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仮題: welfare, warfare とか 6 [仮題: welfare, warfare とか]

【6回目】

暑い日が続きます。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〈そんなにおどろかないでよ〉画面の中のナエコさんがいった。〈あなたの顔が映らないわ。カメラ持っているの?〉
 ゼンジは端末を通話モードに切り替え、そして話しかけた。
〈この端末は古くてカメラがついていないんだ〉そうゼンジがいっている間、ナエコさんは渋い顔をした。
〈あなたの端末ってよっぽど古いのね。声がガラガラよ。それに雑音がいっぱい〉
 ゼンジは当然のように訊ねた、
〈何できみが話しかけてくるんだ?〉
〈どうせあなたが聖女カフェにアクセスしてくると考えていたからに決まってるじゃない。それにしてもずいぶん遅かったわね。どこにいってたの?〉
 ゼンジはサワコのバーに行っていたことを説明する。
〈それで本モノのお酒を飲んだわけ。男ってわからないわね。なんでそんなものでまぎらわすの? 高いディンギを払ってまでしてね。結局男の方が無駄づかいが多いってことね。ちまちまといろんなくだらないものにディンギをばらまくんだわ〉
 ナエコさんはあきれた顔で話す。ゼンジがいった
〈それで用事は――何?〉
〈早い話し――いっしょに会わない? もう時間は遅いけど店やホテルは開いてるわ〉
 ゼンジは口を開けなかった。正直なところ、バニーピンクにワークカードで料金を支払ったあと、ゼンジの性欲はほぼ無くなっていた。彼は欲と引き替えにディンギを支払った自分を自嘲した。オッパイに対する興味が失せてしまったのだ。
 だが結局、彼は了解した。ナエコさんの誘いにのってしまったのだ――

 彼はジャケットのしわを伸ばしてみたが結局あきらめた。彼は白タクを捕まえる。ドライバーはあからさまにタクシーに乗るのはディンギのあるやつだと決めつけていたようだったが、実際はちがう。車を買えない人間がほんのごくまれにタクシーに金を払うのだ。
 彼はドライバーの態度がきらいだったが、彼自身サービスをするつもりで人を乗せてはいなかった。だからこのタクシーを選んだ乗客の責任だった。ゼンジは降りようと思えばそのタクシーを降りることができた。だが、彼はそれをいいださなかった。これはゼンジの性格のひとつでもある。たぶんこの男は小心者だ。最近の相場では、笑顔を見せないやつほど、こわもての殻をかぶった気の小さいちんぴらだったから。性格のことを考えれば、ゼンジはどちらかというとこのドライバーと似ていると思う。彼は自分を変えるために名前を変えた。だが彼は自分でしっかりと感じている。名前を変えるだけでは性格は変わらない――ただ気分的な問題なのだ。そういうわけでゼンジは気に入らないドライバーが運転するタクシーに乗り続けた。彼がいいつけた行き先は海辺ホテルである。ナエコさんはそこのカフェで待っているといっていた。白タクのドライバーは生ディンギでなければ受け付けなかった。彼の車にはワークカードチェックが搭載されていなかった。そこで彼は使い古された紙入れから三枚のドル札を抜き取り支払った。
 海辺ホテルは、海辺にあるわけではない。それは廃れたテナントビルがひしめく界隈のなかにある細長いホテルだった。年数は経つが、見た目は古そうには見えない。廃れたビルのなかで確実に生きてるといえる建物だった。そのホテルはイサオ・セキグチの父親が行っていたアミューズメント事業のいっかんとして建てられたものだった。彼はたくさんの――数え切れないほどのホテル、俗に『ラブホテル』といわれるものを所有していて、その設備のほとんどは彼の案によるものだった。本やテレビで紹介されていたのをゼンジは覚えている。青かん気分を味わえる公園ルームや、無重力交渉を楽しむことのできる宇宙ルーム――それはイサオ・セキグチの父親はそれを純粋な彼自身の夢だと語ったが、実際、彼には十二人の愛人がいた。最後の愛人は、よく彼が出前を取っていたラーメン屋の女主人だった。彼女の年は三十四歳で、イサオは彼女を『十二号』と呼んでいた。家族が多い方が子供のためにいいのだよ――父親はマスコミにそう説明していたが、イサオにとってそれは勘ちがい以外の何ものでもなかった。
