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仮題: welfare, warfare とか 3 [仮題: welfare, warfare とか]

【3回目】

tY: 「わかりました」くらいからの続きです。それから塗装終了。

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 ゼンジはナエコさんへのリポートをまとめていた。だが、実のところその作業は進まない。それはゼンジが知りえたことがほとんどなかったからだ。

「ヒデコさんは病気なんだよ」
 ゼンジへの挨拶が終わったあと、アユムはそういった。そして彼は笑った。
「どうしようもないことだ。サルの毒でね。サルのダーウィンだ。この病院じゃいろいろな研究をしている。わかるかい、彼等はたえず主張しなければならないんだ。医学の世界でね。けれど彼らのことは悪くいっちゃいけない。たいがい『学』という名前のつくものはみんなそうだ。たくさんの勉強を繰り返してきたあげく、子供の頭脳しか持っていない。彼等はそんな感じだな。そう、子供なんだな。大きな身体に肥大した脳ミソを持った生まれたての赤ん坊だ。彼らは親を必要としている。けれど親はどこにもいないんだ。誰が彼らのまちがった行いを諭すことができる? きみは見たところ順調なよう様子だ。自分の持っている不満をよくわかっているし、それがどうしようもないこと、しかしどうにかしようとして、それがなおさら不満になっている。けれどきみにはきみの考えている常識がある。たとえば人のものを盗んではいけないこと。迷惑をかけてはならぬこと。そして信号無視をしてはいけないといったほんのささいなことまでが足かせになって何もできないでいる。またあきらめきってもいる。何にしろ、きみの脳ミソはたえず沸騰するように動き続けている。きみが生きている証拠だ。よかったね。生きているんだ」
 ゼンジは、これはあきらかに注意書き違反であると思った。しかしオレが違反したわけではない。それはこの患者のせいだ――そう考えていると看護婦がいう、
「あまり患者に喋らせないでください」
「やめてくれ、オレが喋らせたわけじゃない。こいつがかってにしゃべくっているんだ」
 アユムが手を振った――そのとおりだよ看護婦さん、わたしが勝手に喋っているだけだ。あんたたちが考えているより、わたしはよほど健康体なのだ。それがとてもいやなことでもあるんだがね」
 ヒデコさんというのは誰なのか?――ゼンジに問にアユムではなく看護婦が答えた。
「息子夫婦に虐待されてこの病院に運ばれた女性です。患者さんはその女性のことをいっているのです」
「知り合いなんですか?」
「お互い部屋は違いますし、面会謝絶扱いになっていますので知らないはずですわ」
 ゼンジがアユムにいった――「ヒデコさんとはどういった関係があるのですか?」
「わたしの童貞を奪ってくれた人だ。つまり〈初めての女性〉というわけだ。ヒデコさんは重要だよ。わたしにとってね。この惑星の上すべての人間のなかでももっとも重要な人たちの一人だ、といってもわたしが知っている地求人はほーんの少しであるが」
 ゼンジはアユムを観察する。ナエコさんに対して感じた探偵気分はほとんど消えていた。アユムの頭の七割方を白髪が占めていた。彼は年よりも老人に見える。手入れされていないヒゲ――たぶん剃るのは週に一度だろう。ホルモンのせいだろうか?――彼はそれほど毛深くはない。茶色がかった、というよりもほとんど赤に近いそのヒゲは特徴的であるともいえる。整髪料をつかっていない髪の毛――彼の顔はその表情で若さを変える。そん変化を司る機関――それは彼の目だった。彼の目の焦点はぼやけている。だがそれはまやかしだ――ゼンジはそう考えた。
「きみは誰かを愛したことがあるか?」とアユムが訊いた。
「たとえばヒデコさんのように?」ゼンジが訊いた。
「わたしはたぶんヒデコさんを愛していなかった」アユムは下を向きながら応える。
「けれどもあなたの、その――はじめての女性だろう」ゼンジは少しどもりながら訊ねた。
