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仮題: JT トリッピング 2 [仮題:JT トリッピング]

【2回目】

to Yさん用続き(JTtripping2)

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 一晩中起きていたアユムは、オドラダという喫茶店に入り、カウンターに立つ素敵な女性を前にして、ミルクティーを飲み、シフォンケーキを食べた。彼は少しだけ満足した気分になった。時間を少しばかり取り戻したような感じがしたからだ。アユムは言う、「ムダなことでも何かをやっていれば、少しは得した気分になるもんさ」果たしてそうだろうか?「結果が目に見えるとうれしいんだけどね」
 十一月十九日は、アユムにとってある記録の始まりとなる日だった。その日から彼はその店に百十日の間休み無しで通うことになる。寝酒のため、一日の終わりにケリをつけるため、そしてなによりJTのために。「その日のこともよく覚えているよ」アユムは言う。「日曜日でね、アキエさんはいなかった。ローテンションというやつさ。その日はサエコさんとマユミさんがいた。マユミさんは店ではいちばん若い子で、ようやく二十になったというところ。ボクとは二十近い差があったけれど、そんなものは彼女の落ち着きの前ではてんで役に立たなかったね。彼女の先の見据え方には感服する一方で、同じ二十だったころの自分とくらべれば、浅はかさや青二才ぶりばかりが思い出されてしまうんだ」アユムは未だに会社に振り回されっぱなしであることを話してくれた。「彼女には進むべき道があって学校に通い、手に職をつけようとしていた。ボクときたら、柔軟なふりをした頭でっかちで、伐採されるのを待っている大木だったんだよ」
 アユムが十一月十九日のことを鮮明に覚えているのは、自分の浅はかさや青二才だという自己批判によるものではない。その日現れた客のためだった。アユムはいつもどおりカウンターにいた。ちなみに彼はテーブル席を利用したことがない。彼は教えてくれた。「モーガン、簡単さ、いつも一人だったからね」さておき――その日の客はどうみても頭がおかしいとしか思えない年配の男性だった。すでに中年のお年頃に達していたアユムの年令を超えているようだった。「その客はサエコさんに、ビールと『何かやわらかいものはないか』とオーダーした。少しばかりろれつの回らない言葉に、やっぱりよっぱらいかあと思ったね。でもさらになるほどなあと思うことがあったんだよ」わたしはアユムにそれは何なのだと訊いた。彼は説明してくれた。「歯がほとんどなかったんだ。見えたのは前歯の四本くらい。これじゃ上手くしゃべれないなと納得したわけさ。いちばん戸惑っていたのはサエコさんで、彼女は鮮魚のカルパッチョをすすめた。そしてしばらく経ってメニューが出されたとき、客はこういうのさ『こんなものを食べれというのか?』実際には聞き取るのが難しい空気の抜けたような声でね。」アユムが言うに、その『こんなもの』というのは、丸皿に円を描くように薄く切ったサーモンやマグロ並べ、オリーブソースで作ったドレッシングで味付けしたものだった。固いもの等などひとつもない一品料理のようだ。サエコさんは困ってしまって、「何か別のものに替えましょうか」と応じるが、客はどちらとも言えない態度。結局カルパッチョをそのままに、グチめいたことつぶやきながら、ビールを飲んだ。「少しばかりイライラしたよ」アユムは言う。「ヒューガルデンを飲みながら――」ヒューガルデンとはベルギーという国のビールで、少しばかりアルコール度数が高い。「そのビールの良いところは、ゲップがでないことなんだ」つまりガスが少ないということらしい。とにかく、アユムはそのビールを飲みながらその客を観察していた。しばらく見やると、客の指の数が少ないことに気がついた。無い数よりもある本数を数えた方が早かった。指の数は一般的に片手に五本で、場合によっては生まれつきそれより多かったり、少なかったりする。「小指の横に小さな小指があるブルースマンを知ってる」アユムはいった。「その人はアメリカ人でギターを弾くんだ」
 アユムが説明する客の場合、彼の指は故意に失くされたようだった。ヤクザかと思った――アユムは振り返る。ヤクザには自分の失敗を指を切り落とすことで穴埋めすることがあるという。それは俗に『指をつめる』というらしい。もちろん事故で失われる場合もある。アユムは言う、「勝手に判断するのは危険なことだよ。それがどれだけ人を傷つけるのかわからない」ところがアユム、その時に傷つけられようとしていたのはサエコさんだった。客はホールのサエコさんを捕まえては、「漁師は――」とか「孫が――」とか「船は――」と聞こえる言葉を発しながら、理解できない話しをする。幸い、見かねた客がお冷や、つまり水を頼んだことで、サエコさんはその場を離れることができた。その後、意を決してアユムは自ら客の相手となった。わたしは「なぜ?」と訊いた。「誰かが相手をしなきゃならなかったんだ。そうじゃないとまたサエコさんに火の粉が飛んじゃうだろ」――なるほどアユム、君はヒーローだ。
「彼を相手にしながら、ボクは彼の話す言葉の意味と、指がない理由を想像していた。それは実際にこわかったよ」アユムはそう言った。「それで、適当な相づちをするよりもはっきりと意志を伝えるべきだと考えたんだ――変なトラブルにならないためにもね」アユムは思い出す。「その終わりは客が言った一言だったね」わたしは訊いた「彼は、その客はなんと言ったんだ?」アユムは説明してくれた。彼は歌いたいと言ったらしい。アユムは応えた。「歌ならあっちの店だなあ」そう言って、適当な方向を指さした。するとどうだろう、客はそのまま店を出ようとした。「先に勘定を済ませたほうが良いよと言ってあげた。ちょっとこわかったけどね、急に騒がれるんじゃないかなあと思ってさ」そんな不安をよそに客は素直にディンギを支払ったらしい。ディンギとはお金のことだ。そして客は出ていった。店には平穏が戻った。アユムはわたしに言う「あの客はなんだったのかなあ」わたしは言った「この惑星に安住している人の数を考えればそんな人がいても不思議じゃないだろう。人の数ってのは不思議なもんだ。中国人を嫌いだと言えば、約五億人の人を嫌いなことになるし、インディアンはちょっとなあ、と言えば、インディアン全てを嫌いなことになる」アユムは言ってくれた。「でもモーガン、ボクはこわかったんだよ。両手合わせても指が4本の人を見たことがなかったから」

