SSブログ

仮題:バイバイ・ディアナ 1 [仮題:バイバイ・ディアナ]

【1回目】

(地質時代生物の遺がい?)

♪ 1・火星人ディアナ

♭ 1 空港での再会

 アユム・ハマグチは胃を押さえるようにさすっていた。彼は空港でアメリカから来た古くからの友人に再会したのだった。友人は喫茶店の窮屈な椅子に大きな尻を埋めていた。
 友人の名はモーガン・サザーランドといった。彼はまず、「南北戦争はひどかったが、実に意義のある戦いだった」という。たいがいにおいてモーガンは、「南北戦争はひどかった——」と上唇をすっかり隠しているビーバーのようなヒゲに唾を浴びせながらいった。いつものことである。アユムが「それじゃアトランタとかジョージアとか、そういったところの出なのかい?」と訊くと「いや、サンフランシスコだ」と答えた。彼のひいおじいさんが南部の出身であるらしかった。彼の南北戦争談話は、ひいおじいさんがくつろぐ揺りイスの側で小さい頃から毎晩聴かされてきた結果の性癖だった。ちなみにモーガンは白人だった。
 彼がニッポンという国に来たのは友人に会うためであった。
 モーガンはアユムの顔を見ると、親指を鼻の穴に突っ込むようにしながら、じゃんけんのパーのように手を広げた。その時の彼の顔はいたって真面目である。アユムにとってはもう見なれたもので、少々食傷気味であった。
「なあ、モーガン、相変わらず、幻想宗教かい」アユムが抑揚のない、ジャングリッシュ——ジャパニーズとイングリッシュの混用語——でそういった。
 モーガンがいった、「ああ、そのとおり。ボクのボスはいつも火星からボクらを見ているよ」

 死の星である火星に生命が存在している——こういった科学的裏付けのある前から、モーガンは生物が存在したことを信じていた。それは神だった。星を死に至らしめることができるのは神だけだ——そう考えて人生を生きてきた。まあ、人生といっても彼は三十八を過ぎたばかりの年齢であり、まっとうな暮らしと腹八分目の生活さえ崩さなければ、人生の折り返しに地点もまがっていなかった。
 モーガンは強調した。
「いいかい、アユム。人間——まあ、生物全般の話しであるけれど、誰も彼らの命を奪うことはできないんだ。誰もそれを自由にすることなどできやしない。それをできるのはね——ああ、もうわかった顔をしているね——そう、それは神だけなんだよ。神はこの地をつくり、天を創造した。そして命の躍動する昼と、それはそれは恐ろしい闇をつくった。昼と夜、昼と夜、昼と夜、そしてまた昼と夜——神はこんな繰り返しの時間をこれもまた神がつくり出した人に与えたんだ。もうどれだけ繰り返しているかわからないだろう。そのうえ、人は食べなければいけないし、水も飲まなければダメなようにできている。神はなんというゴウ(業)を人に与えたのか。きっと神はボクらの身体をもっと他の何か——たとえば太陽さえ浴びていれば食事をしなくてもいいとか、寝たいとき寝だめができて、起きたいときには一ヶ月でも起きるようにつくることもできたはずだ」モーガンはカップごと口の中に放り込むようにミルクたっぷりのティーを飲んだ。「——ああ、おいしい。まあ、とにかくボクらは神の好きなように操られているわけだ。ほんとうにこれってゴウ(業)だよね。よく人ってのは、『こんな単調な人生はシット(くそくらえ)!』とか、『仕事ばかりが人生じゃないぜアスホール(くそくらえ)!』とかいうけれども、ボクらはそういう生活から一生抜け出ることはできないんだ——昼と夜がある限りはね。ボクらは神のつくった繰り返しというベルトコンベアの上に乗りっぱなしなんだよ。リンネテンショウ(輪廻転生)で生まれる前から、そしてその後も神のレールの上を歩いて行くんだよ——」そしていった、「——たまには車にも乗るかもしれないな」
 モーガンは顔が小さい男だった。しかし顔からは下は大きい。肉がだぶつき気味だった。しかし、汗をあまりかかない顔は透きとるように白く、そばかすはなし。眼はつぶらで、そんな彼の姿は一見年齢の判別がつかない病人に見えた。
 アユムは、神という存在をあまり意識したことはない。自分なりのもっともらしいへりくつ——天皇という存在が人間となったときに、神はこの世から消えてしまったのだ。
 そして彼は神様を意識しない代わりに、仏様というやつを最高に気にしていた。つまり最低にきらいだった。
 アユムは幼い頃、たぶん幼稚園のころであると彼の脳は記憶していた——
「人は死ぬと仏様になるのだよ」
「ボクもそうなるの?」
「ああ、そうだよ」
 誰がそういったかはわからないが、かなりのお年寄りであったことは記憶している。それも女性の。ただし『生きている間に善い行いをした人』、という注釈がついていた。最初は——それをあくびしながら聴いていた子供の頃には感じなかったが、年を重ねるにつれ、『死ねば誰でも仏様になれる』と信じる人々がいることに対する不気味さがアユムのなかで膨らんでいった。

 モーガンは小さい頃——彼が八歳のとき一度死んだのだという。一九六九年の暑い夏の日だった。モーガンは同じ階に住む同じ年頃の子供たちといっしょに遊んでいた。いつものとおり廊下を走り回っていただけであるが、彼らが打ちならす不規則でビートの効いた足音とときおり発される猫や犬に似た声のうるささは住人にとってイライラのタネであった。が、自家製マーマレードやミスター・ホイの中華料理のレシピを教えあう母親たちは外で遊ばせることを好まなかった。なぜなら一歩アパートの外へ踏み出せば、ナンバーの外れかけた車や夏だというのに長袖のニットシャツを着る男たちが帆走するジャングルであったからだ。子供たち自身ジャングルを居住区として当然な昂進状態であったが、彼らにはまだそれに見合うだけの防衛本能が芽生えていなかった。そこでアパートの住民たちは、屋上に目をつけた。男たちに柵をつけさせ、子どもたちをそこで遊ばせたのだ。小さなガラスハウスで植物を栽培し、ビニールのプールと小さなブランコを二つ置いた。子どものモーガンはその屋上からあやまって落ちた。モーガンは運がよかった。オープンカーのシートにたたきつけられた彼は、一度呼吸を停止しながらも蘇生を果たした。モーガンはいう——「イエスの弟子ペトロにいざなわれて復活したんだ」彼はペトロのことを『赤い服を着たおっちゃん』と形容したが、もちろん母親は自分の息子が気の狂ってしまったと勘違いせざるおえず、たいへん悲しんだ。母親の悲しみの理由に気づきだしたモーガンは、自分の救い主である『赤い服を着たおっちゃん』のことを口にすることを止めた。

 話しは突然変わる——
 『WC—COM・ワイアレス アンド コミュニケーション社』はその名称のとおり、通信を基盤においた企業である。彼らの歴史は古く、一八六一年から五年間続いた南北戦争の中で、極秘にテレグラフ通信機を納入、調整をしたことから、その業績は始まった。まだ一八三〇年頃にフランスが腕木通信方式の最盛期にあった頃に若くして初代経営責任者となったハービー・フラスコが生まれた。成人になるころの彼はすでに国政とのつながりを深く持っていた。特に幼友達のいる軍との関係は友人同士ようにフランクなものだった。小さな頃から何かをつくりだすことに興味を抱いていた彼は(彼の最初の製作物はウンコであった)女のほうはまるでさっぱりだった。それは彼を知る人の発言でもわかる、「お前の血はお前で終わりだな——このウブちゃん」
 そのハービーが結婚をしたのは五十歳になったときだった。
 そしてハービー・フラスコは自らの身代わりのために一人の子孫をこの世に送り込んだ。彼はハービー・フラスコ・ジュニアと名付けられた。ハービーは息子のために軍隊総出演の『火星冒険ツアー』という映画を製作するほどの親バカぶりだったが、この映画が息子の心から離れることはなかった。彼は父親とちがい夢想に近い空想が得意な子供だった。少々現実を無視する傾向があったとはいえ、創造心に関しては父親に勝るとも劣らなかった。
 その五十年後、すでにジュニアという呼称の消えた初代ハービーの子孫はまたその身代わりをこの世に送り込んだ。

 モーガンは、人は誰でも何らかの『生き残り』であることを説いた。彼の祖父は南北戦争の生き残りであったし、アユムのおじいさんは第二次世界大戦の生き残りである。そして彼らは自身が時間を放棄してしまった現在でも前世の生き残りであった。そしてアユムは、アユムが以前いたであろう世界の生き残りだった。
「ボクらはなぜ生きているか、というよりもなぜ生き残っているのか?水分をたっぷりと含んだ肉体があり、肉体の中を抵抗力のある血液が決まった性質で流れ回っている。アユムはなぜ食事をするのか?——それは肉体が要求しているせいなんだ。そう確実にボクたちは生きらされている
 世界はひとつじゃない。複数ある。それは何枚もの図面を使って一枚の絵や図面を描くことに似ているんだ。人々はその絵のなかを飛び回る——しかし、その順番は決まっているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ボクらはいま、一枚の絵の中にいるんだ。
 ボクらはそれぞれの色を持っている。そして宇宙という絵の中に影をつけて配置されるのさ。ボクたちは永遠に身代わりを創造してゆくんだ。粘土で人形をこしらえるみたいに——ボクらは複製でありオリジナルだ——そしてすべては生き残るために。遠い昔の時代の人々が埴輪に死者の魂を吹き込んだようにね——
 ボクらが複製とするならどこかにオリジナルがある。マスターが必要だ——宇宙人類のマスター、マエストロ——『神』が必要なんだ」
 アユムは、また神の話しか、という気になった。ほんとうにうんざりなのだ。
「わかるよアユム、君が神を信じないことはね。だから神を実在させる必要があるんだ。それがボクの仕事さ」

