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仮題: welfare, warfare とか 5 [仮題: welfare, warfare とか]

【5回目】

tY: 続きです。第5回です
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「きみは今日、何かいやらしいことを想像したね。いい年をしてみっともないと思っている。そうだろうな。いい年をしてみっともない。だが、そうしたことにはきっかけが必要ではないだろうか。わたしにはそのきっかけが何であるかわからない。だが想像はつく。きみもゆっくり考えてみればわかるはずだ」
「わかったよ。なんだか照れくさくなってくる。もうよしてくれ」
「きみは愛する女性に好きだといったことがあるかね。言葉だけじゃない、心からだ」
 ゼンジは少しの間考え込んだ。そしていった、「ある――」そして「ただし手紙だ。長い手紙を書いたよ。何度か送った。でも『好きだ』書いたのはそれほどなかった。そこにあるのは彼女のことを思い出しながら書きつづった言葉――たわ言だけだ」
「手紙か。それは素晴らしい。手紙はいいよ。書くことに勇気が試される。それは破りちぎられるかもしれないから」
「勇気? 考えたことないな。そんなものを書くときはたいがい気がおかしいときだ。とにかく――たまらなくなっているときだったよ。ロマンチックとはとうていいえない。ただ書かずにいられない気にさいなまれる。まるで何かに中毒していて耐えられない感じ――だった気がする」ゼンジは横を向いた。
「自分にウソをつくことはない。連行されるぞ」アユムは何かに気がついたようにいった、「もしかするときみは――作家志望だったのだろう」
 ゼンジは何もいわなかった。アユムがいった、「きっとそうだ」
「なぜ? なぜオレが作家になりたかったなんて思うんだ」
「きみがいったことさ――何かに中毒して、そして書かずにいられない――それだよ、ボクもそうだったから」
「オレはちがうね。オレは読むのがしょうにあってる」
「きみはまたウソをいう。なぜだ? そんなに恥ずかしいのか」
「恥ずかしかないね。別に作家志望なんてこと考えたことはないんだ。あんたはどうだ? 何か書いたのか?」
「ボクはあくまで『志望』だ。公園の掃除や人の世話をしながら頭の中で詩を読んだ。やろうとすることは個人の勝手で誰にもとめられない。ある日、ボクは小さな食堂の片隅で原稿用紙に小説を書いていた。まわりの人間はボクが遺書を書いていると考えたらしい。それだけボクの顔には絶望が現れていたんだ。誰も――どんなホテルや旅館もたった独りのボクを部屋に泊めようとしなかった。ボクが自らの手で自分の時間を放棄してしまうと考えたからだ。でもある人はこういったよ――〈よほど頭のおかしいやつに限って、自らを葬り去るようなまねはしない〉ってね。それだから、彼らはボクに注意を向けた。いったいどういうことだ? いい迷惑だったね。自分にはそんな気がさらさらないのに、周りがそうさせるんだ。だからボクは思ったね。そうはならないと――
 まねごとに話しは戻るけれど、ボクの周りにはたくさんの『志望』人間がいた。いちばん多かったのはロックンローラー志望と俳優志望だった
 考えてみれば今まで色々なまねごとをしてきた。革命評論家、福祉評論家、古代人に冒険評論家、福祉製品販売評論家、論理生産評論家、消費評論家、それから時間点距離評論家――」アユムはそこまでいって両手をあげた。止そうという合図だった。「止めとこう、ボクも連行されてしまいそうだ」アユムは笑った。「だが正直な話し、こうした真似事は人から頼まれたことがほとんどだ。わたしが自らの意志で行ってきたわけじゃない。だが、きみも少しは正直になった方がいい」
「いわれなくても正直のつもりだ」
「それじゃ今度、きみの書いたものを見せてくれ。読んでみたいんだ」ゼンジは何もいわずに首を振って見せた。アユムがいった、「心配いらないわたしは評論家や批評家じゃない。いったろ――すべての真似事は他人の意志。自分で考えていたわけじゃない。わたしは何でも読むんだ」彼はそういってベッド脇にある台座の棚から一冊の本を取り上げた。「マンガ機械の仕組み――こんな本だって読むんだ」
