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仮題: JT トリッピング 1 [仮題:JT トリッピング]

【1回目】

to Yさん: ファイルが消えてしまって思い出しながらタイプしてます。ハードドライブがいまいち不安で、時間があるときにWILCOMでタイプしました。指痛くなります。それにしても思い出すのは大変です。
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JT トリッピング - あるいは永眠病と時間について?
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「アキエさん、きみの名を呼ぶ夜更けかな」

 そう切り出したのは、友人のアユムだ。アキエさんというのは彼が想う女性の名だ。こうした説明から考えてアユムは男性と考えて差し支えない。世の中は色々だ。姓名で男女の区別がつかない場合もある。名と性別は一致しないし、性格と性別もしかり。固定観念を捨てるべき惑星の名は地球という。この惑星は未だにカオスのまっただ中にある。一億年という時が過ぎたというのに! 想像してほしい、惑星上に住み着いた数えられない人間たちが常に好き放題している有り様を。それに加えて、何万種類ものほ乳類、両生類に昆虫や魚たち――つまり人間以外の生物が一斉に好き放題している有り様を――宇宙から覗く地球はそんなエゴを乗せてもまだ青く見えた。それはもしかすると『青ざめていた』のかもしれない。雲の様子もどこかしらおかしく見える。この有り様に対して、宇宙の倫理――つまり『神』は冷静に『時間のカーペット』を、それぞれの性別に分け隔てなく与えている。そのカーペットは生物の種類やそれなりに与えられた時間――寿命ともいう――によって変わり、その幅が広かったり細かったりする。そのカーペット、なんだかレールのようにも見えるそれは、ずーっと続いているように見えるが、かわいそうに途中でぽっかりと穴が開いていたりする。カーペットの途中でぽっかりと開いた穴、それは彼らが予期しない傷害で、大抵の場合、そこで彼らの時間は止まる。その穴は『たぶん』ブラックホールに通じているらしく、時間を止められ、放り出されたものたちは『たいがい』においてそこに放り込まれる。『たぶん』とか『たいがい』というのは、そこがブラックホールでしたと証言するものがいないせいだ。そこはすべてが黒いフラッシュバックで構成されていた。宇宙は不思議だ。ときには自身が宇宙の一部で、そのまま融け出してしまう錯覚に陥ることがある。ちなみにアユムはわたしにこう言ってくれたことがある。
「銀河を渡る簡単な方法を知ってる?」
「知らない」とわたし
「冬の日の朝早く、それも陽がまだ上っていない頃、しかも吹雪のときに峠道を登るんだ、車でね。周りには何もない。フロントガラスに向かってくるのはちりのような雪。それがまるで宇宙塵のように見える。孤独ですごく不安になるんだ」
「それが銀河なのか?」とわたし
「そうさ、うその銀河だけどね」
 まあ、実際の銀河は孤独でもなんでもない。ただの鉱物の流れだ。宇宙のロマンチックは月に住むウサギくらいで勘弁しよう。そんな話しはさておき、時間のカーペットを解き放たれ、たぶんブラックホールであろう場所に放り込まれたものたちは、宇宙の倫理(つまり神だ)による再生を待つことになる。その場所はなかなか定員オーバーとはならない。それは肉体と精神、器と中身がバラバラになり、中身だけが放り込まれるためだ。中身、つまり精神はとっても薄っぺらなわけだ。器はどうなるかというと、そのまま惑星上に残り、ある場所ではそのまま埋められたり、エコロジーのために焼かれたり、場合によっては野ざらしにされる。海の中に放り込まれて、海の滋養になることもある。わざわざバラバラにされて放置される場合もある。平和に時が流れれば勝手に風化し、その残骸が未来の生物に発見され、ある年数以上を経ていれば学術的対象に、またその期間の短さによっては法治部隊の作業対象にされる。つまり好き放題に処理されるわけだ。これは地球のカオスを構成するもののほんの少しにすぎない。まあどちらにしろ地に還元され、惑星を構築するなんらかの糧となるわけだ。