 モーガンはアユムいわくところの『幻想宗教』を確立するにあたり、とりあえず他の宗教に対しても興味を持つ振りをしている。
 それだからモーガンには日本の仏教に対して、思いこみといっても恥じない知識がある。
 モーガンは、日本人が仏教を信仰するうえでブッダ本人よりも、ホトケ(仏)——成仏した人の姿——に重点がおかれていることを確信している。またそのホトケというのは、身内——自分の先祖、もしくは生前の恩を売ってくれた人のホトケに限る。間違っても見も知らないとなり町の爺さんのことは端にもかけない。日本人は死んでしまった隣人を敬うわけで、これはただ後悔や申し訳なさからわき起こる衝動でしかないと思えた。つまり、信心する人は何らかの形でホトケとなった人を敬わなければならない立場にあり、そういう立場にさせたのは存命中のホトケに対して非常に善くない行いをしたからに他ならない。モーガンはそのいくつかの例をあげる——。
 ・生前のホトケに対し強制的な労働を強要した。
 ・生前のホトケに対し動物的な夜間運動を強要した。
 ・生前のホトケに無理矢理子供を産ませた。
 ・子供ができたと偽り結婚した。
 ・夫婦生活において多大な精神的負担をかけ、その結果相手を死なせてしまった。
 たとえば以上にあげた五つの例が仏を敬わなければならない理由である。
 信心する理由にはホトケに対し悪いことをしたという謝罪の念の他に欲というものがある。これはどこに出かけるにしろ、いい家に住みたいとか、いい旅館やホテルに宿泊したいとか、総括していえば『いい暮らしがしたい』という生活欲をあの世でかなえるために信心を行うのである。
 モーガンは、『お前がどこにいてもホトケ様は見ていらっしゃるのだよ』という説を聞いた。彼はこれを、死んだ霊がこの瞬間にもとなりに座っていたり身体中にまとわりついているということであると理解した。また一般に地獄へ堕ちたとされる人間は、ホトケ様とは呼ばないことも知った。
 仏教を信仰するものは概して高齢者が多い。これは若者の農村離れと似ている。若者の多くは能率的なコンビニエンスを求める。
 モーガンは、若者たちが自分たちの国に古来から伝わるものに対する薄尊さを嘆きはしかなかった。引きずるものがないほど色が染まりやすいものだ。
 ただ、日本人がホトケ様を尊ぶことは彼らのなかにいくらかの自殺願望があることを示唆しているように思えた——
 これがモーガンが持つ日本における仏教に対する知識であったが、これのほとんど、というかすべてがアユムの口述であり、それを裏付けるものはアユムが持つ宗教への邪念のみに他ならない。

♭ 2 ガン細胞

 アユムが初めてモーガンに会ったのはアメリカでその市場を独占しつつあった『WC—COM』社の研究所であった。それは三年前の話しになる。
 アユムは日本の会社がWC—COM社と契約したフレーム式のスーパーコンピュータの据え付けのために渡米した。彼はスーパーコンピュータの中味などひとつも知っちゃいなかった。知っているのはスーパーコンピュータを止めるのに床に穴を空けてボルトを埋め込むことくらいだった。少し英語ができる(それもほんの少しなのだ)ということでかりだされたアユムは、まさに人材不足で自転車操業型企業が口にする『猫の手』だった。彼はコイルファスナーで止めてある説明書を飛行機の中の暗い照明で読みながら多少の知識を頭に詰め込んだ。それでもいくつのプロセッサが使われているかなんてことはさっぱりだったし、そもそも覚えようともしなかった。彼がまずいちばんに覚えなければならなかったことは、『バールを用意してください』、『木枠は一番から外すこと』、そして『電圧は間違えないこと』の三つだった。
 それさえ間違いなければ、スーパーコンピュータはROMとディスクにより素直に立ち上がり、研究所が受け入れテストをしたあと、受け入れ証明にサインをもらって帰るはずだった——
 しかし、それは動かなかった。そもそもアユムには動かないということがいったいどういう状態であるのかわからなかった。何か光ったりしている。しかし、台湾で印刷されたマニュアルは全然ちがうことを指示している。彼はフロアに座り込んでマニュアルを読んだ。スーパーコンピュータの設置された部屋は新しい研究用に用意されたもので、コンピュータ稼働後には大勢の研究員たちが配置される予定だった。アユムは人のいないその部屋でときおり寝転がりながらマニュアルを読んだ。
 こういうときこそ思うことは、『早く帰りたい』とか『明日になればきっと動いてるんだよな』、という底の無い夢物語である。
 ここで研究所に来たばかりのモーガンが現れなければ、アユムは一生かなうはずのない夢を見ていたにちがいない。
 ・モーガンがスーパーコンピュータを撫でたら動くようになった。
 ・モーガンが大地にキスをしたらスーパーコンピュータが動いた。
 ・モーガンがおまじないを唱えるとスーパーコンピュータが動くようになった。
 どれも不正解であるが、「失礼、部屋を間違えました」といって入ってきたモーガンが、コンピュータが動くようになるきっかけを与えたとことは事実である。しかし、モーガンがアユムに与えたきっかけはとても簡単なものだった。
「うーん、君の見ているマニュアルってちがうんじゃないかな。ほら、目の前にあるのはおっきなクロゼットみたいで引き出しがいくつもある。でもこのマニュアルの表紙の写真は何だか子供のおもちゃを入れるベンチチェストみたいじゃないか?」

 アユムはある目的をもって仕事を辞めた。そして彼はとりあえず住所を実家へと移した。住所不定というのがあまりにはずかしいことであるかのように。
 母親はそれなりによろこんだ。休養と気分転換を兼ねて家の仕事を手伝ったが、母親は夏休みってことにしとけという。彼女は他人に対して見栄っ張りなのだ。自分の息子が失業中であるなどとは口が裂けてもいえない女性だった。
 いいかげんにしてくれよ——アユムは内心あきれていた。そんな話しがいつまでも続くわけはないのだ。彼はそんな母親がいやでたまらなかった。
 アユムのと父親は数年前に亡くなっていた。
 父親は休みといえば寝ることしか知らない働き者だった。
 一般に『働き者』といわれる者は、いくらかのディンギを手に入れていると思われるが、世の中には『働く』ことがほんとうに生き甲斐だという者もいたりする。
 だがアリやハチと人間を混同してもよろしいのですか?
「よろしい!」

 モーガン・サザーランドは何度かの空想的研究の末、あることに気がついた。しかし彼はこのことについて話すとき、その根拠を述べたことはない。その弁解のために彼が必ずいうことはこうだった。
「いいかい、この世に根拠なんてものはひとつもないんだ。みんな仮説でできあがっているんだよ。ほんとうにアユムは自分の先祖がサルだったと思うのかい? どうだろう、——ほんとうに君の先祖はサルなのかい? よく考えてごらん。君は誰がが寝ないで考えたこと——そう、ここが大事だ、『考えたこと』ってとこがね。つまり、誰かがどこかで何かとんでもないことを仮説としてでっち上げ、色々な国の土地の地面を掘り起こしたり、現地の労働者を雇ったりして、その証拠をやっきになって探し回る。そして仮説は、とりあえずの真実になって、その結果をボクらは勉強させてもらってるってわけだ。
 科学者や考古学者たちの徒労の果てには、人類に地球の歴史を振り返らせたりする色々な新しい発見がある。
 でもその発見とはいったいなんだ?」
 モーガンにとりその発見は『赤い服を着たおっちゃん』が彼の呼吸を復活させた理由であり、マーレーにとっては火星だった。

 アユムは恋をするのがへたである。それは彼が彼自身に対して持つ自信のなさに起因することは間違いなかった。
 しかし彼は恋をしていたし、自分が恋を知らない子供であることを自ら白状するようにとても狂おしい日々を送った。
 たとえば——
「モーガン! いったいどういうことなんだ、彼女のことが頭から離れなくて、ボクの心は今、とてもぐしゃぐしゃなんだ——彼女の夢だってどれだけ見たかわかりゃしない!
 彼女をAさんとしよう——
 彼女の手はもみじみたいに愛くるしいし、しゃべる言葉は天使みたいだ。笑った顔よりも泣いた顔のほうが素敵。といってもボクはサドじゃない! それに彼女の泣いている姿を見たことがない——けれどきっと素敵なんだ。ちょっとはお酒もいけるし、本気で飲んだらボクのほうが先におやすみをしちゃうんだろう、髪の毛はわりと長いんだけど、その髪の毛をひっつめた姿はとてもしおらしい。
 ボクはときどき彼女の夢を見るんだけれど、絶対に彼女と上手くいったためしはないんだ。そしてその夢のほとんどはその子が誰かと引っ付いちゃってる夢——その夢を見るたびに「彼女といっしょにはなれっこないのさ!」って思うのさ。
 そして肝心なことは、ボクの眼が彼女とあうことは一度もないってこと。それでボクは落ち込むのさ——彼女はボクのことが大きらいなんだろうなって。
 彼女とどうなりたいとか、ああなりたいとかそんなことはどうでもいい。だけど彼女にきらわれたくないんだ!」
 という具合である。
「なあ、モーガン——彼女は愛くるしくて優しい、そして料理だって上手だ。こんなボクにはまったくもって似合わない女性なんだよ。それに彼女は広すぎるんだ——」
「広すぎるって——何が?」
「それは心だ、心がすごく広いんだ——彼女はまるでブラックホール。吸い込まれそうになる。海みたいだ。それもすごく広くてきりがない」
「そいつは結構なことじゃないか」
「結構なものか——うん——結構かもしれない、けれど、ボクには広すぎるんだよ、溺れっちまう!」
「泳ぐんだよ」
「いや、だめだ——ボクはプールの片道しか泳げないんだ!」