 それは表紙に飛行機や自動車、機関車のイラストが描かれていて、一部分が開かれて中味の機械がさらけ出されているものだった。その横には指さししながらびっくりしている、頭が身体ほどの大きさをした男女の子供の絵が添えられていた。こいつはすてきな本だ。この絵の子供たちにたくさんの現実の子供たちが興味を持つだろう。すべてがすぐに退屈する子供が理解しうるように描かれている。ゼンジが持っていた怪獣・宇宙人百科と似ていた。それにはタコのような火星人が、人体模型さながらの内臓器官をさらけ出していた。
「『マンガで解るやさしい政治』なんてのもある。これは色々な国の中心から町や村までにはびこる政治について吹き出しを多用して書かれた本だ。その中で若き主人公は、様々な悪行に手を染めてゆく政治の長たる人間たちをながめながら、内閣閣僚にのぼりつめてゆくまでが描かれている。それはひとつの社会倫理本で、政治家の成すべき仕事を説明しながら、彼らがあるべき正しい姿、その理念について述べた本だった。いくぶんマンガやテレビのヒーローのように描かれた主人公だったが、ワイロや密会、派閥争いと不正選挙に国間論争の敗北や過去精算処理に失敗してきた政治のなかで、何もいわずただその結果に怒り苦しむ主人公をどれだけの子供たちが理解できただろうか? 主人公は結局何もできなかったのだから。たぶん読者は、その若い国会議員が、悪行をかさねる長たちを徹底的に弾劾し、その時間さえ放棄させてしまう態度を望んでいただろう。読みすすめるごとにうっくつのたまる本だ。そしてわたしは気がついた。〈これは彼ら子供たちが大人になるための本で、けして政治を教えるための本ではない〉と――そう、大人たちは自らのくだらない行いが是であることをあらゆる知識のカバーでくるみ提供していたんだ。自縄自縛――彼らはますます深みにはまりこむ。『マンガで解るやさしい国の仕組み』はその最たるものだった。国の状態そのままを、仕組みという名を冠して、システムを保持しようとする本能が作らせた思想改造書だよ」
 ゼンジがいった――「でもあなたはその本を読んでいるじゃないか?」
「ああ、確かに。ボクにとっては一介の犯罪書でSFみたいなものだ。考えてごらん?――これが空想仮想小説ではなくてなんなんだ? これはまるで作られた歴史本のようにボクには思える
 だがきみにはわかるかね?――これらの本はウソを書いていないんだ。すべてが事実を克明に記述している
 つまり、こうなんだ――遅れてやってきた事実、だがそれはその時間の経過のためにすべてがウソめいて見えるんだ。だからボクは看護婦が読んでいたような本を読む――ボクは過去を回想するようなエッセイはきらいだ。きみもそのはずだろ――ちがうか?」
 ゼンジはため息をついた。「そうかもしれないな。わかったよ。簡単なことだ。現実は小説よりも奇なり――そんなところだろ? とにかくあらゆるウソも現実も境目がないということだ。平気でウソを口にする人間たちが現れる世界ではたいがいの人間がウソに合わせた行動をしてしまう。覚醒剤が身体に良いと信じている人間が破滅するようなものだ」
 アユムが首をかしげる「少しちがうな、ボクのいいたいことはこうさ――ウソと現実の差を造り出すのは時間の差だということ。それもひとつの要因であるということだ」
「もしかするとあんたは案に『モシアズ』のことをいっているんじゃないか? オレは彼のことをしらない――あんたは色々と彼のことをしっているようだが、オレには彼をどうしようという気はないんだ」――そうゼンジがいうと、アユムはわかったよという意志を顔で示す。ゼンジがいった、
「すみませんが――あなたは何か悪いことをしてきたという過去がありますか」
