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仮題:バイバイ・ディアナ 10 [仮題:バイバイ・ディアナ]

【10回目】

♪ 6・見つけるためにいろいろ考える

 ♭ 1 記憶

 十二月二十三日は快晴だった。コートをはおったゼンジはいつもどおりに守衛に声をかけた。
「おはよう」
「あれえ、ゼンジさん、今日は早いね」
「たまには仕事もするのさ」
 首相官邸の玄関を通り抜けた。まだ清掃人が廊下のモップ掛けをしていた。ゼンジが清掃人が掃除したところをなるべく避けるように歩いた結果、カニのような格好で壁づたいに歩くはめになった。清掃人は、「いいよ、気にしなくて——またモップをかければいいんだから」とゼンジのカニ歩き姿に笑いながらいった。
「オレは気が弱くてね」
「それでもこんな時間に来るなんてね。わたしゃなんだか時間を間違えた気がするよ」
「ちがう、オレが間違えたんだ」
 化石になりかけた恐竜は、調査結果がすでに届いているであろうことを期待しながら息を吹き返しつつあった。トマトになりつつあった。
 彼はタイムレコーダのある二階に上がる階段の手前で止まり、壁に取り付けられたラックから自分のカードを取り出すと、レコーダーの中に差し込んだ。タイムカードは見事なもので、ほとんどの記録が、・来社九時・帰社十八時・となっていて、十二月二十三日——つまり今朝だけが・来社七時五分・となった。彼は階段を上がらずに左側の廊下に入った。入るとすぐにコーヒーの自動販売機があった。彼はポケットの中からひとつかみのディンギを取り出すと一ドルコインを探し、カプチーノを買った。
 二階の部屋に入った。人の気配はなかった。
カーテンを開け放すと外は明るかったが、まだ陽が入るには早すぎた。このくらいがちょうど良いとゼンジは思った。暖房の利きすぎる部屋は、陽が入る正午以降になるとサウナのようになった。この時間が仕事をするにはもっとも快適な時間だろう——彼は自分がまだ会社で働くことに疑問を持たず、生き甲斐さえも見いだした錯覚を覚えていた頃を思い出した。あの頃の彼は確かに働くことに生き甲斐を感じていたのかもしれない。彼は早朝——誰もいない時間に会社へ来て仕事をはじめ、夜は十二時近くまで仕事をしたものだった。
 彼が仕事をきらいになった理由はない。たぶん彼は仕事をきらいではない。あるとするならば会社が大きくなりすぎたことだった。入社した当初は株式にも上場していない会社であったが、二部、そして一部へと上場した。そのことにどういった不満があったろうか——。
 理由はどうあれ、辞めたことに後悔はなかった。
 ゼンジは端末の電源を入れた。モニターのビームに電気が充填される音がした。モニターが温まる——彼はそれに要する時間をさっき買ったカプチーノをすすりながらつぶした。
 ゼンジは今でこそコーヒーを飲んでいるが、最初から飲めたわけではなかった。彼の母親は幼いゼンジにコーヒーを飲ませようとはしなかった。それは身長が伸びなくなるという理由からだった。ゼンジは背が高いわけではなかったが、母親がそれをいちばん気にしていたのかもしれない。自分のことを気の毒に思うのが母親であることほどつらいことはない。
 カプチーノの残っている紙コップを手近のデスクに置くと、タバコに火を点け窓を少し開けた。首相官邸内はどこも禁煙だった。だが、防諜部だけはゼンジの意志により喫煙ができた。ただし、彼しかいないときだけだったが。
 端末の前に座ると、彼は柄にもなくネクタイを直した。それはモニターに彼の顔が写ったせいもあった。鼻の下のヒゲ、顔はしわくちゃで髪の毛はハリネズミのようだった。その中に彼が直せるものはなかった。正確には直せても直す気はなかった。直してどうなるというのだ。そう思った彼が直したのがネクタイだった。

 キーをタイプして、自分宛の情報を探した。省間で使われている専用情報回線なためにメール爆弾の可能性は少ないはずだった。
 情報は四十二件あった。彼は発信先を確かめた。ほとんどが他の省からのカーボンコピーだったが、外部からのネタ情報も混ざっていた。情報の価値によって報酬、つまりディンギをいただくことを願っている輩からのものだった。ただ、そういった情報からは、どうねつ造しようとしても価値を見いだすことはできなかった。時間の無駄だった。ゼンジはカスみたいな情報の中からひとつ、光りそうなものを見つけた。
〈受信番号82341・母性省地下運営センター〉
 地下運営センターから来ていた情報はこれしかなかった。彼はキーを叩き、その内容をモニターに表示するように指示した。防諜部代理となってこれほど期待の高まる情報はなかった。
〈緊急度B・以下受信内容——この四十八時間の間に範囲外を出た母胎はひとり。名・ニイダ・カンコ。旧ID・DZK9601イッパン。報告・ニイダ・カンコは十二月十三日午後四時三十分ころ、徘徊許可区域を出てホームに立ち寄り電車に乗った。その際に交際した男子または女子は無し〉
 ゼンジは思った。やはり『母親』は抜け出していた——彼はこの調査結果によろこんだ。そしていささか拍子抜けもした。それはなぜだろうか?——近頃うまくいったことがなかったせいだろう、と彼は思った。
 ゼンジにできることはカンイチからの連絡を待つことだった。それからこの名前を確認し、必要なら母性省に連絡してこのIDの再照合をしてもらえばよかった。
 ゼンジはしばらくの間、くわえたタバコの灰がのびていくのもそのままに、モニターに写っている情報をながめていた。
 ——彼らはニイダ・カンコのことを『母胎』と呼んでいる
 彼女はこの地上に誕生する『個』を産んでいるのか
 この徘徊許可区域というのはどのあたりの地域なんだろうか? ゼンジには想像できなかった。彼はこの職についてから、日々の業務をそれなりの緊張を持ってこなすだけで、秘密に対するアクセスを試みたことはなかったし、そうしようとも思わなかった。それはたとえ秘密であっても、この制度のもとで行われている限り、それは公然の秘密ともいえたからだ。ゼンジに限らず、人びとはうっすらとそうした秘密の存在を知っていて、それがどういうものかということもぼんやりながらわかっていた『つもり』だった。
 だが実際にこうした報告を見てみれば、『徘徊許可区域』とか『母胎』であるとか、知っていそうで実はもやに覆い隠されて現実を知らないことに気づかされた。
 情報の左下に署名があった。たぶん報告者、もしくは調査者のものであろうと思った。そのサインは、ディスプレイが格子状のビットで構成されている以上仕方のないギザギザにより見にくくなっていたので、ゼンジはその部分を拡大してみた。画面の半分ほどに映し出されたサインは、『アヤベ・クミ』とあった。
 アヤベ・クミ——聞き覚えのある名前だった。

 ウー・フォンがあらわれたのは十時を過ぎたころだった。彼はあくびをしながら部屋に入ってきた。手にはやかんを下げていた。彼はバツが悪そうな顔をしていたが、部長席に座っているゼンジにはもともと説教をする気はなかった。
「ごめんボス、遅れた」ウーがいった。
「構わないよ、昨日は遅かったんだろ——」ゼンジがいった。「——アダホの件もあったし」
「アダホは家で寝てるよ。今週家族が迎えに来る。それで朝から悪いけれど旅費の件なんだ——」ウーはいいずらそうだった。
「アダホの家族が迎えに来る旅費だろ。オーケー、心配するなよ。オレのサインでだいじょうぶだろ。なにせ緊急部長代理なんだから」——ゼンジがそういったが、ウーはまだ心配そうな顔をしていた。彼はまた心配そうにいった、
「けど——家族五人分なんだよ」
 ゼンジは机に上に置いていた足を床に戻すと額にしわをよせ、「んー五人分か。ちょっと痛いな。ウーの会社からは出せないのか?」
 ウーは降参する格好で、「会社はいうに決まってるよ、『旅費はみんな発注者側持ちです』ってさ。確かにそうなんだ」
「でも家族の分までなんて書いてないと思ったよ」それはあてずっぽうだった。ゼンジは契約書を読んだことはなかった。
「でもアメリカじゃどんなときでも家族第一さ」ウーがいった。
 ゼンジがいった、「ユニソフトと直接話してみるよ。ちょっと待ってくれないか——午後には回答が出せる」ウーが手を挙げて頷いた。「でもウー、家族を減らしてもらうかもしれないよ」
「オーケー、ボス、アダホの家族にいってみるよ」
 ウーは自分の机の上にやかんを置いて席に座ると、となりの空いている席をしばしながめた。その席はアダホの座っていた席だった。彼はすぐに仕事をするでもなしに、まず引き出しを開け、その中から缶入りの茶葉と湯飲み茶碗を取り出した。彼は茶葉を適当に湯飲み茶碗に放り込むと、持ってきたやかんのお湯を入れた。一分待ち、茶をすすった。そしてすすりながらアダホの机を見た。