 アユムは東京の職場でモーガンからの連絡を受けた。その媒体は電話だった。
 七月だというのに、アユムのフロアだけエアコンは故障していた。もう移転が決まっていて、二カ月後に取り壊されるビルは、誰の管理を受けることもなかった。
「あのう、ハマグチさん」アユムよりはるかに新しい人類である事務の女性が受話器を片手でふさぎいった、「何だか英語みたいなんですけど・・・」
 アユムは冷静に顔色をとりつくろいながら電話を替わった。アユムはニッポン人を前にすると英語がしゃべれないたちだった。ある世代までのたいがいのニッポン人がそうである。
 ちなみにこれからの会話はジャングリッシュを駆使したものとなり、それを考慮した構成になるのであしからず——
「はい、こちら○○会社ですが。私があなたを助けますか?」
「こんにちわ、今モーガンがしゃべっています。アメリカからです」
「モーガン氏?——おぅ、モーガン氏?——これはアユムがしゃべっています。ごきげんは素晴らしいですか?」
「いいです、あなたはアユム? わたしはモーガンです」
 ——と続けるつもりであったが、まったくくだらないので要約をすると、モーガンは「ホッカイドウに行きたい」、アユムは「はいそうですか」、という会話だった。そしてたいがいのニッポン人がそうであるように、モーガンもホッカイドウについて何の知識もなかった。

 ここで登場しなければならないのはアユムのガン細胞である。
 アユムは自分の知らずのうちに父親のガン細胞を受け継いでいた。今、彼のガン細胞はアユムの身体の中——ひ臓の片隅で絶えず困難な細胞分裂に力を入れていた。まだアユムのガン細胞から分裂していった仲間はほんの一握りであるが、早くこの作業が軌道にのることを祈っている。
 自身がガンであることに気づかないアユムも、あと二年も過ぎれば自覚症状を覚えるだろうと彼、ガン細胞は予想していた。それからの彼ら——何度もいうがガン細胞である——の成長は早い。彼らは人に血を吐かせることもできるし、身体を弱らせ、痰も吐けずに呼吸困難で死に至らしめることもできる。
 モーガンがホッカイドウのことを知らないように、アユム自身も自分の身体のなかみがどれだけ深いものか想像していない。たまに腹がおかしくなったときに、自分の腸のなかでウンコをつくるために発酵したガスが、魔女のツボで沸き立っている毒薬のようにプスプスと浮かんでは割れるのを感じるくらいなものだ。
 彼らは三年のうちにアユムを病床へと送る力を持っていた。白血球を増やす仲間が、苦心して多量のロマンチックを露出させながら、無駄な延命をつくりだすことが涙を誘う。人間は痛みに耐えることを前提としてつくられておらず、彼らの親切もなかなか受け入れられてもらえない。これは悲しいことだ。
 だが、事実としていえたことは、アユムはあと三年以内であの世へと送られることだった。それが運命なのだ。想像できないほどのはげしい傷みとともに。
 イエスもガンだったのかもしれない。かもしれない、という言葉は可能性を示す上でとてもいいかげんで都合のいい言葉である。たいがいのニッポン人はこれを『メイビー』という。

「アユム——」モーガンはアユムに話しかけるとき、決まって「アユム」と名前を呼んでからしゃべる。ときどきアユムは、二人きりのときぐらい名前を呼ばなくたってわかるのにと思う。仮に自分の名前をただ自分が自分である確認のために呼んでいるのなら、モーガンは人間の存在を怪しいものと思っているのではないだろうか?——アユムは明日になればヨシオかもしれないし、一秒後、いや、時間では計りきれない経過でタツオになっているのかもしれない。仮に「アユム」という呼びかけにアユムが「ボクはヤスヒロだよ」、といえば、モーガンは訂正するだろう——「ああ、ソーリー、ヤスヒロだったね」
 人間の名前とは何ななのか——アユム自身そう思うことがあった。
 モーガンに「なぜ君はモーガンなんだい?——はたしてそれを証明するものはなんだろうか」そう訊いてみたい衝動にかられることがあった。そんなにしょっちゅうではない。なにかなんでもないきっかけでそういう衝動にかられた。大ざっぱにいえば人生がいやになったとか、なぜ自分は生きているのだろう、とか考えることがきっかけといえばきっかけだった。特に自分には才能があるのではないか——そう思っている人間において、そうした衝動がよく見られる。そうした人間は具体的には何も働かない頭でつい自分というものを深く知ってみたくなるものだ。そしてそれを考えることが自分の(きっと隠れているはずの)才能を証明しているのだという錯覚を覚える。
 いいたくはないが、アユムもその一人だった。
 彼は作家になりたがっている。これはまったく止めてやったほうが親切なことだった。まず第一に彼にはそんな才能などひとかけらもないのだから——よせばいいのに——まったくだ。まったくだ!
 彼の身体はよく彼を本屋へとさそった。作家になりたいという、思想によく似た欲望はアユムの性質が欲するものである。断じて彼の身体ではない。逆に彼の身体は、アユムの性質がかなうはずのない道を選んで破滅へと追い込まれることを防ぐために本屋へとアユムを運んだ。アユムの性質を住まわせている身体が持つ防衛本能であった。彼の身体は知っていた。生きているのはアユムではない。彼の身体はアユムの性質なしではぜいたくに行動することができなかった。つまり野原を駆け回ったり、温泉に二時間つかるとか——そんなことを。彼の身体はアユムの性質なしでは、動けないまま火葬場で肉汁も蒸発してしまうくらいに焼かれることも避けられないのだ。
 そしてアユムの性質は彼の身体を使って店を埋め尽くす本の山を見る。——「見ろよアユム、わかるか? これは全部本なんだぜ、いったい何冊あるか数えることができるか? できるものならやってみな」——彼の身体はアユムの性質に向かってそういい放ちたいのだ。
「もしもお前が本を書きたいのなら、一度生まれ変わって出直したほうがいいんだ——」
 彼の身体は自らの存在をかけて叫ぶ。しかし彼の言葉はアユムの性質に届かない。
 身体の叫びとは裏腹に、アユムの欲望は際限なく続く。彼の勘違いが生んだ才能には、『いつかきっと』という希望だけが物ごとの終わりをひた隠しにしていた。
 身体がいかに叫ぼうともアユムの身体ももうすぐ終わりなのだ。ガン細胞がアユムのなかで動き出したのも当然のことかもしれない。彼、ガン細胞はアユムを破滅させるために現れた。恐竜が滅びたようにアユムは滅びるだろう。彼は化石となって未来人に発見されるのだ。
 モーガンはいった、
「きっと誰かが自分たちの終わりを知っているはずだ
 でも誰が自分たちの終わりを隠しているんだろう?」
 そしてぽつりという——「時間かな?」

 それでじゅうぶんだろう?——アユムの口からもれた言葉であった。アユムの言葉が三皿目のスパゲティについて言及したものであることにモーガンが気づいたのは、アユムのお腹をさする仕草を見てからであった。
 空港のなかでアユムは、「ハラヘッタ」と訴えるモーガンを手近なカフェテリアに連れていった。アユムの注文したアイスコーヒーの底には、氷の溶けきった水がたまり、その側にはケチャップ色に染められた皿が二枚重なっていた。細かくちぎれたスパゲティをフォークで突き刺すモーガンの仕草は、アユムに四杯目のスパゲティを予感させたのだった。
「でもアユム、ボクはハラペコなんだよ。夕べは飛行機のなかじゃ一睡もできなかった。となりに座ったニッポン人のせいでね」
「んー、いびきの話しだろ——それならもう聴いたさ」
「そう、アユムに会ってからすぐに話したよね。それでもとにかくすごいんだ。しかし——」
「しかし?」
「ニッポン人は繊細なくせに、なぜあれほど開放的になれるんだ?」

♭ 3 ホッカイドウ

 モーガンは日本に来るまでの一週間をジャカルタで過ごしていた。彼はアユムに、その滞在理由を『バケーション』と説明するが、それも結局幻想宗教に関係することだった。これはアユムの知らない話しである——
 モーガンは一日四十ドルのホテルに滞在したというが、実際はバンド歌手の女性の借りている家に寝泊まりしていた。細く長い腕を持つその女性はバンドンという街の出身だった。
 その女性の長い腕はまさしくバリダンスを踊るためにあつらわれたものだった。モーガンはときおり目を閉じながら、その姿を回想した。バンドの音はひどかった。しかし、それは金のなさがそのまま音に現れただけのことだった。PAを持たないバンドは、会場によってひとつのアンプから全ての音を出さなければならなかったし、ギターの低音側に張られた弦は何回も熱湯の中をくぐっていた。
 照れくさそうに、ひたすら音程を外さないように歌う男をはさんで、二人の女性が踊る。彼女たちも歌う。腕の長い女性の髪はショートでもうひとりはロング、姿がちがうように声もちがう。二人とも同じ様な体格ながら、腕の長い女性の踊るロックのリズムに乗せたバリダンスは、会場全体を包み込んでしまうかのような大きさとダイナミクスにあふれていた。
 モーガンはいった。
「なあ、アユム、いったいどこに幼稚園や小学校の学芸会を思い出したがる人がいる?」
 そりゃ、いるんじゃない?——アユムは生返事で応えるが、そう応えるアユム自身は、学芸会を思い出したくない一人だった。——なぜモーガンはそんなことを訊くんだ?

