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仮題: welfare, warfare とか 7 [仮題: welfare, warfare とか]

【7回目】

tY: 試験中なので遅くなりました

 ・・・・・・・・・
 ゼンジはスタナーに起こされた。古びた電気式時計を見れば七時を少し過ぎたころだった。いつかアレを完全に消してやる――ゼンジがそう思ったのは、時計のガラスに書かれた『太平建設寄贈』という金文字だ。今やそんな会社は存在しないのに未練たらしくいまだにガラスに張り付いている。
「スタン、早いじゃないか」ゼンジは首に痛みを感じた。ずっと机の上に顔を突っ伏していたのだ。顔を載せていた腕も痛かった。指先はじんとして感覚がない。スタナーが驚くようにいった、
「ボスこそ早すぎる。きのうは帰った?」
「ああ、帰ったさ」そういいながらゼンジはイスに座ったまま伸びをする。顔が脂ぎっていた。おもいもがけずに早く起きちまったんだ。部屋にいたままじゃ寝ちゃうからな」
 スタナーは悲しそうにいう――「ボス、誰か起こしてくれる人でもいないのか」そしてふと気づくと、すまなそうにいった。「そうか、ここじゃみんな独りぐらしだったね」
 スタナーの表情や口振りに気がついたゼンジがいう、「心配するなよ」
 スタナーがいっているのは、暖かい家庭のことだろう。ニッポンはまず国家が自分の家庭である国民を見放した。国民にとって国家は飲んだくれで頭が悪く、奔放で今日のことしか考えない乱暴な、それでいて気の弱い、その地位だけで家庭にいすわりつづける国家親父だった。税金がとっくの間に底をついていたので、サラ金からもディンギを借りていた。国家親父が得意だったのは言い訳や開き直りで、「これは個人のディンギです、プライバシーでしょ」という。そういいながら結局国民の借金勘定にサラ金の名が増えていた。そんな親父に国民が三行半を叩きつける直前、天文学的な借金を残して、国家親父は「もうダメだ」とグチりながら出ていってしまった。誰も彼にディンギを貸してくれなくなったのだ。暖かいといわれた家庭はその後で崩壊した。いまじゃみんなバラバラだ。それが普通だった。
 今やイサオ・セキグチだけが親なのだ。
「そういうスタンこそずいぶんと早いじゃないか? いったいどうした」
「今日は自分の会社と電話で会議する」
 スタンは前にいたアダホやウーと同じでユニソフトというアメリカの会社から派遣されている社員だった。ユニソフトの総裁であるビル・フラスコとイサオ・セキグチと大学の同窓だった。スタンがいった、「いくら好きなときに話しをできるようになっても、あいかわらず時差が存在する。これだけはどうしようもない。どうにかならないかボス」
 ゼンジは意外な顔をする。ゼンジが持ち得ないはるかに特殊な職業技術とそれを支える優秀な頭脳を持つスタンがそうしたことをいうとは思わなかったのだ。
「どうしようもない。時間ってのはお日様の場所で決まってるんだ」
「お日様? 太陽のことか――そんなことはわかってる。だから世界がほんとうに同じコミュニケーション、そして平等な立場をつくりだすには時差がじゃまだ」
 ゼンジは、自身の理想を口にするスタナーの表情を読むことができなかった。彼が真剣にいっているのか、それとも冗談なのか――ゼンジはいりくみそうな話しを避けるためにこういった、
「あまり悩むなよ。あんがい嫉妬してるだけかもしれない」
「嫉妬?」――スタンが不思議そうな顔をする。
「ジェラシーだ。たとえばこれから仕事をしようとするときに向こうは寝ちゃうんだ。うらやましいとか、ちくしょうとか思わないか」いいながらゼンジは不安になった。スタンがそんな一個人的な見解で時差云々といった話しを持ち出したとは思っちゃいない。だがゼンジにはこんな解決策しか思いつかなかった。思ったとおり、スタンが口を開いた――ちがう、ボス――ゼンジはそれを人差し指で制した。
「わかってる、わかってるよスタン、でもオレにはどうしようもないことだ」