 十一月二十日に会ったアキエさんは普段と少しばかりちがっていた。アユムは言う「ちょっと化粧がロックぽかった」どんな感じなんだろうとわたしは訊いた。「目の回りが黒ぽかったんだ。アキエさんに訊いたら、ちょっと気合いをいれてみたなんて言ってたよ」別に彼女がどんな風に見えようがお構いなしなんだろうとわたしは言った。それは図星だった。どんなアキエさんでも彼は満足だった。恋は盲目だ。見ためなどお構いなし。十一月二十日は彼が仕事に負けてしまった日でもあった。アユムが受けた仕事で客の了解を得られず、下請けに頼んだ仕事の代金の肩代わりをした日だった。それも『自腹』の六十五万円。ああ、これだけあれば何が買えた? そんなことがあったにも関わらず、アユムは百八十日ほどその仕事を続けた。「勉強代と思ってね。それにちょっとでも取り返そうと思ったんだ」わたしに言わせれば彼はバカでお人好しで弱者だ。「アユム、君のしたことはわたしには何の関係もないことだ。だがそれだけで何人の人が助かったと思う? 神はそうすることをアユムに望んでいたかもしれない。地球上の人間すべてがそう思うだろう。でも実際のところきみはバカだ。無いディンギは無いと突っぱねればよかったんだ。ビジネスのマナーに従えばね」アユムは言う――「仕方がないさ、仕事を頼んだとは言え、ややこしいことに彼らは客だったんだ。話しを大げさにはできなかった」わたしは訳がわからなかった。そんな仕事はたぶんおかしい。彼はうつ病の一歩手前。でも彼にとっての大病はうつではなく、別な病気が遺伝子の指令によって進行中だった。アユムは言う、「そのお金を振り込むのに青物横丁まで行ったけれど、なかなか良い感じんの町だったなあ」
 アユムはその日のことを、たった二杯のヒューガルデンと一杯のコロナで忘れようとした。計二千円、でもアユム、それはちょっと安すぎやしないだろうか?
 その日、店に白いツリーがやってきた。箱に入ったツリーは片隅におかれ、クリスマスを待つことになる。そう、後一ヶ月もしたならクリスマスだった。十一月二十日とはそんな日だ。