 ゼンジはこの手のホテルには入ったことがなかった。回転式のドアに一度閉じこめられそうになりながらホテルに入る。一階は待合室のようだった。床は大理石に見えたが、欠けている部分を見ればそれが模造でただのうすっぺらなタイルであることがわかる。ホテルの名前に合わせて飾られている大きな南洋植物はビニールの作り物だった。すみには割れたココナツの残骸が転がっていた。〈海辺ホテルへようこそ〉と書かれた掲示板を見る。三階から上は客室で二階にフロントとカフェがあった。彼は首のついた丸いグラスに果物が添えられたトロピカルドリンクを想像した。
 らせんの階段のステップを踏み二階に上がる。客はまばらだ。男女、女同士、そして男同士――少し自由の香りがする。雰囲気はたぶん悪くない。はたしてナエコさんはいるだろうか? テーブルで向かい合っているカップル――彼らは行為が終わった後なのかいくぶん倦怠しているようだった。男同士は息もつかずにひそひそ声で話し合っている。笑い顔であるから何かもめているといったふうではなさそうだった。年が開いている女性カップルはとなりあって座り若い方が相手の胸にもたれかかっていた。その他、何組かの客が好き勝手なことをしている。部屋でもないのにはじめてしまいそうなのもいた。見てられないな――ゼンジはカップルたちのテーブルを通り過ぎ、バーテンのいるカウンターに向かった。
 ゼンジは別段味のあるものが欲しくはなかったので、炭酸入りの水を注文した。年寄りのバーテンは大きなコップにミネラルウオーターを注ぎ、重たいガス噴出器のレバーを押す。プシュっとした音と共に水がはじけた。
 ここは待ち合わせをする場所じゃないな――カップルの中で、独りのゼンジは居心地が悪かった。外で待ち合わせてから二人いっしょにこの店に入るのが正道というものだ。特に考えることのないゼンジは、そんなくだらないことに頭をつかった。だがそれは彼の照れ隠しだった。彼の脳ミソじゃナエコさんが渦巻いていた。しかも彼はこんな場所で待ち合わせるのが初めてだった。オレはいったいどうすりゃいいんだ?――彼は戸惑っていたのだ。あたりを見回せば自分より若いやつがほとんどだった。あいつらはどうやってこんなところですることを覚えたんだろう?――彼は不思議だ。あいつらはたぶん性とか行為に対して何の疑い、そして制約を持ち合わせていないにちがいなかった。あからさまに行為を肯定するやつらの脳ミソはオレのとくらべてきっとどこかちがっている、だが反面オレはやつらがうらやましいんだ――居心地の悪さからはじまった暇つぶしはこんがらがってゆく。バニーピンクならなんというだろう?――〈あなたは幼女フェチ?〉――止してくれ――彼は炭酸水を飲む。模造氷がじゃまだった。
 バーテンがいった。「お客さん、お酒は飲まないんですか?」
 ゼンジが応えた――「そんな気分じゃないんだよ」
 バーテンは真顔でいった。「たしかに。アレの前に飲んじゃ使い物にならなくなっちまうからね」
 応じるのではなかった――ゼンジは無言だった。もう少し気の利いた振りでもできないものか?――とにかく今はだまっていてほしいんだ。そんなゼンジを見てバーテンは口を閉じた。その調子だよとゼンジは思った。見ザル言わザル聞かザル――あんたくらいの年ならわかっているはずだ。
 ナエコさんはなかなかこなかった。
 彼は炭酸水をもうひとつ注文する。バーテンはオーケーといい、注文されたものを作るため奥にさがる。「はいよ」といってバーテンがゼンジの前に置いたものは本モノの酒だった。香りでわかる――色も本モノのバーボンだ。しかもそれは『古ガラス』の臭いだった。