 どうしてオレのまわりにはへりくつ――いや、彼らにとっては真剣な研究対象だった――しか浮かばないやつらばかりなんだ。オレはこんあやつらとばかりしかつきあえないのか? あのエセ宗教のモーガン、マリアにしてもそうだ、彼女は自分が理想とする医者像を淡々と語る――アユムがいる病院の医者、クソったれのモシアズ、それからユニソフトの『優秀』な技術者。幼い人間、知識を吸収段階にある人間はよろこんでそんな話しを、時間をかけ、ゆっくりと自分の頭にため込んでいくだろう――そうして脳ミソにはしわが増えてゆく。だが、オレはそうじゃない。今さらすし屋で修行するような気は起きないし、知識をため込もうなんて考えはもうとっくの間に消えていた。オレにできることといったら、完全なサービス業、つまり何も考えず、ただマニュアルどうりに接する仕事だ。たとえば海辺ホテルのフロントや、性産業の黒服(もう少し格好よけりゃの話しだが)くらいだ。
 ゼンジは自分の気持ちを押し殺しながらいう。顔には少しの笑顔を見せる。今までずーっとやってきたことじゃないか? ゼンジは息をつかずにしゃべった――「スタン、きみは疲れているんだよ、きっと。オレにもよくわかる。自分の故郷を離れて遠いところからこんなへんぴでちっぽけな国に来ている。友人とはカメラでした顔を合わせることができない。顔は走査線でできていて、きみは彼に手を触れることさえできない。ああ、なんという悲しい現実だ。オレもきっときみのような立場なら、異境の地できみのようにそう思っただろう――だけどオレは今自分の国にいる。だからきみの話にはあまり真剣になれないんだよ」――ほらいえた。どうだ? スタンはお手上げだという顔をしている。
「そうだなボス。疲れてるんだ」
 納得してくれたか。それじゃあ最後はこうだ。「今度長い休暇がとれるように考えてみるよ」
 スタナーは納得してくれたようだった。避けられない約束の時間があった。電話会議はあともう少しらしい、スタンは腕時計を見ながらそわそわと机に戻る。
 ゼンジは考えた――オレはまたウソをついてしまったのか。
 ゼンジはイスに座る。そしてボーっとする。眠気がおそう。始業までには時間がある――彼はまた机の上に顔を埋めた。そして寝息をたてる。

 アユムの部屋。
「ゼンジ、すべてが変わるのは雪が降った日だ。雪になれない人が命を落とす。雪は人の流れを変えるんだ」
 ゼンジは笑った。「そんなことがあるとしたら、オレはしょっちゅう変わってたよ」
「しってるか? ウソつきがいたんだ。一九六〇年だったよ」
 火星に行った人間がある植物を持って帰ってきた。惑星を全滅させた。だが彼は生き残った。恋人と二人で。
 ゼンジはアユムの話しを聞き流す。そして話しを変えようとし、モシアズのことを口にしようとしたが、少し考えてやめた。もしこの男がモシアズにオレのことを話したとするなら、みすみすこの男の計画に火をつけるようなものだ。話しをややこしくすることはやめだ。たぶんアユムがたのまないでも話してくれたウソつきの話しはモシアズの受け売りだろう。もうあいつのことを考えるのはやめだ。
 口を開きそうにないゼンジにアユムがいう、「きみはそのズボンどこで買ったんだい」
「最近買ったわけじゃない。前から持ってるやつだ。ずいぶん前からね。もう六年くらい経つよ」
 アユムが頭をかいた。「ボクにはよそ行きの服がない。前に着ていたものはすっかり古くなっていて、それもどこにあるのかわからないんだ。いまじゃ持っている服といえばこのパジャマだけなんだ。しかも病院支給だ。洗濯付きでね。退院した後のことを考えても、そろそろ服を用意しておくべきかなと思ってね」
「さあ、どこで売ってるか――めったに服なんか買わないからな――たぶんどこにでも売ってるんじゃないか。でも安くはないと思うよ」
