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仮題:バイバイ・ディアナ 9 [仮題:バイバイ・ディアナ]

【9回目】

 ♭ 5 呼び込み

 支配人はビラを揃えると小さな身体を二本の足で支えた。彼の顔はさっきまでの大泣きがウソのように晴れ晴れとしていた。準支配人はあきれた。支配人はいった、
「わたしは店に行くよ」
「わかってます」準支配人が応えた。それはいつものことだった。いわなくたってわかるやい——準支配人の独り言である。
「何かいった?」支配人はいった。
「いえ、何でもありません」
 独り言はだいたい自分から取り消される。人に聞こえてはならないことが独り言である。

 支配人は踊るようにビラを配った。ホール係を兼任するマスターが、「そんなことわたしがやります」といって支配人の手にあるビラをもぎ取ろうとした。が、支配人は踊るようにそれをかわす。
「これはわたしが頼まれた仕事なの! あなたにはできないの!」支配人は踊りながらそういった。彼は一回転すると足を跳ね上げ、肩を下げ、そしてピノキオのようにカクカクと身体を起こす。その動きすべてが、店のバンドが奏でる速いテンポのダンスジャズと同期していた。バンドのドラマーがバスドラムを打ったとき、支配人の足は力強くストンプした。支配人の腕が宙を斜めに切ったとき、アルトサックスが蝶のように軽やかなレガートを聞かせた。支配人が両手を観客であるお客に広げて見せたとき、ギターがフラメンコのごときダイナミックなトリルを奏でた。
 マスターはそんな支配人をただ黙ってみていた。その顔には弟子が師匠を見るような羨望がはっきりと現れていた。マスターにとって支配人は自分の行き着くべき到達点だった。マスターは支配人の肩にたなびく(見えない)ゴールフラッグを見た。彼は自分の伸ばした手が今にもそれに触れそうな錯覚を覚えたが、気がついたときには自分も踊っていた。彼は支配人がお客に呼びかける言葉を復唱した。
「ハロー、カスタマーズ! ウェルカム・『出血する乳首教団』! もうすぐ来るよ!」
「ハロー!、乳首教団! さあさあ来るよ!」
「伝説の地球人、モンローの像がこの目で見れるよ!」
「ハロー、モンローの像、ハロー!」
「教祖はびっくりすり粉木だ!」
「カスタマー! あなたも聖水が飲める! 特別な聖水だよ!」
「聴講者全員への振舞酒もあるあるよ!」
「そうあるよ!」
 支配人がつばきも飛ばんばかりに高い声で宣伝する。マスターの声は決して素敵な声ではなかった。彼は地声が小さなために精いっぱいがなり立てたが、それはおおよそ人が聞き分けられるものではなかった。
「ハリャー、キャストマー、モンリョのじょうだよ」——てな具合だった。
 支配人はお客のテーブルの前で踊り、踊りながらバンドの音楽と同期して手を伸ばし、お客にひとつかみのビラを押しつけていった。
 テーブルの上でモールをヘビに見立てて踊る女ダンサーや、サルに芸をさせる女調教師たちも支配人の調子をさらにあおり立てるように芸に熱を見せた。サルは興奮して宙返りを練り返し、着地しては牙をむいた。赤いモールはお客の首を窒息死ぎりぎりまで締め上げ、すんどのところでその手をゆるめた。首に赤い模様のついた客は口元からよだれをたらし、恍惚の表情を見せていた。客たちは「オレにもやってくれ!」「もう止めてくれ!」と奇声と悲鳴を上げた。丸い小さなステージで踊っていたキャバレーガールたちは支配人たちの後ろにつき、振る腰をお客の肩にぶつけながらテーブルの間を練り歩いた。
「カムカム! みんなに知らせるある! 『乳首教団』やってくる——最後のアメリカだよ!」
「そうこれが最後のウェルカム・ジャパンだよ!」

 支配人は「出血する乳首教団来日」を宣伝するビラを配り、宙にまいた。宙を舞ったビラは照明を不規則に隠し、客たちはその効果に酔いまくった。
「まったく、どいつもこいつもよくこんなアルコールの錠剤でアホになれるよ」カンイチがつとめて冷静にいった。だが彼の神経はアルコール錠剤のために麻痺しかかっていた。
「きゃはは、カンちゃんはこいつに弱いもんな」ナミオが腹を抱えて笑った。「ボクなんかまだまだ平気だよ」
「ほんとにカンイチは弱いわね、さっきまでは『母親を捜すんだ!』なんて息巻いてたくせに」、とマリアがいった。
「うるさい!、オレはまだ酔っちゃいない。ちょっといつもより噛みすぎただけだ」カンイチが怒鳴った。
「ほら、その怒鳴り声が酔っぱらいなのよ」マリアがいい返した。「でもあんたはラッキーよ、——今晩はドクターがいるからね」
 ナミオがいった、「エスパニョールでは『ドクトーラ』だよ、マリア」
「あら、ナミオ、スペイン語が話せるの?」
「そうだよ、ボクのお母さんはときどきエスパニョールだったもの」
「それは移民の教師ってことさ」とカンイチが吐き捨てるようにいった。
「何? そのいいぐさ——大事なのは資格なの、あんたなんか掃除しかしてないじゃない」
「はん? オレは『教師』だか『母』だかになるくらいなら『掃除』をしてた方がましだね。誰がなるか——」
「あんたには絶対なれないわ。ひとかけらの母性もないものね」
「どうしてオレが母性をもたなきゃならない? どうしてだ?」
 マリアは「もういいわ」と首を振りながらナミオを見た。「こんな先生でなくてよかったわねナミオ」
「どうして?」ナミオは訊いた。
「わたしは今のナミオが好きだからよ」

 支配人がいった、「ああ、エミ! 何でこんなところにいるある!」
 支配人はカンイチたちが座る丸テーブルにたどりついたとき、ようやくエミの姿に気がついたのだった。「どうしてこんなところで休んでいる?」支配人がきつい調子でエミにいった。そしてマリアを見るとにんまりして「お客さん、いらっしゃい!」「みなさんいらっしゃい」と底抜けに明るく声をかけた。だがそれもエミの方を向くと、「何で休んでる!」と叱り声になった。エミの表情は変わらなかった。
「あなたは?」とマリアがいった。
「わたしは支配人であります」支配人はそういって、後ろにいたマスターの脇腹をこづいた。彼は肩をこづくつもりだったが、背の高さの違いは非情だった。そして小声でいった、「あなた気がつかなかったの? ここにエミがいるの」
 マスターは困惑顔だった。応えないマスターに支配人は苛立ちながらいった。「あなた、店の娘の顔は覚えなきゃダメよ、わかってるの?——ああ、もう、上にいる若造もいっしょよ、女の娘の名前をいったってどの娘かも知らないし、アケミを連れてこいっていったらコノミがくるし、ほんとにあんたはまだまだ頼りないのよね」そして、「ほんとうに何回いったらわかるのかしらね、この店は女の子がいて成り立ってる店なのよ——儲けや税金のことばかりいってないで、まず店の娘の名前を覚えといて!——それから顔もね」
 マスターは頭を下げるばかりだった。彼は今にも泣きだしそうな顔をしていた。
 ナミオがいった、「支配人さん!、エミは今日この店休みなんだよ——知らなかった? マスターも知ってるよ。何ていったっけ——そう『休暇』だ! 『休暇』! 休暇休暇」そういいながらナミオの顔は真っ赤になっていった。
「ごめんなさいね、支配人——今日はこの娘病気なのよ。わたしの患者なのよ」とマリアがいった。
 支配人はしたり顔でいった、「はーん、あなたがマリアね、よくうちの娘がお世話になっているようで——」
「あら、そう?」
「ええ、聞いてますよ、うちの娘が病欠をするときはだいたいあなたのお世話になっているみたいですからね」支配人は急にとってつけたような笑い顔を見せた。「どうかうちの娘をよろしくお願いしますね」
 あんたにいわれる筋合いはないわよ——マリアはそう思いながら軽く会釈した。
「それにしてもマリアさん、病気で休むなら休むで結構なんですけど、この娘にちゃんと連絡先と住所を教えてくれるようにいってもらえませんか」支配人は今直ぐにでもエミの肩を両手で揺さぶり、すべての真実を吐かせてやりたい気分だった。が、それをじっとこらえ、舌をかまないように注意しながら、なるべく落ちついてしゃべることを心がけた。「うちはお客の数に比べて女の子の数が少なくて——ひとりでも欠けちゃうと困るんです」
 そういったやりとりのなかエミはどうしていたか?——彼女はただ静かに口を開くことなく椅子に座っていた。彼女はカンイチやマリアと同じテーブルにいながら、その場所と、どこか別の場所を行ったり来たりしていた。ちょうどその時、彼女はどこか知らないところにいた。

 支配人はほとんどあきらめかけていた。かれはよく知っていた。——こんなときのエミには何をいっても馬の耳に念仏、馬耳東風なのだ。気のせいかエミの顔が馬に見えてきた。彼女の鼻がだらしなく伸び、口が出っ張って歯ならびがくっきりと浮かび上がる。目は次第に上側に競り上がり、髪の毛はたてがみに変わった。支配人はぎくりとした。エミが「ヒヒーン」とわなないた気がしたのだ。が、それはナミオのいたずら声だった。
 気を取り直した支配人は、自分の持つビラをカンイチたちに配りはじめた。そして明るい声でいった、
「さあ、ごらんなさい! 今度来るんですよ、ほら『出血する乳首教団』——舌を噛まないようにね、『出血する乳首教団』ですよ——おっと、お代はいらないですよ!」
「え! タダなの?」ナミオが目をキラキラさせながら訊いた。
「ええ、お客様、『タダ』です! タダより高いものはなし、タダより安いものはなし——『タダ』の価値はわたしたちにはいい表すことのできない『タダ』の価値があなたのものです」支配人の顔には満面の笑みが浮かんでいた。
 ナミオがいった、「そりゃすごいや! タダなんて——ねえマリア」
「あ、お客様、この『タダ』はわたしたちロマン・キャバレー含めTSKグループの全面バックアップによるものということをお忘れなく——」
 マリアは支配人のありきたりな社交辞令にうんざりしながらも、しょうがなく愛想笑い見せた。彼女は時間つぶしのようにビラをながめた。ビラには白いドレスを押さえたモンローの像が印刷されていた。
 ナミオがいった、「ねえ、この像も来るの?」
「もちろんでございます。その像が来ずして、何が教団でしょう——それこそが『出血する乳首教団』のシンボルなのです。みなさんが触ることもできますよ、——その手で」
「へー、すごいな! ねえ、マリア、行こうよ、絶対行こうよ」ナミオはマリアの肩にじゃれると、次にはエミの方を見て、「ねえ、エミも行こうよ、絶対さ、楽しいよ!」
 支配人は苦い顔をした。
「うーん、そうかエミは仕事があるんだよな——」ナミオが肩を落とす。
 支配人がうんうんと頷いた。そう、ナミオ君は頭がいいなぁ、エミちゃんには仕事があるんだよ。
「ねえ、支配人! エミ休んでも良いでしょ」
 坊主、そう来たか——
「ねえ、良いでしょ!」
「それは——まあ、店次第でございますね」
「それじゃダメだよ、絶対休みにしてくれなきゃ! ねえ、支配人!」
 支配人は揉み手をしながら、「それですから、うちはお客様より女の子の方の人数が少ないので——人手が足りないのでございます——」
「そりゃ変だよ、お客さんより女の子の人数が多かったら、働かない人にも給料を払わなきゃいけないんだよ! おかしいよ!」
 ナミオ、酔ってきたわね、でもちょっといい感じ——とマリアは思った。彼女の含み笑いはカンイチにも伝染した。カンイチがいった、
「そうだね、支配人。仕事より働くやつの多い会社はすぐに潰れちまうさ」
「それは——」
 カンイチが皮肉っぽくいった、「そりゃ、働かない人数分の金までお客から採ってるっていうんなら別だけどね」
 支配人の精神は錯乱しつつあった。彼はお客様と店の女、その両方を天秤にかけていた。ああ、わたしはどうするべきあるか——
 これは支配人にとって難題だった。
 わたしの目の前にぽっかりと穴が開いた。それはとても小さな穴だった。そこからカンイチ、ナミオ、マリア、エミ——四人の笑顔が見えた。
 支配人が錯乱から逃れることだけが、その穴をふさぐ唯一の手段だった。