 さて、話しはホッカイドウ、A市へとうつる。
 モーガンとアユムがA市に来たのはそれぞれの理由があった。アユムにはそこが彼自身の生まれ故郷であるということ。そして彼は毎回のことながらこんなことを考えていた。『遠くにいれば自分の故郷を最高のものであると思えど、それは自分の、しいていえば人間の甘っちょろさからくる逃げるような思いこみに過ぎないのだ』——そしてそれを知っているのは、そこに住んでいる人々たちであることも。彼らは自分の土地を離れられないが故にその土地の不幸さを口にすることなく生きていた。そしてアユムはそれをぼんやりとわかっているからこそ、人前で故郷の評価をすることをさけてきた。
 モーガンいわく——『人々は生き残りであり、そして生きらされている』
 土地はそのための現実的な舞台にすぎなかった。
 モーガンは古い友人と再会するため、ホッカイドウA市を訪れた。彼にとってアユムは土地の案内役であり、標準的なニッポン人のサンプルであった。モーガンに限らず外人は全てのニッポン人が自分の国のことをよく知っていると考えている。しかし、大半のニッポン人は奈良から先には行ったことがないとか、ニッポンについての経験的な知識はなく、情報による理解によってのみ話しをすることができた。簡単にいってしまえば、ほとんどのニッポン人はほとんどの現実を知ってはいなかった。
 自分の生まれた土地でさえ知らないことは多すぎた。現実にアユムは新しい半導体工場がA市の北側にできたことを知らなかった。
 それだからアユムはモーガンから『WC—COMへ案内してくれないか』といわれたときには何のことやらわからなかった。
「WC—COM?——知らないな——いや、WC—COMは知ってるよ。大きな会社だろ——知らないのはその工場だよ。ほんとにボクのいなかにあるのかい? いつの間にできたのかな」
 アユムは照れくさそうにWC—COMの工場を思い出そうとするが、知らないものは想像すらできるはずがなかった。

 モーガンが「ホッカイドウに行く」とアユムに相談をしたとき、アユムの会社生命はあと一カ月とせまっていた。つまり退職である。彼の行く末はまだなにも決まっていなかった。彼は貯えてきたほんの少しのディンギを頭に入れながら旅行の算段をしたりしていた。とりあえずはホッカイドウ旅行だった。それはなぜか?——彼は自分のふるさとを全くといっていいほど知らなかったのだ。
 そのころアユムの心の隅で密かに目覚めつつあるものがあった。それは人生二十七万千五百六十年を過ぎてからの恋心であった。——それはすでに目覚めていた。寝起きの悪い目覚めだった。
『彼女の心はまるで海みたいに広いんだ! (きっとそうにちがいない)』——アユムは何度も心の中で繰り返した。
 食事中に彼女の顔を思い出し、
 何か飲んでは彼女の顔を思い出した。
 彼が見た夢——辺りは真っ白だった。雪雪雪、雪だらけ——間違いなく自分の故郷だ。しかし他にも雪の降るところはある。夢の中の話しはいつも定かではない。へたをすると狂い話しと同じだ。
 真っ白い世界——家並がすっぽりと雪の中に埋まっていた。アユムは橋の近くに立っていた。その下には氷が張って流れの見えない川がある。その橋のたもとに、黒いコートを着た彼女がいた。彼女に話しかけるけれど、彼女は背を向けたまま。ときおり動かす視界のなかに入ることもない。何回呼んでも振り向かない。
 シーンが変わった。やっぱり白かった。けれど白いのは壁の色。ものすごく寒い城の中を歩いていた。目の前には後ろ姿の彼女。やっぱり黒いコート姿。周りにはへんな爺さんや顔も見たことがない男や女がいた。アユムは何回も彼女の名前を呼ぶけれど、彼女は振り向かない。そしてゆっくりと白い壁の廊下を歩いて行く。
 またシーンが変わった。そこは登山者が憩う山小屋(みたい)。外は白い。雪。初めて彼女を正面から見ることができた。しかし彼女の目線はどこかあちらのほうを見ている。彼女は上がり段に腰掛け、小さな小さな足に履かせた靴の紐を結んでいた。彼女の周りには山男然とした男が三人、それなりの格好で彼女と同じように腰掛けていた。彼女が立ち上がった。山男が手を貸して、彼女の背中にリュックを背負わせた。その間、アユムは何度も彼女の名前を呼ぶけれど彼女は気づいてくれない。山男に囲まれ、彼女は外へと出ていった。強い吹雪だった。雪が勢いよく山小屋の中へ吹き込んでくる。名前を呼びながら彼女のあとを追った。山男に囲まれ、彼女は山へと入っていく。彼女の姿は雪の中に隠れ見えなくなった。
 以上はアユムの見た彼女にまつわる夢のひとつであった。
 モーガンがいった。
「それでアユム、彼女とはうまくいっているのかい」
「まあまあ」
 ニッポン人はいつも曖昧である。

「来月ホッカイドウに行くよ」アユムはそうモーガンにいった。電話の向こうからモーガンの狂喜する声が聴こえた。自分のすることに他人がこれだけよろこんでくれるのはえらく調子が外れる。それはまるで自分が相手に何か奉仕をしてあげている気にさせた。タダほど高くつくものはないのだ。最悪のボランティアはしてあげたいことで怒られることである。。
「泊まるところはない」モーガンはそうきっぱりといった。その次の言葉が続かなかったことから、アユムは「家に泊まればいい」といった。予想どおりモーガンはまた狂喜した。
 タダは高い。ディンギにタダはない。
 苦し紛れにつくりだしたウソがあとで偉大なしっぺ返しとなって戻ってくる。ウソも方便、なかなか役に立つときがあるかもしれないが、そうでないときのほうが多い。
 しかし、モーガンを紹介するにあたっては多少のウソが必要だったかもしれなかった。
「彼は宗教の関係で日本に来たんだ。しばらく泊めてあげてね」
 アユムがそういって彼の家族——母親と妹にモーガンを紹介したとき、彼女たちは歓迎の笑顔を曇らせた。母親は浄土真宗以外は仏教ではないと思っているし、とにかくそれしか信じていなかった。そして妹は連日の宗教勧誘にうんざりしていた。
「うーん、とにかく宗教を研究する人なんだ。別に変な宗教に凝っているわけじゃない」
 アユムが家族に色々と弁解に似た説明をしているなか、日本語のわからないモーガンが笑顔で名刺を差し出した。
 アユムは頭を抱えた。その名刺には妙な活字で次のように印刷されていた。
『火星宗教創始者であり布教者、そして神を信じる
        モーガン・サザーランド』
 その脇には(親指を鼻の穴に突っ込みながら、じゃんけんのパーのように手を広げる)モーガンの似顔絵が描いてあり、その横には『ブー!!』の吹き出しがあった。
 家族がその名刺を覗き込むように見ているとき、モーガンはその絵のとおりの仕草を見せてこういった。
「ブー!!」
 うまい食堂はないのか? と訊かれてアユムが連れていった場所はラーメン屋・二条軒だった。すかさずラーメンが思いついたのは、単純にアユムがラーメン好きだからであった。ラーメン屋のおばさんに、モーガンさんです、と紹介すると、おばさんは、「へえ、もうがんさんかい」といった。
「『もうがん』じゃない、『モーガン』だよ」
「あら、『もうがん』ってカタカナなの」
 おばさんはモーガンが残したラーメンを見ながらアユムに訊いた。
「うまくなかったのかね——半分も食べてないよ」
「まあ、外人だし口に合わなかったんじゃないかな」
 しかし、久しぶりに入ったラーメン屋の味は確かにまずかった。
 年月の経過は、得るものも多くまた失うものも多い。がんばれ腕よ舌よ職人よ!

♭ 4 試験管
*****************************
 WC—COMがA市に工場を建てはじめたのは二年前のことだった。ニッポンの大安である五月二十三日の日曜日に工場は開かれた。稼働してまだ三カ月も経っていなかった。工場での生産内容は自社の主力通信衛星に搭載するための半導体チップの開発であった。
 工場を目の前にしたとき、アユムはその工場があまり大きくないことを知った。それは小学校の体育館程度のものだった。工場自体を探すことはごく簡単なことだったが、そこでモーガンが誰に会うのか、それはわからなかった。『古くからの友人』——モーガンはそういっていたが、実際工場にはA市で雇われたニッポン人しかいなかった。会社を定年退職した工場長が一人、設備の保守を行う技師が二人、設備の数に合わせた運転者、定期的に納入されてくる物資や出荷の整理を行う者が二人、そして経理が一人。
 工場建設の交渉が始まったとき、A市は大量雇用への期待を募らせていたが、実際WC—COMからの稟議書には、工場外との対外的な応対と製品の出荷を行う者二名の採用のみが記されていた。百二十七人の雇用を期待していたA市の思惑は思い切りはずれてしまった。が、それでも何度かの交渉の末、現状の人員まで枠を広げることができたのだった。百二十七人が六人になった。
 彼らが工場に設備したマシンは、製造量の把握、それに対する必要物、その製造、そしてクォリティコントロールをやってのけた。また、マシンは加工材料の搬入・製造物出荷ラインと直結され、加工材量の自動投入、パッキング、配送準備まで全てがオートメーション化されていた。WC—COMが稟議書にて提案してきたとおり、人員の配置はわずかで構わなかった。マシンの代わりに人間と会話すること、そして実際に配送するための人々でことは足りたのだ。
 アユムは工場内が工場というよりは事務所に近いことに、工場という名に対する違和感を覚えた。彼が想像していたのは、鉄筋や梁、空気ダクトがあらわにされた高い天井、配管のむき出しになった壁だった。アユムは自分の想像からずいぶんとかけはなれたちがいに、首を痛くするくらいにきょろきょろ回しながら、ときに立ち止まり工場の中を観察した。彼の後ろを歩くモーガンは工場内にはひとつの興味も示す素振りを見せなかった。これは目的を持たない者とそうでないもののちがいのせいでもある。目的は持つためにあった。ただ目的がなくても生きることはできる。
 工場内には緩やかな気流が渦巻いていた。それは工場のなかに自然が存在することを予想させた。