「ボス、今日はイサオさん出張みたいね」とウーがいった。
「そうか?」とゼンジがいった。ウーは、端末を指さしながら、業務連絡がされている、といった。ゼンジは自分のモニターを見た。「見るの忘れてたよ、他になんかあるか?」
「まあ、うちの部に関するものはあんまりないあるね。でもイサオがいないと誰がハンコ——じゃないサインをくれるんですか?」とウーが答えた。
「次官だろ」とゼンジはいうと、逆に質問した。「ところで、アダホの後任なんだけど——誰か心当たりあるか?」
 ウーは首を振って、「ボス、わたしの決めることじゃないですね」
 ゼンジもあまり期待はしていなかった。「そうだろうな。でもウー、アダホの後任は必要かい? こういっちゃ悪いが、メール爆弾の研究はほぼ飽和状態にあると思うんだが」それは正直な感想だった。アダホもいかれてしまった。これ以上、成す術があるとは思えなかったのだ。
 ウーが立ち上がった。「ボス、すみません。ほんとうに飽和状態だ。今直ぐには要らないと思いますよ。ちょっと最初から考え直してみますよ」彼はそういうと、ちょこんと頭を下げた。
 ゼンジは気にするな、といった。そして「それよりも、その『ボス』ってのやめてくれないかな——」
 ウーは不思議な顔をした。
 ボスという言葉を聞きあきていたわけではなかった。ただ、いつまでもその言葉に慣れることができないことと、七年前に会ったナビを思い出すからだった。思い出して悪い男ではなかったが、彼の『ボス』はくどすぎた。ナビが『ボス』と口にするとき、それはディンギへと発展していった。彼は今後——自分が化石になるまでもう二度とヘリコプターに乗ることはあるまい、と思った。

「遅いな——」ゼンジがいった。
「何ですかボス?」
「いや、何でもない——独り言さ」
 ゼンジはカンイチからの連絡を待っていた。図書館からのアクセスするとした場合、朝の十時まで連絡が来なかったことはわかる。図書館は十時開館だからだ。役所なら九時。
「もう少し待つか——」
 ウーがいった、「何ですかボス?——あ、『ボス』はダメなんでしたね」
「これも独り言だ」
 『ボス』か——ゼンジはまたナビを思い出した。あの国はけっこう良い国だったな——ゼンジが以前に行ったことのある国を思い出したとき、一人の女性の姿がよみがえった。
 ——アヤベ・クミ?
 ゼンジは朝早くに見た報告をもう一度モニターに表示した。そしてその署名を見た。
 ——同じ人だろうか?

 ♭ 2 内緒の仕事

 ウーにはある指示があった。彼が作った特別の受信箱に入っていたメールによるものだった。その発信者は『DIANA』だった。
 その指示はこうである。
〈ハーイ、おっはようさん! 今日も元気かな。さて、きみの側にいる男——きみの部長だな。そいつが昨日店に来てた。とりあえず注意しときなさい!(ミゲェルがあんまり心配してるので)・マネージャー〉
 ウーは読み終わると、そのメールを削除した。

「副支配人!、もっとビラを派手にしたら!」支配人が指に挟んだビラを宙ではげしく震わせながらいった。「このモンローにもっと笑顔と躍動感を与えなさいよ!」
 副支配人は腕を組んで考え込んだ。「でも教団のモンローはこんな格好でしょう? いいじゃないですか、『真実ここにあり』ってね」
 支配人は膝を床につき、天井を仰ぎ見ていった、「バカバカバカ! そんなのはもう古い格好よ! そりゃ確かにこんな格好をしてるわよ、でもこれはもう見なれてあきあきした格好なの! 写実画やリアリズムじゃあるまいし、なんでも忠実に表現したら良いってもんじゃないの、ひとひねりが必要なの。わかる? 現実の姿を見て誰も想像を働かそうなんてしないわ。人が心を揺り動かされるのは一瞬の面白さと激しさなのよ——」支配人は両手に顔を埋め、床にひれ伏した。そしていった、「もっと頭をひねりなさい!」
 副支配人が支配人の背中に手をやり、「わかりましたよ支配人、立ってください——お願いですから」
「ええ、立つわよ」支配人は涙ぐんでいた。「わかってくれた?——」
「ええ、わかりました。でもボクにはどんな絵にしたらよいかわかりません」副支配人がすまなそうにいった。
「そう、じゃあ——」支配人はしばし考えた。そして閃き微笑んだ。「——そう、こうしましょう! モンローが火星の環でフラフープをしてるのよ! そう、それがいいわ。ちゃんと微笑みを忘れないでね」
「火星ですか、——でもなんでまた火星なんです」
「ん?——」支配人が子供のように笑った。彼はまさしく秘密を隠し持った子供だった。彼は「火星からのお客様なのよ——」といい、「おっといけない!」と自分で口をつぐんでケラケラ笑った。
 副支配人が不思議な顔をした。支配人はその顔にチッチッと舌打ちしながら人差し指を振ってみせた。そしていった、
「これは内緒! 内緒! 敵を欺くにはまず味方からなのよ!」

 ♭ 3 待ちぼうけ

 図書館でぺちゃくちゃしゃべる人はいない。図書館では子供さえ黙るはずだった。図書館ではかくれんぼをして遊ぶやつはいないし、まして酒を飲んだりするやつなんてもってのほかのはずだった。
 以前の図書館は、人が本を読み、勉強場所のない若者たちに快適な環境を提供する場所であった。そこには、世界文学全集が並び、美術大全がカビの匂いを発しながら、芸術家たる若者たちを待ちかまえていたものだ。古本屋でも手に入らない名著は、人の手を渡りながらまた本棚へと帰った。たぶん、一九九七年という時代にさえ、いつまでも処女地であり続ける最後の聖地であった。
 並んだ本棚はスプレーアートで飾られ、その角は自動車にぶつけられたように砕けていた。天井にぶら下げられたシャンデリアの傘はひび割れ、電球のフィラメントは溶けて固まったままだった。
 壁に飾られた絵はモディリアーニから死んだロックスターの肖像画に変わっていた。この世を知りつくしたという容貌の黄色い髪を腰までたらした男がいった、「アリスの不思議な冒険!——これは不思議な話だな、なあ相棒!」彼が足を上げている読書用テーブルは、握りつぶされたオリオンビールの空き缶と二十五セントの葉巻の吸いがらの山で埋められていた。相棒が読みふけっていたのは、彼が誕生する前に描かれたマンガだった。相棒はこういった——「なつかしいマンガだな!」これはメガ感性のわかりやすい一例である。
 カーペットにはタバコの吸いがらによる無数の焦げ穴がアリの巣のように広がっていた。ほとんどの椅子は使いものにならなくなっていたので、読書を楽しむ人びとはカーペットにそのまま座ったり、寝転がったりしてページをめくった。
 わたしはこの様子に似たものを見たことがある。それは内地と外地を結ぶ連絡船の地下一般席である。その経路はもうない。
 カンイチは十二時に来館した。その時間にしたのは、図書館の側にある市民食堂の格安ランチを目当てにしたためだった。それは不思議な食堂だった。その安さにウンカのごとく人が集まるのだが、その人の多さにも関わらずランチが途切れることはなかった。一時期は四つ足をしたあらゆる動物の肉が、はては人の肉まで使われているという噂がたったが、人の噂も二十分、人びとは気にしなくなった。
 そうした噂が広まった原因はなんであったろうか——それは保健所に入りきらないほど捨てられていた犬や猫が一夜でいなくなってしまったことと、ランチの中にワニ皮が混ざっていたことに端を発していた。

 ここで一言。
 愛犬家や愛猫家が行うブリーディングと、畜産農家が生活の糧としているブロイラーの違いは何か?——観用か食用かである。それでは共通点は何か?——どちらも餌をもらえることである。