 マスターはモールヘビ使い女の操るモールに足をからませて、フロアに尻もちをついた。宙返りを繰り返す二匹のサルは、マスターの顔を狙って、ジャンプと着地を繰り返した。
 マスターの顔は血だらけになった。だが、サルに罪はない。サルはいわれたことをやっているだけだったのだから。いわれたこととは、ジャンプと着地である。
 だからサルは教わったことを覚える優等生だった。
 だがマスターは店の娘の名前も覚えられない大バカ者だった。上の階にいる若造も同様であった。
 大バカ者になりかけた支配人は、やっとの思いで崖っぷちから後退できた。彼はいったのだ——
「わかりました、エミには休みをあげましょう」
 わたしの目の前から穴がひとつだけふさがった。
 だがわたしは、まだ残っている数多くの穴のひとつがブラックホールのごとき驚異となることをまだ予想だにしなかった。その穴とは——ゼンジの穴である。

 エミはテーブルの上のビラを見つめていた。
 マリアがつぶやいた。「それでもおかしな教団ね——『出血する乳首——』——? いったい何を拝むのかしら」
「え! 知らないの、有名なんだよ」とナミオがいった。
「ナミオはよく知ってるからな」カンイチが子供をあやすようにいった。実際ナミオは子供だった。
「それはね、モンローの像を拝む教団なんだ。もとはマフィアなんだよ」
「マフィアって、何それ、そんなものが宗教になるの?」
「そうさ、マフィアが勉強したんだ。スカーフェィスって親分がね。彼は学校を作ったんだ。それがつぶれちゃって出血する乳首教団になったんだよ」ナミオが自慢げな顔を見せた。
「なんなのそれ?——でも『出血する——』なんて子供がペラペラしゃべる言葉じゃないわね」
「おまえにもそんな真面目なところがあったとはね」カンイチが皮肉った。
 ナミオがいった「乳首ってね、『ペソン』っていうんだ」
「もういいわ、ナミオ。止めなさいその言葉」マリアがいった。彼女は溜息をもらすと、「——この子にとって乳首ってのは栄養を摂取するものなのね」
 エミがいった。それはビラの右下に印刷されたものだった。
 ・みな、神を信ずることなかれ
 ・みな、意識するものを信ずるな
 ・みな、無意識を信ぜよ
「無意識って、イドのこと?——」とナミオがいった。

「それにはボクが答えよう」——ボクとはわたし、つまりモーガンのことではない。そのボクとは、エミたちの前に現れた男のことである。
「こんばんわ、お嬢さん」——ひとりの男がエミの横に立った。ナミオが苦しそうに首に力をいれて顔を上げた。そこにはTシャツにジャケットをはおった男の姿があった。
 男は、あんた誰?——といったナミオの顔に応えるようにいった、「ボクの名前はミゲェルといいます」彼は大きな上背で会釈をした。彼の姿はナミオにとって童話の中の巨人だった。
「それで、いったい何なの?」ナミオが気むずかしそうにいった。
「ハイ、——ボクはスペイン語の教師をしています」
 ナミオが目を輝かせた「へえ! 先生なの、すごいや! 先生、先生! マエストロ!」ナミオが素直によろこんだ。彼にとり先生は『教師』であり、『母』であった。ナミオは言葉だけでスペイン語の教師というミゲェルの中に『母』を見いだしつつあった。
 そんなナミオの気を知らずにマリアがいった「それじゃあなたはオカマなのね」
 ミゲェルは困惑しながら、照れくさそうな顔でいった、
「そういう言葉は心外ですね。確かにボクはその資格をとるために、『あるもの』を取り去ってしまったが、それもボク自身が選んだことなんだ。それにこのニッポンじゃ、それも第三の性といって、その存在を認められている。ボクらの性はきちんと性別範囲に入っているんだ」ミゲェルは頭をかいた。「——それにこの国でボクらがまとまな仕事につけるといったら教師だけなんだ」
 マリアは馬耳東風だった。エミもそうだった。カンイチは酔いに身を任せていた。彼はあと二十分で酔いから醒める。それがアルコール錠剤の効き目だった。マリアがいった。
「それで何に答えてくれるの?」
 ミゲェルはエミの肩に手をかけるといった、「このお嬢さんがいっていたこと。しいてはこの宗教全般のこと」
「へえ、教えてよ、教えてよ——先生!」
 ミゲェルはナミオに笑顔を投げかけ、「まあ、ボクはスペイン語の教師なんだが、ボクには仲間がいる。そして縁があって彼らをニッポンに招く手助けをすることになった——」
「その『縁』ってのがあやしいわね」とマリアが茶々をいれた。
「単なる『縁』——あやしいものじゃない。この教団の中に、ボクの友達がいただけの話しさ」
 ミゲェルは続けた。
「彼ら——教団は無意識を信じる。無意識——イドだけを信じるんだ。こういった教団は、何を提供してきたか?——彼らは信じるものを提供してきた。何を信じるべきか、何を求めるべきか——教団はこういったものをさまよえる民衆に提供してきた。それはクロスであったり、張り付けにされた聖者であったりした。またツボだったりね。
 彼らは偶像を与え、偶像を崇拝してきた。そこには何か信じるものが偶像として存在し、彼らは教典を与えた。教典——それは教えであり掟だ。崇拝するものはそれを受け入れ、信じ、そしてしばられた。結果、彼らは自分が守られていると信じた
 しかし、それは間違ってる。人間は自由であるべきだ。いくら宗教とはいえ、しばられるのはいけない。ああしちゃいけない、こうしちゃいけない、これを食べちゃダメとか、そんなことじゃ、人間本来の姿が失われる。
 信仰することが人間の条件とするなら、信仰しない者は人間ではないのか?——彼らは宇宙人か? 地球には存在できないのか? 彼らはディアナのようなものか
 『出血する乳首教団』が主張するのはそこなんだ。彼らは何も与えないし、提供しないし、無理強いもしない。彼らはいう、何も信じるな!——そして無意識こそが重要なんだと
 無意識——こいつはなかなか姿を現そうとはしない。自分の意識を発見することは容易だ——自分は今、はしたないことを考えているとか、自分はあの子を意識しているとか、意識していることを意識するのは容易だ。だがどうだ、無意識をあなたは感じることができるだろうか?——
 自分は今無意識であるとしよう、それは無意識だと思っているから無意識であるのであって、ほんとうに無意識がわかったのではない
 『出血する乳首教団』はいうのだ、『無意識を信じよ!』そして『無意識を信じたとき、わたしたちは超越する』と!!」
 ぜえぜえ——ミゲェルは肩で息をした。
 ナミオは放心顔でいった、「じゃあ、ディアナは『乳首教団』なの?」
 ミゲェルが首を振った。
「ちがう、——彼女は火星人だ」
「彼女は『乳首教団』を信じちゃいけないの」
 ミゲェルは言葉に詰まった。彼は実際たじろいで見せた。
 マリアがざまあみろといった体でいった、「ほうら、しょせんあなたはつなぎ役ね——言葉に詰まってる。わたしにいわせれば、ディアナの方がよっぽど無意識を知っているわ。ディアナだけじゃなく、この子——ナミオもそう。これからのニッポンはどんどん無意識になるわ。誰もが何も感じとれなくなる。どこで何が起こっているのか、自分が流されていることさえ気がつかなくなる。この国の十年後、二十年後を見てごらんなさい。そこらじゅうにあなたのいう『乳首まる見えの鼻血ブー集団』の教祖さまであふれていることでしょうよ。みんな無意識でパッパラパー集団よ」

 そしてマリアは、わたしにとってたいへんありがたいことをいってくれた。
「そんな『鼻血ブー集団』より、わたしには『火星宗教』の方がよっぽど楽しいわ」といってあの『ブー』を見せたのだった。『ブー』というのは、こうである。
 ・右手の親指を鼻の穴に突っ込むようにあてがう。
 ・そして、その手のひらを「ブー」といいながら相手に見せる。
 それはわたしにとってとてもなつかしい『火星宗教』の挨拶だった。彼女はこうもいってくれた、
「わたしはあんたたちよりもディアナを信じるわ。——彼女の方がよっぽど純粋よ。彼女はイドにあふれてる。自分が何人かも知らないほどね!」

 この言葉を聞いてよろこぶ人間をわたしは知っている。それはマーレー・フラスコである。マーレーは悲しいことに腎臓をわずらっていた。彼は普段から自負していた。「——自分の身体はすこぶる健康である。なぜなら、悪いところはすべて消えてしまって、新しく造りなおされているからだ。どうやって?——それは秘密だ」
 彼のいう秘密とは、トランスポータのことである。トランスポータを使った転送体験により、彼の身体は分解と再構成を繰り返し、人間に必要のない物質を除いた超健康体に造りなおされていた。——はずだった。
 だが彼は腎臓をわずらい、それは老いた身体へ重い負荷となってのしかかった。
 そして彼は今ベッドにいたのだ。
 わたしは自分の目の前にあるいくつかの穴にマーレーのそれがあるとは思わなかった。
 なぜわたしは彼が今ベッドにあると知ったか? それはエミの言葉がとてもうれしくて、マーレーにも伝えたく、彼を捜した末に知ったことだった。

「とにかく——」ミゲェルは額に浮かんだ汗を拭いながら口を開いた。「——『出血する乳首教団』は来る。何も信じないことを教えにね」
 彼はそういって苦笑いを残し、店を出た。
 マリアはミゲェルの後ろ姿につばを吐き、つぶやいた、——「とっととうせな」