わたしは考えてみた――生物は自らを地に還ることができるもっともエコな存在ではなかろうか。そんな彼らが惑星にカオスをもたらしている。もっとも優しく地に還るエコロジーなはずの生物、とりわけ人類が。それはなぜだろう? すべては欲望がなす仕業だった。たとえばアユムにアキエさんの名を呼ばせたのも欲望の仕業だった。惑星はいわゆる『気候変動』や『資源枯渇』といったあの手この手を使い、いつでもそのカオスを打ち消すことができる。まあ、なんだかんだいっても、この好き放題のカオスも所詮この惑星が創り出したものだ。創造主には創り上げたものをいたぶるくらいの力があった。ああ、今日も惑星は暑いだろう。
 わたしはモーガン・サザーランド。ヒゲを生やした白人だ。アユムの友人でもある。火星宗教のエバンジェリストだった。今でもそうだ。今はただ宇宙をただよう存在だ。目の前には時間カーペットがぐるぐる渦巻いている惑星がある。その内のひとつに開いた穴、それをつかってわたしはアユムを見ている。ぽっかり開いた穴――先にいったようにそれは寿命の穴だ。そこで彼、アユムは時間から放り出される予定だった。その理由は彼の肉体に発芽したガン細胞によるものだった。しかし彼はあとわずかというところでその穴を飛び越えた。それはなぜか? 彼の身体は火星への往復で使われた天才、マーレー・フラスコによる転移装置、トランスポーターにより、正常な肉体、器官に再構築されたためだった。見た目は変わらなくても、表面をおおう皮膚を含め、肉体すべてが生まれ変わっていた。最良と考えられる肉体パターンでろ過――フィルタリング、再結合というプロセスにより、肉体に害となるものの『ほとんど』が排除されたわけだ。この『ほとんど』というものがよく考えられていて、彼のポコチンを覆っていた包皮でさえ排除されたのだ。これはマーレー・フラスコがカトリックであることに依頼する。物心つかないころに割礼を受けた彼にとって、その包皮が肉体の一部だとみなすことができなかった。アユムはそのフィルタリング、再結合といったプロセスについて説明を受けたとき、わたしにこうもらした。「もう少し大きくしてくれないものかな」――わたしは失笑した。生物にとって『害となるもの』の意味はそれぞれだ。たいがいがその立場に左右された。
 ちなみにその転移装置、トランスポーターによるフィルタリング、再構成の恩恵を預かったものはアユムの他に、ディアナ、ナディア、マーレー、そしてこのわたしだ。火星はいいところだった。
 まあとにかく、わたしは時間カーペットの穴からアユムを見ている。わたしがなぜそんなことができるかというと、私自身がふらふらと宇宙を漂っているからだ。かってはわたしにも時間があった。つまりヒトとして過ごした時間だ。わたしの後頭部には血がこびりついていて、レンガやビンの破片がくっついている。これは過ごしてきた時間の最後にいただいたもので、時間カーペットから放り出される直接の原因となったものだ。一般的には『死亡原因』などと呼ばれるだろう。この後頭部はちょっとしたホラー、スリラー、サスペンスといった雰囲気で、なんとかならないものかと考えるときもある。
 わたしは『死』という言葉がきらいなので、今後、『死』という言葉はでてこないはずだ。その代わりに、『時間の穴ぼこに落ちた』とか『時間を放棄した』とか、そんなことをいう。
 わたしはなぜ時間カーペットの穴ぼこからブラックホールに放り込まれずに宇宙を漂っているのか?――それはわたしにもわからない。わたしはちょっとばかしおかしかったせいだろう。火星宗教なんてものに入れ込んだあげく、転移装置で火星にも行き、さらにニセの火星人創造に荷担したりもした。ちょっとした罪人扱いされるには十分な行いだろう。この辺ではアフロヘアをした黒人のギタリストを見たし、ぼさぼさ頭で舌を出す科学者にも会った。彼は惑星の表面で核実験が行われるたびに思慮深い顔をする。この辺りでぶらぶらしているものたちはみな、何かしらの責任にさいなまれているかのようだった。宇宙の倫理である神は土をこねて生き物を創造し、それを叩きこわし、またこねて創る。しかし彼らには再生という機会は与えられなかった。とても罪深かったのだ。わたしを含めて。許されないものの一人、クレイジー・トミーはギタリストで、派手なメイクで宇宙をイメージしたステージング。彼は自分が時間カーペットの穴ぼこから放り出されたことを知らずに宇宙を、月をうろうろしていた。彼はわたしが行きつけであるバー、『ピーナ・バー』のママ、サワコの娘をさらうことになる。アユムは悲しんだ。その娘が好きだったからだ。誰も彼女が月にいるとは思わなかった。そんな彼女はわたしの友人であるスタナーにより救い出されることになる。みんな散々な目にあった。未だに後遺症は続いている。トラウマなんてものじゃない。