 アユムにとって十一月二十五日(それは土曜日だった)は、少しばかりへこむ日だったようだ。時間カーペットも何らかの兆候となる変形をみせていたかもしれない。その日は仕事先に出勤していた。たいていそんなものだ。その日が少し変わっていたのは、職場に出ていたころからかもしれない職場の同僚が、外食をするからといって、袋に入った買い置きのハンバーガーを二個アユムにくれた。アユムは正直なところ「多いなー」と思いながら受け取った。袋を開けてみると、テリヤキソースのハンバーガーだった。くどい味のソースを我慢しながら一個食べた。もう一個は残した。若いころなら二個食べられただろうか。外食ということにちなんで:アユムは職場近くのラーメン屋のことを教えてくれた。「その店は汚かった。中も外もね。味は良いといわれていたけれど、厨房も席もとにかく汚かった。ネギと思ったら生の玉ネギが入っていたし、チャーシューは厚いけれどあまりに脂ぎっていた。値段も安いわけではなく、普通よりもちょっと高い。けれどもみんなは旨いって言うんだ。都会は変だと思ったよ」
 残したハンバーガーは律儀に返した。その理由は単純だ。彼には捨てられなかったせいだ。でもアユム、そのハンバーガーは結局捨てられる運命にあった。ハンバーガーは地に帰る。その過程においてちょっとばかり臭くなるが。久しぶりのハンバーガーを口にした職場を後にすると、彼は電車を乗り継いで以前住んでいたK市に向かった。よく足を運んだ飲み屋に顔を出すためである。飲み屋に限らず、こうした行為はたびたび繰り返させれられる。再会は時間カーペットの中では『一回休み』みたいなものだ。アユムはその店の酎ハイとつくねが好きだった。その酎ハイもアユムが持つ悪の遺伝子、ガンの成長を促進させることになる。酎ハイやアルコールのせいではない。つもりつもった結果だ。親から譲り受けたガン――本来であれば神の贈り物――による運命だ。時間カーペットだけがそれを知っている。その運命は宇宙から見える時間カーペットの穴ぼこで、アユムが足を踏み入れるのを待っている。それは後数年後のことだった。いずれアユムは不思議な鈍痛を内臓に感じることになる。東北出身の元十両という店長が刺身をおまけしてくれた。それはもっと飲め、あるいは頼めという無言の挨拶。彼は結局九十分の間に五杯の酎ハイを飲んだ。彼はその日の予定をこなすため、二十一時少し前に店を出で、二軒目の店に向かった。そこはビートルズという変わった人間たちの音楽を流す店で、店内のあちこちに彼らに関係するポスターや写真、ディスクが飾られていた。その店に入ったのは数年ぶりだったが、驚くべきことに店内は二つのグループを分けるための境界が設けられていたという。アユムが言った、「なんだと思う?」わたしはわからないと首を振った。男と女?――そうではない――アユムが説明するに、タバコを吸うものとそうではないもののグループを仕切るための境界だ。その境界は仮想的なもので、実際にロープや線が引かれているわけではない。席が分けられているだけだ。アユムはその店のマスターに訊いた。「しょうがなくてねー」マスター曰くそれは『お客様の要望』らしかった。
 カシューム星人がわたしに言った。「そのマスターというのはどんな感じの人間だろうか?」わたしは応えた「又聞きになるが、アユムがいうにひょろっとして丸顔でメガネをかけているようだ。結婚して子供もいる。そんな人間だ」カシューム星人の表情は変わらない。彼に表情はない。しかし彼の言葉から、少しは落胆している様子がうかがえた。わたしにはそんな風に感じられたのだ。つきあう人間がほんのわずかという世界では、知ろうとする能力が数倍にもなる。「そうか――わたしの知っているマスターは独りだった」カシューム星人は、自分がアンティークのビンやバイオリンを弾くネコになってバーのカウンターに飾られていたころを思い出していた。彼がそこから、つまりわたしたちが見ている惑星『地球』からここに戻ってきたのはリンボー・デジーのおかげだ。彼はまだ地球にいる。彼らの種族が持つ分担された能力では、自分以外のものを宇宙へ解放することはできても、自分を解放することはできなかった。彼はオペレーターで、そのオブジェクトではなかった。デジーはカシューム星人を他人の時間カーペットの穴ぼこに入り込ませ、宇宙に放り出した。わたしと同様、ここら辺を漂うカシューム星人は家族と会わなくなって久しい。寂しくはないかとわたしはたずねる。彼は寂しいという。確かにそうだろう。でも実際のところ、彼と彼の親は見かけも構造も変わらない。彼らは分裂しながら人口を増やす種族だった