 ゼンジはいう――「オレが注文したのは炭酸水だぜ。酒――それも本モノのなんかじゃないよ」
「いいや、お客さんが飲むべきものはこれだよ」バーテンは何かいいたそうなゼンジを制していった、「心配すんな。これはおごりだ」
「おごられる筋合いはないよ」
「オレからってのがいやなら、国民からの――いや惑星からの贈り物ってことにしとこう。いいから飲んでくれ。さっき野暮なことをいったお詫びだ」
 ゼンジにとってはありがたいことだった。問題は見栄だけである。他人の施しは受けない――ゼンジと外側を隔てている強固な壁は今にも崩れそうだった。
「お願いだ、受け取ってください」バーテンがそういった。
「わかった、ありがとう」ゼンジはそういって古ガラスに口をつけた。うれしいことじゃないか?――
 古ガラスが彼の胃袋に入り、胃壁を刺激する――そして彼は眠りに落ちた。

「ゼンジくんこんばんわ・・・」
 遠くで声がした。ゼンジはその声を探す。脳ミソが静かに震動している。小刻みに――そして身体は重かった。自分の末端、手や足が感じられない。力の入らない首では頭を起こすことも難しかった。何かに拘束されているわけじゃない。ただ身体が重く麻痺している。アシカがするように胸を反らしてみるが思うようにはならない。頭はだんだんとはっきりしてきた。この冷たさ、臭い――自分がうつぶせになっている床はコンクリートらしい。この粉っぽさと身体の熱を奪い取るような冷たさはまちがいなくコンクリートだ。そうするとオレの部屋じゃないことは確かだな。それじゃどこだ?――酔いつぶれて起きたのは道路の上ってのはよくある話しだ。実際経験もある。しかしこの身体の感覚は?――痛くもなくただだるい――強い倦怠感。動かないもどかしさ、神経さえピリピリさせる。だがそれも徐々にとけそうだ。そんな感じだ。すこしずつ弱まっている。それにしても声の居場所はどこだ?
「どうかねゼンジくん気分は・・・」
 また声だ。若い声じゃない、年をとった声――聞き覚えのない声だ。いやらしくはないが気分が悪くなる――なんだか見下ろされている感じだ。もしかするとこいつは医者かもしれない。オレは急にどこかでわけのわからない場所で倒れてしまって、誰かが助けを呼んだ。そして今わたしに話しかけているのは医者なんだ。救急隊員かもしれない。オレはよほど危ない状態なのか?――そんなことはない――ジェルを塗りたくった電気ショックパッドをあてられる前に起きなくては――なんとか口を開こう――ゼンジがいった、
「――だい、だいじょうぶ」

「お疲れだねゼンジくん」
「誰だ? どこからしゃべってる」ゼンジがいった。身体復活しつつあった。彼は仰向けになって天井を見る。天井は高くあちらこちらに蛍光ランプ――照明がぶら下がっていた。とてつもなく大きな小屋――ここは何か倉庫か工場だ――ゼンジはそう推測した。
「たぶんわたしはきみが会いたかった男だと思うよ」
 ゼンジはなんとか半身を起こすことができそうだった。うぇ――吐きそうになったがこらえた。この気持ち悪さは酒のせいじゃない。病気でもない――クスリだ。
 ようやくゼンジは身を起こした。彼の口から出るのはため息、そしてあえぎだけだ。
「落ち着いたかね、ゼンジくん」
 飛行機会社の名前がスプレーペンキで書かれた箱の上に男が足をぶらぶらさせながら座っていた。暗がりではっきりと見えないがやせている。コートだろうか――丈の長い服をきている。そんなシルエットだ。ゼンジは何かをいおうとするがなかなか言葉にならない。男がいった、
「何かいってくれないかゼンジくん。お願いだ」男がいった。
 ゼンジは力無くいった「なんだ、誰なんだ? さっきからしゃべっているのは。ここはどこだあんたは誰だ?」――片手でこめかみをわしづかみにする。メガネがじゃまだった。メガネを外す。メガネはヒモで首からぶら下げられる。目のまわりの肉が痛かったかった。まぶたをこすりあわせる。目の玉が倍以上にふくれあがった感じで少しの刺激ではじけそうだだった。