「それは失礼ないいぐさだ」アユムがいった。そして続けた「ボクがきみに〈なぜそんなことを訊くのか〉といった質問をするのは止めておこう。どうせきみには応えられないはずだ。ボクにはありありとわかるよ。そういったことを訊くには理由があって、たいがいそれは本心からではない。つまり頼まれごとだ。そしてこれもまたたいがい――誰に頼まれたかはいえない。口の堅い探偵みたいなものだな。そしてまた、きみもその探偵云々の仕事を楽しんでいる節がある。そうでもなければここに、この味気ない白い病室に何度も足を運ぶことはあるまい。そうだろう? きみはよほど物語や小説が好きらしい――たぶん、きみのなりからすると『新しい時代のハードボイルド』か? きみが着ている分厚いタック入りのズボンに黄色がかったシャツ。それに丈の短いボタンがひとつだけのジャケットはどういった取り合わせだ? しかもヒモのないくたびれているクツはまるで登山にでも行くかのようだよ。ずいぶんはきこんだらしいね。それに寝グセのある髪。姿に気をつかわないところはまるで動物だ。そういうボクも人のことはいえない。どちらかというとボクは草か木、それか土だった。いつも茶色や緑の服を着ていたから。それも信じていたんだ。それが自分に似合う最良の取り合わせだとね
 とにかく――もしきみに応えなければならいとするならばボクはこういう――〈あなたにはなにも応えたくありません〉とね」
 ゼンジはあきらめきった顔をした。最近は――ここ何日かの間、自分の心は見透かされっぱなしだ。例えばこの服だオレは自分でこれが似合うなんてちっとも思っちゃいない。服を選ぶなんてことをした覚えもない。しらない間に手元に残った服がこいつらだった。探偵のまねごとはだれでもやってみたいことだろう――子供だったら。まあ、たぶん総称して――オレはまだまだケツの青い青二才なのだ。手元に残っているウソの札は中に浮いたまま所在なげに漂っている。こいつらはオレにちょっとしたカバーをかけるだけだ。目の前の患者がいったように、あらゆるまねごとに関する疑似パウダーをオレに振りかける。ところが真実もある。ウワサじゃない。赤ん坊の尻が汗やウンチの後をシッカロールでからからに乾かされたような感じ――そこにはどんな水っぽさ――いやらしさなどまったくないのだ。乾燥された世界で性欲は存在するのだろうか? ゼンジはそんなことすら考えた。そして彼が下す結論はこうだ――ああ、すべては宇宙のせいなのだ。永遠に存在しない自発的定点はあからさまにオレを見下ろし、または見下し、あらゆる方角からオレを観察する。四角がまったくない隠しようのない姿は、まるで舞台で踊っている一糸まとわない姿の踊り子の比じゃない――姿は丸見えだった。宇宙のど真ん中で、無数に存在するあらゆる点から覗かれ、宇宙線が高アミラーゼの肝臓までを何の障害も感じずに通過する。オレはちっぽけな点でもなかった。すべての光を通過させる細胞組織で構成された身体を意味をなさない肉体を持つ、鼻にもかからないチリだった。そんなオレが『新しい時代のハードボイルド』で何が悪い? 結局誰も気にしないじゃないか?
 これはボクからの質問だ――アユムがいった、
「もう一度訊くが、きみには本当に愛した女性がいたのかね。別に女性でなくてもいい、それが誰でもいい。とにかく『いたのかね』――どうだ?」
「失礼だがお笑いぐさだ。人は変わるものだよ、患者さん。あんたの望むとおり、愛する女性はいたとしよう。だがそれだけだ」

 近代医学研究病院を後にしてゼンジは自分のアパートへと向かった。所々がサビついている急な階段を上り、通路を歩く――そしてマリアの部屋を通り過ぎた。そしてふと足を止め、マリアの部屋のドアをノックした。彼は彼女と寝たいと考えたか?――つまり歯をむき出しにした濡れ濡れビーバーとコーマンをかましたか?――いや、かまさなかった。彼女は診察中だったのだ。患者はエミといった。ゼンジはしっていた。エミは科学者アヤベ・クミの娘だ。クミと会ったのはずいぶんと遠い時間をさかのぼらなければならない。彼女と会った場所はメール爆弾探しのあげく気を狂わせてしまったアダホの故郷、カザフスタンのとなり、ウズベキスタンだった。それからたくさんの時間が経過し、彼女の存在をしったのは防諜部で仕事をするようになってからだ。彼女が科学者として持っていた知識は、イサオ・セキグチの子供たち生産に生かされていた。ゼンジは今エミがどこにいるのかしらない。彼女は消えてしまった。だが、彼女の娘エミはいた。彼女はゼンジが考え得る限りの普通の娘に見える。