 今、古いズボンがえらく高く売れてる。ズボンに限ったことじゃない。ハンドメイドとかアンティックといった類じゃなくて、普通のズボンやシャツだ。大量輸入された余りもの。どこかで倉庫中を埋めつくしているはずだ。だけれどどこかで止まってる。誰かが止めているんだ。需要を見計らってすこーしずつ売りに出している。安い原価の服をさらに安く叩き買いし、それを数百倍のディンギで売りさばく。あきらかに輸入のしすぎだったんだね。たいていの企業は消費者のためともちろん自分たちのことを第一に考えていたけれど、今じゃあきらかにバッタ屋だけが得をしてる。彼らの手元にタマがあるかぎりは。
 まあ、ズボンが高いということで、自分の服を裁断して新しいズボンをこさえるやつもおおぜいいる。見たかい?――素っ裸でズボンやシャツを売っている人間を。でもたいていのやつはそのズボンを買わない。
「高いのか。前はよく安い服がいっぱいあって飛ぶように売れていたと聞くけれど――でもあれはみんな輸入品だったんだな。ニッポンでつくっていなかったんだ」
「みんな輸入品だよ。みんなモノなんかつくらなくなちまったからね。まったく採算がとれないことからみんな手をひいちまったんだ」
「この端末は誰が作ったんだ?」アユムは自分の小さな端末を手にしながらいった。
「うーん、タイワンじゃないか」

 マリアがいう――「最近、わたし新しい医療用具を見つけたのよ」
「医療道具? 物騒なやつ――危なっかしいやつじゃないのか」ゼンジはそういって内心、またわけのわからないことを考えているんだろうと思った。
「ぜんぜん」
 マリアが説明してくれたその医療用具は『なぐさめボックス』といった。それは十センチ四方の箱で、白色の外観、スイッチが二個、そのうち一個は電源のスイッチで他のはスタート用がついていた。そしてスピーカとマイク用のスリットがついているという。それをどんなふうに使うのかとゼンジが訊いた。
「それは話し相手よ。絶対に自分を裏切らない話し相手なの。例えばこう――」
 その箱は応えてくれる。
 ――あれはまちがいだった
〈だれにでもまちがいはあります〉
 ――まずい料理だったな
〈まずいものもありますね。でもうまいものもありますよ〉
 ――もうだめだ。負けそうだよ
〈だめよ、負けないで〉
 ――わからないことがあるんだ
〈あなたにわからないことなんて難しすぎてわたしにはわからないわ〉
「その箱が何の役に立つんだ?」ゼンジが正直にいった。
「特にあんたみたいなやつに必要なのよ」
「なぜだ?」ゼンジは意外だった。「オレはそんなものいらないよ」
「これはあなたみたいにブツブツ独り言をいう人間に必要なものなのよ。返答のない独り言は心の病のはじまりなのよ。へんな犯罪をしている人間はたいがいなんのコミューンや仮想的なものであれ仲間を持っていないわ。そのうっくつがおかしなことをはやしたてるわけ」
「たとえ仲間がいてもおかしいやつが仲間なら、おかしなことをしちまうさ」ゼンジは混合コーヒーに口をつける。「それにオレは独りになれてる。独りぼっちだからっておかしなことをするやつは甘えているか頭がおかしいかひねくれてる。結局かまってほしいだけなんだろ」
 マリアがため息をついた。「あんたってよほどひねくれてるわ」
「そうかもしれない。けれど、この――何とかボックスってのは前にもあったよ。人造ペット――イヌかなんかの形をした電子仕掛けのロボットペット。洗濯ができる毛皮をかぶせたりしたやつもあったが、たいがいの人間はそれにあきて今じゃゴミの山でおねんねしてる。そいつらの焼き直しだ」ゼンジはマリアのふくれっ面を見た。「――まあ、なんだ、お話ボックス?――そのデザインは飽きがこないかもしれないな。ただの箱ってのが良さそうだ。人間はけっこう実物に似すぎるとしだいに毛嫌いしてくる習性があるらしい。それにくらべてそれはトースターとかラジオとか、そんなもの見えるだろうからたぶん人造ペットよりは生活の一部として定着する可能性は高いだろうな」
「養護してくれなくてもかまわないわ」
 マリアはそういって立ち上がる。
「それはいくらするんだ」――ゼンジが思わず口にした。
「しらない。広告を見ただけだから」
 ゼンジはお話し――いや、なぐさめボックスに「なぜズボンの値段が高いのか」と訊いてみたくなった。なぐさめボックスは何と応えるだろうか。