「ずいぶんと苦しんでるな。どんな感じだ? 水でも飲むか?――」男はあたりを見回した「といってもここらへんには水など見あたらないが」
「あんた誰なんだ? さっきから何をいってる」ゼンジは手を地べたにつきながらようやく半身を起こした。ばかでかい小屋だった。真っ暗だと思っていたが、少しの明かりが見える。壁の天井ぎわにある窓から月と星が見えた。自分がいるのは工場らしい。彼は足をぶらぶらさせている男に目をやった。
「ようやく起きたかね。ずいぶん待ったよ」
「別に待ってもらう必要はないさ。とにかくあんたは誰なんだ。どうしてオレの名前をしってるんだ?」
「そりゃきみをしってるからさ。いわせてもらえばきみもわたしをしっている。そういっても会うのははじめたが」
 男は腰を上げ立ち上がった。そして胸に手を当てて軽く会釈をする。顔を上げると男はいった、
「こんばんわ。モシアズです――ナフカディル・モシアズ」
「あんたがそうなのか」
 モシアズは白いシャツに蝶ネクタイ、そしてジャケット代わりのハーフコートといった出で立ちだった。革靴が光っている。暗がりなので色ははっきりとわからない。だが上等そうな服装だった。長い髪の毛を両側になでつけている細い目に小さな口をしていた。
「こうして会うことができたのは偶然としておこう。その方がいい。どうしてか?――きみと会ったことがまったくのムダだったら後からくやしくなるから」
「ぶつぶついうのはやめてくれ。こっちは頭がすっきりしないんだ。どうしてオレはここにいる。そもそもここはどこだ?」
「工場だよ。整備工場――飛行機のね。ピューンって飛んでいくやつだ。すごいだろ、あのどでかいエンジンやコックピットの電子制御をここでチェックしたり、修理にオーバーホールする。ここはそういう場所だ。悪いところなんかすぐに直せる。どうだい、メカニックの臭いがしないか?」
「オレはどこも悪くないよ。ちょっと頭が痛いだけだ。それにオレは病院にいくよ。この場所じゃオレを治せないよ」
「そうか、病院か。そうだな、たぶんきみは人間だ」モシアズはうなづいた。そしていった。「わたしはきみに会いたいといった。だがそれはとってつけた理由にすぎない。きみこそがわたしを捜していたはずだ。ちがうかな?」
「別に探しちゃいない。ただあんたに興味があったのはたしかだな。けれど別に会いたくはなかったよ。特にこんなことになるんならね」ゼンジはちょっと黙ってまたいった、「オレはただ、あんたがふうがわりなことをしているから気になっただけだ」
「風変わりか。わたしをウソの現行犯でどこかに連れて行こうとでも思ったか?」
「あいにく眼中にはないよ。あやしいだけで何もオレたちには引っかかってない。だれも
あんたを連行しやしない。ただ――」
「だた?」
「あまりややこしいことは止めてくれ。気になってしょうがないんだ」
「ゼンジくんそりゃひどい。わたしは普通に暮らしているだけなんだが」
「もう少しひっそりしてくれ。それからなぜあんたはオレの名前をしってるんだ?」
「きみがわたしの名前をしってるように、きみの名前をしってるだけさ。なぜそんなに名前にこだわる? わたしはきみをこう呼ぶこともできるんだよ――『ジョン』とか『スマイル』とかね。まあきみが満足するのなら教えてあげよう。きみがゼンジであることはわたしの熱心な読者が教えてくれたんだ。読者はいいよ。わたしは自分に読者がいるなんて考えもしなかったからね」
「あの患者か?」