つまり見た目も女性らしく胸もふくらみ、愛くるしい目――そして匂い。だが彼女は少しちがっている、とゼンジは思う。どこかがちがうのだ。だが彼は彼女に訊いたことはない。どうやって訊けばいい? 〈きみはちょっと他の女の子とちがうんじゃないか〉――例えば彼女はこう応える――〈ええ、ちがうわ。みんなちがう。みんなって他のみんなそれぞれちがうということよ〉ゼンジを救うのは彼自身を支えているデリカシーだけだった。デリカシー?――わらっちまう――ゼンジはひとりごちた。早い話し、オレには女性と話すセンスがないだけだ。どれだけの女性が詩をしっているだろうか? 悪の華、月に吠える、そして言語を視覚化することに精励し、宇宙を要約する完全な書物にとりつかれた男――それを包容しようとしてくれたのはたぶん、アヤベ・クミ、彼女だけだった。ゼンジは思う、自分は誰にも理解されたくはないし、進むべき道も決められたくはない。彼の精神を強固にカバーする肉体の所在は、彼自身の意志により、変えられるべきものだった。そして今、彼はここにいる。だが、実際は誰にも止められない時間エネルギーの流れに従っているだけだ。だから彼は他の人間たちと同じように、後ろにもどれはしないし前にもいけない。たいがいの人間はその時点で二とおりに別れる。気が狂うかあきらめてしまうかだ。その点、ゼンジの身体は造られたキメラ鳥に近かった。彼は胸腺を移植された人間なのかもしれない。すべてにおいてバラバラで、一見普通の姿だが、実際はオリジナルが見あたらない、時間によって造られた他人のリンパ腺に司られる別人間なのだ。
 リンパ腺の抵抗により熱病から脱したゼンジはノリコさんを捜した。マリアの話しによれば彼女の所在はしれない。彼の足は自然とピーナバーに向かった。

 『ピーナバー』のママはサワコといった。ピーナバーは長いのできるバーではなかった。わざと客が座りにくいようにしたとしか思えないイスばかりで深く身を沈めるようなソファーは何もない。このバーに来る人間の多くは表面面は平静な人間を装っているが、たいがいその中身はいかがわしいものが多かった。古くから信じられている、『情報交換は何気ない場所、もしくは突飛な場所、そして人の多い場所に限る』――そうした言葉を地でいくように、たいがいの国籍がニッポンではない人間たちがこのバーで情報を交換していた。それはゼンジがいるネット情報網専門の防諜部では引っかからなかった。それはゼンジの怠慢ではなく、情報交換の性質から、防諜部活動の範囲外になっている。だからこのバーでどれだけ重大な危険性の高い情報、ノウハウ、秘密やウソがやりとりされていようとゼンジが目を見張る必要はなかった。そういった点について考えれば、彼にとって何も気にしないでいることのできるバーだった。
 ママ、サワコは酒類調合学の学位を持っていた。それはどんなカクテルマスターや、スーパーバーテンという称号よりも貴重な教養だった。目立たないが下町の工場のような強みがあった。彼女が造るすべての調合飲料には化学反応を含め、すべてが予想され特定された結果に基づく色や味で完成されていた。その上、彼女はそれに薬品さえ混ぜる。早く帰ってほしい客には、バルビツールの類のクスリを混ぜ込んで自発的に帰らせた。それを飲んだものは悪心で勝手に帰るか、倦怠感で眠りについてしまうのだった。幸い、ゼンジはそうした類のクスリを飲まされたことはなかった。
 サワコはゼンジにいった。
「いつもと同じね。あいかわらず機嫌がわるそう」
 ゼンジはワークカードを見せて、いちばん安い混合バーボンを頼んだ。だが、少しためらってからいいなおした。
「本モノを一杯だけくれ」
 サワコは珍しそうにいった「何にするの?」
「できるなら『古ガラス』なければ何でもいい、世間一般で『バーボン』とよんでるものをくれ」
 それならあるわ――サワコはカウンターの下にある棚から一本のボトルを取り出した。
「これでいい?」
 ゼンジはうなづいた。
「最近はTSKに行かないの?」
「客は移り気なものだよ。今じゃたまに酒をもらいに行くだけで、もうあそこのどんちゃん騒ぎにはあきたんだ」
 サワコはしばらく考えるといった――「でも今日のあなたはTSKの方が合ってるわ」
「何でだ?」