 ♭ 6 爆弾技師

 ミゲェルは店を出ると上の階に上がっていった。
「ほんとうに教団の宣伝なんてのはやってられないな。オレはほとほと疲れたよ」ミゲェルは狭い支配人室の綿のはみ出たソファに座りこんだ。彼は大きな溜息をつきながら、大きな手で顔を拭った。
 支配人は、これもまた古い両袖でベニヤ張りの机を前にして立っていた。支配人室で新しいものといえば、床に落ちているニュースマガジンの最新号だけだった。
「まあまあ、わたしたちは別に教団なんかどうでもいいんだ。それは隠れみの。ほんとうの目的は——」支配人は落ちているニュースマガジンを拾いあげ、その表紙をミゲェルに見せた。「——この子だよ」
 その表紙の写真はディアナだった。ディアナは六歳になっていた。彼女はしゃべることができた。英語を。
 支配人が浮き浮き顔でいった、「ディアナは歌がうまいのよ——知ってる?」彼はニュースマガジンとダンスを踊った。表紙に写ったナディアを自分に向け、肩をリズム良く揺らしながら、せまい支配人室の中で机や椅子をよけながら、ヘビのようなステップで踊った。踊りながら彼は歌うようにミゲェルに話しかけた。
「ラーララララ、ディアナは六歳♪、彼女はどこにいる? 彼女はもうすぐ——ここにいる♪」
「いつやるんですかぁかぁかぁかぁ♪——支配人?」ミゲェルが太い喉で伸びのあるソプラノで、カエル声の支配人に歌った。
「あーら、これは金髪がきれいなミゲェルさん♪——でもディアナの髪は真っ黒——あなたはいつ地下から出てきたの?——」
 ミゲェルが立ち上がった。「わたしは昨日出てきたの——素敵な管理人さん♪」
「いいや、わたしは支配人——♭」支配人はニュースマガジンを放り投げ、足をじたばたさせながらミゲェルの手をとった。自然と二人の動きはタンゴになった。支配人の身体がきざむ二拍子は、ミゲェルの去勢された心の宇宙にひろがった。
「ああ、支配人のタンゴは素敵ぃー♪」
「そりゃ、そうでしょ」支配人はチュッと投げキッス「——わたしはタンゴの神様なのよ♭」
「えっ! まあ!——それは素敵。それじゃわたしが本場のタンゴを見せてあげましょう!」ミゲェルはそういったかと思うと、今まで支配人に引きずられ気味だったのがうそのように、踊りだした。彼が二拍子にあわせて力強く振る腕にはヘラクレスのごとき筋肉が盛り上がり、支配人の小さな身体はゴムまりのように弾んだ。ミゲェルのターンはせまい部屋のなかで、何度も繰り返され、そのたびに支配人は引っ張られ、飛ばされ、地に足がつくことさえなかった。それでも彼はうれしさで今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「すごいわ! 力持ちで金髪で美男子のミゲェルちゃん——まるでわたし、地球を回っているみたい♪——ああ! 無重力よ! 無重力なの! ああ、どこかへ飛んで行きそう!」
 ミゲェルは、支配人の歓喜あふれる感動がいっぱい詰め込まれた歌に、失神しそうなほどの充実感を感じた。
「いいわ! どこへでも行かせてあげる♪——ほらターン! ほら右! ほら! 今度は天井よ!——」ミゲェルは支配人の手を掴んでいた左手を思いきり野球のピッチャーのように振りかざした。
「ひぇー♪」支配人は風圧で顔をへこませながら空気を切り壁へ激突した。「——あうぅー——イッたーい♪」支配人は床に崩れ落ちた。彼の額からなみなみと血があふれ出た。彼は眉毛の上から流れ落ちる血に気がつくと、下顎と舌を精いっぱい突き出し、それをなめようとした。「うーん、血はやっぱり血の味ね」
 ミゲェルは額から血を流す支配人をしばしぼうぜんと見つめた。そしてポツっと一言もらす。「——あら、支配人血が出てる」
「ありがとミゲェル、楽しかったわ」
「どういたしまして」そういってミゲェルは顔を下げながら後ずさりをした。
「あらいやだ、ミゲェル、ほんとうに楽しかったのよ——」支配人は蝶がすき間なくプリントされたハンカチで額の血を拭った。ミゲェルはまだすまなそうに下を向いていた。支配人が形相を変えた。
「何ジタジタしてんだよ、ミゲェル! わたしが楽しかったといったら楽しかったんだ、わかってんのか!——まったくオカマみたいにメソメソしやがって。でかいのは図体だけかよ」支配人は立ち上がると、玉虫のスーツについた汚れを力強くたたき落とし、がに股でミゲェルの前に歩み寄った。
「ミゲェル、オレはしってるんだよ。おまえが可愛い奥さんやサッカーまで捨てて資格を取ったてのはな。おまえの涙はなんだ——悲しくて泣いているのか? それともうれしいのか?——泣きたきゃ泣けばいいさ。でもこれだけはわかっとけ、オレはおまえがこのオレを投げ飛ばしたことちっとも恨んじゃいない。オレはほんとうに気持ちよかったよ。ほんとうさ、スカッとしたよ。最近は店の女もオレのいうことを聞こうとしないわ、税金にうるさいやつはいるわでいいかげんストレスがたまりっぱなしだったんだ。そのときにおまえのダンス。オレはほんとうにスカッとしたよ」
 支配人はミゲェルの肩を抱いた。
「ありがとう支配人、わたしも最近なにかつまらなかった。——というより悲しかった。女房の涙を思い出すとつい——」ミゲェルは大きな上背で支配人にを包み込むようにするとすすり泣きをはじめた。
「まあ、いいさミゲェルしょうがない。でも泣くのはあとにしろ。まずは仕事の話しだ」支配人はミゲェルをなだめ、その大きな身体につぶされそうになりながら、彼を椅子に座らせた。古い椅子がきしんだ。

「ミゲェル。わたしたちの仕事——それをまず確認しておこう。わたしたちに与えれた命令は、ディアナをかくまうことだ。なぜわたしたちがその大事な命令を受けたのか——それはわたしの店が『悪性運動消去法』に従った、他にはない最高でとても信用のおける店だからよ。あ、それから——」支配人は『チッチッ』と舌打ちすると、「——わたしはその命令を与えた男を知っている。だが今はいえない」
「どこでディアナを手に入れるんです?」ミゲェルがジャケットの袖で涙を拭きながらいった。
「それは簡単。教団が連れてくる。『出血する乳首教団』よ。彼らがディアナを大事に連れてくるの」支配人は子供のような顔で無邪気に笑った。
「それじゃ誘拐ですか?」
「ちがうわ。ちょっと『借りる』だけ。彼らは大きなケースにディアナを入れていくるわ」支配人は人差し指を唇にあてて『シー』の合図——「でもそれも今は秘密」
「秘密が多いですね」ミゲェルが上目づかいで嘆願するようにいった。
「まあ、作戦の成功はどれだけ秘密を守れるか。ということは、どれだけ秘密を作るかってこと。でもこの秘密さえ守れれば、わたしたちにも良いことあるのよ」そういって支配人はウィンクをした。「ね、金髪のミゲェルちゃん」
 ミゲェルの新しい性が持つべき感情のレセプターは、まだ完成途上にあった。

 病床のマーレー・フラスコの脇にはカンジェロが大人しく立っていた。彼は椅子を捜そうとしていたが、見つからなかった。こんなにだだっ広い部屋なのに——カンジェロは苛立ちをとおり越してもうあきらめていた。病院がマーレーに提供した病室は、病人が使う筈のないジャグジーの設備された、見下ろす人びとの姿がアリのように見えるペントハウスだった。
 カンジェロはオリジナルのギャングを忠実に再現した装いで、反るほどに背筋を伸ばして立っていた。布地こそポリエステルが大半になってしまったが、彼の頬にある傷は本物だった。黒い革製のハンチングにはひび割れが見えかけていた。
 カンジェロがいった、「ミスター・マーレー、調子はどうですか」
「普通だ。いつもと変わらない」マーレーの口から弱々しい言葉がもれた。「今日はどうしたんだ——」
 カンジェロは軽く咳払いをすると、これ以上声を大きくする必要のないように顔をマーレーに近づけた。
「十二月二十五日——わたしたち『教団』はニッポンへ行くこととなりました」カンジェロは一度言葉を区切った。彼はマーレーの反応を確かめたかったのだ。だが、マーレーにその反応はなかった。カンジェロには彼の腕に浮かぶ静脈に、栄養を送り続ける点滴の管を見やると悲しくなった。俺は病気にはならない——そう思った。カンジェロは続けた「——その時には、ディアナも連れていかなければなりません」
 マーレーが反応を見せた。彼の目は一度見開き、また閉じた。「ああ、連れていってくれ」
「実はそれなんですが、——ほんとうに連れていかなければならないんでしょうか?」カンジェロが訊きたかったのはそれだった。
 今までに彼はマーレーに対し三回同じ質問をしてきた。一回目はまだマーレーが歩けた頃、彼らのオルグ発祥の地であるスコットランドで、二度目はマーレーの私邸で。そして三度目が今だった。
 カンジェロはナディアをさらうことにいまだ戸惑っていた。彼にはその行いに対するやりきれなさがあった。
 『出血する乳首教団』の基を造り上げた初代の遺言はこうだった。『——法に触れることをしてはいけない』
 初代スカーフェィスは、マフィアを再構成し学校を創り出した。初代自身は、自分の教育事業に対する才能に酔い、自ら数々の理念を創り出した。が、実際には東洋からチャイナタウンに流入する大麻と、その販売をカモフラージュしている団体と見られていた。
 彼らの活動に対して自然のなりゆきまかせで現れた雨後のタケノコ的抗議団体は、様々なタブロイド新聞で、教団に潜んでいるはずの裏をあばこうとしたが、彼らがすぐに暴露できたのはヘロイン入りの水道水だけで、そのあとは一日限りのでっちあげしか掲載することができないでいた。
 だが、教団の基盤となるマフィアを配していた財団ではあらゆる薬物を扱っていた。彼はレセプターを作り出すことのできる中国人調剤師のチャンを一月分の給料で引き抜き、彼に教団が提供するヘロイン——実際にはレセプターだった——入りの液体を調合させるとともに、教団の教祖ともした。
 チャンは自分がレセプターを開発しているとは思わなかった。チャンが作り出そうといていたものは、ダイオウの効能をさらに発達させた、トイレの回数を飛躍的に増大させる超通じ薬だった。