「だれともいえないよ。勘弁してくれないか。これは信頼関係なんだ。わたしとわたしの読者との。第一にわたしは読者の顔などしらない。また、読者には作者など関係ない。誰が作者のことなど気にかける? もしかするとそいつは十二人の時間を放棄させた大バカものかもしれないんだよ。五十人の女を犯したことにあきたらず、百人の幼児にいたずらしたようなアホかもしれない」モシアズは一息つく。彼は最初に座っていた箱にまた腰掛ける。「話すというのは疲れるよ、ゼンジくん。特にウマのあわない人とはね。だがとにかく読者がいることはうれしいが、彼らにはわたしなど関係ないんだよ。その前にわたしの方が関係なんてしたくないと思っているくらいだ」
「でもあんたは自分で読者を選んでいる。そして自分の小説を送りつけてる――矛盾してないか? それこそおかしい。関係したくないならひとりで悦にひたっていることだ」
「きみは独りでやってばかりで満足か? 人間誰しも――女であれ男であれ、たまにはアレをしてみたいと思うじゃないか」
「オレにはあんたが送りつけている小説が、あんたがマスかいて、あそこから飛び散ったザーメンに見える。そこらじゅうに放射してるって感じだ」
 モシアズは笑った。「人が遠慮して遠回しに話してやっているというのに、きみは下品だよ。たまってるんじゃないか? キンタマがはれあがってるんだな――パンパンに」
「たまにはそういうこともあるな」――今日は特にそうだ。せっかくナエコさんが呼んでくれたというのに――ゼンジはハッとする。ナエコさん?――そうだ、オレは確か彼女に呼ばれたんだ。そしてオレはホテル――浜辺ホテルにいた。男女かまわずいちゃつくアベックのなかカウンターで炭酸水を飲んでいた――
 モシアズは表情が変わっていくゼンジの顔を面白そうに見ていた。そしていった、
「どうしたゼンジくん、考え込んでいるね。何か思いだしたのかな」
 ゼンジはモシアズを見すえた。「あんたか? オレに何か飲ませたのは」
 モシアズは首をひねる。「何の話しだろう」そして思い出したようにいった。「そうか、きみは何かを飲んだ、そして気分が悪くなってあのホテルで倒れていたんだな。そうだろう、ん? 何を飲んだ――何を」
「あんたが飲ませたんだ。ちがうか?」
 モシアズは手を振った。「きみはなんてこうとをいうんだろう。倒れていたきみをわたしがここまで連れてきてやったというのに。それよりかわいそうなのはあのバーテンだ。彼は困っていたよ。わたしが変なことをしてしまったんでしょうか?――そういって見もしらぬわたしに泣きついてきた。きみはたちの悪いヨッパライだったのか?」
 ゼンジは口をつぐんだ。彼はもうどうでもよくなってきた。早いところ部屋に帰りたい。そう思いはじめていた。
 モシアズがいう、「さあ、ゆっくり頭を冷やしたまえ。きみが起きてくれて安心した」モシアズは立ちあがり、尻についた汚れを払う。「とにかくきみに会えてよかったよ。これからもちょくちょく会おうじゃないか」
「もういい」ゼンジは顔を背けていった。そして膝に体重を乗せゆっくりと――足がつりそうになりながら立つ。いったいここはどの辺なんだ」
 ゼンジが顔を上げ、天井近くの窓を見た。外はうっすらと明るくなっていた。
「市営の飛行場だ。町の方に歩いていけば公共循環路線の駅がある。三十分も待てばいちばんのバスが出るだろう。それで帰ればいい」
 ゼンジは心中でクソったれといった。彼は水が飲みたくなった。身体中が汗だらけだった。水、シャワー、水、シャワー――ふたつの願いだけが頭の中を巡っている。彼は外に出る――出口に立ったとき、背後でモシアズの声がした。
「機会があればまた会おう」
 ゼンジがいった、
「クソったれ!」

 整備場の外に出るとすぐ滑走路が見えた。帰り道を探していると看板を見つけた。
〈ヤングル飛行便――
 あなたの幸せと夢を誰よりも早く迅速に運びます。人も荷物も気軽にどうぞ。ロシア、チャイナ、タイワン、コリアン向けにも運航中。料金応相談〉
 半ばボーっとしながら看板を見つめていると、うるさいエンジンの音が聞こえた。朝っぱらから良い迷惑だ。彼は滑走路見た。プロペラ飛行機が、まだ目で追いかけることのできるスピードで助走体制に入っていた。