 彼は今日会ったナエコさんを思い出す。時間は確か二時過ぎだった。その少し前までゼンジは官邸一階の食堂で食事をしていた。配給制の食事は肉の入ったウドンで、そのくせ汁はコンブや魚といったニッポン風のダシではなく、かといって洋風とはいいがたいものだった。少し甘いようで動物の骨の味がするスープは舌の上にいつまでも残りそうだった。今日のコックは誰だろうと首をのばして厨房をのぞき見ると、そこには中央アジア系の顔をしたコックがいた。カザフスタン人か?――ゼンジはそう考え、何年も前にウズベキスタンで食べたキシメンみたいな練り物とヒツジの肉やニンジン、タマネギといった野菜を煮込んだ料理を思い出す。彼がそれを思い出すのは手づかみで食べたからだった。熱い料理で指先は麻痺し、脂だらけになった。口の中にたまる脂を洗い流すように強いウオトカを飲む。その強さをやわらげるためにまた料理を胃に入れる。その繰り返しだ。ときおりナムに手を伸ばすが、それはちょうど良いぐあいにおしぼり代わりにもなった。ゼンジは遠い昔に食べた料理を思い出しながら、ウドンとセットになっているパンをちぎり口の中に放り込んだ。そしてまたウドンをすする。
 この味はラグマンだ――ゼンジはふとウズベキスタンで食べた。ヌードル入りスープを思い出した。細かく刻んだ野菜と、細切れの肉がほんの少し入ったスープ――ゼンジが食べていたウドンはその味に近い、いや同じだった。ラグマンは彼にとって救いの料理だった。脂だらけの料理と芯の残っているプラフ、そして何よりもウオトカで彼の胃は瀕死の状態にあった。胃は荒れ放題でコレステロールは上がりっぱなし――ラグマンはそんな彼を救った病人食のような料理だった。その料理に出会ったのは、彼が岩山の中を走る移動中の車の窓から胃の中のものをすべて出し切り、食事よりも水と休むのが目的で入った店だった。水を飲み、イスの背もたれに身体をすっかり預け、ただゆっくりと息をしていた、その隣のテーブルであまり見栄えがよいとはいえない服を着た少年が食べていた料理、それがラグマンだった。その匂いは食欲をそそり、小さな器も彼の胃にはちょうど良さそうだった。「同じものを」という身振りで料理を注文するとコック兼ウエイターは何かわからないことをいった。後から考えると、ウエイターは「ラグマンだね」といっていたのだ。ゼンジ――いあそのときは『アユム』だった――はラグマンを目の前にしたとき、最初は細いウドンのような麺を一本ずつ食べ、最後には麺の固まりを口の中で咬みちぎった。スープをすべて飲み干し、さらに彼は二杯のラグマンを食べた。そして水を買い、二時間車の中で休んだ。今でこそそれは想い出だった――だがラグマンが無ければ彼は自分で車を運転するどころか、助手席に座ったりバックシートで横たわる力さえ無かっただろう。寝ることにしろ力がいるものだ。
 ラグマンはいわば、ゼンジの命を救った料理だった。そのラグマンに会えたことは、よろこばしいことだった。彼は厨房のコックにいい、器に半分だけおかわりをもらった。それをたいらげたあとで炭酸入りの水を飲んだ。
「スパシーバ」と彼はひとりごちた。まだゼンジ、いやアユムがウズベキスタンにいたとき、そこではロシア語が通じていた。たぶん今はすべてがウズベキ語に変わっている、いや、元に戻っているといったほうが正解だ。とにかく、たぶんあの国ではもうロシア語は通じないはずだ。イサオ・セキグチが長い時間をかけてニッポンの世代を変えようと努力しているように。
 ゼンジは感動の食事を得たあと、二階のベンディングマシーンで中国製強壮剤――スタナー曰く「わけのわからないもの」を買おうとしたが、あいにくコインが足らなかったので、無料のトウガラシ入りコーヒーを選んだ。苦みで口の中に残る味は消え、辛さが彼の額に汗をにじませた。この変わった飲料を考え出したのはいったい誰なんだ?――その飲料はいつのまにかベンディングマシーンの中に並べられていた。たぶん総務部のなかに頭のおかしなエスニックオタクがいるにちがいない。それか新しい舌を持つもう年をとってしまった世代の発案だろう。たぶん人間は目をつぶれば何でも食べることや飲み下すことができる。そうだろうゼンジ――お前はアユムのころ、分厚い卵焼きの具にされたゴカイを旨そうに食っていたじゃないか――