 彼は煙の立ちこめる一階のフロアーを通り抜け、タイルのはげた二階へと続く階段をのぼっていった。踊り場に置かれたガラスケースのなかにはボロ雑巾が飾られていた。それを紹介する札には、『歴史的価値のある本』と書かれていた。
 『端末室』という札の下がった部屋に入った。壁には『首相宛にお便りを出しましょう』というメッセージの書かれたポスターが貼られていた。
 十八台ある端末はすべて先客によりふさがれていた。順番を待っているのか、六人ほどの男女が部屋の角に置かれた長椅子に座っていた。カンイチは苛立ったが、仕方のないことだった。受け付けのカウンターで順番待ちの札を手に入れる。それはカンイチが三十九番目の客であることを示していた。
「待っているのたった六人だぜ」カンイチがカウンターの中年女性に文句をいった。
「どこかに行っているんでしょ」——カウンターの女の返事はそっけないものだった。
 カンイチは背もたれのない三人掛けの長椅子に座るとタバコを吸いだした。暇つぶし用のマガジンラックに読みたい本はなかった。彼は端末を待っている客のキャンセルに期待しながら順番を待つことにした。ゲップをするとしょう油の匂いがした。やはり猫の肉だったのかな——カンイチは市民食堂で食べたショウガ焼きランチを思い出した。
 この端末室ができた当初は、細菌研究所のクリーンルームのような清潔さだったが、今ではタバコの脂で壁が黄色く染まっていた。傷みのはげしい端末は何度も部品や、あげくは本体のカバーが取り替えられ、すでにオリジナルとはいえなかった。
 カンイチは壁に掛かった時計を見た。時間は十二時十五分だった。彼は昨晩会ったゼンジとの連絡に大した期待を抱いてはいなかった。それでも彼がこの端末室に来たのは、ゼンジの言葉を信じることもひとつの手であると考えたからだった。カンイチには何ひとつ手がなかった。エミも自分の母親が働いている場所を知らなかった。
 天井に取り付けられた油だらけのスピーカーがベートーベンを奏でる。端末のモニターはプーンという音を発し、キーボードが叩かれる音が部屋に響いた。キーの叩かれる音は不規則で、カンイチはその音がきらいだった。
 旧ゼンジはわたしに話してくれたことがある。
「モーガン、ニッポンじゃ図書館でコンピュータを使っちゃダメなんだよ」どうしてだい? とわたしが訊くと、「キーボードがカチャカチャ音をたてるからさ」
 カンイチの場合は、コンピュータがきらいなせいだった。

 順番は確実に回ってきそうだった。カンイチの番まであと二人となった。
 カンイチはビタミンの錠剤を数粒口に放ると歯でボリボリくだいた。カンイチのとなりに座る買い物かごを膝の上にのせた三十代の中年女が彼を怪訝な目つきで見た。カンイチはおじけを見せずに彼女をながめた。女は自分の買い物かごを中味を手で隠した。誰も盗みはしないのに——カンイチは少しの邪心も含めてその女を見た。女はさらにかごの上に覆い被さるようにして中味を隠した。そんなに大事なものなのか?——カンイチは内心興味がわいてきた。そしてかごを覗き込むような振りを見せた。女は身体をよじってかごをカンイチから遠ざけた。
「二十六番の人——端末が空きましたよ。早く使ってください——」カウンターの受付係が叫ぶようにいった。かごを隠していた女がせって席をたった。
 その中年女は必要以上に——つまり端末の順番待ちに似つかわしくない慌て方をしていると思った。女は端末の席に座ると、椅子に尻をあわせるでもなしに、端末のキーを叩きはじめた。その音は部屋のなかの端末が響かせるキーの音のなかでいちばんヒステリックな音をたてた。何人かがその音の出もとを確かめるために首を振った。だがその努力も、となりどうしが簡易パネルで仕切られているおかげで、ただ自分の不安をかき乱すだけで終わった。
 カンイチの目は、中年女の後ろ姿の上にとどまっていた。女は何回も同じ動作をし、そしてキーは同じ音を立てた。それは何度か繰り返された。叩き間違いだな——カンイチは思った。中年女が犯したたった一回の誤ったキータイプは、彼女の焦りとともに、終わりのないタイピングルーチンにはまりこんだ。
「あら、どうしましょ、——どうしましょ」中年女は独り言をつぶやきはじめた。彼女はたった十二桁のIDを打ち込むことができなかった。震えた膝頭がぶつかりあった。
 ひときわ大きなキーの響く音がした。そして「やったわ!」と叫ぶ声。周囲の人びとが驚いた。「うるせよな」「くそばばあ」——そんなひそひそ声がした。
 それからの中年女はキーをひとしきり叩くたびによろこびの声をあげた。「そう」「そうよ!」「うれしい!」
 人びとはいぶかしがるが、彼女に文句をいうものはいなかった。ひそひそと話される罵声は、多分に差別的な言葉へと変わっていた。——「気でも狂ってんじゃないか」「バカがうつるぜ」など。
 カンイチはその中年女がセックスサービスの最中であると思った。——これじゃあの女三時間でも四時間でもキーを叩きつつづけるな。そのサービスはこんなものである——端末の前に座った女はこうキーをタイプする「わたし今素っ裸なの」端末の向こう側(それは南極かもしれない)のものはこう返事をする「ああ、きみのかわいい○○が丸見えだぜ」
 四十分経過——端末は已然として空かなかった。端末の使用料は不要だった。つまりタダだった。タダであるから、人びとは気が済むまで端末を使い続けた。タダの価値を説明することは、タダでないことを説明するより骨が折れる。
 カンイチは座っていることに疲れはじめた。階下に降りて本を読もうかとも考えたが、読みたい本が思い浮かばなかった。それでもカンイチは小さかった頃、本屋に並んだ本をすべて読めば世界一頭が良くなると本気で思ったことがある。
 カンイチはただ時間が流れるのを待った。
 ドアが開いた。五人の男たちが入ってきた。
 カンイチが即座に拒否反応を起こす姿をした彼らは警察官だった。一人が怒鳴った。
「そのまま!」男の一人がいったのはたったこれだけだったが、それには、そう叫んだ瞬間の状態で『動きを止めろ』という深い意味が含まれていた。こういった言葉は、それを発した人によって、特にその職業によってその意味あいが変わってくる。ニッポンの西に住む人が「ナンボのもんじゃ!」といったとき、それは「そのお値段はいくらですか?」と訊いているわけではない。そんなものである。
 その警官の一言に従って、あるものはかったるそうに、またあるものはとても素直にキーを叩く手を止めた。
 他の警官の一人が受け付けカウンターに歩いていき、女に訊いた。「回線T3—487の端末はどれだ」受け付けの女が声を出さずに指をその端末の方に向けた。
 カンイチの視線は警官たちから自然と逸らされていた。その彼が見えたのは、肩が震えている女だった。それはセックスサービス風の中年女だった。
 その中年女の後ろに警官が立った。女の肩がそして手も震えていた。膝の上で買い物かごが小刻みに揺れた。その手はまたキーに触れようとしていた。警官がまたいった、
「そのまま!」
 中年女が声を押し殺しながら泣きだした。警官は困惑としようのなさに埋もれながら女のそばに立っていた。五人の男たちはひとりの中年女に手を持て余した。二人の警官が端末のモニターを見た。その画面には数字と番号らしきものが数十行に渡って映し出されていた。
「かなり売ってますね」警官の一人がいった。
「うーん、とりあえずみんな個人口座みたいですね」モニターと手帳を見比べている男がいった。犯罪の存在を確信したせいか、警官たちの顔はいっそう強張った。
 悲鳴がした。それは中年女の叫び声だった。女は勢いよく立ち上がり、その拍子で買い物かごが女の膝から転げ落ちた。
 女は、何かを振りほどこうかとするようにめったやたらに腕を振り回すが、二人の警官が汗ひとつ見せずに軽々と女の腕を背中に折り曲げ、その身体を取り押さえた。
 床の上には転がっている買い物かごから飛び散った錠剤の小ビンが散らばっていた。
「商品も押収できましたね」警官がいった。チーフらしい警官が頷いた。そしてもう一人の警官の方を向き、床に散らばった小ビンを指さした。目を合わせられた警官が小ビンを拾い出した。
 チーフらしい警官がいった、「女を連れて行け」
 中年女はかなう筈のない力まかせの抵抗を見せたが、両側で彼女の腕を抱えた警官の手を振りほどくことはできなかった。彼女は苦し紛れの罵声を口走りなが外へと連れ出された。
 部屋のなかには三人の警官が残っていた。一人は女が使っていた端末の前に座り、モニターの画面に映っている情報をひとつ残らず手帳に書き記す。
「ひとまずここの端末をみんな停止しろ」警官のチーフがいった。周囲で奇声があがった。「なんでだよ」「まだ途中なんだ」彼らの声は警官にいうために発されたものではなかった。その効果を期待することのない溜息のような彼らの声は、ごく自然に空気のなかに消えていった。
「すべての端末から離れてください」と警官がいった。端末を使っていた人びとは緩慢とした態度で席からはなれていった。
 一体どうしてくれるんだ——長椅子に座ったカンイチは怒りそして落ち込んだ。それは一瞬の変わりようだった。目標を失った彼の身体から空気が静かに抜けていくように力が消えていった。彼は椅子から立ち上がることができなかった。
「すみませんが部屋から退出願えますか」警官が肩を落として座っているカンイチにいった。カンイチは顔をあげ、警官の無表情な顔を一瞥した。なんの言葉もない少しの時間が過ぎた。警官の表情は変わらなかった。カンイチが一言警官に投げた。
「お仕事ゴクロウサマです」
 カンイチは立ち上がり警官に手を振りながら外へ出ていった。