 初代スカーフェィスは徹底して法の噂守を言明した。カンジェロは初代の言葉を未来へ継承することを胸に手を当てて誓いながら、頬に傷をつけたのだった。
「わたしはディアナをさらうような真似はしたくないのです。これはわたしの気持ちであり、わが教団の初代もきっとそういうでしょう。わたしたちは——法を噂守するのです」
「わかってる。おまえの初代はなかなか頑固そうだった——父親がいっていた」マーレーがゆっくりと、だがはっきりとした口調でいった。まだこのころのマーレーには力があった。わたしはずいぶんあとにマーレーと話すことになるが、そのときの彼は死にかかっていた。
 マーレーがいった、「だが、心配することはない。すべては財団がやることだ。きみらはあの子を——ディアナをかくまうだけだ。だいじょうぶだ——」
 マーレーは話題を変えた。
「ところであの男——何といったかな?——解雇した男だ。ほら、今は君のところにいるだろう」
 カンジェロは少し考え込むといった、「ミゲェルですか?——」
「そうだったかな」
「彼は頭がいいですね。彼は今ニッポンにいます。よく連絡が入ってきます」カンジェロがいった。
 マーレーは一瞬いぶかしい顔を見せたが、すぐに穏やかな顔に戻った。「わたしにはわからん、いったいやつはどうしてああいったことを思いつくのか。わたしは司法検事ではない。とにかくわたしは人事権を持ってあの男には辞めてもらった」
 ミゲェルはネットワークを利用した爆弾魔だった。彼が最初に送り出した爆弾は、ケーキ爆弾だった。彼はある種の化合物が相互に作用すると、熱を発生し最後には爆発にいたることを知っていた。彼はその内容をチョコレートケーキのレシピに入れ込み、『プロが教えるスペシャルレシピ』とネットワーク上で公開した。その結果、家庭を愛する主婦や、独り恋人を待つ女性が火の燃え移った服で火傷を負い、分量によっては台所が丸焦げとなり、プロパンガスを使っていた家は家ごと火に包まれた。この爆弾自体にはまったく電子的要素が含まれていなかった。だが、これはミゲェルが爆弾魔となる記念すべき最初の爆弾だった。
 ミゲェルは思考を重ねた。彼は実行しただけで爆発するプログラムの作成に取り組み、それを完成させた。彼は様々なシステムやプログラムが持っていた『省電力』をキーワードとしたプログラムに目をつけ、それを逆に作用させることを考えついたのだった。
 彼はそのプログラムを『世界最高のエロスへの入り口』とうたってネットワーク上にばらまいた。世界各国の端末が火を噴いた。電源回路のコンデンサが火を噴きながら破裂し、ディスプレイが爆発した。OAメガネをかけていなかったものは失明し、爆発音は聴力を消し去った。
 だがそのプログラムは実行しなければ効果がなかった。そこでミゲェルは実行をしなくても、人が必要とする情報に勝手にとりつくウィルス的な爆弾を作り上げた。
 これはメール爆弾とほぼ同じものであった。
 ミゲェルはすでに存在していたウィルスを好まなかった。それらのウィルスには、膨大な管理情報にとりついてそれを破壊したり、その端末を動作させているシステムを食い荒らすといった効果があった。ミゲェルのウィルスがもたらす効果は、ただやみくもに被害者のストレス度をあげ、エンドルフィンをいたずらに増加させるだけであった。被害者たちは一度落胆するが、知恵を寄せあってそのウィルスへの対抗策を考え出すであろう。そうすれば彼らは、自分が作り出したウィルスの解析を行うことは目に見えていた。——ミゲェルにはそれが我慢ならなかった。
 ミゲェルの天才は、自らの成功の原因が誰にも見破ることができない、という自信で成り立っていた。が、彼はこうとも思っていた——「なぜ誰も見破ってくれないのだ!」
 そう、席は空いているのだから。

 マーレーの会社——WC—COMの調査室がミゲェルを疑いだしたきっかけは、ニューヨークにあった日系銀行の端末が一斉に爆発した事件だった。その銀行のオンライン端末システムはWC—COMが納入したものであり、そのシステムへのアクセスは基本的に、保守も管理しているWC—COMか、その銀行が組織している管理室しかできなかった。
 会議の席上にあったWC—COMの幹部たちはその事実を知りながら、誰もそれを口にしようとはしなかった。WC—COM内から日系銀行のシステムへ爆弾ウィルスが侵入したということを示唆したのはマーレーの息子、ビル・フラスコだった。
「ネットワーク上におけるセキュリティは、数年前より、いや日を追うごとに強化されてきている。おちゃめなハッカーの仕業だと思いたい方が多いでしょう。が、——これは間違いなくこのWC—COMから送られたものです」
 彼はシステム設計室と調査室が連携して、爆発直前までのアクセスデータの収集を指令した。その結果浮かび上がった容疑者たる人物はミゲェルだった。彼は社内にはいなかった。彼は誰に何を告げることもなく、半ば失踪するようにミゲェルはニッポンにいた。恋人であるビビアに会うために。
 調査室は彼に与えていたIDやキーとなるパスワードを消去するとともに、彼への給料支払いを停止した。給料とは会社が社員の働きに応じて支払うディンギのことである。
 報告を受けたマーレーは、ミゲェルのような男の存在に驚きを見せたが、それは報告者が持つであろう驚きとは異にするものだった。
 報告書の二枚目にプリントされているミゲェルの容姿は『アストロノーツの宇宙冒険』に出てきた丸いアンテナを頭の上にくっつけた『電波男・ウェイブマン』そっくりだったのだ。もちろんミゲェルの頭にアンテナはついていなかった。ウェイブマンは火星の上で独り暮らし、頭のアンテナで宇宙の中の電波を拾い集め、敵を見るとお腹の中にためた電波をアンテナからビビビビっと放出し、相手を倒すのであった。
「ミゲェルといったっけか——今どこにいるんだ」マーレーがいった。
「あなたの会社を出ていったあと、そのままニッポンにいます。何せ、IDも何もないのですからどこに行くこともできません。彼は自分の国にも帰れない。彼にはとりあえず教団の仕事を手伝ってもらいます。今は同じく教団の来日をバックアップしている男の側にいるでしょう」
「地下じゃないのか?——どうやって上に上がった?」
「彼は資格をとったんですよ。『教師』になったそうです」
「そうすると去勢したか——」マーレーはミゲェルの天才が完成しつつあると思った。「彼は今でも爆弾魔なのか?——彼には目を付けておいたほうが良い」
「彼から端末は取り上げていますし、ネットワークに入ろうとしても彼にはそのためのパスワードがありません」
「それでもまだメール爆弾が多いとあの男——イサオ・セキグチがいっていたぞ。彼はメール爆弾を阻止するためにこの国のソフト会社から人を出向させているらしい」
 カンジェロは何もいわなかった。
「どうした?」とマーレーが訊いた。
 カンジェロが口を開いた。「——そのイサオ・セキグチという男ですが——彼がディアナを欲しがっているんですよね」
「ああ、そうだ。彼とは友達なんだ。息子のビルも知ってる」
「なぜ彼はディアナを欲しがるのですか」
「『明るい未来のために種族の保存を!』——なんてスローガンがある。イサオはそれに従い種を保存したいんだよ。ニッポンには今、悪性運動消去という法律がある。それは単純にいって、勝手に子を生ませないこと——彼らは『子』のこととを、『個(パーソナル)』といっていっている。だがそれが『個』であるにしろ、結局は人間から生まれるものだ。そこで彼は、母胎を選び、彼いわく『オリジナル』——父親を選んだ。そして必要に応じて『個』を提供するわけだ」
「それにディアナがどう関係するんです? 種族の保存を考えるならば、ディアナは完全に不適合と思います。——ディアナはニッポン人ではありません、それに——」カンジェロは言葉を止めた。彼はディアナを崇拝するように愛するマーレーの一面を知っていたのだ。
 マーレーが訊いた。「それに?」
「——ディ、ディアナは火星人かどうかもわからないのです」カンジェロは舌を噛みそうになった。
 マーレーはしばらくの間ボーっと天井を見つめていた。「あわてるなカンジェロ。ニッポン人は『念のため』という言葉が好きなんだ。イサオは君のようにディアナが火星人じゃないと考えている。それどころかニッポン人じゃないかと疑ってるらしい。彼はディアナの細胞が欲しいんだ。ただそれだけだ」マーレーがベッドから起きあがろうともがいた。カンジェロがマーレーに手を貸した。
「それじゃなぜ、正当な方法でディアナを養育している機関に願い出ないんですか?」
「恥ずかしいんだろ、——それは冗談として、今のニッポンの制度を諸手をあげて賛成する者たちはいない。何せ『家族』のない国だ。ヒトラーでさえ考えつかなかった制度だ。みんな怖ろしさと気味の悪さからニッポンを敬遠したがっている。頭の良いイサオにもそれはわかる。彼は波風を立てたくない、——そういった意味では彼も平均的なニッポン人だ」
「しかし、イサオがどういう男であれ、ディアナを今彼女がいる養育機関から連れ出さなければなりません。まずそこで問題になります。もしいなくなったことがわかったら——」
 カンジェロはマフィアの末裔とは思えない、青ざめて臆病な顔を見せた。
「心配いらん。誰がディアナがいなくなった、なんて騒ぎ立てるものか?——ディアナの教育機関にはよその国の人間は誰もいない。みんななかなか出ない結果にしびれを切らして手を引いてしまったからだ。誰もディアナが火星人であるという特徴的な根拠を見つけることができないために。今じゃこの国が細々と研究を続けている。年々少なくなってゆく対火星人養育基金でな。彼らはディアナがいなくなってせいせいするかもしれない」
 黙っているカンジェロにマーレーがいった、「とにかく手伝ってやってくれ——これは犯罪じゃない。用事が終わればディアナは帰ってくる」
 カンジェロがペントハウスから出ていったあと、病室の中に再び静けさが広がった。マーレーは出窓から見える青い空を見た。彼の目は火星を探してした。彼はつぶやいた。
「なぜだれもディアナを火星人だと信じないのだ——」
 カンジェロはエレベーターの中で、マーレーが説明してくれたディアナを連れ出す手はずを思い返していた。
 それは簡単なことだった。カンジェロ自身は教団の本部で待っているだけだった。マーレーは「タバコでも吸っていろ」といった。彼の説明によると、「ディアナは夜十一時三十分に本部の裏庭に現れる」とのことだった。ディアナを保護したあとの仕事は、すべてカンジェロに任されていた。