 というわけで、ようやくナエコさんだ。
 ゼンジはトウガラシ入りコーヒーの入ったカップを手にして防諜部の中に入った。その部屋には客がいた。ゼンジとスタナーしかいない部屋は人が一人増えても様子が変わって見える。ゼンジが考えるまでもなく、その客はナエコさんだった。ナエコさんはまたカーキ色の麻を着ていた。トンボのようなメガネはあいかわらずだ。まったくキュートだ。ゼンジは目をそらしながらも彼女の顔を自分の視界に入れようとしていた。その姿はたぶん不自然だったろう――自分で考えても恥ずかしくなる。ゼンジは顔が赤くなるたち、つまり気を抜くと自分の考えをろこつに現せてみせるほうだった。これはどうにもならない――彼はあきらめる。やはりオレは完全な幸せすぎるほどのお人好しなのだ。だが、そう考えながら、彼はナエコさんに対して自然と自信めいたものを持っていた。それは彼女がゼンジをバニーピンクを通じて誘ったという事実だった。
 ゼンジは何事もないようにナエコさんの横を通り過ぎる。彼女は自分を無視するような態度に少し腹を立てているようすだった。
「連絡なしで来るなんてよほど急用ですか」自分の机の前に立ったゼンジがいった。彼はナエコさんを見ていなかった。
「用事ってほどじゃないわ。ただ患者の様子を訊きたかったの。どう、経過は」ナエコさんはそういってゼンジの机に腰かけた。
「進んでますよ。ただ、あの患者、なかなか自分のことを話してくれなくて」ゼンジはそういいいながらナエコさんの横に立つ。
「あまり手間をとらせないでね。こっちも色々あるのよ。することがね。急にあの患者にボロが出たりしたら、また新しい候補者を捜さなきゃならないから。でもそんな時間なんてないのよ」
「もし彼でダメなら、来年に持ち越せばいいじゃないですか」
 ナエコさんは首を振る「ダメなのよ。規定じゃ、その年に最も功労した国民ということになってるの。別にその国民が去年のボランティアレベルに較べてどうしようもないカスだとしても、そいつに与えなきゃならないわけ。それに――」彼女は少し思い詰めた顔をする。「今まで例外はないわ」
 ナエコさんはしかめっ面をした。ゼンジはその顔がキュートだと思った。すてきじゃないか、ゼンジ――何か別なことを話してみろよ。
「わかった、とにかくもう少し聞き出してみよう」ゼンジはそういってナエコさんの前に立つ。ゼンジは彼女を見下ろすように背を伸ばした。たいして背の高くない自分を大きく見せるようなしぐさ。そのみじめったらしい行動だがゼンジはなりふりかまってはいなかった。トウガラシ入りコーヒーを少しすすり、Rationedタバコをくわえ、カップを持ったままの手で火をつけた。煙を吐く。そしていった、
「どうして来なかったんですか。オレは待っていた」
「何の話しよ」ナエコさんはゼンジをにらんだ。
「何の話しか」タバコの煙を吐く。「バニーピンクできみはオレを誘った。オレは海辺ホテルで待っていた」
「ホテル? バニーピンク? あなたいったい何をいっているの」
 ナエコさんはきつい目でゼンジを見た。かぶりをふるナエコさんを見て、ゼンジの自信は揺らいだ。ほんとうに何もしらないのか――彼はもう一度いった、
「オレは待ってたんだよ。海辺ホテルで――わけのわからんアベックたちの視線を浴びながらね」
 彼女はまたかぶりをふる。どうでもいいことだ――あきらめかけたゼンジは、ナエコさんの目が自分に向けられていないことに気づいた。あきらかに戸惑いと映る表情を発見した。
 ゼンジは静かにいった、「しらないなら良いが」――そして、「まあ、あなたじゃなかったかもしれない。とにかくオレはあなた――に似た誰かに呼び出されて、独りわびしく海辺ホテルのラウンジで誰かを待っていたんだ。プラスチックの椰子の木で囲まれたカウンターでね」ため息をつく。「――さんざんな夜だったよ」