 他に端末があるところは?——図書館を出たカンイチはそう考えながら舗装された歩道を歩いた。化石のような輸送トラックがときおり道路を走り抜けた。そのトラックが引きずるトレーラーには古い自動車会社の名前が書かれていた。
 道に冷たい風が吹き抜けた。十二月の風は乾き、あちらこちらに静電気を発生させた。カンイチは頬が痛くなった。そして風が自分の顔を刺すたびにウィンドブレーカーの襟を立てた。
 道行く人びとはすべてが独りのように見えた。彼らの姿は歩道に沿って立ち並ぶ木から離れた枯葉だった。彼らは風に従って舞い、そして落ち葉になった。枯葉の舞う空はオゾン層を通り抜けて宇宙へと続いた。
 わたしは何年経っても時間を放棄した直前の姿で宇宙に広がる無限の空間のなかに浮いていた。そういった意味でわたしも枯葉であり、そして化石だった。
 枯葉に混じり、黄色のビラがところどころに散らばっていた。カンイチはそのビラを気にすることなく踏みつけながら歩いた。そのビラには『出血教団ついに来日!』のタイトルに『火星からの秘密のゲスト!』の注釈が添えられ、モンローの銅像が火星の環でフラフープを踊る絵が描かれていた。落ち葉を育てた木の幹にもそのビラが貼られていた。黄色のビラは落ち葉そっくりだった。そのビラは自身を主張するメッセージが込められていたが、道を歩く人々は化石だった。
 カンイチは化石のなかを通り過ぎる。電子音がもれるゲームセンターでは制度から外れた若者——今の教育機構への変換にうまく追従できなかったものたちがたむろしていた。そのなかにはホームレスとなった会社員の姿があった。
 カンイチはゲームがきらいだった。プログラムされた機能に時間をつぶされることがきらいだった。そして彼は端末を使うことにも抵抗を覚えていた。端末はなんの情報も彼に与えず、逆に彼の情報はすべて端末に吸い取られていた。端末室の中年女も端末に情報を吸い取られたあげく逮捕されたのだ。
 カンイチはその端末を探していた。彼の足は役所へと向かっていた。

 ♭ 4 引っかかり

 わたしは一時——それはほんとうに臨時雇いであったが、今病床にあるマーレーが会長の座をしりぞいたWC—COMで働いていたことがあった。その会社は大変合理的で、ホッカイドウに建てられた工場は自動的に送風される空気がフロアに埋もれる微塵のチリや空気のなかを漂う細菌をきれいに掃除した。人の手も借りずに。わたしはそれとは別にある工場で、唯一人間くさい作業といえる『説明書』の構成係を仰せつかっていた。それはほんとうに楽しい作業だった。数百の写真をとり、数ページから何百ページにも及ぶ各ページの構成を考える。この写真はここで、その説明書きを写真のすぐ脇にイタリックで添える。それは一種のアートだった。わたしはどんな芸術をその上で試みただろうか。例えばある行為を写真の上で表現するとしよう——一枚の紙をある機械に差し込む。そのときに人間の手を実際に登場させることがいちばん説得力があると、臨時雇いであるわたしの上司がいった。彼はわたしのことをはっきりいってあまり重要視していなかった。それはわたしが臨時雇いで、明日にもいなくなるだろうとも考えていたせいである。それは明白だ。なぜなら彼はわたしの給料のための支払い明細を書いていてくれたのだが、彼はその一枚の紙切れを書くたびにわたしの雇用期間を次の月までとしていた。彼は——とてもナイスなわたしの上司は、毎月わたしの寿命が二カ月先までと考えていた。
 そんな上司に恵まれても、わたしは何度も素晴らしいとても正直な——それは何と芸術的だったことか——案を提案した。ミルクの入ったコーヒーを上司や、同僚たちに配りながら。
 わたしが提案した案は、すべての説明写真に対して成人した大人を登場させないことだった。そのかわりに何を登場させたか——それは三歳になったばかりの幼児だった。
 わたしは説明した。その写真は必ず百万ドルというディンギに値する無限のチップを採用したコンピュータから脅威を取り除くであろうと——
 同じようなバリエーションではこういったものもあった。それは幼児ではないが、我々人類のなかに含まれ、人間に近い仲間であるチンパンジーを登場させたものだった。わたしの上司は一括した。「彼はわれわれが駆使する言語を操ることができるのかね」——彼がいう言語は特殊な名で呼ばれるコンピュータ言語だった。それはマニキュアで飾られた指を持つタイピストが使っていた機械の文字を用いた、とても原始的な構文からなりたつ言語だった。
 わたしは比較した。彼らの放つ言語と、数々の画家がキャンパスの上を飾った文字の持たない言語を。
 わたしは旧ゼンジにいったことがある。
「作家の持つ言語と、画家の持つ言語、そして端末を動かす言語の違いはいったいなんだろうか?——」
 実際わたしはそれに対する自分自身の回答を持っていた。だがそれを旧ゼンジにいわなかった。——それはひきょうなことだったろうか? わたしはそれをひきょうとは思わない。ひきょうといえば、子供の方がもっとひきょうである。それはたとえばこんな感じだ。
「ねえ、ジュンちゃん、テストどうだった? ボク三十点だったよ」
「うーん、ボクは五十五点」しかし実際には点数を訊いた子供は七十点をとっていた。
 これはひきょうの一例である。
 わたしは自分がひきょうではないと思う。それは旧ゼンジのいった言葉がこうだったからである。
「ボクはそんなことわからないな。でもいちばん純粋な言語をボクは知ってる」わたしはその言語は何か? と彼にたずねた。旧ゼンジはいった。
「赤ん坊のバブバブさ」
 わたしは持っていた答えはこうだった。
「単純な言語こそが最上だ」
 そしてわたしの上司はこういった。
「単純な言語、しかるして端末の言語が最高なのだ」
 これはわたしが会社をいやになったひとつの理由である。わたしと旧ゼンジはよく似ていたのかもしれない。——いや実際にそっくりだった。違いはある。それは動物を飼っているかいないかの違いであり、もとをただせば親の違いだった。

 ゼンジは端末の前に座ったきり、その場を極力外れようとしなかった。普段は仕事への興味なさから官邸のいたる所を徘徊するゼンジであったが、今日だけは自分の席を離れなかった。
 それをいちばんいぶかしがったのはウーだった。ウー・チャンは乾燥した空気でかさかさになった肌をポリポリかきながら、絶えず自分の視界にあるゼンジの姿が気になってしようがなかった。
「ボス、今日はコーヒーを飲みに行かないんですか?」
「コーヒーなら飲んでるよ」
 ウーは思い切って訊いてみた。「今日は全然サボりませんね」
 ゼンジはその言葉を聞いて腹が立ったか?——いや彼はまったくその気配を見せなかっったし、約束事がなければ一刻も早くこの部屋から抜け出したかった。彼はほんの少しだけ考え、そしていった、
「今日は首相がいないからな。悪いことってのはこんな日に必ず起こるんだ」
「ふーん、そんなものですか」
「そうさ。そしてこんな日に何か起これば必ずいない奴のせいにされるもんさ」
「だからいるんですか?」
「そうだうぁす」——ゼンジがあくびをしながらいった。
 ウーは日がな一日を自分の趣味と内職でつぶしていた。彼の趣味は爆弾メールの解析だった。彼はそれがミゲェルにより作られたものであることを知っていた。そしてミゲェルがWC—COMの元社員であったことを。彼がその事実を知ったのはWC—COMが日系銀行に納めたシステムが破壊されたときだった。彼は自分の仲間からそれを教えてもらった。その事実を知ったとき、彼は正直ミゲェルの才能に嫉妬した。が、今では神を型どった偶像以上の存在となっていた。それは終わりのない解析作業が飽和状態に達したときに遭遇した神がかり的な絶望がウーに絶対的な服従感を与えたことに起因していた。ウーが今まで味わったことのない感情が、ミゲェルを特別な存在まで引き上げた。そしてその価値は神が実在することを証明し、ウーはその足下にひれ伏したのだ。
 そして今、ウーは教団の来日に手助けをしていたが、その仲間にミゲェルがいることを知らなかった。
 ウーは常に支配人から情報を受け取っていた。支配人からの情報は常に支離滅裂だった。いちばん新しい情報は自分の側にいるボス——つまりゼンジに注意を向けろということだった。これもたぶん支配人の支離滅裂さから与えられた情報なのだろうと思った。
 ウーにとってボスのゼンジは何も知らない男だった。ボスは自分がすでにこのメール爆弾の解析を最初からあきらめていることを知らない。ミゲェルの技術は誰にもくずせない。そして乳首教団を来日と同時にディアナを軟禁することを知らなかった。
 だがウーは知らなかった。
 ゼンジがメール爆弾解析の進捗になんらの感心を持っていなかったこと。
 そしてディアナの父親はゼンジであることを。