「だってすごいもの。なんだか『したくてたまらない』って感じよ」
「止してくれよ――」ゼンジがいった。どいつもこいつもいったいなんだ? オレの気分を読みやがって――オレがそんなに『コーマンしたいんです』なんて顔をしているってのか? いいかげんにしてくれ。ゼンジは頭をかいた。
「あら、やっぱり当たったようね。そんなに恥ずかしがることないわよ。のべつまくなしにアレを考えているような男とはちがうわ。純粋に生理的なものじゃない?」
 なぐさめるようにいうサワコの言葉を聞きながらゼンジは懐のタバコに手を伸ばした。彼は誰にといわず感謝する――幸いなことにRationedタバコはまだ十二本も残っていた! くしゃくしゃになった包みから一本取り出すとサワコが火を点けてくれた。
「あら、悩みの消えるタバコじゃない。健康に悪いわよ。警告しとくわ」
「害はないよ。あるとしたら人間を堕落させることだけさ。吸っているうちにだんだんと自分がイヌにでもなったような気がしてくる――とてもいいことじゃないか? 世の中が平和になる」
「そんなイヌが発情すると、ワンワンうるさいものよ。夜中なんか寝られやしない。あなたに誰かいい人でも紹介できればいいんでしょうけど、わたしにはそんな知り合いがいなくてね」
 ほんとうにいいんだよ、とゼンジはいった。これもまたウソだった。彼のさかりは自分で止めるしかなった。胃袋のなかに『古ガラス』が染みとおる。彼は自分の身体の柔らかさをしる。身体は溶けていった。臓腑はまるでタールにまみれた脱脂綿だった。身体の中にある内蔵のすべてをひっぱりだして丸ごと水洗いしてみるか――腹を裂かれた魚が浜辺一面にひろがる。あたりは腐敗した臭いでいっぱいで、魚は吸えもしない空気を吸うでもするように口をぽっかり開けたまま三百六十度を傍観する。そのなかの一匹がオレだ――干からびたウロコを着ているその姿は伝説の人魚にはほど遠い、ネコがくわえられている魚だった。おしまいにはウンチで終わり。そして土になる――それが内蔵を干し終わった魚ゼンジの一生だ。なんという時間のがまんづよさよ――
「ママ、モシアズってしっているか?」
 ゼンジがサワコにそう訊いたのは、この店が外国人のたまり場になることをしっていたからだった。もしかするとモシアズはこの店に来る――たぶん彼は外人だからだ。そうじゃないか――おかしな名前だろ? しかし、サワコの返事は素っ気ないものだった。
「しらない。店には来ないわ――どんな人?」
「オレもしらないんだ」
「それも仕事のうちなの?」
 ああ、とゼンジは応えた。アユムという男を思い出す。彼が病院の患者であることが、サワコの娘を連想させた。
「ところでリョーコちゃんはどうしてるの」
 彼女はうつ病だった。友人が自らの時間を放棄させたことが原因だとサワコはいう。友人が逝ってしまったことがリョーコにとってショックだったのだ。彼女は純粋で当たり前すぎる感情を持ち合わせていた。それだけの話しだ。
「ありがとう。もうずいぶん経つしすっかり元気なの。今は学校に行ってる。中国語にドイツ語やスペイン語を習っているの。ニッポンを出ていく気みたいね。まあ、好きにしたらいいわ。わたしにも少しはコネが残っているし」サワコは新聞社で働いていた。世界に散らばる拠点をまわっていたことで、彼女曰く『コネ』ができていたのだ。ちなみに彼女がもっとも得意とする言葉はイスラムの言葉だった。彼女はいう、
「覚えとくと良い言葉は確固たる宗教を持つ国の言葉なのよ。特に聖書を読めることはどんな未来でも重宝されるの。だから覚えるべき言葉はギリシャ語にラテン語、それからアラビア語なの。でもリョーコにはあまり興味がないみたいね。たいがいの現代語はすたれてしまうというのに――すべてが繰り返しなのよ。全部後手、覚えるなら古典語なの。その言葉は変わらないわ」