 モーガンは友人に会うためにこの工場に来た。
「誰に会うつもりなんだい、モーガン」
 工場は二階建てであるが、その外観がひな段のようになっていて、二階は一階の半分にも満たない面積を専有していた。そしてその壁には商標登録された『WC—COM』の文字が浮かんでいた。
 二人は門の側にある小さなコンクリート造りの守衛室で面会を申し入れた。
「マーレー・フラスコ氏と会う約束をしているのですが」
 そういったのはモーガンだった。ニッポン語が不得手なはずであるモーガンの代わりに自分が説明しなければと考えていたアユムは肩すかしを食った。工場へ向かう途中のバスの中で、モーガンが人の話しに耳を貸すでもなくブツブツと口にしていたのは、そのフレーズだった——『マーレー・フラスコ氏と会う約束をしているのですが』
 WC—COMについて付け焼き刃の学習をしたアユムは、すぐにマーレー・フラスコなる人物はこの工場内にいないであろうことを悟り、そして「そんなことはダメにきまっている」という、人種特有のあきらめと独断性でモーガンに必要な忠告を与えることを考えた。が、モーガンと首を絶対に縦には振りそうにない守衛のやりとりはあっさりとしたものだった。
「それでは三階のA室にお入りください」守衛はそういいながら、三枚の磁気カードをモーガンに手渡した。「これはA室へ行く途中に通るドアのキーです」なるほどアユムがモーガンの毛むくじゃらで大きな手のひらに納まったキーを覗き込めば、扉の名前やその番号らしきものがプリントされていた。
 さらに守衛は、このキーは行きと帰りの一回ずつしか使えませんので了承ください。それと五時前には退場されるようにしてください。定時を過ぎれば工場の扉はみんな閉まってしまいますので、そのほうには特にお気をつけください——そうひとつのとっかかりもなく説明した。その間、モーガンが口を開くことはなかった。そして守衛との面会は深々と頭を下げた礼でしめくくられた。
「モーガン、わかったのかよ」アユムが訊いた。
「ああ、だいたいわかったよ——『早く出てくれよ』——そんな感じだろう」
「すごいなモーガン、ニッポン語がわかるのか」
 こういったときにモーガンが返す言葉はだいたいこんなものだった。
「アユム、人間は学習したことならわかる。しかし全てをわからなくても人間は生きていくことができる。なぜだかわかる?——それはいちばんかんじんなことを知っているからさ。ただ悲しいことに何が必要であるのか不必要であるのか——勘だけがそれを左右しているんだ」
 そして最後にモーガンはこういう、
「だから人間は間違うんだ」

 踊り場を抜けて階段を上りきるとA室へと通じる廊下へ出た。人気はほとんどない。
 アユムは工場の二階はその運営になんらの影響も与えていないものであると思った。それは人がいなければそこに作業性は存在しない——そういったとても安易な考えに基づくものであったが。
「ここでも風が吹いているな」アユムがいった。
「アユム、この風には空調の目的もあるが、常に部屋の掃除をするという機能も兼ね備えてる——」そして、「ただホコリを舞い上がらせたり人の気持ちをよくしているだけじゃないんだ」
 アユムは三回うなずいた。
「でもモーガン、マーレーは、マーレー・フラスコはほんとうにこの工場の中にいるのかい? 彼はいつも本社——アメリカにいるんだろう、こんな地球の片田舎にいるとは思わないけれど」
「彼はいるよ——約束があるんだ」
 約束——その言葉にアユムはちょっとした感動を覚えた。具体的な変化をあげれば、悪寒が背中を走る——ゾッとするとでもいうのだろうか——とにかくそんな感じがした。アユムは約束というものがあまり好きではなかった。

 A室のドア。見かけよりは単純ではない電子ロックにカードを通す。鍵の外れる音がした。
 部屋のイメージはコンクリートだった。工場の中と同じで壁はコンクリートがむき出しである。空調と清掃を兼ねた空気が静かに流れている。室内には目立つ飾り付けはなかった。ただ、ひとつ、家具ともインテリアともつかない置物を除いては——
 それは巨大な試験管だった。いや、アユムの目には試験管のように映った。それに気をとられていたアユムはモーガンにいわれるとおり、その試験管の前に置かれた三人掛けのソファに尻を埋めた。
「これから友人に会う」モーガンがいった。アユムはうなづくだけで何の応えもない。アユムの視線はモーガンのそれにあわせ、目の前にある試験管を定められた。
 何かが軽くうなりをあげる。それは試験管だった。モーターではない電子回路が共振する音だった。うなりは不快な感じも無く静かに部屋のすみずみまで広がっていった。
 アユムは目をみはった。
「ごくろうさん! 遠くからお疲れさま!」
 明るい声だった。それはモーガンのものではなく、もちろんアユムでもない。部屋の中には彼ら二人の他にもう一人の人間が存在していた。その人間は試験管の中にいた。
「疲れちゃいない——結構楽しんでいるよ、マーレー」と、モーガンがいった。
「だれかいるのか?——」
「友人だ。アユムというんだ」
 モーガンはアユムを見た。そして説明した。
 ・彼はマーレー・フラスコという男である
 ・彼は今、モード2で試験管の中に存在している
 アユムはうなづいた、とてもゆっくりと。
 彼はどちらかといえばグチをこぼせない性格であった。それはこうともいえた——与えられた悩みや問題を胸の内にしまい込むタイプ。かといって、感情を表面に現さないのではない。衝撃を受けると、一瞬、あるいはとても長い間、脳ミソが空っぽになってしまうたちなのである。
 モーガンはそんなアユムに笑みを見せた。モーガンにとってアユムのような反応はとても好都合なものなのであった。
「もう一人は?——」マーレーがいった。彼は試験管の中に立ち、後ろ手で百八十センチの身長を真っ直ぐに伸ばしている。ほとんどの髪の毛は白髪だった。彼の背格好は、なるほどその精かんな姿に応えるがごとくじゅうぶん話題性に富んでいるものだが、それよりも注目すべきことは——
 彼は裸だったである。
 マーレーは二人に背中を背中を向けていた。彼は十字架のネックレスすら身には着けず、白い肌を当たり前のように露出していた。
 モーガンがいった、「ここに来る途中で手はずはつけてきたよ。もうそろそろ彼女は君がいるところにモード3で現れるはずだ。だから——」
「ああ、わかった、ひとまずここから消えるよ。赤い星にはひととおりの物資(ゴホン、と咳払い)——最低限のものだが全て転送済みだ」マーレーはまた咳払いをした。痰を切る音が部屋に響く。「——失礼、齢を重ねると咳をするのも辛くなってくる」
「わかった、ミスター・マーレー」
「ああ、君も気をつけてな。でも無事は祈らないよ——この装置はとても安全だから」
 試験管の中の男——マーレー・フラスコは消えた。

「モーガン、今のは?——」アユムが目の前の試験管を指さしながらいった。その口調には人間が子供の頃持っていた不可思議な出来事に対する自然な驚きや、カエルの尻に花火を差し込もうとする好奇心に満ちあふれていた。モーガンはなぜそんなことを訊くのかな?——というような顔を見せたが、落ちついて、
「さっきいったと思うんだが、彼はマーレー・フラスコといって、家系三代に渡る『宇宙規模の実業家』でWC—COM社の社長だ。そして本人いわく『社長は仮の姿』ということ。まあ、本人いわく云々についてはあまり耳を貸す必要は無いが、確かに偉大な実業家であることは確かだ。これはボクもほんとうにそう思う」
「そ、そんなことじゃない、彼は消えたんだ——目の前で消えたんだよ、モーガン」アユムは指は相変わらず試験管をさしていた。
「ああ、そのことか。いっただろう、彼はモード2でそこに現れていたんだ。今度のはモード3で来る。次はアユムも握手ができるよ。それに抱きしめることも——」そして、「次に来る人は女性なんだよ。ボクよりも若い」
「今度?」アユムがそういうと、モーガンは試験管を指さし、
「見ていてごらん」
 軽くそして低いうなりが部屋に広がっていた。また、試験管が音をたてはじめた。
 ——試験管の中に現れたのは間違いなくアジア系の女性だった。そして彼女の第一声はこういうものだった。
「また私を裸にするつもり!」