 ゼンジはカンイチからのメールを焦りを見せることなく待った。彼は窓から差し込む午後の日差しが誘う眠気にときおり支配されながら端末の前に座っていた。彼の退屈な指は自然とタバコへと伸びた。
 わたしはゼンジにトランスポータを使用することをすすめたい。なぜならすでに彼の肺には腫瘍ができかかっていたからである。それは彼の父親が死んだ原因である病気と同名でそのバリエーションの異なるものだった。
 その病名はガンというが、父親のそれは胃ガンであり、彼のものは肺ガンといった。どれも早期発見を期待される病気である。医者はいくらディンギを積まれようとも末期となったその病気を治すことはできなかった。
 悲しいかなそれは現在でもそうである。ただひとつ、マーレーと彼の研究員たちが造り上げたトランスポータならば、ゼンジの腫瘍を除去できる可能性があった。トランスポータは人間の身体を分解し再構成する。その時に不必要な部分を再生しない可能性があった。それはトランスポーターに持たされた情報に左右される。
 ゼンジは彼の身体の異常を促進させる物質を身体に吸い込んだ。体内の様相とは相反して彼の表情は至福のなかにあった。欲望を満足させるには犠牲が必要である。
 ゼンジがニイダ・カンコについての情報を見てみようと思ったのは、ゼンジが暇な時間をもてあそんでいる自分に罪を感じだしたときだった。
 ゼンジは個人情報の探索を行ったことはなかった。それはある程度までは図書館や役所の端末を使えば誰でもできる。今のゼンジの立場にあれば、省間の連絡さえ行えば事実上無限の情報を得ることができた。それでもそういった情報に彼がまったく手を出してこなかったことは、彼自身が他人——しいては彼にとっての社会——への関与を極端に嫌っていたためだった。彼は自分以外のことを何も知りたくはなかった。彼が知るべきことは自分の抱えている真実とその証明だけだった。
 それはAっちゃんであり、ディアナだった。

 わたしはゼンジが抱えている真実のなかでナディアが現れないことを常に不思議に思っていた。彼はナディアを忘れているのか。ナディアは彼が探し求めるディアナの母親である。
 部屋のなかには暗雲が立ちこめ、雷鳴がとどろいた。だが雨は降らなかった。
 ゼンジの部屋に鍵をかけられ、閉じこめてられていたものがあった。それはゼンジの前に姿を現すことはない——それは顔を真っ赤にしていった、宿主よ! 複製を探してくれ! 複製だけが宿主を存在を証明するのだ!

 ゼンジはニイダ・カンコの情報のなかにカンイチのことが記されていることを予想したのだった。
 母性省あてのタイプをした。彼が今の役職上で得ることのできる情報には限りがあった。それでも一般として照会できるものよりはるかに多数の情報を入手することができた。

 そのころ——同じように情報を見ようとしているものがいた。その情報はカンイチのものではなくゼンジのものだった。それをしようとしていたのはアヤベ・クミだった。彼女は判読不明のサインとデバイスニュースに掲載されていた記事からその名を探り当てた。
 アダホの紹介するプロフの説明写真のなかでアダホの肩を組む男。それはゼンジだった。写真の下に印刷された説明書きには、ゼンジの名とその役職が記されていた。
 クミはその男の顔に見覚えはなかった。
 昨夜イサオと話したあと、彼女の心には疑惑に似た感情が固まりつつあった。疑惑はほんのささいな疑問だった。イサオは母胎が逃げ出したことを知らなかった。だがそれは不思議なことではない。部下が風邪をひいたことをしらなければいけないことはないのだから。
 だがクミの心に引っかかるものがあった。防諜部のゼンジという男が母胎を発見したという連絡を受け、母性省に調査を依頼した。これはごく当たり前のことだった。
 すべてがそうした当たり前のことで埋め尽くされようとも、——クミは自分が何かにだまされている気がしてたまらなかった。
 彼女は自分自身に迷いがあることを自覚していた。ニイダ・カンコがそうである。クミは彼女を早く解放したがっていた。

 ♭ 5 方法

〈以下一般情報・オオイ・カンイチ 父親・該当なし 母親・該当なし 兄妹・該当なし 犯罪歴・あり 現状・清掃局B—1203地区にて清掃業務〉

 母親・該当なし——この該当なしというのはその当人が死亡してしまったことなのか、もともと存在しなかったことを示していた。それ以上の情報は検察省か母性省に問い合わせることが必要だった。ゼンジは肩を落とした。だが、該当なしということは同時にその情報がそこで終わっていないことを示していた。
 カンイチはニイダ・カンコとタイプした。該当する情報はなかった。彼は母性省へ問い合わせることを思い立った。そのためにはイサオの端末を経由する必要があった。そうすることによって、情報要求に必要な承認がとられたこととなる。だが同時に相手側からも情報を提供するあたって確認を促してくる。臨時部長代理のゼンジはそれを知らなかった。
「ウー、この端末を母性省につなげたいんだが——」ゼンジがウーにいった。ウーが短く口笛を吹いた。
「イエス・ボス、でもつながっていなかったけ? 昨日ボスは母性省に情報を送ったはずだよ」
 ゼンジは少し考えた。「——そういえば昨日送ったよな」
「そうかボス、情報を探りたいんだな。オーケーボス、すぐだ。でも制限時間は三分だけ」
「三分だけ?」ゼンジが驚きと不満の入り交じった声でいった。
「そう、三分だけ。それを過ぎると官邸テレホンに通話料金が残ってしまいますからね。そこまでは消せないんだ。他人の庭に入るときは遠慮するもんさ。でもボス——」ウーが言葉を切った。
「なんだ?」
「ボスが情報を見ようとするなんてめずらしいなと思ってさ。一体なにを見たいんだ?」
「昨日の女だよ。逃げ出した母親」
「ああ、そういえばあったね」ウーはそういうと納得した。彼は支配人のいうとおりボスに対する警戒を怠ってはいなかった。

〈以下母性省初級管理情報・ニイダ・カンコ 旧ID・DZK9601イッパン 扱い・母性省管理センター母胎 出産回数・九回、内三回は双子。六回は三つ子。 過去三年間の誘発剤投与・あり 管理前の出産回数・一回、男子 母胎採用理由・出産した男子の能力によるもの 母胎採用期間・七年〉

 出産経験は二十五人か——指を折って数えるゼンジは正直に驚いた。そして誘発剤の投与。なんという人間味のない言葉だろう。ゼンジは表示された情報の少なさに、管理の薄っぺらさを感じたが、これは確かに記録だった。人間味のさらさらない。彼は自分の情報がこれと似たような体裁で記録されていることを考えるとぞっとした。これに比べて、記憶に残る古い温泉旅館の宿帳の方がよっぽど魅力があると思った。
 ゼンジはボーっとモニターを眺めていた。情報から答えを得ようとするものは情報の使い方を知っている。知らないものは情報そのものを答えと思っている。ゼンジは後者だった。母胎の採用年数は七年だった。そして——母胎となる前にニイダ・カンコは男子をひとり出産していた。その子供がどうしているのか。——ゼンジは画面の文字だけを見つめ、考えのまとまらない頭に微熱を感じはじめた。これは子供でいうところの知恵熱である。
「ボス・そろそろだね、切るよ」ウーがいった。ゼンジが答える間もなく情報をつなぐ回線が切られた。画面のなかから文字が消えた。
 ゼンジはウーの行いに怒りを覚えることはなかった。たぶん情報回線が切られなければゼンジは二時間でもその画面を眺め続けていただろう。大概の情報はその対象となる人々がつけるであろう価値をつけられ、必要ならばさらに付加価値を覆いかぶせて日増しに増殖する。その増殖はいつかピークに達する。情報は増殖し続けたために滅んでいった恐竜だった。
 ウーがいった。「またつなげられるよ。三分だけだどね」ゼンジは「ありがとう」といって断った。ウーは自分の席に向きなおり端末を操作する。そして画面を見た。そこにはたった今ゼンジが見た情報とそのアクセス記録が映し出されていた。ウーがその画面を眺めていると、横からゼンジの声が聞こえた。
「母性省の初級以上の情報を見るにはどうしたらいいんだろう」