 操縦席にはヒゲを生やした丸顔の男がいた。そしてその後ろに――男はゴーグルをかけていたがあきらかにモシアズだった――がいた。
 モシアズはゼンジに向かって手を振っている。何かをしゃべっているようだ。だがその姿もすぐに見えなくなった。
 ゼンジはひとりごちた、「墜ちろ、そしてその姿をもう二度と現すな」
 ステーションのそばの店でゼンジは水を買った。栓を抜いて一気に半分を飲んだ。口からこぼれた水を手で拭い、ベンチに座って安堵の息をついた。第一希望を満足した彼が考えたことはこうだ――
〈考えてみればあいつはほんとうにオレを助けてくれたのかもしれない〉
 ああ、ゼンジはお人好しだ――ゼンジもそう思っている。

 部屋への階段を上がっていく――まだマリアは診療中だ。あいつは今頃まだ寝ているんだろうな――いやらしさではなく彼は心底そう思った。部屋に入り、カビだらけの浴室でシャワーを浴びた。眠い目はいくらか覚めたが、気をゆるむと眠りそうだった。ガラガラ音を鳴らすドライヤーに「くそったれ」とひとりごちる。滑走路で聞いたエンジンの音を思いだしたのだ。クロゼット開き、どれも同じような服の中から、同じような服を選ぶ。服を選ぶのも面倒くさい。そうすると服を買うのもおっくうになる。それだから買うときは選ばずに今と同じような服を買う。それの繰り返し――結果同じような服ばかりがたまってしまう。
 結局ゼンジは服を着る。何を着ても変わらない。腹にすえかねることは起こっても、驚くべきことは何もなかった。感動だよ、感動――一時のゼンジは生き返ったときがあった。地質代生物がよみがえった一瞬――それは一度あきらめかけたディアナを母親、ナディアの元に送り返したときだ。今でも誰かがディアナのことを信じている――あの娘が火星人であると。だがそれは真実ではない。彼女が火星で生を受けたことは事実だ。オレをナディアがその証人だ。そしてオレはまだ生きている。ナディアも生きているはずだ。オレはナディアに会うことはできない。彼女は泣いていた。ディアナを失った苦しみで。オレは彼女が自分の故郷で歌っているのを見た。彼女は頬に涙をつたわせながら歌っていた。何もしらない客の前で。そうした悲しみは知らずとも、客たちは泣いた。つられてオレも泣いた。そしてナディアにひとつの言葉もかけずに店を出た。モーガン――あのエセ火星宗教信仰者ともそれ以来会っていない。
 ナディアは泣き、オレも泣いた。だがオレの涙はナディアの心のために流されたものだ。くだらない、ヨッパライの客たちと同じ――オレの涙は第三者的に流されたものだった。ナディアのようにディアナを失ったために流された涙ではなかったのだ。
 オレはそれほど無関心になれた自分が恐ろしく、情けなく、そしてニッポン人だった。
 すでにオレは二人の間には割り込めない。
 そして彼女たちはオレを必要とはしていない。たぶん。
 ただひとつナディアのために、そしてディアナのためにしてやったことが、娘を母親のもとに返したことだった。それだけですてきなことじゃないか?この真実は残る。そしてこの真実は残されてはならない記録だ。誰に彼女たちの幸せを奪う力があるというのか。
 くだらない! ああ、くだらないのだ!――自分はほんとうに眠いのか、それともただの自暴自棄、やけくそ、怠惰、怠慢――まったくのやる気のなさ――自堕落な性質によるものであるのか――ゼンジは混乱する。よけいな知恵だ! アメリカ人の前で結局は黄色いサルであることへのあまりに過度な情けなさ、うわべだけを繕ったように真綿でくるみ、その内面は劣るはずの人種という確信で満ちていて、その精神が宿る肉体は動物そのものだった。いくら身体が大きかろうが、脳ミソの大きさは変わらない。グズでとんまなうすのろじゃないか? 頭が良くなった反面、痛みさえも持続する目にあったネズミと同じだ。ぐちゃぐちゃのゼンジは、そういった感情を一掃するためにつぶやく――
「クソったれ!」
 彼は防諜部のイスで眠ることにした。