 ふらふらしているのはヒトだけではない。無数のチリもやってくる。この間は懐かしいカップヌードルの残骸がやってきた。自動爆破された衛星の乗員が持ち込んだものだろう。その中にはくびれたビンもあった。それを眺めて懐かしがっているのは、わたしの隣にいるカシューム星人だ。彼はわたしに話してくれた。
 彼、カシューム星人は普段、まるで水銀のような姿をしている。液体の銀だ。彼らは粘菌質の擬態アメーバの一種だったので、あらゆるものに変化できるありがたい性質を持っていた。うっかり地球に落ちてしまったしまったとき、彼は身近にあったコーラのビン、それも溶けて形がいびつになってしまったもの――に変化した。彼の姿は近くにあるバーのマスターの目に留まり、彼のコレクションとなった。マスターはそれが非常に価値があるものと考えたのだ。次にカシューム星人はバイオリンを弾くネコの姿に変化する。マスターは悲しがった。好き放題のカオス惑星ではしかたのない日常だった。

 アユムのそばにいるのはわたしだ。失礼、これはわたしが時間カーペットにはまる前のわたしで、わたしの後頭部にはビンやレンガの破片はない。もちろん血もこびりついていない。ああ、若かりしわたし、といっても五六年前の姿だが――は何と間抜けに見えるのだろう。どんな時点でも、ある時点から振り返れば、青臭さばかりが目立ってしまって、良いところといえば、時間の倫理に従った老化が少しはましになっていることくらいだ。そのころはちょっとだけ毛もあった。毛は長い進化を続けてきた人類のなごりである。毛の存続を切望しながらも、進化は毛を退化させた。神が創造する進化が常に望むものであるとは限らない。そういえば土や泥をこねて創られた人類ではあったが、アユムの周りにもそういった創造物は古くからあった。彼の家の壁は土でできていて、部屋の仕切りは紙でできていた。人類もまた紙になりたかったのしれない。
 ここからは時間カーペットの穴ぼこに落ちる前のわたしである。
 アユムがわたしに言った。「モーガン、彼女が熱を出しているんだ」
 わたしは彼が言う『彼女』が『Aっちゃん』のことかと考えた。『Aっちゃん』は以前からアユムが想いをよせている女性である。その望みは願望のままで終えるだろう。なぜなら、彼女はすでに結婚し、子どももいたからだ。その頃のわたしも、そして当然今のわたしも結婚していない。たぶん良いものだろう。ちなみにアユムは結婚して当たり前の年になっていた。彼は結婚指輪にある種の憧れをもっていたが、それが単なる装飾品だとしてもいたずらに指輪をはめることにためらいをもっていた。彼は指輪を買ったことがない。けれどもイヤリングを買ったことがある。それは彼が若くてパンクで髪をオレンジやブルーにスプレーしていた頃のことだ。今ではその大半が白髪だ。アユム曰く、「恋は遅かったよ」――彼は三十半ばから急に女性を愛しく想うようになった。それはなぜだろう? アユムが言ってくれた結論はこうだった。「大人になったのさ」
 「でもちょっと遅くないか?」とわたしは言った。アユムはしかたなくうなづいた。この世に時間の尺度があるとするなら、アユムのそれは他人より少々長かったのようだ。普通であれば二十代に思う感情が三十代になって現れたようだ。彼は自分の年齢より若く見える。白髪の混じった頭は相応かもしれないが、彼の笑顔は確実に若々しく見えた。幼稚と言ってしまえばそれまでだが。ある飲み屋のマスターは、彼が笑った顔が自分の孫そっくりだと言った。よろこんでいいものか。カシューム星人はわたしに助言してくれた。
「それはある種の時間逆転現象じゃないか」
 時間逆転現象は彼らの惑星ではよくあることだ。多分に電気的な要因で、彼らの時間は簡単に裂け、メビウスの輪のようにくっつきあう。そんなものじゃないよ――わたしは応えた。