 ゼンジは店を後にした。ワークカードの残高は半分以下になってしまっただろう。彼は部屋に帰る道をたどりながら、降ってわいたような欲望について考えていた。これをどのように処理すべきか――こういうときに平気で寝ることのできる友人を持っている人間のことを考えるとうらやましくなった。マリアとはしたことがない。彼女に会ったのは一年前だった。したくなったらできる友人。ゼンジはそんな友人を持っていなかった。つまり彼にとってその行為は意味のあるものだったから。神はそこに愛があることを踏まえた上で、あらゆる性産業を発展させた。愛とは別な理由をつくりだすために。彼はなかば自分でやるしかないなという気になっていた。部屋にある古ぼけた端末を使おう。どこかへアクセスしてみるんだ。つまり、〈聖女カフェにようこそ!〉――だ。
 結局ゼンジはアパートに舞い戻ってきた。月の明かりは昔に較べれば大きくなっていた。この惑星、地球と月の距離は確実にせばまっていることをある学者が発表し、彼が説明した『ほんのわずかな移動』の事実が長い経過を経て。人の目にもわかるようになっていた。このままいけば月は破壊されてしまうだろう。ロマンチックだった月も、じゃまになればただの鉱物、石ころだった。ウズベキスタンに広がった土漠の平野と岩だらけの道。月のウサギはただのシミで、かぐや姫はあこがれだ。月はいずれ宇宙のチリになる。そう遠くない世界に――それも人間の手で。ありがとよ、ずいぶん世話になった。オレはお前のおかげで潮の満ち引きがあるってことをしった。引力のことは学者にまかせよう。彼らは電球の取り替え方はしらないが、難しいことはしっている。心配するな、どうせうまくいかないさ――
 月明かりに照らされる通路、マリアはまだ診察中だった。今日の患者はたぶん泊まり――彼女にいわせれば『入院』だろう。
 ゼンジが自分の部屋のドアを開けた――開放感――ゼンジの心は軽くなった。少なくともこの部屋にゼンジしかおらず、外にいるよりは安全だ。ゼンジは患者から批評された服のままタタミの上にうつぶせになって倒れ込んだ。隅にあるテーブルの上には升目のついた紙――原稿用紙が積み重なっていた。今時、こんな紙を使うやつはいない――けれども原稿用紙は手に入った。絵を描くやつだっていないのに画用紙も手に入る。万年筆のリフィルだって手に入る。手に入らないものは人間に必要なものだ――本モノの酒に本モノのタバコ――すべての嗜好品。かって税金の対象になっていた商品のほとんどが手に入らない。
 ゼンジの小さな端末はもう70000時間は経過する代物で、最低限通信だけがサポートされているのでまだ何とかつかえていた。患者が持っていた端末も古かった。古い技術はずいぶんと多い。しぶとく残っている。世代は何度となく交代しているように見えるが、単純に積み重なってゆくだけだった。何層にも。ゼンジは今ずいぶんと下の方にいた――既にだ。例えばガスで風呂を沸かす技術も未だ健在だ。ゼンジの端末は電気で動いている。もうオリジナルのバッテリは完全におしゃかになっていたからだ。一度、小さな店からかき集めたパーツで組み上げたことがあったが、お手製のそれは負荷制御を組み込まなかったばかりにバッテリが熱くなるばかりでしまいには、端末をゆがませてしまった。それ以来、バッテリは外せなくなっていた。外から見ると火事で焼け出されたか、もしくは土地をほじくりかえして発見された化石のようにも見える。だが使える――爆発しなかっただけ幸運だった。電源を入れると以上に高い金属的な回転音とともに、その端末は生き返った。
 さあ、それでははじめようか――〈聖女カフェ〉だ――彼は少しの後ろめたさを感じながらくそったれなネットカフェにアドレスする。彼がこうしたシステムにアクセスするのは頻繁なことではない。少なかった。たぶん年に一回か二回、そんな程度だった。バーチャル云々といったものには食傷気味、正直なところあきた。だが、それは実際にはこういったシステムについていけなかったこともある。こうしたシステムは、人付き合いの苦手な社交性に乏しい、基本的に片方向に意志を疎通する人間たちによって使われはじめ、彼らにとって新しい世界を造り上げるきっかけになったが、実際には優れた社交性と意志疎通が求められていた。彼らは結果的に自分たちだけのコミューンを造り上げる――表に対する裏のようなもの。だが不思議なことに彼らは意志疎通の能力が欠けてはいたが、それを行うための道具を造り上げる才能に満ちあふれていた。彼らはシステムを作り上げる――例えばこのネットカフェを。そしてそのカフェを利用するものは、一般の日常をそのままネットの上で披露することができる社交性にたけた普通の人間だった。そして彼らがこの利用をエスカレートさせてゆく。ゼンジたち防諜部が見つける有害情報の発信者のほとんどがこうした一般人で、裏の世界にあたるコミューンたちの姿はなかった。彼らは必要なツールを供給するだけだったのだ。ゼンジはどちらでもなかった。彼のような人間はわりと多い。