 ゼンジは話しをうち切った。所在なげにあたりを見回すとスタナーと目があった。スタナーは目をそらす――聞き耳をたててやがったな――気の毒そうな目をしていたスタナーにゼンジは腹をたてながらも、気まずい気分を覚えた。というよりは恥ずかしかった。罰の悪い子供みたいな気分だ――ゼンジはそう思いながら頭をかく。
「オッケー、すみませんでした。まあ、とにかくボランティア功労者の方はちゃんと探りを入れておきますよ」
 ゼンジは自分の記憶のあいまいさを嘆いた。すべてはバーで記憶を失ってからのことだ。一時的な記憶の喪失が、それ以前の記憶の真偽まで疑うようにさせていた。こんなことは初めてだ――ゼンジは不安を覚えた。そのうえ、ナエコさんに対して浴びせた確信に満ちた疑いがもろくも崩れたことは彼をどうしようもなく落ち込ませた。ゼンジは五十も年を食ってしまった自分を思う。明日の自分さえしらないくせに、彼の心境は老いぼれていた。だが少しの時を経て彼は素直にそれを受け止めた。よくある年寄りの失敗だ。だれでも年をとるし、その年に見合った失敗(一様にとりかえしのつかないものであるが)なのだ。たぶん脳ミソはオレの思考に疲れ果てたのだ。後悔しては開き直り、また思い出しては後悔――その繰り返しの思考は単純すぎて、脳ミソの同じ部分を摩耗させていく――たぶんそろそろその耐用期間も過ぎる頃だろう。そうなればオレの脳ミソも安らかな生活を過ごすことができる。それまで勘弁しておくれ――
 ナエコさんがゼンジを見る目が変わっていた。それはゼンジにもわかった。普段の威圧感ではなく、どこかしら落ち着かない感じだ。恐怖? たとえば女性が男性を怖がるという――オレが変な質問をしたせいだろうか――たぶんそうだろう――ゼンジは後ろめたくなった。後悔先に立たずだ。今さらどうしようもなりはしない。彼女に何をいったらいい? 教えてくれ、ナディアそしてAっちゃん。
 ナエコさんは出ていった。
 ゼンジはナエコさんの背中にAっちゃんを見た。そしてディアナも――みんなキュートだった。彼女たちはオレにかけがえのないものを与え、そしてとてつもなく固くはがれないしこりをオレの脳ミソに残していった。

「なぐさめボックスの売っている場所はどこなんだ」ゼンジがいった。たぶんなぐさめボックスならオレの質問に答えてくれるかもしれない。
「調べてみるけど、たぶんネットでしょ。ワークカードがいるわ」マリアがいった。彼女は立ち上がった。髪の毛をかきあげる。ピンクの白衣の裾に混合コーヒーの色をしたシミがついていた。
「調べといてみる。いえばカタログを送ってくれるわ。別なタイプがあるかもしれないから」マリアはそういいながら、狭いダイニングから六畳間の部屋の半分ほどをしめるベッドに向かった。「でもなんで急に買おうなんて気になったの?」彼女は少しの皮肉を込めていった。
「別に買おうなっていっちゃいないさ。ただそんなものどこで売っているのかと思ってさ」
 マリアはゼンジの返事に気にする様子もなく、ただベッドのシーツを手のひらでしわをのばしたり、枕の位置を変えたりしていた。
 部屋の景色がむなしく見えた。ほんの少し前まではそうじゃなかった。ゼンジはもう一度あたりを見回した。やはり変わらない。あたりの光はすっかり消えていた。今あるものは生命のない光だ。マリアが灯した蛍光ランプは明るいけれども、決められた周波数によってチリチリと光をにじませっぱなしだった。カーブの頂点ち中間をいったり来たりしている。近くなる月はしだいにランプの代わりを兼ねつつある。汚らしい地肌はロマンチックのかけらもない代わりに、モノが浮遊する空間を感じさせ、あらゆるゴミが集まって、いたるところからふりそそぐ。それが正解だ。晴れてこの惑星は初めて、惑星上に住み着くすべての動物の意志を結集させることに成功するのだ。ようやく来た夜明けは、次の日には破滅している。マリアが前であわせる青いガウン――それは彼女のところにやってくる患者が着るものだった――をハンガーに吊す。マリアの白衣と同様にところどころシミが付いている。水が汚いせいだった。いちばん有効な洗濯方法はドライクリーニングだった。問題は、希少なものにはたくさんのディンギを支払わなければいけないということだ。