「彼女の熱は高いのか? そもそもが彼女って誰だ?」わたしはアユムに訊いた。彼は彼女について説明してくれた。
「彼女はアキエさんといって、帰り道のキッチンで働いてる。普段の顔や笑顔、そして考え込んでいる姿、そのすべてが素敵な人だ」彼は一息でそう説明してくれた。好きな人について説明しているアユムはとてもうれしそうだ。アユムはこう付け加えた。「彼女に出会えたのはひとつの、何と言うかな――そう、奇跡だ、奇跡に違いない。ほんとうにめったにないことだよ」確かに人と出会うのは何かの縁だろう。わたしもそれには同意だ。これだけ好き勝手に、好き放題に回転しているカオス惑星上での奇跡だ。
「それならアユムは彼女と――」わたしは言葉を選んだ――「ただならぬ関係なのか?」実際、わたしはそんな関係であるはずがないと考えていた。なぜならアユムはいわゆる根性なしだったから。特に女性に関しては。アユムは言った、
「それはモラルの問題だね。そんなことがあるわけないさ」モラルなんて男女の間にあるものか?――わたしはそう言ってやった。「おおありだよ。なぜって、彼女はボクよりもずいぶん若いんだ。それはアユムの本心だったろう。家族関係で年齢はというのはけっこう重要なものだ。離れすぎた年の差を埋めるのは愛だけだ。だがその愛を変態的ととらえるものも多い。まあ、とにかく――アユム曰く、彼女は熱を出したらしい。「それでも彼女は働いているんだ。まるで居酒屋のマリア・シェルみたいに働きづめだ」アユムが例えたのはエミール・ゾラの映画に描かれた女性の一人だ。彼女の夫、チーボーは、時間カーペットの穴ぼこに落ちるように、屋根から落ちて時間から弾き飛ばされた。マリア・シェルは困難にめげず働くが、最後には小さな子供を抱え、居酒屋のテーブルで放心する。有名な場面は二人の女が洗濯場でけんかするところだろう。その原作になった小説はアユムにとってリアリズムのバイブルだった。「彼女は熱を出しても休めない、熱を出しながら店に出てる。はりのないかすれた声、力のないしぐさ、うつろな目、そのすべてがボクを悲しくさせるんだ。
「きみになにかできることはないのかい?」わたしはアユムに言った。少々やる気なさげに。たぶんアユムにしてやれることはない。ところがどうだろう、アユムはわたしに言ってくれた――
「栄養剤をあげるつもり。リポDとか、なにか飲むタイプのやつを」
「なるほど、そいつは具体的だ」わたしは心底おどろいた。彼の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったので。いつもなら、『そうかなー』とうなり、適当ににごすところだ。「オーケー、それはいいアイデアだと思うよ。察するに彼女は病院に行く暇もなさそうだしね」その頃は、病院に行かないことが良い考えだと思わせる理由があった。それはインフルエンザの特効薬といわれたクスリにまつわる話しだ。その薬は副作用に疑問をもたれていた。それを服用した未成年たちはこぞって、自ら時間カーペットの穴ぼこにはまっていった。つまり時間を放棄したのだ。そのクスリはある種の興奮剤ととらえれてしまい、服用がもっともためらわれる薬物のひとつになった。けれどもその効能に期待して自ら投与を希望するものもいた。彼らはそれを使って、時間や空間を飛び越えようとしていた。カオス惑星ではみんな好き放題だ。すべては素晴らしき欲求のため――宇宙倫理である神が怒ってしまうのも当然。土や泥でできあがった人類にクスリは不要だ。還元するときのじゃまになるだけってわけだ。
 ここでアキエさんについて触れておこう。といってもアユムから得た知識のなかでしか話せないが。彼女はアユム曰くミューズだった。彼女の声は小鳥のさえずり、ころころしていて、そこから伝わる空気の振動はビロードが背中をなでるような感じ――とても心地良いらしい。九月二十一日。それはアユムがはじめてアキエさんのいる店に入った日だ。その日、彼は一人で映画を観ていた。日が暮れはじめた帰り道、その店に入った。とてつもなくノドが乾いていたらしい。映画と言えば、アユムはまだ学生のころ、女の子といっしょに映画を観たことがあった。しかし、それ以来二人で観たことはない。いつも一人だ。これもまた時間カーペットの宿命だ。時間カーペットの上にはいくつかのイベントが転がっている。ゲームに例えれば『アイテム』とでもいうのだろうか。アユムに関して言えば、その『アイテム』は平均より少なかった。でもアユム、心配はいらない。宇宙倫理の神は平等だ。きみの行く末には転移装置、トランスポーターによる再生という明るい未来がまっている。それに君は愛すべき女性に会い、そして子供までさずかる。可愛い、それは可愛い玉のような赤ん坊だ。きみの姪っ子にも負けちゃいないはずだ。