 すてきな画面があらわれる。ピンクのバックににじむようなハートの模様――その上に頭に長いウサギの耳をつけたバニーガール――アメリカ人風で肩肘をつきながら横たわっている――がゆっくりとフェードしながら現れた。その上には〈Saint Cafe〉のタイトル。ゼンジの端末についている小さなスピーカから声がした、色めいた女の声だ。
〈聖女カフェにようこそ!〉
 安っぽい音楽が流れる。それを聴きながらゼンジは作りおきの混合コーヒーをサーバーからカップに注ぐ。混合コーヒーはすっかり冷めていたが、その分トウガラシの辛みが強くなっていた。喉ごし、そして胃が熱くなる。トウガラシのほとんどはコリアン製だった。彼は黙って端末の画面を見つめる。
〈リアルタイムでモニタごしのあの娘とおしゃべり。その後は――あなた次第! 過激さで評判のプレイガールがあなたを絶頂の海にいざないます。モニタの前でいっちゃ、ダ・メ・よ!〉
 肘をついて横たわっていたバニーガールが起きあがった。赤い唇が近付いてくる。とがらせ気味の唇は赤い色をした性器のようだ。バニーピンクはまばたきひとつせずにゼンジを見つめている。そして胸を突き出すような格好でゼンジに向かって話しかけた。
〈わたしが案内人のバニーピンク。あなたは初めてかしら? はじめてだったらまず女の子を選ばなきゃね――うちの店にはいっぱいるのよ〉ため息混じりの言葉が耳を通じて身体全体を刺激する。
 画面には女性の顔を映した小さな写真がずらりとならんだ。
〈あなたはオッパイフェチそれともオシリフェチ?〉
 次にはオッパイと穴まで見せたオシリばかりの写真が画面にいっぱいに並ぶ。
〈ちょっと変態気味がある?〉
 今度は足首と足の裏、腋の下の写真が並んだ。ゼンジは閉口した。バニーピンクはしゃべり続ける。
〈それじゃお婆さんフェチかしら〉
 ゼンジはぞっとした。止めてくれ――画面から目を離すとバニーピンクがいった、
〈ウ・ソ・よ、うちには若い娘しかいないんだから――もしも探したい人がいたらその娘の名前を入力してみて。探してア・ゲ・ル!〉
 ゼンジは『ノリコ』とキーを叩く。少しの間黙っていたバニーピンクがいう、
〈ごめん、いないみたい――あらあなた、ちょっと待ってね。あなた宛にメッセージよ。あなたラッキーだわ、彼女の方からお誘いみたい。そのまま待っててね〉
 ゼンジは混合コーヒーを飲みながらいわれたとおりに待つ。どうせここで何かをいっても無駄なこと――向こうは勝手にしゃべくっっているだけなのだ。
〈さあ、あなたのお相手とつながったわよ。それじゃ切り替えるわね。でもその前に、料金をいただくわ。クレジットカードかワークカードでお願いしまーす。生ディンギはダ・メ――ウフッ〉
 彼はワークカードの番号を入力した。
〈あら、あなたってスゴーイ、政治家なんだ。聖女カフェは誰でも歓迎よ、また来てね〉
 今入力したワークカードはもうすぐで世界中に知れわたるだろう。個人情報は十羽ひとからげ。その値段はどんどん下がる。アマチュアが手を出すせいだ。事実そのブローカーのほとんどがアマチュアで、楽をしながら甘い汁吸いたいやつらが気軽にはじめる。そして彼は危ない橋を渡る気分、そしてネットを支配した気分の両方を味わって悦にひたる――もしオレのワークカード番号を売ったやつを見つけたら、あらぬ嫌疑もセットにして連行部に売り渡してやるさ。その前にもちろんワークカードは更新だ。
 バニーピンクに会って、ワークカードでお支払い、そしてお相手を待つ――これが最後の首相が提案したIT革命発展の結果だ。
 画面を見ていたゼンジは驚いた。現れたのはナエコさんだったのだ。

《《ここまで第5回》》



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