 ホッカイドウの中の工場で試験管がうなりをあげ、人間らしきものが姿を現している。ちょうどその頃——世界でも有数な国土面積を持つインドネシアのバンドンという街の片田舎で小火が起こった。
 ・それは物質転移機が自燃したための小火だった。
 ・そしてWC—COMのA室に一人の女性が現れた。
 ・その女性はアユムを知らなかった。
 だがアユムには面識があった。彼の知る彼女はテレビタレントで歌手だった。
 彼女は十八の頃、日本の二流プロダクションの誘いで日本に来た。彼女にはその男がプロダクションの者であることがわからなかった。その男は原色の入り交じったアロハシャツに中途半端な半ズボン、道端で買ったようだが実は高価なサングラス、そしてさらにはバナナの葉で編んだ帽子を被っていたからである。
 彼女はプロダクション専属モデルということで日本にやってきたが、結局は歌を歌わされる羽目になった。彼女は露骨にいやな顔を見せたが、プロダクションの男はそんな彼女の頬を打った。彼女は歌わされたことはあっても歌ったことがなかった。それはさかのぼれば幼い頃の思い出へと行き着く。同年代の男の子たち——まだ、変声期を迎えない男子たちのなかで彼女のかすれた声は、天使に囁く悪魔のようだとたとえられたことがあった。
 そのとき彼女は、もう『学芸会はこりごり』と思った。
 結局彼女は、たどたどしい日本語がかわいいアイドル歌手となり、昼や深夜のプログラム——その大半はラジオであったが——の仕事をこなした。ゴールデンタイムの仕事は数えるほどだったが、コマーシャルが被さるエンディングでは一番の歌詞を歌いきれることがあやしかった。
 彼女が最初で最後の大金を得ることになったのは、二十歳をむかえる直前の写真集だった。プロダクションは紐にしか見えない水着さえはぎとり、カメラをとおして彼女の素肌を公衆へさらけだした。
 彼女は貯めてきた貯金と裸の収入四百万円をもって日本を去った。国へ帰る飛行機に乗り込んだとき、彼女は二十歳だった。窓から外の景色を見やり、彼女はつぶやいた——
「裸好きのニッポン人」
 そして今、アユムとモーガンの前に二十八歳の彼女が立っていた。
 彼女はまたいった——
「モーガン、また、私を裸にするつもりなの」
 実際、彼女は裸だった。
 彼女が身体の部分を隠そうとするのにわずかな間があった。アユムは一瞬のうちに目を両手でふさいだ。モーガンは笑顔で彼女を見ると、赤ら顔で「ワンダフル、ナディア」と一言もらした。

♭ 5 火星の生活

 火星にあったのはところどころが焼けたようにすすけた三角テント、そして激しく使い込まれてきた様相の軍隊で使われているようなコンテナ——ただそれだけであった。巨大な物質転移機『トランスポーター』——つまり試験管を除いては。
 三人とも裸だった。ナディアは冷静さを固持しながら胸と下部を腕と手で隠し、モーガンは堂々と赤い大地を踏みしめた。アユムはモーガン自身の巨大さに目をうばわれたが、ふと我に返り、あわてて自分自身を隠した。そして隠すことがよけいに恥ずかしさと惨めさをつのらせる結果となった。モーガンのは確かに大きかった。三人とも口を開けなかった。
 モーガンは二人を手招きしながらテントの中に入っていった。モーガンは鼻栓と耳栓を外すといった、
「ヌーディストビーチと思えばいいんだ」
 ナディアは困惑とお愛想の入り交じった笑みをモーガンに見せた。
「よし、ナディアにアユム、ボクはいったん戻るよ」モーガンはテントを出ると大股で歩き試験管の中へ入った。「また、迎えに来るから」
 モーガンは試験管のなかで消えた。次には試験管が消えた。正確にいえば飛び上がった。ナディアやアユムの見えないところまで。
 火星の大地にナディアとアユムの二人が残った。
 火星の大地は赤い色をしていた。
 ナディアとアユムの二人は裸だったが、傷んだコンテナの中に、軍放出品に似たカーキ色の作業服を見つけた。それは二着のズボンだった。アユムはそれを身につけると、自由に手の使えるよろこびにひたった。
 ナディアはズボンの足の部分を、地面に転がっている鉱物や歯を使って裂いて胸に巻き付け、そして半ズボンとなった残骸を身に着けた。ナディアは胸の後ろの固結びに念を入れながらアユムに訊いた。
「なぜニッポン人は裸が好きなの」
「たぶん紳士的にしている反動じゃないかな、スージーさん」
「私はスージーじゃないわ」
「あれ、でも——」
「私の名前はナディア。それはゲイメイ?——だわ。私はその名前大きらい」
 ナディアのきれいな茶色の肌を前にしてアユムの白さは貧弱さの象徴だった。
「あなたの肌って白いのね。私好きだわ」
 アユムは何もいわずに背中を向けた。

 二人のいる星には空気が無かった。だがテントの中には酸素と適度な二酸化炭素があった。外に出るときには工場から持ってきていた鼻栓と耳栓をし、モーガンの置いていった空気カプセルを口中に含んだあと、マスクで口元をおおった。
 二人ともモーガンをいつまで待てばよいのか知らなかった。だが彼らにあせりはなかった。
 ・自分たちがおいてけぼりされるはずはない
 ・ナディアの場合は、バンドが休止中、そしてアユムは会社に行く必要がない
 ・二人の性格
 などの理由が挙げられる。また、アユムには女性と二人きりであるということからくる戸惑いと新鮮さがとてもうれしかったし、ナディアといえば曲作りに夢中だった。束縛も強要もされない時間が神の恵みに思えた。「バンドじゃ歌を書くひまなんてないの——」彼女は昼と朝四時までのステージ、そして寝るだけの生活をアユムに語った。「どっちにしろわたしには少し長い時間が必要だったのよ——新しい歌を創造する時間がね」
 ナディアはインドネシア語や美しい英語、ときにはニッポン語で歌った。彼女の声には実際の年より幼い、少女らしさが残っていた。
 アユムはときどきナディアからリズムを打つように頼まれた。彼は彼女の要求どおりに膝をたたいてみせるが、それは彼女を満足させるにいたらなかった。
「なぜあなたのリズムはネバネバしてるの? もう少しバックビートで軽快にならないの」
「演歌のせいだな」
 アユムは『ネバネバしているリズム』という意味がよくわからなかったが、たぶん回答はあっていたのだろう。ナディアは「やっぱりそうよね」といった。そして西洋人のロックバンドが日本人の送る手拍子にどれだけ困惑しているかを政治問題のように語った。つまり彼女は日本人のリズム音痴が、明日から治るような性質のものではないことを知っていたのである。政治の改革が政治家のポリシーでしかないように。
 ナディアがリズムをとるとき彼女の胸は揺れた。ナディアが寝た後、アユムはテントを抜け出して自慰をした。
 モーガンならば自慰をするアユムにこう助言するだろう、
「アユム、君はまだ性交する条件など存在しないことに気がついていないのか?」

「君は小さい頃から歌っていたの?」
「小さい頃——そんな頃なんて思い出したくないわ。人前でなんか歌いたくなかった。私の声はガラガラだし男の子のほうがよっぽどきれいな声だったのよ」
 誰がいったい学芸会のことなど思い出したがるであろうか。
「私が初めて歌を歌ったのはニッポンに来たときよ。無理矢理——まるでレイプでもされるみたいに無理矢理歌わされたわ。ほんとうにファックされるような感じ」
 アユムはナディアのしゃべり方がとても正直なことに内心驚いた。そしてその表現にも。彼女は拳を固くしたり、膝や赤い大地を叩いたりしながら話した。そして彼女の表情にはそれなりの険しさが現れていた。いやなことがすぐ顔に出るんだな——アユムはそう思った。
「だけど今でも歌ってる」
「しょうがないの。これしかできることなくなったんだもん」そして、「裸にだってなんたんだよ」
 アユムも彼女の裸は知っていた。政治が愚行のように、そしてスポーツや性風俗が、何十年も続いている内乱のようにスクープする新聞や週刊誌の写真で見たのだった。そして今、彼女の電子化された裸はコンピュータという人類を差別化する危険をはらんだ装置とネットワークによって、いつでも閲覧することができるし複製も可能である。
 ナディアはニッポン人のことは「きらいじゃない」といった。そして特に「好きでもない」ともいった。そして「どうでもいいわ」ともいった。ただ、自分を好きなように使ってくれたプロダクションの男については「キンタマを握りつぶしてやる」と自国語でつぶやいた。
 つけ加えておけば、彼女は自分の裸が電子化され世界中にばらまかれていることを知らない。
 いったい誰が表現の自由について語ろうとするのだろうか。人間は表現の対象になるべきではない。

 二人にはこの星に誰かが住んでいるという期待はなかった。彼らの行動範囲は半径百メートルほどであったが、排泄だけはそれよりも遠いところ、それもお互い反対の方向ですませていた。その行動範囲のなかでも彼らは動物の足跡や虫などを見ることはなかった。

 あいかわらず彼らにあせりはなかった。その理由は前にも記したが、それにつけ加えるものがあるとするならば、
 ・特に気分を害するものがない
 と、いうことである。
 もしも人類に可哀想な部類とそうでない部類があるとするならば、自分はどちらに入るのか?——アユムは迷う。ただ、はっきりしているのは不満が見あたらないことだった。ナディアが曲作りに夢中になっているように、彼は頭のなかで自分が書くべき小説の組立に励んでいた。二人が互いに口を開くことは人間の生理現象に従うものである。つまり、腹が減ったとか、眠いとかそういうときで、他には何かを聴いて欲しいという欲が現れたときだけだった。そして彼ら二人が口を開かないとき——それはお互いが自分の作業に没頭してるときだった。彼ら二人にとって時間はとても有意義なものだった。
 彼らは赤い大地の上でどれだけの日数が過ぎたのかわからなかった。毎日たまってゆく栄養チューブの空(これは傷だらけのコンテナ中にたっぷりと入っていたものだった)の数は、生理的な欲求と私欲を混同した摂取のされ方の前では、規則的に日数を数える材料にはならなかった。

 地球という星の上の小さな島、そのなかの大きな離れ小島ホッカイドウ、そしてその中で四方を山に囲まれた夏に暑く冬に寒いという、とても正直な気候に恵まれたA市に建つ外資系工場のなかで、モーガンは素っ裸で独り立っていた。彼は一息もらすと床に置いてあるボストンバックの中から下着と服を取り出した。ブーンという音に気がつくと試験管を見た。
 試験管の中にマーレー・フラスコが現れた。
「今度はこっちに来るんですか——」パンツをはいている最中のモーガンがいった。試験管の中のマーレーもやはり素裸だった。「そっちへ行く」と、マーレーが返事をした。
 試験管のガラスがドアのように開き、そこからマーレーが出てきた。マーレーはいった、
「パンツはあるかな?——ボクサーパンツだ」