 映画を観た帰り道。それは夏の暑さでたまらない帰り道だった。寒さには耐える術を知っているアユムだが、暑さにはどれだけの年数を経ても慣れることができなかった。彼は熱射をさけるために日陰をさがしながら歩く。その日陰のひとつがアキエさんのいた店だった。カシューム星人がわたしに教えてくれた「たぶんその店はそんなに広くないと思うよ」どうしてわかるのかとわたしは訊いた。「たいてい酒場は広くないから」
 その店は少しばかり薄暗かった。昼と夜の間ということもあっただろう。電気を灯すには時間が早かった。「ドアを開けて聞こえてきたのは何だと思う?」アユムが言った――「鳥の声だ」その声の方向を探した見つけたものはミューズだった。アユムはこう述懐する、「まさしく奇跡だった。彼女に会ったことでボクは自分の運のほとんどを使い果たしてしまった。この先に、あれ以上の奇跡はないと思ったから」アキエさんとの出会いはAっちゃん続く恋の始まりだった。アユムは言う、「ボクはメニューも見ずにメキシコのビールを頼んだ。それがボクの定番、というかそれ以外のビールや酒についてあまり知らなかったからね」それからしばらく、メキシコビールがその店に入ったときの定番になる。
 アユムはわたしに言ってくれたことがある。「たとえば、ボクの年は四十に近い、つまり四十年ほど生きてきたわけだ。容姿は年よりもちょっと若く見える。まあ普通の人の苦労をしていないせいだろう。けれど、ボクが会ってすばらしいなあと想う人はボクより多い年を過ごしているように見えて、実際にはボクより断然に若い。アキエさんはボクの妹よりも若い。でもボクよりもたくさんのことを知っているように思える――いや、知っているんだ。そうしたことに気がつくたびにがっかりするよ。モーガン、きみはボクよりも年をとっている。そしてその年に見合うだけの知識を持っている。ボクなんかよりね。そして大人に見える。年相応ってやつか。とにかく――頼りないのボクだけって感じだ。まったく落ち込むよ、彼女の足下にも及ばない自分の人生や知識のつたなさにね」
 アキエさんは酒のミューズだった。彼女は酒に対する知識が豊富だった。これはあとから分かることだが、彼女はシェーカーを振ることもできた。九月二十一日の出会いから月日を経た十一月二十三日にアユムは彼女がシェーカー振って作ったカクテルを飲むことになる。わたしは訊いた「そのカクテルを頼むまで、メキシコビールばかり飲んでいたのかい」
「ベルギービールを十五杯、メキシコビールを二十二本、エールビールを八本、それからペッパーウォッカを五杯、黒ビールを五杯、後は薬草のリキュールを二杯かな」ベルギーのビールは、そのグラスのカットと重量が気に入ったらしい。ペッパーウォッカはトウガラシ入りのウォッカで、後に彼がトウガラシ入りコーヒーを嗜好する要因となるものだ。「最初のボクは、カクテルなんてのはジュースみたいなもんだと考えていた。いわゆる『女子供』の飲み物だと思ってたわけだ。でもどうだろうボクはバカだったよ。アキエさんのおかげで目が覚めた。彼女はやっぱりすごいよ。頭があがることは一生ないね」アユムは続ける「そのころボクが知っていたカクテルは『プースカフェ』だけで、それはヴォネガットの小説に載っていた。でも飲んだことはない。今でもね」アユムはコーヒーカップを置いた。わたしの目前の丸い穴がそれと重なり、丸いカップの底が見える。アユムの前に座る若かりし青二才がいる。つまりわたしだ。そのわたしは素っ気無く言った。
「それで?」