 ♭ 7 化石のたくらみ

 ゼンジはディンギを払っていた。古いアパートの一室で彼は財布の中から四百ドルを掴みだした。
「悪いな——これで勘弁してくれよ」
 女はまだ裸だった。彼女はくしゃくしゃになった赤い髪の毛を手で何とかまとめようとしたが、手ぐしでさえひっかかる髪の毛は天井を向いたままだった。
「ひどい頭だね」ゼンジが声を押し殺しながら笑った。
「あんたも人のこといえる? ぼっさぼさでさ」女はそういいながら、ゼンジの突きつけたディンギを受け取った。彼女は札の形をしたディンギをすり合わせるようにして片手で枚数を確認すると、「まあ、こんなところね」
 彼女は髪をすくのはやめて、ソファの上で立て膝になった。そして膝の上に顔を埋めた。「ああ、よかった。ありがとね。今夜は食いっぱぐれそうにないね」女はほんとうに安心したようだった。彼女は細い目をゼンジに向けた。ゼンジは赤い唇と話し出した。
「あたいの電話番号教えとこうか?——あと名前も」赤い唇がいった。
「何て名前なんだ」ゼンジがまだ血の抜けきらないあそこをパンツの中に隠しながらいった。
「ノリコ——またいっしょにしてくれる?」
「たぶんタイミングの問題だな」
「あんたならこんどからまけたげる——だってあんた変なことしないもの」
 ゼンジが不思議そうな顔をした。「変なこと? 何だそりゃ——」
 女は意外な顔をした。「わからない?——色々あるのよ。でもいいわ、知らないなら知らないで——変に興味を持たれると困っちゃう」
「教えてく——」ゼンジはその『変なこと』の正体を訊こうと思ったが止めた。どうせ口じゃ恥ずかしくていえないことだろう。
「——まあいいや。それより、どこか行かないか? まだ仕事か?」
 これは意外なことだった。ゼンジは夜に外出することを避けていたからだ。彼は自分の部屋にいることの方が好んだ。
 なぜかこの夜は外出することになる。わたしの送ったテレパシーが彼のイドのなかで逆毛を立てているのかもしれない。
 女は——彼女のいわくノリコさんの、『気が乗りそうで乗らなさそう』な態度は、ゼンジの一言で乗ることとなった。
「今日はおごったげるよ」
 実際、ノリコさんにはこれ以上仕事を続けるつもりはなかった。彼女にしても、帰ったところでゼンジと同じように独りになるだけだった。だが、ノリコさんの名誉のために——彼女の部屋には暖かい羽毛のベッドもあれば電子レンジもあった。不意の来客用の歯磨きセットもあった。そして決定的な違いは、彼女の部屋には大きな鏡があったことだった。
 そしてゼンジの部屋にあってノリコさんの部屋に無いもの——それはウズベク人の医者がくれたモルヒネだった。彼にとってこれは財産だった。困ったときのへそくりだった。
「どこ行こうか!」ノリコさんの着替えは光のスピードさながらだった。ゼンジはチノパンツを身に着ける手を止めて、惚けたようにそのスピードに酔った。
 ゼンジがその酔いから醒めたのは、ノリコさんの赤い髪の毛が、宙を舞ったときだった。ノリコさんの頭に新しい森が現れた。
「ああ、もうこのカツラってだめ! 化学繊維の安物は一回こっきりの使い捨てね」
 赤いカツラが宙に舞ったあとのノリコさんの頭は角刈りだった——わけではなく、シャンプーのモデルも青ざめる長くウェイブが適度に利いた、それはそれは素敵な髪の毛だった。
 その髪の毛が舞い上がったとき、ゼンジは新緑でにぎわう森林の中にいた。ノリコさんの長い髪はとても自然で、ウェイブは清水のさざなう小川のように、肌を秋風のように涼しくかすめ、新緑の匂いをかすかに含んだ春の初風のようにあたり一面を囲んだ。
 その豊満な髪の毛の中に埋もれるノリコさんは女神だった。
「さあ、早く支度なさいよ——」ノリコさんがいった。彼女の姿はゼンジの部屋をノックしたときは別人のようだった。着ている服は同じだというのに!
 彼女は髪に保険をかけるべきだ——ゼンジは思った。彼女の髪に触ることが、すぐにでも存在を消滅させられるような罪に思えた。
 ノリコさんはゼンジの側に立ち、早くシャツを着せようと、彼に抱きつく格好になった。柔らかな髪の毛がゼンジを触り、終いには包み隠した。「早く早く——」ノリコさんはシャツの袖に手を通すのに腕を曲げろとか真っ直ぐにしろとかいう。ゼンジの身体は硬直から始まり、次第にふぬけになった。ノリコさんがゼンジの頬に気付けのキスをした。それは王子さまがシンデレラにしたことの逆説だった。
「わ、わかってるよ——」ゼンジがいった。
 わたしはゼンジにいおうと思った。「——それは恋の始まりかもしれないぞ」
 ノリコさんのダイナミクスは刺激的で革命的要素の固まりになってゼンジの脳を奇襲したのだ。
 ゼンジは服を着た。自分はノリコさんに惹かれてしまったのかもしれない——彼はそう思った。そして、惹かれてしまったら突き放せばいい——オレは死にかけている恐竜なのだから。
 ノリコさんが歩きながらいった。「これ原稿用紙でしょ、何でこんなに散らばってるの——あんたもしかして作家なの? 今時はやんないよ」
「そうか? でもいつかなれるさ」ゼンジは照れもせずにそういった。
 ノリコさんはアパートの階段を駆け下りた。
 ゼンジは気がないように彼女のあとを走らずに追った。二人の足どりは、背後から光を受けて月のように夜空に浮かんでいるアドバルーンへと向かった。
 アドバルーンの下にはホームがあった。

 電車はガタゴト揺れた。ゼンジは毎日この電車で首相官邸まで通っていた。吊り輪につかまった彼の前にしわのはいったスーツを着た男が毛の乏しい頭をうなだれて寝ていた。それはホームレスだった。彼らは以前勤めていた会社以下の仕事を捜そうとはしなかった。ホームという家があるかぎり。
 そんな男たちは他の席にもいた。三年前からは女の姿も混じっていた。彼らが共通して考えていることはただひとつだった。——自分たちに必要なのは家なのだ。
 ゼンジの左腕にはノリコさんの腕が絡まっていた。背の高くないゼンジの顔をノリコさんの髪の毛が触った。
 ノリコさんは生きる知恵を身に着けた生まれたばかりの哺乳動物だった。ゼンジは恐竜だった。さっきまでは墓場からよみがえったガイコツだったが——
 死にかけた恐竜は化石になる。化石にいちばんふさわしいところはどこか?——それはたぶん『土』の中か『博物館』だった。
 ノリコさんがいった、「どこに行くの?」
 ゼンジがいった——「TSKビルだよ」ノリコさんが笑った。ゼンジは『防諜部長緊急臨時代理』となったときにもらったIDを使うことで、TSKの施設にかかる費用に割引が適用してもらうことができた。
 ゼンジは普通の顔をしていたが、心のなかではおそろしいことを考えていた。
『ディアナを取り返せ——取り返せ——取り返せ——取り返せ——』
 わたしは身の毛がよだった。この恐竜はもうひとふんばりしようとしている、——わたしはそう思った。すべてはわたしのテレパシーのせいだ。だがわたしにはそれを阻止する権利などあるはずがなかった。それはなぜか?
 ——ご名答、ゼンジはディアナの父親であった。

 カンイチの目は開きかけていた。マリアはナミオの喉から矢継ぎ早に発声される言葉の応酬に対し、果敢に戦っていた。
「あ、カンちゃんの目が開いた——」ナミオがいった。「やっと酔っぱらいが治ったね」
「カンイチ、無理しないでいいんだから——もっと寝てなさいよ。あんたって酔い覚め悪いんだから」
「う、んー」カンイチが目を擦った。彼の顔の半分にシャツのあとが残っていた。
「だらしないわねえ、むさ苦しいったらありゃしない」
「しょうがないだろ、むさ苦しいのは、オレは女じゃないんだ。でもすっきりしたぜ」カンイチは髪の毛をぐしゃぐしゃに引っかき回すと、グラスにほんの少し残っていた透明な液体を飲んだ。「ウェ!」カンイチがおくびをした。
「いやね、汚い」マリアが条件反射的にいった。
 カンイチがいった、「悪いね。でもほんとうにすっきりしたよ。——それじゃ、エミ、教えてくれよ、——オレの母親はどこにいるんだ?」
「それは単刀直入よ、楽のしすぎ、そんなことわかるわけないじゃない」マリアはエミの方を向くと、「ねえ、エミ?」
 エミは黙っていた。彼女は黄色いビラを読むことなく、ただながめていた。ねえ、エミ——マリアがそう二回繰り返したときエミがようやく振り向いた。
「何?——」
 カンイチがゆっくりといった、「オレの母親はどこにいるんだ」
 マリアがいった、「わかるわけないわね」
 エミがいった、「知らない」

 ♭ 8 性格

 エミの母親は性格の遺伝について研究をしてきた。彼女は大学時代にイサオと会った。
 個庭制度を導入し、『個庭』へと変革していくさいに、イサオが危惧したものは、『個』の誕生であった。彼は納得したくないながらも、個の誕生には母胎と、オリジナルの精子が必要であると結論せざるおえなかった。
 イサオは母胎の選択と、オリジナルの精子の製造のプロジェクトを発進させ、それにエミを呼び寄せた。イサオがエミに対し求めたものは、オリジナルの精子の開発であった。人工的に造りだされるであろうその精子は、誕生した『個』たちの間に外見の違いが生じさせるために、それを構成するコンテンツ——遺伝情報のすべてにおいて違いがなければならなかった。さらに、また彼は、そのコンテンツの中に『性格』を埋め込むことを要求した。
 エミの母親——アヤベ・クミはいった、「イサオ、性格は間違いなく遺伝するわ。気の弱い父親には気の弱い息子ができる。それでも母親のことを考えれば、父親の性格が子供に遺伝する確率は五十パーセントというところでしょうね。けれど、たとえ父親の性格を遺伝したところで、実際その息子が育っていく過程で父親が持っていた性格をそっくりそのまま見せることなんてありえない。それは学習しているからなの。それは父親から得ることもあるし、周囲の情報によるものもあるわ。もしも自分の父親ことを情けなくてどうしようもないと思い出したとき、たぶん息子は、自分だけはそうなるまい、と思うわね。そして知らないうちに性格を変えようと努力しはじめる。それよりも彼らが父親と似ている、と考えるきっかけは性格じゃない、そのきっかけのほとんどが身体的特徴でしょうね。目の色、皮膚の色、顔の形、肩の形——部分的にでも父親と似ているところ見つけたときから、自分は父親と同じなのだ——と考えはじめる。性格はその次じゃないかしら。あら、イサオ、そんな暗い顔をしないでよ——わたしがいいたいことは、子は育ててくれた人の顔を見て育つということ。だから、あなたが力を入れるべきものは、新たに設立される教育機構よ。素晴らしいじゃない?——養育と教育が一貫して行われる。そこには育てられた『個』に対していかなる責任区分も存在しないわ。重要なのはひとつだけ、『母』であり『教師』なの」
 イサオはまず父親と自分をくらべてみた。二人の性格は確かにちがう。父親は女好きで何人もの妾を方々においていた。自分がそれをきらいなのは、父親を見てきたせいなのか?——彼はそう考えるとおそろしくなった。つまり、父親がちがうタイプの男であったならば、逆にイサオが百人もの女を養っていたのかもしれない。イサオは後頭部を枕に深く沈め考え続けた。
 クミは立てひじで寝そべり、イサオを見ていた。イサオとクミは、イサオの父親が作った会長室のとなりにあるプライベートルームのベッドの上にいた。そのベッドは父親自慢の電動リクライニング式震動型ウォーターベッドだった。イサオはその機能を試したことがなかった。その操作の仕方は父親しか知らなかった。イサオはその機能を使おうとも思わなかった。ただ、照明だけは取り替えた。父親がとりつけた照明はあまりにストリップ的だった。
「イサオ、あなたは考え過ぎよ。今は仕事中じゃない。あなたはわたしと会っても、何かしら研究に関することであったり、このくそったれな世の中のことであったりするわ。わたしにとってはつまらない話しではないけれど、こうした場所でする話しじゃないんじゃない?」
 イサオがポツリと応えた——「ゴメン」
「いわせてもらえば——すぐに仕事の話しを持ち出す人は子供時代からぜんぜん成長していない証拠だと思うわ。子供って、その日にあったことをすべて親に話そうとするでしょ。それといっしょ。ともだちに精神鑑定を仕事にしている人がいるけれど、ワーカホリッカーのほとんどに子供の頃の性格が大きく残っているんだって。彼らにとっては、小学校も仕事も同じになっちゃってるね。イサオはそうならないでほしいけど」
「ボクは仕事が楽しいんだ」
「イサオって友だちがいないの?——大学のときだっていつもひとりだったわよね」
「君がいたさ」
「いいえ、男の友だちよ」
 イサオは黙ってしまった。
 今までの話しは九年前のことであった。このとき、クミの娘であるエミは七歳だった。
 九年を経た今、イサオには友だちがいた。それは大学時代にゼミをともにしたのでもなく、会社の同僚でもなかった。その友だちは小学校の同窓生だった。あまりに古い友だちは、初対面のようだった。だが相手は人の母親の人数までよく知っていた。その友だちはハルといった。彼は親が続けてきた洋食屋を受けついでいた。
「イサオ、その友だちを大事になさい」クミがいった。そして、「友だちはきっと助けてくれるわ」
 ボクは別に助けてもらう必要なんかないんだ——イサオはそういおうと思った口を閉じた。そう、イサオに助けてくれるものは必要なかった。彼にはたくさんのとりまきがいた。首相官邸というホームの中に。