 ♭ 6 火星人

 支配人が怒鳴った——「誰が書いたんだ! この文句は!」彼の手にはビラが握りしめられていた。
「し、支配人——何がいったいどうしたんですか?」支配人の男声にただ事ではないことを感じた副支配人が怖じ気づきながらいった。
「これよ」そういって支配人はビラを突きつけた。ビラのある部分に指さした。そこには〈火星からの秘密のゲスト!〉とプリントされていた。「何でこんなこと書いたんだ!」
 副支配人はホッとした顔をした。自慢げにいった、「すごいでしょう! ボクも頭をひねったんです。あなたが素晴らしいヒントをくれました」彼は自慢げに説明した。「ボクは机に向かってビラの絵を描いていたんですけど、なんで火星の環かな? って思ったんです。そして『火星からのお客様』ってのを思い出しましてね。それできっと、ああ、ディアナちゃんのことだなと閃いたんです。それでこの文句を入れたんです」彼は話しに割り込もうとする支配人に先回りして続けた、「でも支配人、内緒にしてちゃだめですよ。これはすごい教団の目玉だ! 絶対来ますよ、お客さんが! ボクだって行っちゃうな。教団なんかよりディアナが見たいですよ」そして最後にいった、「ああ、ついにボクも火星人を見れるんだ!」副支配人は小踊りしてよろこんだ。
 支配人は何もいわなかった。ああ、どうするべきか——もうバレバレだ!——彼は思った。『バカな男を副支配人に雇ったものだ。あのタナカという男はよっぽどのバカだ!』
 支配人がいった、「とにかくこのビラを直しなさい。ちゃんとお詫びの言葉も入れるのよ、こんな風にね」そして目をつぶり、暗唱するように「——私どもの広告に書かれていた内容に一部誤報がありましたので、ここにそれを訂正するとともに謝罪をさせていただきます」支配人が目を見開き、副支配人に顔を近づけ怒鳴った、「火星人は急病で来れなくなりました!」たじろぐ副支配人に気も止めず、また目を閉じると「お楽しみにしていたみなさまには誠に申しわけありません」
 支配人はいい終わると副支配人を睨みつけた。「いい?、今度はちゃんとわたしがいったとおりに書くのよ、一字一句変えちゃダメ」
 副支配人が三回頷いた。支配人が念を押すようにいった、
「一字一句変えちゃダメよ——」そして、「あなたはもう頭をひねらくていいわ」
 支配人は次の副支配人候補を探さねばならないと思った。今の男にはとりあえず教団が帰るまではこのまま務めてもらおう。もし今回の計画でまずいことが起きればみんなこのまぬけな男のせいにしたら良いのだ。

 どの世界にも責任をとるべき人間はいる。このわたしがいちばん責任をとらなければならなかった。その責任とはディアナを作り出した責任であった。

 十二月二十三日の夜、カンジェロはマーレーとの約束どおりに自宅の裏庭にいた。人の気配のないプールのある裏庭には、パーティーが終わった後の乱れたテーブルや食いかけの食事を残した皿で汚れていた。プールの中には死体がその背中を月光で光らせていた。——が、それは死体ではなくマネキンだった。どこから入ってきたかわからないやせっぽちの犬。三匹の野良犬が、家の門でじっと自分の持ち場を守り続ける番犬を後目に食いかけの料理をあさっていた。カンジェロはやせっぽちの野良犬たちをけしかけることなく、プールサイドに置いた折りたたみの椅子に腰をかけて葉巻をふかしていた。彼は今日のスピーチを思い出すと背中がかゆくなった。
『われわれの思想は自由を支援するものであり——』
 カンジェロは自分が思春期や大学時代に遭遇してきた友だちや仲間たちと同じ格好をした若者たちの前で一席ぶった。ほんとうに彼らは自分の周囲にいた人間たちとそっくりだった。格好だけは。彼らにはちょっぴりの電気がくわえられていた。絶えず過去へと想像力を向かわせる彼らに未来を説いて回ることがどれだけ有益なものだろうか。カンジェロは何度かパーティをを開き若者たちを呼んだ。そしてそれが終わるたび、心の中に穴ぼこができた。
 今晩のパーティも彼の心に新しい穴ぼこを開けた。
 裏庭のすみで塀の近くの木立に覆われた場所——そこにマーレーから送られた木箱が開かれずに置いてあった。それは先日届いたものだったらしかった。マーレーからの手紙には、「目立たぬ場所に置いておくこと」という伝言があった。
 時計が二十三時を指す——ちょうどその頃だった。
 低い音が静かに暗い空気のなかを響きながらカンジェロの耳に入ってきた。何かが共鳴する音だった。
 カンジェロはすぐに音の出る方向を探そうと首を振った。彼はジャケットの下に隠したホルスターに手をのばすとピストルをつかんだ。
 それは木箱だった。月光のなかで木箱は震動しているように見えた。実際にそれは震動していた。彼はプールサイドからその木箱を見ていた。彼はそれがいつまで続くのかわからなかったが、とにかくその音がおさまるのを待っていた。犬は吠えなかった。
 その音が止んだとき、木箱を封じる板のなかの一枚がはがれて倒れた。カンジェロがその中に見たものは巨大な試験管だった。試験管はボーっとホタルのような明るさを発していた。その中に人間——それも子供らしい影が見えた。
 カンジェロは試験管に歩み寄った。その足に怖じ気はなかった。それは彼のポリシーである。近づくたび試験管のなかのものが見えてきた。そしてその姿をはっきりと確認したとき、彼は試験管向かい小走りで駆けた。
 それは小さな可愛いディアナだった。
 少女は不安げに立っていた。
 カンジェロが現実を取り戻したとき、いちばん驚いたことはディアナが裸だったことだった。

 ♭ 7 会話

 カンイチが役所の空き端末を手に入れるには十人の化石が帰っていくのを待たねばならなかった。役所は主に住居の斡旋と登録を行っている場所だった。その職種から役所を運営する人々は、住宅賃貸業に従事していたものへと入れ替わっていた。すべての不動産は徐々に役所、もとい政府の管理下へと置かれ、その土地には個庭用アパートが建設されていった。カンイチが通り過ぎた登録センターや斡旋センターには、部屋のない人が長椅子に座ったり、床に座り込んだりしながら受け付けに呼ばれるのを待っていた。
 白衣にふかふかのカーディガンをはおったマリアを見つけたのは斡旋センターのなかだった。
「マリア、何やってんの」
「カンイチか——あんたこそどうしたの」
「端末を使いに来た」
「ああ、昨日のおバカさんの話し?——やめといたほうが良いわよ。どうせウソに決まってるわ。ネクタイを締めているやつとバッジをつけてるやつはみんなウソつきなんだから」
 カンイチはマリアの話を止めてやろうとは思わなかった。彼女がする大概の話は真実だった。「おまえは何やってんだ」
 マリアは見りゃわかるでしょ、といった体で「病室を探してるの。わたし古い診療所を探してるの」

 カンイチは使い慣れない端末の前に座ると操作方法を思い出そうとした。側に貼られたガイダンスのパネルを見るつもりはなかった。理解するのが面倒くさかったからだ。彼はマリアに頼んだ。
「マリア、ここにつなげたいんだ」カンイチは一枚のメモをマリアに渡した。
 マリアは呆れた顔をしていった。「使い方もわからないのにここに来たの?」そういいながらもカンイチを椅子からどかせて自分が座った。
 マリアの細く長い指がキーを叩く。マリアはメモを見た。IDナンバー・SKB1HZ1121を入力すると、端末は識別ナンバーを要求してきた。
「あら、これってほんとうに首相官邸ね」マリアはそういって、3Y89とキーを叩く。カンイチはこの端末の指示が画面に映し出される指示を見ていたが、その指示どおりに操作をすることがきらいだった。自分に指示する相手がそこにはいない——それが最大の不満だった。