 試験管は『トランスポーター』と呼ばれていた。モーガンとマーレーはいつものように、トランスポーターがデジタル信号化された人間の情報の中から、無条件に衣服データを凶悪なノイズと見なし、それを消滅させることに対して数十分のやりとりをした。このやりとりはだいたい、
「——完全な再生のためにはやむを得ないな」
 というマーレーの話しで終わった。ただ二人が同調する考えは、——肉体からある部分が切り放されたとき、その部分は肉体ではなく、肉体の一部でもない。そして完成された肉体は、絶えず減少または縮小していくものであり、増加するものではない——であった。そしてすべてを総括するために、マーレーがつぶやいた、
「全てにおいて時間ありき」
 ランニングシャツに青いチェックのボクサーパンツ姿をしたマーレーは、ソファの上で葉巻をくゆらせた。「このパンツにはブリーチが効いていない」
 今日は何日か——、というモーガンの問いにマーレーは十二日の金曜日と応えた。そして、
「正確には一九九六年十二月十二日金曜日午前十時二十六分。トランスポーターが転送に要した時間は約百八十時間、やはり一週間か八日は必要だというところだな」
 WC—COMが行った宇宙空間における最初の実験では約一年を要した。それに較べれば百八十時間という数字は格段の進歩だった。
 マーレーは応接テーブルの上の携帯電話の電源を入れると小さなボタンからパスワードを入力し、次にダイヤル番号を入力した。彼は実際に通話ができるまで三分間待たなければならなかった。その三分間は電話会社のスポンサーによる企業広告の時間だった。これはニッポン特有のものだった。のちのニッポン国首相となる民間企業のリーダー、イサオ・セキグチの業績のひとつだった。
 WC—COMにつながった電話でマーレーが伝えたものは、物体転送用のレベルBによるクリーニングほやほやの背広と、白いカッターシャツ、そして彼の誕生石の埋め込まれたカフスボタンの転送であった。
「いくら友達でも礼儀というものがあるからな——この姿じゃ真面目な話しもできない」

 ナディアとアユムは赤い大地の上にいた。
 彼らにとって七百二十時間が経過したにすぎないのだが、地球上ではすでに千四百四十時間が経過していた。アユムはいつのまにか胃の重たさが消えていることに気がついた。いつもの癖で撫でてしまう頭の傷跡には、あいかわらず毛が生えていなかった。
 ナディアの歌作りは順調だった。彼女は二日で一曲、ときには二曲の歌を書いた。彼女がいちばん不満としていることは、できあがった歌を書き残す術がないことだった。字を書くためのペンもなく、書き記す紙もない。それでナディアは赤い大地に歌を書いた。指先やルビーのような石を使って。大地の歌は時を追うごとに多くなっていった。
「よくそんなに曲が浮かぶね」
「わたし調子がいいの。前は考えると頭が痛くなっていたのに——なぜかしら? すごくインスピレーションがわくの。何だか頭が目を覚ましたって感じかな」
「きっと才能があるんだよ」
 アユムはナディアの才能を本心から讃えながら、自分の文才のなさに悲しんだ。
 アユムの消え去った胃の不調、ナディアの創造力は、全てトランスポーターによる転送が生み出したものだった。トランスポーターは信号化された肉体のなかで人間の構成に害を及ぼす細胞を除去する機能を持っていた。アユムの文才はどう見なされたか——それは凶悪で破壊的な細胞だった。つまりただちに除去されたのだ。

 アユムがナディアと身体をまじあわせたのは、赤い大地に到着してから、約三千八百時間が経過したときだった。
 この行為の発端は、夜間におけるアユムの自慰姿をナディアが見てしまったことであった。テントのなかでナディアは「毎日あんなことしてるの」と訊いた。ただ、彼女のいう『毎日』という言葉にアユムはちゅうちょした。ここではそもそも『一日』というのがわからなかったのだ。
「ときどきしてる」アユムがいった。アユムはなぜか彼女の前で正座をし、頭を下げていた。それはあきらかに『かしこまった』態度であり、間が悪いとか、分が悪いとか、そういった心情が丸見えだった。ナディアは別段悪い気はしなかった。それどころか、彼女はアユムが自分を襲わずに自慰によって性衝動をコントロールしていることに好感を覚えた。
「どんなときにする気になるの」
「き、君のオッパイが揺れたとき——かな?」
 その日の夜(夜っていつだ?)、二人はテントのなかで身体をあわせた。
 ナディアの才能を讃え、自分の才能に嘆いていたアユムは自分自身が以前より大きくなっていることに気がついた。しかし、これは錯覚だった。ただ、持続力がついたことは確かだった。全てトランスポーターの仕業である。アユムの感じやすさと早さは病気と見なされたのだった——合掌。

 ナディアが目の大きな愛くるしい女の子を生んだ。二人の行為の結果による、二人の子供だった。二人の歴史において、初めての赤ん坊だった。ナディアはその子を『ディアナ』と名付けた。彼女はディアナがとても可愛いとをよろこんだが、アユムは内心、小さな頃に可愛いと、大人になってからとんでもない顔になるだろうなと思った。
 ナディアはディアナのために自ら洗礼を施し、アユムにつくらせた鉱物製の十字架を首にかけてやった。そしてディアナのために歌を作りそれを大地に書き記した。

「モーガンさん、アユムを知らないかい」
 アユムの母親がいった。モーガンは食卓で納豆を食べていた。一ヶ月帰ってこない息子を母親が心配するのは当然のことであった。妹は「またどこか旅行でもしてるのよ」といった。モーガンはそれにうなづき、「ハートブレイク」と適当な言葉を口にした。
「イマ、シゴトデデカケテイマス。モウスグ、カエッテキマス」モーガンはそういってアユムの母親を抱きしめた。母親は戸惑った。もちろん抱きしめられたことに。
 モーガンはまた数百時間をトランスポーターのために無駄にせねばならなかった。しかし、時間の経過による肉体的損傷を受けないことを考えれば、それ『時間の無駄』とはいえなかったし、肉体の再構築はどんな薬よりも効き目があった。

 火星に生物が見つかったことは世界中に報じられた。死んだ虫けらではない、生命をもつ生き物である。各国は装われた冷静さで会議に挑んだが、実状は火星生物との面会という世界初の事業に対し昼夜を問わない企業欲と国欲だけのプロジェクトが進行していた。
 ・中国では核実験プランの縮小が決定された。
 ・フランスでは三回の核実験に使われた予算を悔いた。
 そして、自国における開発が無理と悟った国はアメリカへの技術協力を申し入れ、その最後には必ずこういった言葉が続いた——「宇宙ロケットには必ずわが国の国旗を入れてください」そして彼らはペンキ代だけとは決して信じられないディンギを支払った。マーレーはそのペンキ代を国家予算として組むことのできる国が不思議でたまらない。しかし、空想好きだった自分の父親ならやりかねないと思った。モーガンはそんなディンギは存在しないと信じている。

「ハロー、火星の方ですか?」
 そういいたいのだが、火星上で口を開くこともできず、ただそんな素振りを見せるために、戦争上がりの英雄的隊員が両手を広げてナディアに近づいた。彼女は小用を済ませたばかりだった。アユムでさえ知らない場所に、この大地で初めて見る動物——それは人間のようだった——が現れ、しかも段々と近づいてくる。その最初はゆっくりだった足どりは徐々に早くなってくる。
 動物は二人いた。それはヒト科の動物だった。動物たちの胸にはアメリカ国旗のワッペンが縫い込まれていた。そして二の腕にはレーシングカーさながらに各国のワッペンが並んでいた。そのなかには消費者金融会社の名もあった。銀色の宇宙服に、頭と顔がすっぽりと隠れるヘルメット——彼らにはおじつけづく様子などさらさらなく、とても堂々としていた。裏を返せば非常にいばりくさった態度に見えた。ごうまんだった。両手の拳を腰に当て、胸を張って彼女に近づいてきた。彼らには人を外見で判断する癖がついていた。彼らから見れば、大地の上で排泄をし、裾がほころびて汚れた半ズボンを身に着け、胸に布の切れ端を当てた女は、彼らよりも下等な生物に見えたのだ。しかし、彼らがナディアのことをどう思おうが、ナディア本人にとって彼らの見せる態度は不快そのものでしかなかった。
 彼らは近づいてきた。空気カプセルにマスクをしたナディアがしゃべることのできないように彼らもしゃべることができなかった。もししゃべることができたのならナディアは恐ろしく凶悪な言葉を発していただろう。ナディアは半ズボンをあげるのももどかしく立ち上がった、その瞬間——
 ごうまんな生物たちの前でナディアは消えた。
 隊員たちはこの現象があまりに現実性に乏しいため、自分たちの疲労による幻覚と見なし報告書から削除した。
 そしてテントの中のアユムも消えた。
 可愛い赤ん坊ディアナがテントのなかで泣いていた。

 かくして赤ん坊のディアナは地球に到着し『火星人』となった。老練な隊員は「この子のおむつはみんな私が替えてやったのだ」とインタビュアーに応え、顔をしわくちゃにしながら「自分のひ孫みたいに可愛いよ」ともいった。若い隊員は夜泣きで苦しめられ、そして小便が船内に飛び散ったことを真面目に語った。もうひとりの隊員は新妻との間に子どもをつくることを宣言した。