 アユムは笑った。「したからといってその人を愛しているわけではない。だからこうともいえる――愛していなくても女性とナニができるわけだ。けっこういいかげんなものだがそれが基本だよ」そしてこう続ける「ナニに理由は要らないものだ。ただ、それにこだわるとするならば、きみは貴重品だよ。それを理由にして誰もきみを責めることはできない。きみはほんとうに貴重な人だよ」
 ゼンジは戸惑った。アユムの言葉は図らずも彼の本心をついたのだ。彼はナニをする理由をディンギに代える――それが彼の逃げ道だった。彼が今までしてきたナニのなかで唯一自然だったもの――それはナディアとの行為である。それは人類をほんのちょっぴり救い、虫の息だけ生き延びさせた――つまりディアナの誕生である。ナニをするのに理由がなければできない――いったいそれのどこが悪いというのか?
「それじゃ愛している人はいなかったのか?」
 アユムは間髪をいれずに応える――
「いた」そして、「いや、『いる』といおう。なぜかというと――まだその女性を愛しているからだ」
「今、その女性はどこにいる?」
「わからない。会ったのは一度だけだった。もうずいぶんと前だよ。わたしが二十九歳のころだ。彼女は十八歳だった。とても可愛い娘だったが、わたしにとってそういったことは二の次だ。わたしは彼女の信念に惚れてしまったのだ。彼女は素晴らしいソシアル・ワーカーだった。実績はなかったが、彼女の小さな口からこぼれた言葉は、彼女が最高クラスのソシアリアンのなることを裏付けていた。福祉の輝ける星だ」
「そうするともう二十年は経つわけですね。その間一度も彼女と会っていない? それなら他に女性は?」
 アユムは笑った。「きみが口にするのは女性の話しばかりだな」
「たいがい男同士の挨拶は女の話しからはじまるものです――少し前の時代なら――ね」
「そうかもしれないな。でもわたしには特別女性にたけているとか、そんな特徴は一切ないよ。けれどもまあ、良しとしよう。きみはたぶん不器用か人見知りが激しいんだろう。女性の話しを持ち出して、その場を繕おうとする考え――それはきみが考え抜いた手段のひとつだろう。わたしはきみの努力に感心するよ。ほんとうだ、心からね」
 またひとつゼンジは本心をつかれた。後ろから声がする。
「アユムさん、少し話し過ぎですよ」そしてゼンジに顔を向けると、「あなたもそうです。あまり患者さんに無理をかけないでください」
 白い制服を着た看護婦は病室に備え付けのパイプイスに座り本を読んでいたところだった。彼女はまた本を読み出す。ゼンジがいった――
「看護婦さん、あなたの注意書きにひとつ加えておいた方がいい。〈パイプイスを部屋に置いてはいけません〉とね。パイプイスは場外乱闘じゃよく使われる凶器なんだ。額から血を流すこともある」
 看護婦は何もいわなかった。
「彼女は本が好きなんだ。よく読んでいる。感心な女性だよ。たぶんきみも好きだね」
「ええ、好きですよ」それはほんとうのことだった。「でもときどききらいになります」
「そうだろうな。内容によりけりだ。わたしも本は好きだ」
「今は何か――読んでいるんですか? ゾラだとかオーウェンだとか」
「もう古いものは読まない。ここからじゃ図書館にもいけない。今読んでいるのはモシアズの小説だ。彼が自分の小説を勝手に送ってくるんだ」
「モシアズ?――それは誰ですか。小説家ですか」
「知らないかね? モシアズ――ナフカディル・モシアズだ。わたしは彼の存在をネットで知ってね。彼に手紙を送ってからというもの、向こうから勝手にわたし宛に送ってくるんだよ」アユムはベッド脇に置かれた台座の引き出しから手帳を一回り大きくしたような端末を取り出した。アンテナらしいものが見える――たぶん通信機能が内蔵されているのだ。端末は本のように開かれる。キーボードが見えた。「彼の作品はこの端末で受け取る。そしてわたしはその感想を送る。彼の作品を読んでいるのはわたしだけではないだろう。他にたくさん彼の――いわゆるグルービーといった人たちがいるんじゃないか? もしかすると少ないかもしれない――なぜなら彼は人を選ぶからだ。彼の手紙にはそう書いてあった」
「彼の作品は面白いですか?」