 アユムはコーヒーのおかわりを頼んだ。「ある日彼女がお客さんとして店にいたんだ。その時、彼女はカウンターでカクテルブックを読んでいた。その本にはカラーですてきな色をしたカクテルが紹介されてた。彼女はほとんどのカクテルを知っているけれど、たまにその本を読み返していたんだ。そのせいかその本は少しよれよれしていた」アユムはコーヒーをすする。そして言う、「コーヒーを飲むならその店の通りの角を少し入ったところにある店がいい。店長は女性で、コーヒーのことをよく知ってる。でもボクは紅茶しか頼まないんだけど」アユムはまたコーヒーをすする。「ボクは勇気を出して、彼女の隣に座った。そしていつものメキシコビールを頼んだ。ボクはただ話しのきっかけにしたくて、興味も無い本を見せてもらった。ボクにはわからない名前ばかりだったよ。中にはとても酒とは思えないものもあった。ページをめくってゆくと、見つけたんだ――」アユムは言葉を切った。そして考え込む。わたしは何を見つけたのかと訊いた。「プースカフェさ。そのカクテルブックじゃちがう名前だった――レインボー? だったかな。けれども何層にもちがうリキュールが重なったそのカクテルは間違いなくプースカフェだった」アユムの目が輝く。「信じられなかったよ。本当にあの本に載ってたカクテルがあるんだなあって思った。それでボクは思わず言ってしまったんだ――『これ知ってる』ってね。そうしたら彼女は教えてくれた。『それを作るのはけっこうたいへんなんですよ』――そう言ってた」
 わたしはアユムに感心した。何がって? 女性に話しかけたことに。この日もまた、アユムにとっては非常に重要な日となった。それは十一月三日の出来事だった。
 ちなみにアユムがアキエさんの名を知るようになったのにはこんないきさつがあった。「ボクは彼女の名前が知りたくてしかたがなかった。でもきっかけがなかなか見つからなくて訊けなかったんだ。人の名前を訊くなんて下心があると思われるだろう? 店の人はよく名前で呼び合うけれど、ボクにはその名前と人を合わせることができなかった。適当に呼ぶことはできたかもしれないけれど、それじゃなんだか悪いなあと思った。そのとき、ふと思ったんだ。『そういえば妹の名前と同じじゃないか』ってね。持つべきものはたった一人の妹だよ。それでボクは思い切って訊いたんだよ
 で、彼女の名前がわかったのはいいけれど、店の帰り道ボクはかんじんなことに気がついた。『ああ、自分の名前を言っちゃいない!』」アユムは続ける「だってそうだろう、普通は自分の名前を言って、相手の名前を知るもんじゃないか?」
「それでどうしたんだ?」わたしは言った。
「ボクは悩んだあげく、次の日に店に行って、そのことをあやまってから自分の名前を言ったのさ。それはね――十月二十一日のことだよ」
 なんとまあ! アユムは九月二十五日にはじめて店に入ってからほぼ一ヶ月を費やして、ようやく彼女の名前を知ったのだ。「勝手にしてくれよモーガン、ボクは本当にウブちゃんだった。確かにそうだよ、ほんとうだ。今でもね」アユムは照れくさそうに笑うが、わたしは彼に賛辞を送ろう。物事はひとつひとつの積み重ねだ。時間がかかっても重ねることがだいじなのだから。
 アユムは九月二十三日にはじめて店に入ってから、不定期でその店を訪れた。十月二十一日から彼は毎日店に足を運んだ。そしてそれは十一月十四日まで続いた。十一月十五日のことをよく覚えているとアユムは言う。店の前を通ったら閉店の準備をしていたらしい。「看板をしまったりしていたね」彼はバイバイと手を振って帰った。「残念だなあと思ったよ。毎日通ってたからね。その日は電車が遅かったんだ。ちょっとばかし雨が強いと止まる電車だった。雪が降ったら――なんて思うとぞっとするね」アユムがよく覚えていることというのは、店が閉まってたということの他にこんなことだ。「店を少し過ぎた小脇の道にを覗いた。歩きながら。そうしたら誰かがうずくまってた。女の人だった。男が背中をさすっていて、察するところ彼女は胃の中のものを戻していたんだ。ゲーゲーってね。その人は髪が長かった。カーディガンみたいなものを着ていた。男はなんだったかな――黒っぽいジャケット、薄暗かったから何でも黒か――まあ、それは関係ないか――でもなんだかその光景が頭から離れなくてね。帰っても寝付けなかった。それで色々なことを思いだした。いつだったろうか――」アユムが述懐してくれたのはこうだ。彼は夜、会社の同僚と二人で駅の改札前にきた。そこには酔っぱらいだろう男が酩酊してうつ伏せで寝ていた。誰もがその男を避けて通った。アユムは自分の着ていた薄いジャケットを男の背中にかけてやった。