 アユムはカシューム星人がいたことのあるその店で若い娘に会った。彼は彼女を学生かと思ったらしいがしっかり働いていた。アユム曰く、「彼女はそう言われてまんざらでもなかったようだったよ」――わたしは信じられなかった! それは酔ったいきおいのことだったかもしれない。女性と話すのが苦手なアユムがそこまで大胆になったとは! アユムは黒ビールを飲みながら彼女と話す。そしてその店のルールである、『席に着いたら一品』に倣い、ビスタチオを頼んだ。これは身体に良いとマスターは言う。今じゃ誰も信用しちゃいない。好き勝手な人間が中近東との国交を断絶したためだ。最近の世界情勢は三つあった。イスラム、キリスト、そして儒教を信望する圏。さあ、アユムの国、ニッポンはどうなったか? キリスト圏だ。経済主義は放っておかれた。誰も手がつけようがなかったために。火星宗教の道は遠い。
 わたしは火星宗教を啓蒙するために、産業の頂点にいたアメリカWC―COMのマーレー・フラスコと手を組んだ。わたしと彼は従業員と社長という主従関係にあった。その関係が少し人間らしくなったのは、あるバーでたまたま彼の隣で飲んだことがきっかけだった。彼とわたしはお互い名前を知らなかった。特にマーレー・フラスコはわたしが彼の会社の従業員であることも知らなかった。しかし彼はわたしを知っていた。それは身内の不幸通信によるものだ。わたしの母親が時間カーペットの穴ぼこに落ちた通知を彼はしっかりと見ていた。彼が着目した点はガンだった。彼もまたガンを患っていた。わたしは病気が縁で知り合いになるのは入院中のことだけだと思っていた。病院といえば――最近では院内にカフェもあればストアー、レストランもあり、さらにはホテルルームまであるらしい。これはアユムの情報だった。おじけづいて入れなかった街中の洒落たカフェのチェーン店に入ったのは病院の出店が初めてだったらしい。「病院だから安心して入れたよ」アユムはわたしに言ってくれた。バーの女の子に紹介されたその病院の外観はまるでホテルのようでおよそ病院には見えなかった。「思わず通り過ぎちゃったよ」とアユムは言った。わたしの知っている病院といえば、そこら中に衛生ダクトがはりめぐらされた『工場』といった様だ。工場なんて、ヒトの身体を治すにはうってつけの場所じゃないか? わたしの火星宗教は、マーレー・フラスコの産物である転送器で火星に男女を送り込み、女の子を誕生させることで陽の目を見ることになる。
 ん? さておき――そう、アユムの話しだ。アユムが思いきって声をかけた女性はビールを二杯飲むと店を出ていった。そこに至るまでの彼女の行動から察するにどうやら待ち合わせらしい。「ちょっと話しかけ過ぎたかなと思ったよ」アユムは言う。しかし実際にアユムが口にしたことといえば、「学生さん?」、「これうまいんだよ」それから「マスターは野球やってんだぜ」くらいなものだった。
 アユムは懐かしい店を出た。電車に乗って部屋に戻る。一時間半の旅だ。圏、いや『県』をまたいでの行動にはそれなりの時間が費やされる。帰り道のドラッグストアーで子供顔が描かれた六百八十円の肝油ドロップを買う。「電車に乗ると変な人がいてね」アユムが教えくれた。それは野菜パンを食べる若い女性の二人のことだった。一人の女性が言う「食べてみて」もう一人が応える「これって不思議」――世の中には不思議が多い。たとえそれが総菜パンでも。