 ウーがいった。「初級情報以上だと誰か——それなりの人の承認コードが要りますね」
「——うーん」ゼンジにはそうした仕組みがわからなかったが、とにかく自分のレベルでは要求できないことだけはわかっていた。「じゃつなげることはできないかな」
「やったことはないですができますよ。それでもどこかに記録が残るでしょうね」
『記録が残るか』——記録を残すということは、常に自分の尻尾を『さあ、捕まえてくれ』と差し出しているようなものだ。
 ゼンジは考え込んだ。やめておくか——そう思っていた。ウーは何もいわなかった。ニッポン人は人に訊いておきながら自分の判断を口にしないときがあることを知っていたからだ。ウーは最初ニッポン人にはテレパシーがあると思っていた。だがそれは期待はずれだった。
 ゼンジが考え込んでいるとモニターの画面になかに〈情報受信〉というメッセージが現れた。その次には送信者の名が現れた。〈オオイ・カンイチ〉そして、〈受信しますか?〉

 来たか——ゼンジはニイダ・カンコの情報を忘れその受信を受け入れた。
〈以下送信者へ——連絡が遅かったな〉
 マリアはカンイチに振り向いた。カンイチはふてくされていた。カンイチはマリアに返信内容を伝えた。
〈以下受信者へ——どこの端末もいっぱいだよ。「バカ」それで昨日の件は?〉——『バカ』という言葉はマリアが勝手につけ加えた。カンイチが含み笑いをした。
 そんなこと知ったことか——ゼンジはそう思いながら、報告のコピーを見つけだし、その内容をタイプした。
〈以下送信者へ——昨日保護した母親の名はニイダ・カンコ。旧IDはDZK9601イッパン。だが一般端末からのアクセスは不可。ニイダ・カンコは十二月十三日午後四時三十分ころ、ホームに立ち寄り電車に乗ったとのこと。この結果に思い当たることは?〉
 情報の終わったことが表示されるまでカンイチたちは五分間待った。マリアがいった、
「こいつタイプするのが遅いわね。カンイチどう?」マリアがカンイチを見た。カンイチの顔にわずかの震えが見てとれた。「この人知ってる?——ニイダ・カンコだって」
 カンイチが口を開いた。「これは母親の名前だ」——マリアは信じられないという顔をした。そして、そう返信して良いのか同意を求め、キーをタイプした。
〈以下受信者へ——それは自分の母親だ〉
〈以下送信者へ——受信者の姓はオオイ〉
〈以下受信者へ——それは母親の旧姓だ〉
 ゼンジは考えた。そしてタイプした。焦る指は何回もキーを押し間違えた。
〈以下送信者へ——ニイダ・カンコの居場所探す。今晩会えるか?〉
 マリアがいった。「——どうするカンイチ?」
「マリアの部屋で待ち合わせよう」カンイチがいった。

「ウー、母性省管理センターはどこにあるんだ」
「何をいってるんだ? 母性省なら四階でしょ、本部なら——」
「ちがう管理センターだ。何だか知らないが母親がいっぱいいるところだ」
 ウーが首を傾げた。「母親がいっぱいいる?——知らないな、そんなところ」
「連絡先とか情報アドレスからわからないのか?」
「ボス、そりゃ無理だ。情報アドレスはすべての不動産をだいなしにしたんだ。そんなアドレスからその場所を特定するのは無理だよ」
 何をわけのわからないことをいっているんだ——ゼンジは腹のなかでそう思った。
「とにかく場所がわかる方法はないかな——地図を探すとか」
「地図なんてのは共産圏じゃ今でも国家級秘密ですよ。それこそ初級どころか高級情報だ」
「そうか——」ゼンジは考え込んだ。そんなゼンジを見てウーがいった。
「ボス、いちばん簡単な方法は人に訊くことですよ。それがいちばん」
 ゼンジはアヤベ・クミのことを思い出した。

 アヤベ・クミがゼンジの個人情報へアクセスしようと思い立ったのは、自分がだまされているのではないかというあるはずのない不満を紛らわすためだった。
〈以下一般情報公開要求——名前・ハマグチ・ゼンジ〉
〈以下一般情報・ハマグチ・ゼンジ 父親・該当なし 母親・生存 兄妹・該当なし 犯罪歴・ありただし軽犯罪 現状・首相官邸内防諜部長緊急臨時代理〉
〈以下中級情報一般公開要求——名前・ハマグチ・ゼンジ 承認番号4DF8〉
〈以下中級情報一般・ハマグチ・ゼンジ 旧名・ハマグチ・アユム 生年月日・一九六六年七月四日 血液型・Aプラス 病歴・アレルギー性リューマチ、盲腸炎 犯罪歴・自転車窃盗・器物破損 職歴・*******首相官邸内防諜部長緊急臨時代理にいたる〉
 彼女はゼンジについての情報からなにか重大な発見ができることを期待してはいなかった。逆に発見されては自分が困る。
 彼女はつぶやいた、「旧姓ハマグチ・アユムね——」そして〈顔写真表示〉を指示した。モニターの半分にゼンジの顔写真が表示された。
 この男には会ったことがある——。
 クミのモニターに情報受信のメッセージが現れたのはそのときだった。
〈送信者 ハマグチ・ゼンジ〉
〈受信しますか?〉
 クミはイエスキーを押した。
〈以下受信者へ——管理センターの場所を教えてください〉
〈以下送信者へ——わたしの宛先が何でわかったの?〉
〈以下受信者へ——優秀な部下がいるから〉
〈以下送信者へ——なぜ管理センターの場所が知りたいのか〉
〈以下受信者へ——母親を捜している男がいる〉
〈以下送信者へ——該当する母胎はない〉
〈以下受信者へ——昨日報告のあった女性だ〉
 クミは動揺した。
〈以下送信者へ——それは誰か〉
〈以下受信者へ——ニイダ・カンコ〉
 クミはキーを叩けなかった。
〈以下受信者へ——ニイダ・カンコ。昨日ホームに出た女性だ〉
〈以下送信者へ——報告済み〉
〈以下受信者へ——その女性は彼の母親だ〉
 クミは真実を曲げるつもりはなかった。
〈以下送信者へ——あなたはハマグチ・アユムか?〉
 ゼンジの指がキーの上で止まった。
〈以下送信者へ——あなたはハマグチ・アユムか?〉
 ゼンジが忘れようとしていた名前だった。
〈以下受信者へ——ちがう〉
〈以下送信者へ——氏名と役職をのべよ。すでにわかっているが確認のため〉
〈以下受信者へ——首相官邸内防諜部長緊急臨時代理、ハマグチ・ゼンジ〉
〈以下送信者へ——旧名はハマグチ・アユム。貴殿の役職では当方のアドレス検索不可のはず〉
〈以下受信者へ——優秀な部下がいる。管理センターの場所を教えてくれ〉
〈以下送信者へ——あなたとは会ったことがある〉
 返事はなかった。
〈以下送信者へ——あなたは火星人の父親だといった〉
〈以下受信者へ——わたしはディアナの父親だ。なぜ知っている〉
〈以下送信者へ——あなたが旅行先で話してくれた〉
 返事が来るまで間が空いた。その間クミはキーを打たずに待った。返事が来た。
〈以下受信者へ——そのときボクはハマグチ・アユムだった〉
〈以下送信者へ——なぜあなたが母胎を探すのか?〉
〈以下受信者へ——探している男がいるからだ。その男はニイダ・カンコの息子だ。お願いだ管理センターの場所を教えてくれ〉
・以下送信者へ——考えさせて・
 続いてゼンジのモニターに表示された文字はこうだった。
〈接続は解除されました〉

 ゼンジが立てひじで手に口を埋めたとき、クミはメガネをとって椅子の背に身体を埋めた。彼女にとってゼンジという男の申し出はあまりにタイミングが良すぎた。クミはゼンジに自分の心が見すかされていると思った。クミはニイダ・カンコを出してやりたかった。

 ♭ 8 涙

 支配人は『出血する乳首教団』の集会場を見た。それはミゲェルが持ってきた一枚の切り抜きだった。
「何てとこだろうね——」支配人の目にその集会場の様子は、売れのこりの鉄道工場に見えた。
 ネオンが取り外されて枯れ木のように立つポール。床に散らばったコンクリートの瓦礫。プラスチック、ビニールにセルロイド——何種類もの砕け散った構造物。床に開いた無数のボルト孔と天井からたれ下がった幾数本ものチェーン。教団のシンボルである身長三メートルの張りぼてのモンローが何もないステージに直立していた。
 ミゲェルがいった。「まさしく支配人の考えているとおりさ。まるでスクラップ工場。でもそれが集会所なんだ」
「これだけの集会所を造るのはステンドグラス付きのモスクを造るより難しいわね。どんな人間も最低の美的感覚を有しているものよ」
「そんなに難しいことはないですよ。新しい工場を丸ごと買い取って全部ぶっ壊しちまえばいいんです」
 支配人が笑った。「頭が良いな! ミゲェルちゃん!——でもそうなるとでっかいブルドーザがいるな、それに震動はつり機に。土木業者が一ダースに百万人の人夫——『妊婦』じゃないわよ! それにしてもこれだけゴミが出るんじゃ新しい埋め立て地を造成しなきゃ追いつかないわね、ゴミのトラックも用意しなきゃ!」
「その心配は要りません。ゴミは置いときゃいいんです。ごらんなさいこの素敵な集会場を」ミゲェルはそういって支配人の持つ切り抜きの写真を指さした。
「うーん、何てエコロジーな教会なんでしょう!」支配人は組んだ両手を握りしめていった。「わたし、何だかこの乳首のなんだかって教団好きになってきたわ」