気がつけばそのジャケットを駅員にでも渡しておくだろう――アユムはそう思ったらしい。彼の同僚は言った。あんなやつはほったらかしにしておけばいい、そして自分は自力で生活できなくなったり、海でおぼれたりしてあの世に逝ったどざえもんを何人も見てきたと。「そんなものかなあと思ったよ。あの世に逝っちゃうのは事故責任だとでも言いたかったんだろうね」ずいぶんと古いことだとアユムは言う。「そんなことを思い出したりしてね、なかなか寝付けなかった。ようやく寝たのはたぶん三時過ぎじゃなかったかなあ。そして次の日は仕事が遅くってね。終わった時は0時を過ぎていた。店の前を通るとシャッターが閉まってて――なんだかへんな感じさ。一日が終わらない、昨日が終わらない――そんな感じ――だから明日なんてこないよなとも思った。実際にはもう『明日』だったのにね」
 わたしはカシューム星のカシューム星人に問いかけた。「人間というのは変な物言いをするだろう? すでに時間は去ってしまっているのにまだ『終わっていない』なんて」カシューム星人は言った、
「あながち間違っているとは言えない、モーガン。時間は止まったり終わったりしなくてもときどきひっくり返るものだ。君の友人はまさにそれだよ。日々は『繰り返し』だ」
「そうだろうか」わたしはカシューム星人に言った、「わたしの知っている時間カーペットはループにはなっていない。ただ続くだけだ。きみの言う『繰り返し』――メビウスみたいな連続じゃない」
 カシューム星人にとって時間は対して重要ではないようだった。わたしもそれには賛成だった。わたしは時計がきらいだから。
 アユムは言う、「十一月十六日の次は十七日だろ、その日は確か会社の飲み会だった。飲み会ってのは楽しいもんだ。でもだんだんつまらなくなるんだ。がっかりするほど」わたしはなぜかと訊いた。「いつもてんで変わらないからだよ。最後には仕事の話しで、次の日は『酒の席の話しだから』ですべてが終わるんだ。進歩ないよ」わたしは思う、それもまた『繰り返し』だ。
 その次の日――つまり十一月十八日の朝、アユムはコンクリートの冷たさで目が覚めた。彼は駅のホームで寝てしまった。今ではみんなが駅のホームで寝ている。ほんとうは帰るところがあるのに帰らない人々だ。そんなに遠くない未来に駅のホームはホテルになる。ホテルとは人を収容する場所だ。そんなに遠くない過去、人々は外や洞穴で寝ていたらしい。しかも裸で。これもまた時間が繰り出した進歩といえる。アユムは裸じゃなかったらしい。それどころか、いわゆる『一張羅』のスーツを着ていた。現場仕事以外でしか着用しないものだ。ところが財布は裸――じゃなく空っけつだった。七時三十分に駅員に起こされ、ホームのベンチに座らされた。アユムは何かしゃべったらしいが覚えていないということでは大したことではない。彼はそのまま寝てしまった。目が覚めると八時三十分。「そのまま会社に行った。顔も洗わずに。その日は最低だった」最低というのは、飲み会の会費で六千円を失った末、さらにパチンコという遊びで二万円をドブに捨てる、つまり失ってしまった。なんてこった――アユムはがっかりしたが、十一月十四日のことを思い出して気を静めた。「十一月十四日に七万円勝ってたんだよ」彼はそう言って笑顔を見せた。わたしは思う――心配するなアユム、それも時間カーペットの成せること、つまり宇宙倫理の神が用意した道筋通りの出来事なんだ。
 人々はときどき面白いことを考える。たとえば、今過ごしている日常はコンピュータにより作り出され、管理されている世界で自分たちの実体は無に等しい。それは間違いじゃない。ただコンピュータなんて安っぽいものじゃない。そして人は無ではない。家に帰った(パチンコで焦燥した)アユムは、帰り道でふと思いついたアイデアを具現化すべく小さなコンピュータを操作した。山積みになった仕事を解決するための幸福スクリプトを思いついたのだ。買い置きのスナックをつまみながらのスクリプト作成は十一月十九日朝七時まで続いた。日曜日だった。神が賜うた安息日だった。
「ほら『繰り返し』じゃないか?」カシューム星人が言った。「日曜日は七日ごとだ」

【続く】



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