 十一月二十五日(土)、アユムにとって七度目の店でアキエさんの優しさに会い、そしてちょっぴりがっかりする。「彼女はとてもマスターのことを心配しているんだ。マスターはもともとやせてて、いわゆる『ガリガリ』って感じなんだけれど、彼女は『倒れなきゃいいけど』とか言ったり、好きなパチスロを『止めたらいいのに・・・』なんて言う。ボクにはそれがとても思慮深くて優しいミューズが話しているように聞こえたんだ。この二人は何か特別な関係にちがいないな――そう思えてならなかった。彼女が優しくて心美しいのはあたりまえだけれど、なんだか少し悔しくなった。そんな感じになった」そしてこう言った「ボクにもモラルがある。アキエさんは若すぎるんだ。自分の妹より若い。これは――」わたしは言ってやった「家族を不安定な状態にさせるんだね」アユムは気を取り直してこう言った。「でもその夜は良いことがあった。店のラストオーダーが近くなったころ、彼女がもうちょっといても良いですよ、なんて言ってくれたんだ」わたしは訊いた――それでどうしたんだ?「断ったよ。そのせいで彼女の帰りが遅くなっちゃ悪いからね」そして続ける「もうひとつ良いことがあった。次はなんだとわたしは訊いた。アユムは応えてくれた『ついに郵便局を見つけた』と。そんなことか――わたしはそう思ったが、メールや自分の電話を持たないアユムにとって郵便局は大事な存在だった。今でもそうだ。それに反して大半の人々、特に若年層にとってたいして重要なものではなかった。郵便局が民間の手に移ったのは将来性が見つからなかったせいだった。アユムは言う「でもけっこう遠かったなー」