 空には雲がかかりはじめていた。アパートの廊下を歩く。ゼンジは自分の部屋から出てくるマリアに出くわした。ゼンジを見てマリアがいう。
「朝から辛気くさい顔をしているわね」
「そんなお前も顔くらい洗えよ」マリアの唇から口紅がはみ出している。下まぶたにはマスカラがにじんでいた。「化粧がぐちゃぐちゃだ。枕にキスでもしながら寝ていたのか?」
 マリアは手の甲で唇をこする。彼女の口のまわりに赤い色がうすくひろがった。
「よけいなお世話ね。これから仕事なの? えらい早いご出勤ね」
 ゼンジがいった、「昨日は寝れなかったんだ。頭がふらふらだ」ゼンジは顔に手をあてる。脂気も水気ないカサカサの肌だ。その手触りに彼は老いを感じた。そして思う――〈クソったれ!〉
「それじゃな」ゼンジはそういってマリアに小さく手を振った。マリアが背中越しにいう――
「あんた――なんだか時間を放棄しちまったみたいだね」
〈クソったれ! ゲスのかんぐりだ〉
 ゼンジはひとりごちながら階段を降りる。いつも使っている急な階段にいまさらながら無性に腹がたった。「どれもこれもみんなあいつ――モシアズのせいだ」ゼンジは暗がりで見たモシアズを思い出そうとするが、声がばかりが耳元によみがえって、彼の顔が思い浮かばない。もし自分が外交のセールスマンなら気が狂っているか、訪問先の客に、客を客とも思わない暴言を吐かせていただろう。こんなイライラする気分の良くない日はひさしぶりだった。
 朝の通りにはまばらな人影。朝だからといわず、個庭制度になってからは、街へ出歩く人間はすくなくなった。それはどうしてだろうとゼンジは考える――たぶん彼らが今まで欲しかった場所は自分〈だけがいる〉居場所だったのだ。
 たいがいのヒト科は目のやり場に困っている。だから居場所を探すのだ。見たくないものがある。けれども見たいものがある。つごうがいいぜ――ゼンジは舌打ちする。あれだけ自由を望んだのはあんたらじゃなかったか?
 だがゼンジは思い直す。たぶんやつらは満足してる。どこかでガン細胞は見たことはないか?――ゼンジは無言で問いかける。特定の人間に対してではない。まばらに行き交う人や、掃除をしている男、舗装された道路に、薄汚れた看板、はては生臭い魚の臭いがするポリバケツに――彼の視界に入ってくるすべてのものに問いかけた。「そうだ、強力なガン細胞だ――『ガンもどき』じゃない。税金みたいにムダな手術ばかりで手間をとらせるウソっぱちのガンもどきではなく、とてつもなく強い正真正銘のガン細胞だ。それがどこにあるかしらないか? 気づかないのか? それはオレだよ、そしてあんたらだ――この惑星は誰も必要としちゃいないんだ。歩けば歩くだけ、その分この惑星は消耗されてる。しまいにはパチンコ玉みたいになっちまうさ。月だって近付いてる。いつ滅びるかわからないこんなところでよく暮らしていけるものだ。オレは火星をしってる。そこで暮らしたこともある。オレは火星で暮らすんだ。それがいちばんだよ。この惑星にゃ住めない。先が短すぎる――いや、極端な悪条件ばかりで不安ばかりがつのるんだ。真っ赤に豆炭がさらさらの灰になるみたいに、この惑星は宇宙を漂う粉になる。そして四十億以上の冷たい人間が宇宙をさまう。宇宙人は空を見上げ、あらすてきな天の川――ところがどっこいそれは人間の川だ。ベルトのようになってどこかわからない惑星のまわりをグルグル回る。真っ赤な太陽――こいつも豆炭そっくりだ――に引っ張られて、十羽ひとからげで巨大火葬場の煙になっちまうやつもいる。宇宙は惑星地球の消滅とともにゴミためになり、頭の良い宇宙人はその原因を突き止めることにやっきなるだろう。最後に地球人の存在と彼らのおろかな、あまりにみじめな終えんを発見する。
 ゼンジはひとりごちた――
「オレなら火星に住むよ」

《《ここまで第6回》》



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