家出少年は一人でも五人分食べた。朝から食べた。食べているときには時間さえも忘れた。食べ終わると知らぬ間に時間が過ぎていた。時間は空白だったのだ。
 旧マスターは人のために軽い食事を作った。旧マスターはディンギをもらわなければ食事を提供しなかった。旧マスターがやりたかったことは、彼女にただで食事を提供することだったが、それができなかった。なぜできなかったのか——それに対する確実な理由はわからない。が、その底辺となるべき言葉をわたしは旧マスターから聞いたことがある。それは旧マスターの独り言だった。
「ほんとに好きな人には声もかけれないんだよな——」
 旧マスターはこの言葉を店がひけた店内でつぶやいた。その店には旧マスターの他にトンだけがいた。トンは旧マスターの言葉になんの反応も示さなかった。トンは寝ていたのだ。トントントン——叩いてもトンは起きない。トンは老衰の入り口にさしかかっていた。老衰は時間が容赦なく与える最後の『時間』だった。その時間が通り過ぎたとき、それが——最後。

「もう一度あの店に行ってみようよ」——そういったのは、やはり女子職員だった。あなたは最低だった。あなたはとても重かった。わたしと変わらなそうなその身体のどこが重いのか。あれだけ無茶に酒を飲む人がいるものか。どれだけの酒を飲んだと思っているのか。帰り道で何度背中をさすってやったか。肩を抱いてやるたびに腰くだけになり、最後のタクシーでは後部ドアをけ飛ばした。——彼女はそういったことを柔らかく女子職員にいった。女子職員はしょげた顔をしたが、すぐに笑顔になった。薄い肌着のような服を着た女子職員の反省は一瞬のうちに終わった。まばたきする間にである。
 彼女はあの店は楽しかった思う、だがもう一度行ってみようとは思わなかった。第一に——カビ臭かったのだ。
 ところが彼女は——あの店のおかま君とつながりを持ってしまうことになる。きっかけはおぞましいものだった。
 それはさておき——
 彼女は『ショービジネス』を頼んだ。
 旧マスターはまた彼女に食事を提供してあげることができなかった。ディンギ抜きで。旧マスターの頭は化石だった。炭のほうがよっぽどましだ。
 とりあえず旧マスターは自分のことを茶化して一日を終える。それはいつものことだった。そしてまた歌を聴くのだ♪

【続く】



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