 わたしのママはお母さんを育てる仕事をしてる——エミがいった。「お母さんはそのなかよ」
「それはほんとうか?」カンイチがテーブルの上に身を乗り出した。マリアがエミとカンイチの間に割り込んだ。
「慌てないでよ」といって、「——エミ、それってほんとなの」
 エミは冷静だった。「そのなか」
「それだけ?——」マリアがいった。
 エミは何もいわなかった。カンイチは黙りこんだ。

 ♭ 9 接点

「いらっしゃいある!」——そう叫ぶのはマスターだった。彼は明るく大きな声でエレベータ兼ホールのドアから入ってきたお客二人を迎えた。彼は両手を広げてお客に駆けよる——「あーら、ひさしぶりねぇ、シイナさん!」
「シイナでも何でもいいよ、二人だけど席ある?」そういったのはゼンジだった。
「あーら、お連れさんの髪、素敵ね——とってもきれい!」マスターの手がノリコさんの髪の毛へ自然と伸びた。ノリコのきゃしゃな手がそれを叩いた。
「いやだ、さわらないでよ!」
「ああ、きびしい!」——マスターは手で顔を覆い隠し、見えない天を仰いだ。「わかったわ、とにかく席にご案内しましょ」マスターの身体は腰を引きながらホールへと移っていった。
 ノリコさんがいった、「ここにはよく来るの?」
「いや、たまあにさ、君は?」
「ディンギがあればね」
 カンイチは驚いた。「あれ、きみはディンギって知ってるの」
「知ってるわ、ロシア語でしょ。商売柄よ——わたしお金を世界の言葉でいえるわ」
「ふーん、で今日のディンギの具合は?」
 ノリコさんは「知らないわ」と笑い、ゼンジの胸のあたりを指で押さえた。

 マスターは人の頭だらけのテーブルの中から空いたばかりの丸テーブルをひとつ見つけると、「このあたりでどう?——すぐに片づけるから」そういってマスターは両手の口を指に突っ込みいきなり指笛を吹いた。「ほーら、早く来て!」
 エプロン姿の二人の女がやってきた。一人はバケツとタオルを持ち、もう一人は薬を載せた金属のトレイを持ってきた。マスターがいった。「ほーら、早くこのテーブル片づけて、大事な大事なお客さんなのよ」
 女の一人がいった、「マスターってみーんな大事なお客さんなのね」
「当たり前よ、あなたたちにとってもだーいじなお客さんなのよ、——はいシイナさん、ここに座って」マスターがゼンジに手くばせをした。
 ゼンジとノリコさんが椅子に座ると、エプロン姿の女がテーブルにトレイを置いた。そのトレイの上にはピンクや青の錠剤を盛った白い皿がのっていた。
「ああ、わたしこのピンク色の好きよ」ノリコさんはそういうと、それを一粒つまみ、「乾杯!」といって口に放り込んだ。
「それじゃピンクは遠慮して——」ゼンジは緑色のを選んだ。
「わたしそれあんまり好きじゃないな。だって色がまるで便秘薬みたい」
「緑色のやつがいちばん胃にやさしいのさ」ゼンジは錠剤をぽりぽり噛んだ。

 なんという偶然か——わたしは説明しなければなるまい。今ゼンジとノリコさんがついているテーブルのすぐ後ろにはカンイチたちのテーブルがあった。そしてゼンジの背後にはカンイチの背中があったのだ。
 ホールに響くバンドの音で、各テーブルは鎖国状態におかれ、テーブル間での会話を聞き取ることはほぼ不可能だった。人を呼ぶにも指笛が必要なくらいに。
 イサオにとって久しぶりの外出は、とても楽しくなりそうだった。少なくとも出だしはいい。なぜなら、ノリコさんも笑っているではないか——イサオは実にうれしかった。この三時間でゼンジは変わっていた。
「きみの髪はとてもきれいだ」——ゼンジの顔はほんの少し赤みを帯びていた。彼の口からこんな媚びた言葉が発せられるのは何年ぶりだったろうか——。
 ゼンジが女性に対して最後に媚び言葉を放ったのは一九九六年だった。その言葉はごく月並みなでこういったものだった。
「きみはなぜそんなにきれいなのだろう」
 ゼンジの欠点は、それをいってしまったあとにいつも照れ笑いをすることで、それを見た女性は、なんだ冗談だったのね、と胸をなでおろす。それが常だった。
 一九九六年の媚び言葉から七年の年月を経てゼンジが放ったものは、「きみの髪はとてもきれいだ」というものだった。だがその言葉にはなんのいかがわしい魂胆も含まれてはいなかった。ただきれいだと思ったのだった。
「わたしの髪?——そうかしら」ノリコさんはゼンジの言葉にまんざらでもなさそうだった。彼女は指で髪の毛をクルクル巻いたりのばしたりして細い目をいっそう細めた。
「ああ、そう思う。最初の赤毛には絶句したけれど」
「ゼック?——ああ、絶句ね。そうでしょ、わたしもあれはないと思うわ。ちょっと安物過ぎたわね」ノリコさんの顔に最初に飲んだピンク色の錠剤の効き目が現れてきた。彼女は酔うと陽気になるたちのようだった。
 ゼンジは何の遠慮もなく訊いた。遠慮することが彼女の名誉を傷つけてしまうのではないかとおそれたためだった。「——今の仕事は何年くらいやってるの」
 ノリコさんは嫌な顔ひとつせずいった。「五年になるかしら」そういって、またピンク色を一粒口に放り込んだ。「最初は会社に勤めてたのよ、不動産の。でも一年もしないうちに辞めちゃったわ」
「へえ、どうして」
「そこの社長がスケベだったのよ。二人きりになったとき、脂ぎった顔をわたしに寄せてきてさ、『しようしよう』なんていうの。鼻息が気持ち悪くって、わたし『何すんのよ!』ってひじを鼻っ柱にぶつけてやったの。そしたら鼻血がブーって出ちゃってさ。その時はそれで終わったんだけど、何だかいずらくなっちゃって——それで辞めちゃった。そのあとは昔の同級生にこの仕事を紹介してもらったってわけ」ノリコさんはバンドのジャズにあわせて指でテーブルの上をたたき、リズムをとりはじめた。
「へえ、警察にいえばよかったのに」
「まあ、やられてなかったし、こっちも鼻血出させてやってすっきりしたしね。警察に行くのもかったるかったし」
「オレは二回警察に行ったことがある」
 ノリコさんは興味がありそうだった。「え、何? 何やったの——」
「看板を壊したのと、それから自転車泥棒」ゼンジは自分からまったく情けないといった顔をした。ノリコさんもあきれた顔を見せた。
「何だつまんない。人でも刺したのかと思った」といって、ナイフを突き立てる真似をした。
「やめてくれよ、人殺しにするのは」
「わたしの同級生にいたわよ、それも五人。わたしのクラスがいちばん多かったわ。おかげで先生ったら教室に入ってこないの。しばらくの間は自習ばっかり。で、しばらくしたら先生はみんな——」彼女は腕を折り曲げて筋肉を盛り上げる真似をした。「——体育会系に代わちゃってさ、それもプロレスラーみたいなやつ。ありゃあ百回刺しても死なないわね」
 ゼンジはノリコさんにあわせて笑い顔を作った。
 わたしはゼンジのためにいっておこう——彼はノリコさんの話しで笑いたくなかったが、そうするしかなかった。たいがいの人間は気に入った女の子の話しにはあわせるものだと思っている。
 ゼンジは結婚について訊こうと思った。が、今の制度の中で結婚というイベントは存在していなかった。彼の数少ない話しのタネ——ボキャブラリーがひとつ減った。さらにもうひとつ、——それは「お子さんはいらっしゃいますか」だった。そうして言葉を選ぶゼンジであったが、彼の考えていたことをそのままノリコさんに返されてしまった。
「あなたってもう良い年だと思うけど、奥さんいたの?——」ノリコさんはそういって、「——昔にさ」とつけ加えた。
 ゼンジは『昔』、という言葉がきらいだった。その使い方にもよるが、その用法が間違っている場合、それはメガ感性がいわせている言葉だ。
 ノリコさんのいった言葉がメガ感性に犯されているか否かはともかくとして、わたしは彼女の質問に対するゼンジの答えに驚いた。彼はやはり変わってしまった。彼はこう答えたのだ——
「奥さんはいない。好きだった女性はいた。今でもたぶん好きだ。あと——オレには娘がいた。いや——娘がいる。今でもね」
 ゼンジは堂々といい放った。——「娘がいる」と。
 ノリコさんは不思議がった。「なんでよ、奥さんがいないのに娘がいるわけないじゃん」
「落ちつけよ」ゼンジがなだめるようにいった。「奥さんがいなくても子供はできる——そのくらいは知ってるだろ。なんで子供が産まれるかってくらいは」
「そりゃ知ってるわ。わたしはいつもその危険にさらされているもの。ただ、子供だけ作っといて何で結婚しなかったのかなって思ってさ」ノリコさんは隣の椅子に置いた大きめのハンドバックの中からタバコを取り出して一本くわえた。マッチで火を点けると、一瞬二人の間にイオウの匂いが立ちこめた。「それでその娘は今どこにいるの」
「彼女はNASAの養育機関にいる。彼女は火星人といわれているらしい」ゼンジはごく当たり前のことのようにいった。
 ノリコさんの細い目が開かれた。「じゃあディアナちゃん? あの子があなたの娘だっていうの!」
「ああそうだ。彼女は正真正銘オレの子供だ。オレの娘だ。そして彼女は火星人なんかじゃない。彼女の親にしたってそうだ。ますオレ——オレは地球人でニッポン人だ。そして彼女の母親はインドネシア人だ。そして彼女は、ディアナは紛れもない地球人なんだ」
「あんた本気でいってるの」ノリコさんは信じられないようだった。そして「そりゃ変よ」と独り言をぶつぶついって、ハッカ入りタバコをせっかちにふかした。
 ゼンジにはディアナは自分の娘であることを打ち明けた女性が一人いた。その人の名はアヤベ・クミといった。彼は今でも覚えていた。ゼンジは自分が少しでも興味を惹かれた女性のことはすべて覚えていた。それはストーカー的な行動の下準備などではなく、ただ忘れることができなかっただけのことであった。
 アヤベ・クミは心の広い女性だった。彼女は確か博士であったと記憶していた。彼女はディアナがゼンジの娘であることになんの反論も口にしなかった。それは彼女の仕事がらのせいかもしれないし、思考方法の違いかもしれなかった。
 すべての女性がアヤベ・クミのようだとは限らない。そして実際にはそう限らない女性、もしくは男性の方がはるかに多かった。たとえばノリコさんもそのなかの一人であった。
「彼女が火星人じゃないなら、なぜあんなところにいるの。何ていったっけ——エヌエーエスエー特別火星人養育、うーん」ノリコさんは渋い顔をした。
 ノリコさんが話した内容によると、彼女はずいぶんとディアナに興味を抱いているようだった。あまりに進展性のないディアナの研究の中、彼女に関する本はたったひとつしか出版されていなかった。それもディアナを中心としたものではなく、ある男の自伝の中の思い出として登場するだけであった。その本を書いたのは、火星にあったテントの中からディアナを連れ出した老練な隊員だった。自伝は彼が退役軍人となったあとに書かれたもので、出版して一年後、彼は心臓発作で倒れた。ちなみにディアナを発見したときにはその老練な軍人の他に若造が二人いたが、二人とも空軍の訓練中における戦闘機墜落事故と、交通事故で死んでいた。
 ノリコさんは、その退役軍人が書いた本を持っていたが、その本はタイトルのわりに相当失望させられる内容であった。タイトルはこうであった。
『わたしの半生——ディアナを救った男』
 ノリコさんはこのタイトルに惹かれて、書評や内容も知らないまま買ったのだが、実際に読んでみると、ディアナに関する内容は次のように要約できた。
『——わたしが初めてディアナにあったとき、彼女はまだ一歳になっていなかった。わたしは彼女を抱き宇宙船に乗せた。わたしはそうした経験のない若い二人の隊員の代わりに船内で暖かいミルクを作り彼女に飲ませた。お腹いっぱいになったディアナは若い隊員にオシッコを引っかけた。わたしたちはそれで大笑いしたものだった——』
「ほんとにあの本は高かったわ。六十ドルもしたのよ。もしもあんたがディアナの親だっていうんなら、あんたの方がよっぽどうまく書けるわよ」
「でも火星人じゃないなら読んでも意味がないだろ」
「——まあそうだけど、でもほんとにあんたって、ディアナちゃんの親なの?」
「ほんとうさ、夢をこわしちゃったかな」
「別に夢なんかじゃないわ。少なくともわたしはあの子が火星人だって信じていたんだから——現実だったのよ。でもほんとに信じらんない」ノリコさんはほんとうに困った顔をした。
「まあ、信じたくなきゃ信じなくてもいいよ。人それぞれ信じるものはちがうからね」
 バンドの音が静かになった。まだ曲の途中だった。すぐにマスターの高い声によるアナウンスがなされた。
「お客様失礼しました。当店自慢のバンドではありますが、トランペット奏者があまりの熱演を繰り返すあまりに倒れてしまいました。まことに申しわけございませんが、ほんの少しの間休憩させていただきます。ほんとうにすみません——」マスターは『すみません』を何度も繰り返したが『すみません』らしい感情は感じられないアナウンスだった。
 店内は客のざわめきだけになった。
「バンドがないとずいぶん静かよね——」ノリコさんはそういって所在なげにあたりを見まわした。そして無造作にピンクの錠剤を一粒口に放り込み、またタバコを吹かしはじめた。彼女の心には、もしかすると目の前にいる男は少し脳ミソが足りないのかもしれない——そうした思いがあって自分がとるべき対応に少なからず戸惑いがあったのだ。「この床見てよ、何だかいっぱいビラが落ちてるわね」ゼンジは彼女の視線を追うようにして、フロアに落ちているたくさんの紙をながめた。ノリコさんはその中から汚れてなさそうな一枚を拾い上げた。
「へえ、乳首教団が来るんだ」
「乳首——?」ゼンジがいった。「あのアメリカのおかしな教団?」
「そうよ、このビラに書いてあるわ、ほら——」ノリコさんは黄色で安っぽいビラをゼンジに見せた。
「ふーん」ゼンジは興味がなかった。宗教は火星宗教でこりごりだった。「ノリコさんはこういうの好きなの?」
「こういうのって——この人たちのこと、それとも宗教のこと?」ゼンジはどっちもというと、「——この人たちは別にきらいじゃないわ。なんだかいかれてるって感じでいいんじゃない。何だかお祭りみたいで。でも宗教ってのはね——わたしはあんまり興味がわかないわ。無理矢理信じるものを押しつけられてるみたいで」
 ゼンジは頷いた。そしてゼンジが口を開こうとすると、すぐ側で子供のような声がした。
 それはナミオだった。