「ああ、面白いよ。彼の作品は人間の本心を追求している、そんな風にわたしは思う。それを語るためによく登場するのは宇宙人だ。
 相撲レスラーのような体型のアンコ星人――彼らはあまりに肥大していった身体をぶつけ合いながらそれを避ける手だてもなく、その時間を放棄し、自らを大地に変えてしまう。そして惑星自体も徐々に肥大しゆく――地球と月の距離が近づいてゆくように。
 それから時間の裂け目を修理しようとするカドミウム製のカシューム星人。彼らは裂かれた時間を修理しようとするが、いつもその裂け目にはまりこんでまた前の時間に戻ってしまう。そしてやり直し――その繰り返しだ。
 悲しいのは地球に墜ちてきた宇宙人だ。彼の星の技術は地球よりもはるかに進んでいて、あらゆることが彼らの科学によって可能になっている。たまたま――二人のこれもまた優秀な宇宙人を乗せた船が故障して――これはほんとうにまれな出来事だった――彼らの技術力においてミスや故障といった欠陥は考えられなかったからだ。しかし、彼らの船は墜ちた。地球にだ。パイロットは時間を放棄し、オペレータだけは生き残った。優秀クラスのオペレータは長い時間をかけて宇宙へと旅立つことのできる装置を造り上げた。時間がかかったのは彼の望む材料が地球上で手に入らなかったからだ。だが彼はそれをなしとげた。地球産の材料で地球の技術以上のものを造り上げた彼を前にして地球人は足下にも及ばない。彼は優秀クラスの宇宙人なのだから。しかし彼は帰ることができなかった。それはなぜか?――」
 長い話しにしびれを切らしたゼンジがいった「なぜ?」
「わからないかい。彼は『オペレータ』だったのだ。ただのオペレータ。彼はパイロットではなかった。彼にはパイロットとしての知識がなかった。彼はそれを地球上で習得することができない――習得するには知識が必要で、地球という完全に遅れた惑星では、そんな知識が見つかるはずもなかった。彼は結局帰れなかった――彼はしょせんオペレータだったんだ」
「それがモシアズの作品なんですか」
「そう、そしてその一部だ」
「彼を見たことがありますか?」
「いや、ないね。写真も見たことはない。彼を好きな人に、彼がどんな人間かということは関係ないんだ。もしかするとすごく偏執狂かもしれない。毎日子供を虐待するようないやーな人間であったり、まじめな銀行員で犬猫の手足を切断する趣味を持っている――そんな男であるかも――いや、男か女かもわからない。オカマかレズビアンか、モシアズの嗜好はいっさい不明だ。けれども――関係ないんだ」
 ゼンジは何もいわなかったが、アユムの言葉に対して彼の表情はあきらかに不満そうだった。アユムはいった――
「たとえばきみは新聞、それが紙であろうが何であろうがその媒体は問わず、その記事を書いている人間のことを考えたことがあるかね。彼らは真実を書いている、基本的にね、だが真実を書くこと自体で彼ら自身が持つ人間としての良心を証明できるかね。彼は本当のことを書く――それは新聞やニュースという意味が持つ常識に従っているにすぎない。彼らの中のある人間は突出した独自本能を持っているかもしれないんだ」
 ゼンジがいった――「わかった。たぶん人間はわからないということと、それと作品は切り離されて考えなければならない、ということでしょう。それはそのとおりかもしれません。けれども独自本能? 『独自本能』ってなんだ?――いや、なんなのですか?」
「独自本能はモシアズが作品のなかで波及した言葉だ。それは惑星上のルールを無視し、自らの本能のみで行動を縛りつけることだ。縛りつけるといっても本人にとってはすこぶる自由な状況にある。単純にいえば彼らは好き放題に生きる――そのほとんどが破壊だ」
 ゼンジは訊いた――例えばどんな人間だ。
「独自本能は古くからある――例えば、他人の時間を放棄させてしまう人間たち――彼らは独自本能に侵されている。生命の意味を理解できないでいる――つまり自分たちが生きているということが理解できないでいる。悲しいことだ」
 アユムは歌を歌った
 ――ぼくらはみんな生きている
 ――生きているから歌うんだ
 ――ぼくらはみんな生きている
 ――生きているから悲しいんだ