 十一月二十六日(日)、アユムにとって八度目の店になる。彼がふるさとに持つ誇りは一人の女性で、彼女は小説家だった。その日の夜テレビではその小説家が書いた本を原作としたドラマが放映されていた。古い時代の町並みが映る。もちろんセットだ。知っている地酒の看板が現れると『なるほどね』なんて思っていたらしい。彼はとても涙もろかったので、どんな無理な展開の筋書きだろうと涙腺をうるませた。気がついて鏡を見れば、頬には涙の筋ができ、目は赤くなっていた。ちなみに彼は涙についての小説を書いたことがあって、それは涙の原因となる『かんの虫』を研究する博士の話しだった。顔を洗ってバーに行く。その夜、彼は普段見ない女性を見る。その人はフジさんといった。普段は別な店にいて、その晩はバーで働く日なのだとマリエさん(アユムにホテルのような病院を紹介してくれた女性だ)が教えてくれた。フジさんは観光でスペインに行く予定らしい。スペインか――アユムは思う。彼はスペイン語が好きだったから。その日、彼はヒューガルデンとコロナを飲んだらしい。彼がJTを知り、浸かってしまうのはもう少し、あと10日経ってのことだ。

 十一月二十七日(月)、アユムは髪を切ったアキエさんに出会うことになる。アユムは言った「マスターには悪いけれど、その日はお客さんが二三人だった」そして「だから少しばかりアキエさんと話すことができたんだよ」わたしは思った、ああアユム、きみの女性に対する恐怖心はいったいどこに行ってしまったんだ。アユムは言う「なんだかアキエさんとは話すことができるんだ」そしてこう付け加える「結局客と店ってことだろうけどね」 その日、アユムは白子のムニエルを頼んだ。前日も頼んでいた。「うまいタマネギだねと言ったら、それはカブですって言われたよ。ちょっとあせった。でもアキエさんは優しいのでタマネギと似てますよねって言ってくれたんだ」 カブの話しばかりではなくアユムにとってムニエルというのも新鮮だった。それまでは生しか食べたことがなかったので。アユムはアキエさんに言った。「そういえば、昨日フジさんに会いました」フジさんとは富士山ではなくてフジコさんのことだ。同じ系列の店で働いている女性だ。酒に呑まれているようで呑まれちゃいない、微妙な酒豪だった。「アキエさんは、彼女はスペインが好きで、よく行ったりするんですよといっていた」彼はそうわたしに話してくれた。これは彼にとってとても幸運なことだった。彼はスペイン語が好きだった。彼はスペイン語のことをカスティジャーノと呼んでいた。それが本場の呼び方らしい。ただしアルゼンチンでのことだったが。「そこでボクは、スペイン語を覚えれば、イタリア語も覚えたようなものだと話した。アルゼンチンにいたイタリア人から教えてもらったんだ。そうしたらアキエさんは言うんだよ――イタリアといえば何が有名でしょうねって。それでビーナスの誕生やダビンチ、そんなことを話した。ボクが知っていることはほんの少しだったけれどね」それだけでも上等だよ、とわたしはアユムに言った。
「その日、彼女はカクテルについても教えてくれた」
「どんなことだ?」わたしはアユムに訊いた。アユムは答えてくれた。シェイクよりもステアの方が難しいことや、エアーでは巧くいっても実際は・・・なんてことを。
 土や泥をこねて創られた人々にも悩みはある。それが神のすごいところだった。神はどうやってその悩みが悩みであることを人々に気づかせたのだろう。なぜ神は人間にひとつの振る舞いだけではなく、多岐に渡る勝手な文化を根付かせたのか。想像してほしい、人々がある一点だけを見つめる姿を。私は彼らにそうさせたかっただけなのだ。

 十一月二十九日(水)、十一回目の店だった。その日のことをアユム病院の中庭を歩きながらわたしに話してくれた。
「その日は姪っ子から手紙が来たんだよ。映画の券を送ってあげた返事だった。たぶん親に選んでもらったんだろうユニセフのカードを送ってくれた。そこにはなんて書いてあったと思う?」何だろう?――わたしはアユムに訊いた。アユムは答えてくれた。「『どうもありがとう、ばあちゃんにもよろしくね』って書いてあった」アユムは少し神妙な顔をして言った。「ばあちゃん、つまりボクの母親だけど――ちょっとは気にかけてやれってことさ。立派な大人みたいなことを言うよ」
 大人は他人の言うことに耳を貸さないが、孫の言うことは聞くことが多いらしい。奥さんや医者がタバコをやめろと口を酸っぱくして話しても、孫から「じっち(爺)たばこ(たばこ)くさい」と言われると、少しは考えるらしい。わたしは少しばかり疑問だ。大人はもっとこだわりがあるべきじゃないか?
 アユムは姪っ子からのカードをヒューガルデンを飲みながら読んだらしい。カードの入っていた封を切るときにアキエさんがナイフを貸しましょうかと言ってくれたがアユムはそれを断ったという。「そのときはすぐにでもカードを見たかったんだ」とアユムは言う。「それで断ったんだけれど、今でもとても後悔してる」アユムは空を見る。
 封筒にはカードの他に写真が一枚添えられていた。二人の姪っ子が公園の滑り台から滑り降りてくる写真だった。「ボクは写真に写っている姪っ子二人がとてもかわいいと思ったけれど、それよりもびっくりしたのは妹の脚の長ささ。天は妹に二物以上与えちゃった。それでわかったことがあるんだ」わたしは何が?と訊いた。アユムは言った。「親も子供を選べないってことさ。親を選べないなんて悲観するのはまちがってた」