 わたしの乗っているラダも教団の集会所の床に転がっているスクラップとまったく変わらない。ラダは鉄やプラスチック、ゴムが組み合わされたとても原始的な構造物である。しかし彼は元へは戻れない。
 ラダは今宇宙を漂い、ひょいとした拍子でブラックホールに吸い込まれるだろう。
 わたしは自分に何も責任がないと思っていた。だがわたしには責任があった。わたしはラダを手放すことはできない。地球上でタバコを一本投げ飛ばすことと同じくらいに。

 マリアは自分の部屋で不満気味だった。彼女はまだゼンジという男を信用するなといった。そういいながらも彼女はこれからの展開を期待していた。彼女はふてくされた様子でパイプ椅子に座った。

 わたしは思うのだが、パイプ椅子というのは椅子のなかでもなかなか暴力的である。これはわたしのなかに、『パイプ椅子はプロレスの反則技によく使われる』という記憶があるせいかもしれない。だが、女性がパイプ椅子に座る姿は素晴らしい。マリアが座る姿も素晴らしい。パイプ椅子は工業的芸術の頂点にある。

「カンちゃん、今日は掃除に来なかったんだろう。電気屋のおじさん怒ってたよ」診察台の上で横になったり起きあがったりと落ちつきのないナミオがいった。マリアがじっとしていなさいと叱っても止めない。マリアはタバコをふかした。
「心配するなよ」ユニット式のキッチンに腰掛けているカンイチがいった。「あの残高照会機はいかれてるんだ。まともに仕事をしてももらう金は半分にもならないよ」
「エミも仕事を休むのかい」ナミオがソファに座っているエミの方を向いていった。エミは答えなかった。その代わりにマリアがいった。
「彼女は病気なの」
「へえ、でもそいつはヒポコンデリーって病気だね」ナミオが思案顔でいった。
「あら、あんたそんなの知ってるの」
「知ってるよ」ナミオが口をとがらせながらいった。
 時計は午後六時を過ぎていた。
 マリアがいった、「あいつ来るのかしらね」
 誰も口を開かなかった。

 当の『あいつ』はどうしていたか。あいつとはゼンジのことである。
 彼は妙に感傷的な気分だった。ここ七年間は古い名前で呼ばれたことはなかった。例えそれが『呼ぶ』ではなく画面に表示された『文字』にしろ、自分がかって呼ばれていた名前を見たことは、自分の存在を一瞬あやふやにさせた。彼は年甲斐もなくセンチだった。
 だがセンチな彼がほんとうの彼であった。それがわたしの知っているゼンジ、いや旧ゼンジ——もとい!——アユムである。
 彼は涙もろい男であった。わたしは今でも思い出す——彼の作文を。ゼンジは——いや、アユムと呼ぼう、アユムはあらゆるものを見て泣いた。彼はすでに人が百年かかっても流しきれない量の涙をこぼしていた。そしてアユムはとてもセンチである。
「ボス、元気がないな?」ウー・フォンがいった。ゼンジは答えなかった。ウーがまたいった。「どうしたんだい、ボス」
「——なんでもないよ」ゼンジがいった。
「やけに静かにしてるからさ」
「ニッポン人てのはこんなもんだ」
 窓の外は夕暮れだった。ゼンジは窓際に椅子をずらし、そこからモニターを眺めていた。アヤベ・クミからの返事はなかった。彼はアヤベ・クミの姿を思いだそうとした。彼女はたとえ科学者的推論の仮定からとはいえ、ディアナが彼の娘であることを信じることから話しをしてくれた女性だった。
 ゼンジはセンチだった。彼は自分の名を示されたときから旧ゼンジ——アユムに戻っていた。今の彼はセンチで泣き虫なアユムだった。
「ウー、お前に好きな人っていたか?」
 ウーがいぶかしそうな顔をした。「ボス、いったい何があったんだ?」
「だから好きな女性がいたかって訊いているんだよ」ゼンジの声は投げやりでか細かった。
 ウーがしかたなくいった、「そりゃいたよ。あれは小学校のときだったかな——よくその娘の写真をパスケースに入れていたもんです」そして顔を赤らめた。
「小学校か——そりゃ初恋ってやつだろ。そうじゃなくて大人になってからの話しさ」
 ウーが笑った。「大人の恋?——そいつはないな、わたしはまだ子供ですから」そして椅子を回して身体をカンイチに向けた。「ボスにはあるのか?」
 ゼンジはいった。「ないよ」
 ウーにはそれがウソだとわかった。ゼンジは正直すぎる男だと思った。そしていった、「忘れられないことは無理して忘れようとしないことですよ」彼はゼンジの目を見ずにいった。「コテであぶっても消えないくらいに焼きついちまったもんはどうあがいても消えないはずです。入れ墨みたいなもんですね」

 南北戦争がはじまる六十一年前に首都となったワシントンの人工の大半が黒人だった。ポトマック河畔の桜並木は寒さのなかで化石となっていた。
 イサオはワシントンでビル・フラスコと面会した。それは半年に一回の夕食会だった。ビルが自分の嗜好にあわせ、メキシコ料理店にテーブルをとっていた。その店は本にも載らない店だった。客のなかで英語をしゃべるものはいなかった。
 この料理店のウェイターはスペイン系の移民だった。サンフランシスコにいたころのウーはチャイニーズだった。
 テーブルには二人だけが座っていた。ビルとイサオはエスパニョールしか話せないウェイターと割と流暢に会話を交わし、たっぷりのアボガドを中心としたタコスをメインに豆料理とテキーラをオーダーした。
 イサオがいった。「これは安い酒だね」
 ビルがいった。「ぼくはアルゼンチンで出回った毒入りのワインを知ってる。それはたったの一ペソだった」
 とうもろこしの粉で作ったトルティアが歯につくのも気にせず二人はタコスを頬ばった。イサオのかけるソースの量はビルから見て尋常ではなかった。「ニッポン人はしょう油のせいで舌がおかしいんじゃないか?」
「君たちの料理には味がない」
「これはぼくらの料理じゃない。これはメキシコ料理だよ」ビルはそういいながらトルティアにアボガドをたっぷり塗り付けた。「——このアボガドってのはニッポンの刺身に似ている」
「わかるよ。トロってやつだろ——わさびをつけて食べるとおいしいぜ」
 二人は透明なテキーラの杯を重ねた。
 イサオ・セキグチはゆっくりと酔いに身をまかせながらいった。
「母親を消してしまうというのは時の流れを無視して、自分を安定しない時間的空間で浮遊させる一種のタイムトリップのようなものだ。一方、父親を消すことは母親のそれとはまったく異なる倫理観が存在するだろう。母親を失った者は、それと同時に自分の存在を失う。正確には自分のルーツ、つまり根源を失うことになる。母親は自分が存在することを具現的に示す唯一のものであり、それを失うことは『自分がなぜここにいるのか』——という普遍的な疑問をかき消してしまうことになる。逆にいいかえれば、自分の存在を無くしてしまう。だからこうともいえる。新生したいと考えるなら、母親の存在をかき消してしまうことだ。だが、こうもいえるだろう、——そいつは自分の存在を主張したいながらも、自分自身をかき消してしまっているのだ。父親を消す理由はこうだろうな——自分の分身の素である存在を抹消してしまいたいんだ。父親がいるかぎり、子供の存在は父親の擬態でありつづける。簡単なところじゃこういった世間話がある——『○○さんところの息子さんは——』
 驚くなかれ——イサオの目は真っ赤だった。
「いずれ人間は気づくんだよ、自分のオリジナルの存在のわずらわしさにね。だが、そうした作業の後に最も重要な作業が待っている——自分がオリジナルにならなければならない。そして母をなくした者は自分の証明されない存在に耐えなければならないんだ」
 イサオの涙腺からうみだされる涙は下まぶたのなかにあふれていた。が、頬をつたうことはなかった。
「——まだ、母胎を作り出すことができない。けれどオリジナルを作ることはできるんだ——ちくしょう」

(続く)



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