 面会時間が終わった。ゼンジは看護婦にうながされて病室を出た。廊下でゼンジは看護婦に彼女が読んでいる本のタイトルを訊いた。
 彼女はこれですといって、本の表紙を見せた。その本は『子供を産んで』というタイトルだった。
「これは以前、テレビや映画に出ていた人気女優が書いた本なんです」
「おもしろいかい」
「ええ、でも子供なんか産めないのにと思っているんですね」
「ん――まあ、そんなところだ」
「でもいいんです。この本には当たっているところとまったく外れているところがあるわ。特に子供を産んでからの彼女がほんとうに幸せだったとはわたしには思えない。彼女の人生の大半はまちがっているわ」
 ゼンジはうなずいた。
「そうかい。また来るよ。先生によろしく」
 管理人にカードを返すとき窓口から首相官邸で見慣れた装置が見えた。凶器発見センサーだった。
 彼はその日、官邸には戻らなかった。防諜部ではスタンがうまくやってくれているはずだ。

 ゼンジはディンギの要らない市街公共循環路線のステーションに足を延ばした。モシアズについて何かを知りたい――彼はそう考えたのだ。三十数本ある路線から図書館へ行く路線を探し出した。何人かの乗客がいた。座席は空いていたが、彼は座ろうとはせず、手すり代わりの柱に背中をもたれさせた。清潔な車内そしてステーションは毎日の清掃によるものだ。これはイサオ・セキグチの方針だった。あいかわらずペインターによる犯罪――壁にいたずら書きをすることだが――は多かったが、そうしたゴミペイントは書いているはしからすぐに消された。あるときなどはペインターと清掃員が同時にその場所に存在したこともある。イサオ・セキグチはきれい好き――それは彼にとってひとつのレッテルになり、支持の高いひとつの要因となっていた。
 決められた路線を走る市街公共循環路線のステーションにドライバーや機関士は要らない。車両は固定された路線や既存線路を安全な車両間隔を保ちながら走るためだ。いるのは一人の清掃員だけ。彼または彼女が車内を清潔に保つ。ゼンジは揺れに身をまかせながら車外を眺めた。その間、彼はアユム、そしてモシアズのことを考えはじめたが、それはうまくまとまらなかった。情報が少なすぎたのだ。モシアズは勝手に読者を選び出し、彼らに対して自らの小説を送る。そうした行いが彼にとってどういった利益を与えるのだろうか?――ゼンジには彼が単純に芸術をひけらかしているだけ――つまり自身の創造性を認めてもらいたがっているだけのだと考えた。そして、そうした行動はある挫折感を味わった上での自暴自棄的な行いであるとも。ただ、そうした考えを広げていくにつれ、ゼンジは自分の背中が逆なでされる感じがたかまる――それはどうしたわけか? ゼンジはそれを認めたくなかった。自分の考えは結局自分自身のことを指してしまっているからだ。ゼンジは自分が持っていた挫折感を打破するために歩むという名前を捨てた――ちがう自分、ゼンジになるために。働きながら小説家を志望していた彼はある時点でそれを捨てた。
 ディアナを失い、そして自分の故郷のクラブで泣きながら歌うシンガー、ナディアの姿を見たときに。
 一年前の図書館は汚く、掃き溜めのような有様だった。古い名前でいえばヒッピーやヤンキーの類が集まる集会所だった。彼らはここで酒を飲み本を燃やして段をとった。しかし今は違う。来館者は受付で登録すると指示された読書区域――高いパーティションで仕切られた読書用デスクとその上に載せられた端末がある――に入る。その端末から閲覧できる索引などを利用して読みたい本を指定し、端末の画面上で読む。すべての本――オリジナルは金庫室に納められいた。
 たいがいの古い人間はこのシステムを嫌った。だが変化は容認すべきだとゼンジは考えた。そしてたいがいの人間は引き返す――あのシステムが悪かったのだと。
 索引の多様な指定方法のほとんどを使ってゼンジはモシアズを探してみた。しかしその検索で引っかかったのは、記憶にある古いSF作家の名前や、モシオグサ、模写説、模写電送――モシアズには遠いものだった。たぶん索引でひっかからないとした場合、その理由はいくつかある。キーワードが足りないか、探し物に関する情報が全く存在しないか――あるいはモシアズが別人として存在しているかだ。彼はアユムという患者が話していたモシアズの作品を思い出した――確か○○星人とかいった名前が出ていた。うろ覚えのままキーワードを入力してみたがダメだった。まったくひっかからない。彼はこうした結果に対してときおり疑念を抱くことがあった。しかし、この探し物は別だった。彼はひとりごちた――
「見つからなくても不思議じゃない。彼の性格からいって、図書館に本を置くことはない、いや、置かせないだろう」
 たぶんモシアズはひとつのコミューンで守られている――彼は、彼の『作品』を愛する読者によって守られている。読者はきっと彼を公の場に送り出すことはしないだろう。読者にとって彼の作品が不定期もしくは定期的に送られてくることが、いわゆる『神のお告げ』に近いものなのだ。誰も自分たちの神を裏切ることはないはずだ――
「考えすぎた――」ゼンジは自分がふくらませた推測が照れくさくなった。結局彼は変わり者で片づく人間なのかもしれない。
 しかし、確かなこと――
 彼は読者を選んでいるのだ。モシアズは特定の者にしか自分の作品――メッセージと呼ぶべきかもしれない――を送ってこない。  彼の対象はなんなのか?