 アユムは親には知らせずに一人で病室にいる。
 十一月三十日は、前日で十一回目の訪店だったので、加算する十二回目になる。これは十進法による加算だ。けれど二進法にしようが十六進にしようが、時間的経過はまったく変わらない。数学は無力だが、自然に干渉しようとは思わない理性ある論理だった。わたしはその冷静さに敬服する。アユムはヒューガルデンとコロナを続けて楽しみながらクリスマスの計画を練っていた。それは短い時間を積み重ねながら、わりと順調に進んでいたらしい。アユムは言った「最近は何がなんだかわからなくて。店に来るために仕事をしているんだかどうなんだか――すっかり比重が変わってしまったんだ。

 十二月一日にはペッパーを二杯頼んだらしい。その日、アユムはわたしに聞かせてくれた。「けっこう売れてるロックのアーティストがいてさ、セレブって言うのか、すごく金持ちになっちゃってる人、彼がこう言うんだ。世界は三つに分かれているって。それはなんだかわかる?――マホメッドとジュードとクライスだって」彼は一息つき、手でこめかみをさすりながら言う「それじゃブッダはどこ? アーティストの大半は空っぽで、その国で稼いだディンギをその国に圧力をかける団体のために寄付するんだ。神様にでもなったつもりかい? ジョンはそれを知っていた。彼は神になるつもりも無いし、自分が好きな人を平穏に過ごせればそれでよかった。セレブってのは自分が何者かわかっちゃいないよ」アユムは頭を抱える。顔も赤らんできた「ペッパーは鼻につくんだ、でもそれが良くて・・・知ってるかい? コーヒーに入れもいいんだ。眼がさえるんだ。時々思わない? 寝るのも、食事も面倒なことだって」

 十二月二日は土曜日だった。十四回目の訪店だった。ヒューガルデンとコロナ、そして白子のカブ添えを頼んだ。玉ネギだと思っていたメニューだ。その日の朝七時頃、バス停でバスを待っていると、原付のバイクが白バイに追いかけられていたそうだ。アユムは言う、「ノーヘルってやつかな、あとはスピードオーバーかな? ああ、路上強盗かもしれない」彼はその理由について色々と挙げてくれた。けれど、わたしには別段興味のないことだった。そんな光景は珍しくない。アユムは言う、「そんなことないと思うよ、だって朝っぱらの朝七時なんだよ」わたしは、言ってやった、悪い行いをすることに時間は関係ないんだと。「オッケー、わかったよ。でも天神ラーメンは失敗だったね」それは九州発祥のラーメンらしかった。故郷のものとちがって、『替え玉』というシステムがあった。「替え玉を頼んだおかげで映画を観ながら寝ちゃったよ。目が覚めたのはエンドロールの途中さ。満腹だったんだ。正直いってラーメンに味なんて関係ない――だから天神だろうか、何とかだろうか全然気にしないんだ。でも替え玉はまちがいだ。絶対に」アユムが観た映画は二本立て、寝てしまった映画は『ヒストリー・オブ・バイオレンス』だった。「クローネンバーグはすごいよ、普通の主流映画のようだけど、あごをピストルで吹き飛ばされるシーンにはさすがクローネンバーグだなあと思ったね。『裸のランチ』には負けるけど」『裸のランチ』はバロウズの小説で、クローネンバーグによって映画化もされている。「最初に『裸のランチ』を読んだのは電車の中でね、読み進めながら吐きそうになった。活字に集中して気持ちが悪くなったわけじゃなくて、書いてある内容に気持ち悪くなったんだ。モーガン、小説を読んで吐きそうになったことはある? そりゃひどいもんで、酔っぱらってもいないのに気持ちが悪くなるなんて信じられる。もっと本を読めって言われている本に気持ちが悪くさせられるんだ。これはまさしくイメージの勝利だね。映画じゃ簡単だろう? 何か胸を気持ち悪くさせるものをコマの一枚一枚に納めて、それをスクリーンいっぱいに投影したらすむだろ。人はそれの現実っぽいものを観て視覚的に気持ち悪さを覚えるんだ。脳みそは映ったものを解析して、経験の記憶から似たようなものをひっぱり出して照らし合わせる。簡単な流れだと思わない? 人が考える隙なんてない。ただ照合するだけなんだ。でも小説はちがう。照合できてもそれは謎かけの結果で、現実的な、具体的な姿を創造するためには想像するしかないんだ――脳みそに血液という電流を張り巡らせて、時にはショートさせて火花を放ちながら想像するんだ。それはそんな小説だった。その火花が吊り輪をつかんでいたボクの気分を悪くさせて、前に座っていた乗客のひざにもどそうとさせたんだ。もちろんもどさなかったけどね。ボクが読んだのは好きな翻訳家が日本語に訳したものだったけれど、原書を読んだとするならぞっとするね、とっくにあの世行きだったかもしれない。ほんとうに変な小説だった」わたしはアユムに言った、「それは子どもが乗り物酔いをするようなもんじゃないか?」――実を言えば、アユムは子どものころ、よく乗り物に酔ってしまうことが多々あったらしい。遠足は『地獄へドライブ』で、ガソリンの臭いにダメなことに気がついたアユムは、一時間の道のりの間、バスの席に座りながらずっと指で鼻をつまんでいた。
 その日のアユムは、文明へまた一歩足を踏み入れそうな日でもあった。「モバイルフォンを契約しようと思って店に行ったんだ。でもむちゃくちゃ混んでてさ、それで結局止めたよ」未だにアユムはそれを持っていなかった。その代わり、彼はいくつもの公衆電話の番号を知っていた。けれど公衆電話の数は減るばかりだった。
「ところでアキエさんはどんな感じだった?」そのころのわたしは、アユムの日常よりも彼女のことが気になりはじめていた。アユムは明るく言った「新しい発見さ! 彼女は首からボールペンをぶら下げてた、ストラップでね。それを使って伝票をチェックするんだ。そんな彼女はなんだかとてもプロフェッショナルっぽく見えた」その日のアユムは、コロナ一本で済ませると別の店に行った。いわゆる二軒目だ。「イカが食べたかったんだよ――何だかね――急に食べたくなるときってあるでしょ」そこでアユムはチューハイを頼んだ。いつもと同じだ。ただアユムの身体の中に現れた悪いものは着実に変化し、進行していた。「ちょっとばかし目からうろこだっったことは、その店のマスターが話していたことだよ――『一晩中テレビゲームをするのと、一晩中本を読んでいるっていうのは、どちらもその本質は変わらない』――そんなことを言うんだ。そうだよね。変わらない。誰もゲームのことを避難できないんだ。ボクは本の虫、誰かはゲームジャンキー――夢中なことに変わらない」
 その日、アユムは吸血鬼におそわれる夢を見たという。それは昼に観た映画の一場面でもだった。ああ、アユムよ、感化されることなかれ。