 ナミオがノリコさんの横に立っていった、
「お姉ちゃん、ちがうよ。この教団はね、信じるものがないんだ。何も信じなくていいんだ。ね、簡単だろ」
 ゼンジはナミオを見た。ノリコさんがナミオに声をかけた。「きみ誰?」
「ボクはナミオってんだ」ナミオの頬が赤くなっていた。この子は酔ってるなとゼンジは思った。酔った子供というのはやはりむずかるのだろうか?——
「ナミオ、あんたやめなさいよ」それはマリアの声だった。
「いいじゃないか、このお姉ちゃんに教団のことを話しているんだから」
 ゼンジは声のするテーブルの方を見た。そこには三人の男女が座っていた。二人は女性。そのうち一人はひどく静かそうだ。そして残る一人は男だった。ゼンジにはその男の後ろ姿しか見えなかった。
「あら、先生じゃない」ノリコさんがゼンジの肩越しにいった。彼女のいう先生とはマリアのことだった。
「あら、ノリコ、こんなところで会うなんてめずらしいわね」マリアがいった。ノリコさんは立ち上がってマリアの側に駆け寄った。
「先生だって——ここにはよく来るの?」
「ときどきね。でもどうしたの最近うちにこないじゃない」マリアは立っているノリコさんの腕をさすりながらいった。
「最近は仕事が少なくってね、——仕事も少なきゃ病気にもならないってわけ」
「まあ、それもいいことね。で、あれはもしかして今日のお客さん?」
 ゼンジはマリアの声を耳にはさむと、ちょっと恥ずかしくなった。が、それもじき解けた。「そうよ、すっごく好い人。あなたと同じアパートの人よ。それも同じ階なの——知らない?」
 マリアがゼンジを見るのとゼンジがマリアを見たのはほぼ同時だった。マリアが先に声をかけた。
「こんばんわ、——お客さん」マリアはゼンジの名を知らなかった。
 ゼンジがいった。「こっちこそこんばんわ。きみは先生なのか。もしかするといちばん端の部屋?」
「そうよ、医者なの。知ってたの」
「いつも部屋の前を通ると薬の匂いがするから——医者といえば薬だろ」
 そのとき、カンイチが振り返りいった。
「この女は医者といってるが『自称』医者なんだ」
「そうか——」ゼンジは言葉をとめた。そして唾を飲み込んだ。この男の顔はどこかで見たことがある。どこかで——

 ♭10 バンド交代

 支配人がやってきた。後ろからミゲェルがついてきた。彼はバンドを見にきたのだった。
「まったく、倒れたってのはどいつなのよ、ドイツ人?」マスターにはそれが洒落だとわからなかった。
 マスターは不思議そうな顔をして答えた。「ちがいます。この人ニッポン人です」そう真顔でいわれた支配人の顔はあきらかに不服そうだった。
 支配人は「ほんの冗談よ!」といって、床に倒れている男を見た。男の足は絡み合い、腕を大の字に広げて倒れていた。片手にはまだ銀色のトランペットが握りしめられていた。
「これは酸欠ですね」とミゲェルがいった。
「ほんとにしょうがないわね。だめなの? 起きそうにないの?」支配人がいった。
「いやあ、だめでしょう。何回も頬を叩いたんです」マスターがいった。トランペット奏者の頬には手形が浮かんでいた。
 支配人がいった、「あんたこれは叩き過ぎじゃない? 真っ赤っか——まあ、いいわ。ここにいたんじゃ店の邪魔になるわ。ミゲェルあんたちょっとトイレにでも寝かしといて。それから病院に電話してちょうだい」そしてマスターの方を向くと「ちょっと代わりがいないから、トランペット抜きでできるものを演奏させなさいよ」
 ミゲェルの大きな身体は楽々とトランペット奏者を抱き上げた。奏者の手にはまだトランペットが残っていた。
 マスターがいった、「いやあ、そういわれてもどんな曲が——」
「色々あるでしょう——そうだ、ロックにしなさい! ロックよ!——あれならトランペットなしでもオッケーよ、ギターをグウィーンってね」
 ミゲェルが客席の中に入っていこうとした。トイレは店の奥だった。

 ♭11 捜す者と助ける者の出会い

 二人の男は椅子に座ったまま見つめあっていた。
 この男をいったいどこで見たのだろう——ゼンジはそれを思いだそうと、カンイチの顔をながめ続けた。ながめられているカンイチの感情は気持ちのいいものではなかった。彼は今にも口を開きそうだったが、それは不思議にも喉の奥でとまっていた。彼はゼンジの目に悪い予感を見ることができなかった。
 他の女性たちも口を開こうとはしなかった。ナミオでさえ、顔には自分のわからないことに対する不満さえ見せるものの大人しく黙っていた。
「プリント——」ゼンジがつぶやいた。
 カンイチが首を傾げた。
「そう、プリントだ——」ゼンジの口調は段々とはっきりしたものになってきた。
「そうだ、おまえはプリントの男だ!」ゼンジがいった。カンイチが立ち上がって身構えた。
「いったい、何いってんだよ、おじさん」
 ゼンジも立ち上がった。「いや、ちがう——そうじゃなくて、いや、きみが悪いんじゃない——」ゼンジの言葉は支離滅裂だった。「とにかくきみが悪いんじゃない、落ちついてくれ」
 カンイチが肩に力を入れながらいった、「落ちつくのはおじさんのほうだぜ」カンイチは自分の椅子に座った。「まったく何いってんだか——」そういいながらマリアを見た。「一度診てやった方がいいんじゃないか?」
 ノリコさんがいった、「あんたどうしたのよ」
 ゼンジは大きく呼吸をして椅子に座る。「すまなかった。少し慌てていた」ゼンジは意外と早く冷静になることができた。「話しを聞いてくれ——」