 とにかくディアナは公式記録上地球を初めて訪れた火星人となった。

 しかし赤ん坊は多くを語らなかった。ただ寝ては起き、そして泣いてミルクを求めるだけだった。まだ言葉のしゃべることのできない赤ん坊はナディアの乳を願ったが誰もそれに気づくものはいなかった。
 首にかけられていた十字架の裏に彫られたラテン文字らしきものから、赤ん坊は『ディアナ』と呼ばれた。
 その名前らしきものの彫られた十字架は世界に波紋を呼んだ。
 火星からの来訪者が十字架をぶら下げている——つまり彼女は、この赤ん坊はキリスト教徒であるのだ。他の何者でもない——そして彼女は、小さな赤ん坊はキリストの再来、『神の子』となった。辛く、長い夜を重ね、幾度の死を繰り返してきた弟子たちの信仰は報いられた。

 ついにキリストは再臨されたのだ。『火星人』の姿で。

♭ 6 殉難する弟子

 A室の中でアユムはナディアを探した。モーガンにも訊いた。そして今日は何日?——すべてのわからないこと、知りたいことを大げさなアクションでモーガンに問いつめた。モーガンはその前にこれを着たほうがいいと、アユムに衣服を差し出した。やはりアユムは素っ裸だった。モーガンはアユムのあそこをちらりと見たが、彼の目にはそれが以前より大きくなっているように見えた。錯覚! 錯覚!
「なあ、モーガン、ナディアはどこへ行ったんだよ」
「彼女は自分の国に帰ったよ」
 アユムは丈の長いズボンの裾を何度も折りながらいった、
「帰ったって——何で帰ったんだ?」
 モーガンは黙っていた。そしていった、
「帰ってもらったんだ」
「なぜ?! ボクらには子、子供がいたんだ——こんなちっちゃい女の子が!」アユムは赤ん坊を抱き抱える仕草を見せた。
「女の子?——誰の子だい?」
「ボクたちの子に決まっているじゃないか——ナディアとボクの子さ!」
「わからないな——とにかく家に帰ろう、お母さんが心配してる」

 長かったね、と母親が家に帰ってきたアユムにいった。一年半が経過していた。一年半?——アユムは時間の長さに今更ながら圧倒された。
「一年半? なんてこった、ボクは会社を辞めてから一年半もあの変なところへいっていたというのか! なんて無駄草だ」
「アユム、別に無駄じゃない、マーレーは君の口座に毎月金は振り込んでいたよ」
「金ってなんだ——」
「君があの星で働いていたことに対する金さ」
「——???」

 アユムは地図を広げるとバンドンという名前を探した。インドネシアというのは数多くの島で構成されていた。
 トランスポーターで行くのか、とモーガンが訊くと、もう裸になるのはまっぴらだとアユムが応えた。モーガンはアユムについて行くことに決めた。アユムには説明が必要だった。行きの機内で——、
「アユムとナディアに火星に行ってもらったことには、二つの目的がある。
 ひとつは、火星の開発を活発にさせることだ。悪くいえば、それはマーレー・フラスコの思いつきにすぎない。彼は何とか人類を火星に移住させたいんだ。そのために火星の開発を活発にさせようと考えた。彼は懸念している——地球の存亡を——それには地球の再生が必要だ。地球をまっさらにする。そして地球が進化していく姿を火星から見届けるんだ。彼はこういうんだ——

『——残るべきして生まれるものはそれが文化にしろ団体にしろ生き物にしろ少ない。生きていくには進化という理屈がかろうじてそれらが生きのびるための正当性を提供している。私は疑問に思う、はたして我々は残るべきものなのだろうか
 ——しかしどうだろう? 私はゴキブリが生きていることが未だに信用できないのだ。ゴキブリに進化は必要なのか? ゴキブリが生き残りつづけていることは自然の摂理なのだろうか?
 ——私は自然の理がそれを求めているのかもしれないにせよ、正直そんなことは信じたくはない。かといって今、この地球で再び進化の始まりを見ることは無理なことだ。それだからそれを実行するためには今一度白紙に戻らなければならないのだ。
 ——われわれは一時的にでも火星に移る。地球は休むべきだ。地球はひっそりと、自身の治癒力で何万年もかけて再生されなければならないのだ。わたしは地球とこれからをともにしてゆくよ』

 モーガンはいった、
「そしてもうひとつは神の再臨だ。ボクはすべての人間の前で神の再臨を見せつける義務があった。それはボクをあの世から甦らせてくれたペトロの目的だったんだから」

 ジャカルタは雨期だというのに快晴だった。客探しにかけずり回る幾人ものポーターが二人の、そして旅行者の足をとどまらせた。
 モーガンの意見でジャカルタ市内の店を五件回った。三件目の店でモーガンはナディアのバンドの名を見つけた。「彼らには会えないのか——」というアユムの強引な詰めよりに、店は夜まで待ってくれとの一点張りで、結局二人はその店が開くまで余所を探した。三件目の店にもどり、バンドを見た。ナディアはいなかった。現地語がわからないことをいいことに図々しく楽屋に入ってゆくと、「ナディア?——ああ、ナディはもういないわ」と短髪のボーカリストがいった。彼女が『ここしばらく姿を見せなかった。自然にバンドを辞めてしまったようなものだ』といっているのだろうとアユムはなんとなく理解した。帰りのタクシーで金をしぼられ、結局その日はナディアの姿を見つけることはできなかった。
 ナディアはバンドンで見つかった。大通りにあるバス停から一ブロック越えた『メビウス』というサロンだった。
 彼女は子供の歌を歌っていた。
 ナディアは白いワンピースを身に着け、長い髪の毛には何の飾りもなかった。
 ナディアはあまり鳴らされることがない六弦が外されたギターを抱いて、子供のことを歌っていた。
 静かな歌だったが、彼女のかすれた声が耳元近くでくっきりと響いた。
 ナディアは泣いていた。涙を見せていたわけではない。ただ、アユムには彼女がどうしても泣いているように映った。それは席に座っている客たちにもそう見えたにちがいない。それほどナディアは悲しそうに見えた。
 アユムはナディアが歌っている——いや、泣いている姿を見て、自分には何をすることもできないことを悟った。
 アユムは身体と照明の向き具合で、ナディアの胸元にときおり光るものに気がついた。しかしそれが何であるかわからなかった。モーガンにはわかった。それはアユムが火星でディアナの洗礼のときにつくったものだった。

 それは十字架だった。

 モーガンはアユムのそばを離れ外へ出た。彼は後悔に似た念を感じていた。ナディアは『神の子』であれ『人の子』であれ、自分の『子』には会えないだろう。火星人となったわが子を抱くことはできないだろう。
 世界中の誰もが、ナディアとアユム——その二人が火星にいて、そして生まれた生命がディアナであることを知らない。
 モーガンは思う、——ナディアにはそれがわかっていた。彼女自身の身に起きた不可解な出来事は誰の耳にも止まらないだろう。神父でさえ彼女の告白には耳を貸すまい。
 アユムはどうするだろうか?——彼自身もまた、どうしようもできまい。彼は自分やマーレー・フラスコを問いつめるかもしれない。しかし彼は自分の無力さを痛感するだろう。彼は純粋な気持ちからナディアを探し、見つけだすことができた。だがそれまでのことなのだ——
 モーガンは何も見つめず、考えていることすら忘れてしまったかのように、ふらふらとした足どりで店の外に出た。空気が低く共鳴する音が聴こえる。最初は遠くから耳鳴りのように頭のなかで響き、そして段々と鼓膜を震動させた。地鳴りが近づきその震動がモーガンの足下を伝わり彼の身体を揺らした。それは彼自身を心地よい陶酔へと導いた。そして彼は自分の頭に強い衝撃を受けた。
 右手前のスーパーの窓から黒煙が上がった。ガソリンの入った火炎ビンが投げ込まれたのだった。そしてとなりの駐車場では赤や青い色をした車のフロントガラスが割られ、ボンネットがでこぼこになった。
 通りでは宗教的差別を受けたと誤解した人々が起こした暴動がはじまっていた。しかしその中にはその宗教を信仰するものはほとんどいなかった。それは存在する二つの宗教の対立という名を借りた、低賃金労働者の怒りの爆発であった。彼らは集団となり解決するはずのない目標に向かい、声を上げて熱帯性植物が飾る道路を進んでいった。そして空中を石や火炎ビンが飛び交い、まわりの店からは人が飛び出し、急いでシャッターを降ろしたり、声を上げて集団の中に入り込んでいった。
 青い目をしたモーガンの足下に、新しい血のついた、石器のような石ころが落ちた。モーガンのこめかみから血が流れた。それでも彼は両足で立っていた。二度目の衝撃に後頭部がさらに強い震動を受けたとき、彼はよろめいた。そして人並みに揉まれるまま彼は地面に横たわった。人々は自分の足下に転がる柔らかいモーガンの身体を次々と踏みつけていった。
 客たちが出ていった店のなかでナディアは歌い、そしてアユムだけがそれを聴いていた。ナディアは従業員たちもいなくなった店で予定どおりに十二時半まで歌った。
 この暴動は、百三十人の怪我人と三人の死者を生んだ。
 その三人の中にモーガンは含まれていた。
 アユムはモーガンを探し出せなかった。すでにモーガンは息をひきとったまま病院に収容されていた。だがアユムは『試験管』でまたどこかに行ってしまったのだろうとしか思わなかった。

 かくして無力なキリストの弟子の罪を償わんとする自称『ペトロの生まれ変わり』は、宗教の対立という名目の中、怒りにあふれた民衆によりその命を絶たれた。
 そしてイエスがキリスト教徒ではなかったように、またディアナも火星人ではない。そして『神の子』でもなく『人の子』でもない。ディアナの存在は無に等しいものだ。

 だが幸いなことに人々は純粋にディアナを歓迎した。

 母親のナディアは明日も歌を歌う。午後八時から十二時半まで。

 アユムはナディアにいったことがある。
「好きな女性には何もいえないよ」
 そしてナディアはいった、
「まるで学芸会ね——そんな悩みは」

(続く)



共通テーマ:blog

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。