 十二月三日、日曜日。十五回目の訪店。彼は自分が仮に住んでいる場所を気に入りはじめたらしい。彼の気に入っているところは、喫茶オドラダのカウンターで働いている娘がこの町にいるということだった。日曜日の朝食はオドラダのモーニング、昼に寄る機会があればミルクティーにレアチーズケーキが定番だった。「ほんとうはシューが食べたかった。クリームがあふれるくらいに入ったやつ。でもボクが寄るころにはたいがい売り切れだった。シューのいいところは、おなかがいっぱいになるとこ、そして甘さで胸もいっぱいになる――なんていうか、恋の味だ」そう話すアユムは、カウンターで働く娘の名前を知らなかった。いつか彼女が料理するランチを食べてみたかった――でも頼めない。喫茶店で食事をするってなんだか変じゃない? 実をいうとモーニングを頼むのだって気が引けてたんだ。
 その日はヒューガルデン一杯で店を出た。店にはスペイン通のフジさんと、学生バイトのミエコさんの二人がホールを受け持っていた。「いやだったことは――二軒目の焼鳥屋で煮込みとチューハイでテレビを観てた――けっこうかわいい娘が出てくるやつ――名前は知らないけど――面白いなあと思っていたら変な二人連れが別な番組にチャンネルを変えちまったんだ。映画だった。しかもその映画はそいつらが考えていたのとはちがう映画だったんだ。ああ、やってられない――なんだかしっくりこなくて、煮込みを残したままディンギを払って出てったんだよ」

【続く】


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