「それにしても何でまた——」支配人は自分の不満をマスターにぶつけていた。「バンドの無いキャバレーなんて見たことがないあるよ」
「支配人、別にバンドがなくなったわけじゃありませんが」——マスターが不思議そうにいった。
「あんたってバカ?——客のリクエストをきけないバンドなんてバンドじゃないのよ。『トランペットがないからできません』なんていえると思ってるの、それじゃバンドがないといっしょのことよ!」支配人は悔しそうに足を踏みならした。
 かわいそうなマスターはすでに涙ぐんでいた。
「し、支配人!」そういったのはミゲェルだった。彼はまだトランペット奏者を抱えていた。
「あんたどうしたのよ。まだそんなもの抱いているの」
「ちがうんです、支配人——あの、あの男——」ミゲェルはその男の方へ首をひねる。支配人は面倒くさそうにその方向を見た。
「何よ、男って」
「あいつ、あの髪のきれない女の横にいる男——」
「あれがどうかしたの」支配人は、どいつもこいつもしょうがない、という体で腕組みをした。
「あいつが何でここにいるんです——あいつは防諜部の男です。首相官邸にある」ミゲェルが真顔をでいった。
 支配人は額に手を当ててうなだれた。「オー・マイ・ミゲェル、別に防諜部だろうが首相様だろうか店に来ちゃいけないってことはないんだよ。まして優良企業や官庁のIDにはTSKグループの割引が受けられる特典がついているんだ。これで『来るな』なんていっちゃいけないな」
「しかし——」ミゲェルはまだ何かいいたそうだった。「あいつは何か知ってるかもしれませんよ、わたしたちの計画とか」
「心配するなミゲェル。知っちゃいない。知ったとしても、ちゃんと見張りをつけるからだいじょうぶ。すぐに連絡は行きわたらせるわ。——必要ならね」

 オレはおまえを見たんだよ——ゼンジはそう切り出した。「その前に——オレはゼンジ、きみは?」
「オレ?——」カンイチは一瞬戸惑った。
「カンイチっていうのよ、ボクはカンちゃんって呼んでる」——ナミオがいった。カンイチが頭を抱えた。「よくしゃべるやつだよ」
「カンちゃん、いやカンイチ、オレはきみを見たんだ——」
 カンイチがゼンジの話しの腰を折った。「オレはそこらへんをいつも歩いて——」
 ゼンジは手を振ってカンイチを制した。「まあ、待ってくれ。オレがきみを見たのはホームでだ。正確にはホームのカメラが写したプリントでだ」
 カンイチは舌をベロっと出しては引っ込めた。彼は髪の毛をグシャグシャにかいて、「いったいどこで見られてるのかわからないな」
「そうだよ、どこにだってカメラがあるのよ、銀行にも、スーパーにも、どっこにでもあるの」とナミオがいった。
 ゼンジはナミオ見ると笑い顔でうなづいた。彼はあまり子供には慣れていなかった。「別にきみがどこにいようと構わない。だがオレがきみをプリントで見なければならなかったことには理由がある」ゼンジはその理由を口にすべきか一瞬迷った。
 カンイチがいった。「どんな理由なんだ。オレが立ちションベンでもしてるところを見つけたのか」彼の口調にはあきらかに苛立ちがこめられていた。
「ちがう——その理由はこうだ。わたしは通報を受けた。それはいったいどんな通報か——」ゼンジは言葉を止めた。ホールに響くギターのうるささのなかで、このふたつのテーブルだけが浮いていた。「——きみが母親を見たという通報だった」
 カンイチの目が一瞬うつろになった。ゼンジがいった、「それはほんとうなのか?」
 ナミオがまた開きかけた口を「ナミオ、黙れ」とカンイチが制した。
「ほんとうだ。見たのは電車の中だ。オレはちょっと頭がおかしかった。ああ、確かにおかしかった。それでも気がついたときオレの母親が座っていたんだ。それもオレのとなりにね」
「話しかけなかったのか——」ゼンジがいった。
 カンイチがいった。「いや、——オレは直感的にその人が母親だと思った。話しかけようと思ったさ、でもその人は寝てたんだ。よっぽど疲れていたんだろうな。オレも何だかびくついてた。すごく久しぶりだったんだよ。で、結局話せなかった。ホームってのは人でいっぱいだろ——オレは押し出されるように出されちまった」
「でも、おじさんはいったい誰なの? その『通報』だとかなんだかわかならないだけど——」そういったのはノリコさんだった。
 ゼンジは苦い顔をしていった、「ごめん、——オレは首相官邸の防諜部というところで働いている。カンイチが『母親を見た』という通報は、ホームから車両省、そして官邸の防諜部へ入った」
「ということはだいたいのことを知っているのよね」そういったのはマリアだった。
 ゼンジが訊いた——「だいたいのこと?」
 マリアがあきれた顔をした。「この国に関することよ。たとえば『母親』のこととか——イサオ・セキグチと仕事をしているのならね」
「ああ、知ってる」ゼンジは後先を考えずにいった。実際に彼は官邸内や政府の内情に対する観察は何ひとつしたことがなかった。「——オレが知ってるかぎりは」
 カンイチが立ち上がった。「それじゃオレの母親がどこにいるか知っているのか」
「はっきりいおう——こういうことをいっていいものかわからないが——」カンイチがいった。「まあ、どうせオレは『代理』だからな、——今日関係部署に調査を依頼したよ。たぶん明日の朝、もしかしたら今にでも結果が出ているかもしれない」
「ほんとうか——」カンイチがいった。マリアは疑いの目でゼンジを見ていた。マリアの思いを代弁したのはノリコさんだった。
「いったいどういう問題だかわからないけれど、わたしはあんまりこの人、信用しない方がいいと思うよ」彼女はカンイチを、そしてマリアを見た。「この人おかしいのよ——たとえばさ、ナディアが自分の娘だなんていったり、今なんか首相官邸で働いているなんていってるじゃない。何だか変よね」
 マリアが賛同した。「そうよね、何だか話しがうますぎるわ——カンイチ、用心した方がいいよ」
「そんなことはない——」ゼンジがいった。その声ははっきりとしたものだった。疑われている立場の彼に不思議とうろたえはなかった。「オレが話していることはほんとうのことだ」ゼンジはカンイチを見た。「もし——もしもきみが母親を探したいというのなら、手助けができるかもしれない」
 カンイチは迷っていた。そんな彼をマリアとノリコさんが見ていた。彼女たちの目には女性特有の眼差しがあった。腹の中は?——『カンイチやめときなさいよ!!』
 カンイチは女性の、いや他人のいうとおりになるような男ではなかった。短い時間で考えた彼は一度のチャンスをゼンジに、そして自分に与えた。
「一度だけ——その調査結果というやつを教えてくれないか。それで決めるよ」
 ゼンジは溜息をついた。そして、「ああ、かまわない、そうしよう。オレはその結果をどうやって伝えればいい?」
 カンイチがいった、「オレから連絡するよ。あんたの連絡先を教えてくれないか」
 ゼンジはカンイチの申し出に同意すると、自分のIDナンバーを教えた。「『SKB1HZ1121』だ。ここに打ってくれ。あとゲスト識別は『3Y89』としておこう。明日だけこの識別番号を登録しておく」
 カンイチは首を傾げた。「図書館の端末からでも使えるのか?」カンイチはゼンジから番号の殴り書きしたナプキンを受け取った。
「もちろん使えるさ」ゼンジがいった。
 マリアが腕を組んでいった、「さあ、どうだか——メール爆弾かもしれないよ」
「あるある、わたしの友だちの部屋なんかフッ飛んじゃった」とノリコさんが相槌を打った。
 カンイチがいった。「まあ、とにかくやってみるさ。身体中にトタン板でも巻いてさ」
 ゼンジが苦笑いをした。まだメール爆弾は解決さていないし、今日はアダホを失った。
 エミがいった、「あら、この子寝ちゃってるわ」
 テーブルの上に頭を突っ伏してナミオが寝ていた。

 ♭12 世間話し

 イサオ・セキグチは電話をとった。三回線あるうちのひとつ——その電話はクミからのものだった。
「イサオ寝てた?」
「いや」
「また仕事してたんでしょ」クミは受話器にぶら下がっているコードを指に絡めながら話した。彼女の目の前にはデバイスニュースの料理の欄が開かれていた。
「ああ、仕事だよ。あいかわらずさ」イサオは手にしたボールペンを宙に投げては受け取り、また投げた。これは電話中における彼の癖でもあった。「それは君もいっしょだろ」
「ご名答——まだ地下にいるの。メトロよりも深いところよ。でもわたしは好きでやってるわけじゃないわ、あなたとちがってね」
「まあがたがたいわないこと——きみだって好きではじめたことだろう。そうじゃなきゃ大学時代から続くわけがない」受話器の向こうでクミが笑った。が、それは本心からのものではなかった。それはイサオの気にも止まった。
「でもここの仕事はいやね。上司もいやだわ。センター長はメールの配信先さえしらない。それよりも母胎を管理するのが辛いわ。これならまだ同じ母性省の教育機構でミルクを作っている方がましね」
「もう何年になる?——」
「あら、忘れたの、六年よ」クミの声は少し甘えているようだった。
「定期休暇はちゃんととれてるかい」
「もちろんよ。もしとれてなければまっさきにこのラインに電話するわ」
「ああ、すぐに休みを取らせてやるよ」
「お願いね。それはそうと新しいデバイスニュースって見た?」
「いや見てない。何かあった」
「まあ、イサオには全然興味のないことかもしれないけど、プロフの作り方が出ているのよ」
「なんだいそれは」
「忘れたの? 料理よ、プロフってやつ——ほら中央ロシアに行ったときの」
「ああ、あの黄色いチャーハンかい」
「チャーハンじゃないわ、プロフ。作りかたがちがうのよ。それにこれそっちにいる出向者のレシピみたいよ——ア・ダ・ホっていうのかしら? ウクライナ出身って書いてあるわ」
「ユニソフトのやつかな、今メール爆弾の防爆壁とそのウィルスの解析を頼んでるところ」
「仕事までは書いてなかったけれど。でもおいしかったわね——わたしは好きだったわよ」
「ボクはあんまり覚えていないな」
「そう——」
 イサオはクミが電話をしてきた理由を聞いてみた。「電話をしてきたのは別な理由だろ」
「理由って?——」クミの声が途切れた。イサオは続きを待った。「今日、母胎が外へ出たの」
「外へ出た——」イサオは努めて冷静だった。
「そう、徘徊範囲外へ。ニイダ・カンコ——それが母胎の名前。彼女は電車に乗ったらしいわ。今日帰りぎわにそちらの防諜部から依頼を受け取ったのそれで調べたらわかったの」
「そうか——監視をやめたからかな」イサオが沈黙した。
「イサオ?——どうしたの」
「クミ、その依頼は誰からもらった」
「センター長よ。それがなにか?——」
「いや、発信元だ、どこから発信されてるのかな」
「防諜部よ、——『首相官邸内防諜部』ってなってるわ」
「署名は?」
「署名——サインね、それが読めないのよ。ゼ?——わからないわ。とにかく防諜部の人じゃないの」
「わかった、母胎が外出したことは気にしなくていい。精神的ストレスを与えないために監視をやめたし、範囲決めて外出を自由にしているんだ。きみのせいじゃない」
「ありがと。でもお願いがあるんだけど——」
「なんだい、休暇かい——」
「いいえ、ニイダ・カンコを早く出してあげてほしいの」
「きみがそう思うなら」
「それじゃ願書を書くわね」
「ああ、構わないよ」
「それじゃ、お休み」
「あ、クミ——ボクは明日ビルに会いに行くよ。半年に一回の夕食会だ」
「わかったわ」
「それじゃお休み」
「あなたも」
 回線を切ったのはクミの方が早かった。イサオは受話器から無味乾燥なトーンを聴いた。

(続く)



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