 たいがいの人間、特にスネにキズを持つ人間は泣いていた。顔を塩っぱい跡で汚さずとも心のなかで泣いていた。遠い過去を思い出しながら泣いているのだ。まちがってしまった生き様を省みながら後先の無い世界を嘆き、そして悲しんでいるのだ。たいがいの想い出は不幸なもので、長い時間がそれを洗い流してくれる――というのはまったくのウソっぱちだった。きれいさっぱり忘れる前に必ず振り向き、そしてまた浄化の旅に出る。遠い、遠いところを覗きすぎて、近くにあるかもしれない幸福(それはないかもしれない)を見逃してしまうのだ。そうした人間はたくさんいた。
 誰かは崩してしまえばいいのだと抽象的なことをいう。それはもっと簡単にいえることだ――つまり〈やりなおせよ〉と。いちばん手近なことは近くの幸せを探すことだ――男か女か、小さなカメかもしれない。だが見つけたそれもポイッと捨ててしまうだろう――スネにキズを持つ人間はたいがいの幸せを過去への生け贄に捧げようとしているのだ。
 生け贄は正解のひとつだ。
 親不孝は息子ではないと実の母からののしられたカンイチも今はいない。
 マリアを前にしたゼンジは下心みえみえの人間に成り下がれる心理状態にあったが、彼には彼女をどうにかしよう、ああしたりこうしたりしようといったことが何一つできない。彼女は独りきりだった。ゼンジも独りきりだった。今はみんなそうだ。マリアは干からびたパンを消毒器兼用のレンジで温めた。ゼンジはTSK内のキャバレーからもらってきたワインのキャップを抜いた。
「ずいぶんしぶいワインだわ。ふるいんじゃない」マリアがいった。
「こうすればちょうどいい」ゼンジはそういって温まったパンをちぎり、グラスのワインにつけ、それを食べた。
 ゼンジは座っているイスをきしませる。カーペットがしかれていなければ、タタミはボロボロになっている。
「どこでこんなワインを手に入れてきたの?」
「TSKだよ。ワークカードを見せたらこれをくれた」職に就いているものはみなワークカードを持っている。これは少ない給料に対する報奨金のようなものだった。職によってその限度は変わるが、その範囲内なら、ディンギの代わりにこのカードを使うことができた。ゼンジはたいがいの嗜好品をこれで購入していた。
「いいわね、あんたのワークカードは色々――こんな飲み物も手にはいるなんて」
 飲み物か――たしかにこれも飲み物だ。きちんとしたレシピでとても清潔に製造されている。決められた洗浄液で決められた回数洗われた手により、決められたやり方で洗われたビンに、精度の狂いが少ない計量器でビンに注がれる。栓に使われるコルクの形はほとんど同じだ。使用する再生ビンをまちがえることもない。子供の頃に見たビールの製造工場を思い浮かべる――ベルトのようなラインを並ぶ茶色のビンは勢いよく上から放出される水で洗浄され、一瞬で乾き、無菌にされたそのビンの中に黄色いビールが次から次へと注がれる――そして栓をし、ラベルを貼れば終わりだ。すべてはなつかしき産業革命と大量生産で謳歌した時代の産物だ。ヒト科の生き物が手を出す隙間はなくなった。あなたの仕事はなんですか?――高い信頼性を得るための製品管理です――何のことはない、彼らはただ、デジタルやアナログのメータに時折目をやり、そしてアラームを待つだけなのだ。人の口に入る食品に人の手が介されるのはざらだった。その点でいえば自動車の方がよっぽど人間らしかった。
 結局生き残ったり復活したのは、手に職を持つ小企業――はやくいえば町工場だった。
「なあマリア、お前子供が欲しいと思ったことはないか?」
「ないわ」
「どうして?」
「産んだってその子に未来はないもの。イサオ・セキグチのマークがついてなければその子は生きていけないわ」
「それじゃ古い世界だったら産んでいたか?」
「わたしがその頃に、そういう年頃だったらね。たぶんなしくずしに産んでいたでしょうね」
「そして家族を作る――」
 マリアは首を振った。「家族は自然とできるものよ。現に今でも家族はあるわ――他人ばかりの」
 ゼンジはその一人がナミオだろうと容易に想像できた。
「今日は図書館に行ってきた」
「へえ古い新聞でも見に行ったの?」
「いや、『モシアズ』という名前について調べにいったんだ。おまえ知ってるか」
「モシ?・・さあ、動物かしら」

 ゼンジは『Rationed』タバコをくわえた。なぜだかなにもかもがあいまいだった。イメージの中にあるうつろな目はてあたりしだいに想い出の名かをさまよい、そして何も発見できずにまた入り口へともどる。繰り返しのうちに、考えていた悩みごとはきれいに消え去ってしまった。

 フラッシュ・バックそして現実のデジャビュ――スキップする時間――いつ朝が来たともわからずにゼンジはアユムの前に立つ――


【続く】




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