「とにかく探しといたげるわ」マリアがその気がなさそうにいった。たぶんそれは彼女に限らず女性に共通するものだろう。感情の出し惜しみだ。みんな似たりよったり。永遠に変わらない感情。感情の名をかぶった知性がじゃまをしているのだ。
 ゼンジは腰を上げた。頭のなかは混乱していたが、まず先に浮かんだのは、外出するといって陽が高いうちに抜け出した官邸のことだった。もちろんはなから戻るつもりはなかったが、それでもどこか後ろめたさを感じた。そしてゼンジは自分の小心を感じるのだが、それもいつものことだった。明日はちゃんと仕事するさ、そう考えて出直しだ。その繰り返し――脳ミソはいつも繰り返すのだ。
「それじゃオレ、帰るわ」
 マリアは少し間をおいてからいった、
「ちょうどいいわ、帰ってよ。これから患者が来るの」
 とってつけたような返事だ――ゼンジはそう思ったが、そんなねじくれる態度をひっくり返すようにドアをノックする音がした。マリアはドアに向かって歩き出した。小窓にかけた黒い布をめくる。窓は開業するときに外側が曇りガラスになっていて、部屋の中が見えないタイプに変えてもらっていた。新品ではなく、ガラス屋がどこからかくすねてきたか、廃品の山からひろってきたやつだったせいか、その小窓は取り付けられた日からすでに薄汚れていた。ひっかき傷が気になるが、幸い外側の曇りガラスの部分にはキズがなかったのでそれで良しとしたわけだ。
 ゼンジはすこし遠くから小窓を覗いた。ドアの前にいたのは――ゼンジが名前を思い出そうとする――たしか、エミだ。
「あいかわらずその子の面倒を看ているのか?」
 マリアがいう――「別に面倒を看ているわけじゃないわよ。彼女はわたしの患者なの。れっきとした診察です」
 ゼンジは少しひねくれていった、「どうだか――あんがいお前もノリコさんといっしょのたちかもしれないな。いっしょに朝まで入院か?」
 マリアは何もいわなかったが、そのかわりに軽蔑するような目をゼンジに向けた。そして顔を何度かドアに向ける――早く出ていけという感じに。ゼンジは呆けたようにうなずいた。
 ドアの前でゼンジはエミに目で挨拶した。言葉も交わさずに自分の部屋へと向かった――無言の挨拶、しゃれているじゃないか?――まったく的はずれ、ゼンジが女性と話せるようになるのには時間がかかるただそれだけだった。
 たぶんマリアが入院させていたのはエミだろう、ゼンジはそう思った。エミと会ったのは一年前だった。彼は彼女からアヤベ・クミの存在を教えてもらった。彼女はイサオ・セキグチの新世代計画に参加していた。彼女の顔を見たことはない。だが、それよりもずいぶんと前に彼女と会っていたのだ。ウズベキスタンのとあるホテルのバーで。以前マリアが教えてくれたことによると、アヤベ・クミの娘であるエミの病状は笑わないことだった。エミは人が笑っていることに同感できるが、笑えないのだと。エミはウンカのように何も目的のない人間たちが集まるホームの側、ガード下のアパートに独りで住んでいる。収入の糧はTSKの接客嬢として働くことだったが、笑わない彼女がどうしてその役を務めることができるのかと考えたものだったが、案外と彼女は人気があった。自信をなくした人々はそれなりに心情を察する人々を求めた。笑わないエミはそうした客たちの人気を集めたようだった。いかにも時間を自ら放棄してしまいそうな彼女の深刻そうな表情は、客である人間たちに感情移入していると勘ちがいされやすかった。だが、どうだ?――エミはさらさらあわれな客たちに対する同情心は持ち合わせてはいなかった。客たちが吐き出すあわれでひがみ、ねじけ、屈折した正論は退屈か、もしくは腹がねじれるほどおかしなものだった。そして彼女は客たちに笑わない顔で笑って見せたのだ。

《《ここまで第7回》》



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