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仮題:カシューム星人と地球人について 6 [仮題:カシューム星人と地球人について]

【6回目】

 【旧マスターの新しい小説
   第三章——ボクをいやになるための
        雑な背景——】

「自殺した人もかわいそう。だけど自殺に失敗した人だってかわいそうよね」
 ナエちゃんがそういったんだよ。そうかなボクは自殺をする奴ってよっぽど勇気があると思うのだけれど——。
 ボクは今まで二回、自殺した人を見たことがある。そして、そのうち一回は自殺するところを見たんだ。そして最後にナエちゃんが飛び降りたという話しを聞いたんだ。ナエちゃんは線路沿いにある雑居ビルの三階にある画廊みたいな、夜はスナックになる喫茶店で働いてた。陽がしつこいくらいによく入る大きな窓にはちょっとしたテラスがついていて、そこから外を眺めると、少し遠くにがたんがたんと走る通勤電車が見えた。
 この路線はよく人身事故で止まるけれど、それがナエちゃんのせいでないことは確かだよ。彼女はそのテラスから飛び降りただけなんだ。彼女は自分の頭が大きい大きいと嘆いていたけれど、結局尻から落ちちゃった。高さも足りなかったかもしれない。

「あゆむ(ボクの名前)君ってなんだか変ね」
 私はナエちゃん。今、あゆむ君は店のお客。私は一生懸命接待しているの。店に来る人ってみんな変。変っていっても、私の働く店は変じゃない。ただ飲ませて歌を歌わせるだけ。下手なお客もいっぱいいるけれど、胸が酸っぱくなる——っていっても吐きたい訳じゃない、私は妊娠なんてしてないだす。——あらいやだ、訛りがでちゃった——とにかく、酸っぱくなるというか、上手な人もいるの——
 ナエちゃんの声はたどたどしい。
 店の外は夕暮れだった。夕暮れって悲しそうで、どこか薄情。ボクは夕暮れを見ながら泣いたことはないけれど、それは負け惜しみだ。ときどき、円熟した夕暮れが見せるまあるいお月さんはナエちゃんの白い顔。目が悪くてよかった。何故ならお月さんに浮かぶ窪んだシミを見なくてもいいから。間違いないしウソじゃない、ナエちゃんの肌はつるつるだ。

 わたしにとって大事なものは、こんな店で働かせてくれる母親ね。とてもいい人、それだけ。あゆむくんはよく来るわね。でもむらっけが多いかな。機嫌が悪いときとかもあるし。なんでわかるかって? そんなときって歌を歌わないの。わたしがとなりにいたってうわのそら、柔らかい椅子に座ってときおりボヨーンって小さいお尻ではねる。そして決まってカゴにてんこ盛りになったポップコーンをこぼす。でも知ってる? あゆむくんってそれをひろって食べちゃうの。その姿がリスみたい。ポソポソって音がする。でもその音を聞いて思い出しちゃった、お母さんのこと。だって私のお母さん、ご飯の残り物をちゃぶ台で最後まで食べているの。

 ビルの上から降りた人、あ、落ちた人。まだその音がときどき、耳鳴りみたいにうなる。パーンっていう音。人がパンクするような音。体の中にたまった空気が、針を射された風船みたいに一気に吹き出す。ナエちゃんにそのことを話したらすごく興味深そうに聞いていた。「ふーん」なんて言いながら首を振ったりする。ポカーンとどこかを見てみたり、両手をもみ合わせたりする。
 わたし思い浮かんだの。
 ビルの上は青空、とてもとても、水のように透きとおった青い空、見上げるのにも手でまぶたをおおわなければ日差しがまぶしくてしようがないの。わたしはきっと謝るわ。着物の下に水着を着てね。だって日光浴をするにはいい天気でしょう。ねぇ、あゆむちゃん、わたしの着物姿知ってるわよね、ほら見たじゃない! お正月はいつも振り袖で出勤なんだから。ほら見てよ——。
 松の木の立ち並ぶ日本海。海を真向かいにする神社の庭では、天狗の面をかぶった御子様が、「あ」と「うん」の狛犬をけしかけながらお稲荷さんを追いかける。ナエちゃんはぼたんの花咲く振り袖をひらりひらりとさせながら、白塗りの神主と踊る。
 ボクははっと我に返ると、お尻を濡らしながら信濃川で釣りをしていた。釣れた魚はナエちゃんだったけれど、ボクはうれしいよりも、驚きの方がまさったせいで腰を抜かし、そのおかげで目が覚めた。

 ナエちゃんと青空の話しをしたとき、彼女の顔は白さを増した。顔から首、そして彼女の身体全部まで、その白さは続いているのだろうか。ナエちゃんはもともと色が白いんだって。本人は生まれた場所のせいだというけれど、もしかすると彼女は病気かもしれない。一度、風邪を引いたときのナエちゃんを見たことがあるけれど、そのときの彼女はよっぽど健康に見えた。頬なんかがほんのり赤くなって、少し荒れたつるつるの肌。その荒れたところがまたよかった。いつだったか、友だちの女の子が、「男ってホコリっぽいわよね」なんていったことがある。その意味がボクにはよくわからなかったけど、ナエちゃんの頬を見てわかったような気がする。でもきっとちがうな、だってナエちゃんは女なんだぜ。
「今日はナエ、熱があるの」へー、こいつはたまげた、だったら何で店を休まないんだい。
「だって、わたし、会社辞めたの」ナエちゃんは、何だか橋?——だかにあるデザイン会社に勤めていたらしい。
「だけど、最後に勤めた分のお給料がまだ振り込まれてないの」つまりナエちゃんは金欠だった。でもよく考えてみなよナエちゃん、今君は金がない、そして今、君が金を稼ごうと思って働いたって、その金は今すぐにはもらえないんだぜ。だったら休んだ方がいいじゃないか。まあ、いいや、じゃあ飯はどうしてるの?
「このあいだ、小夜ちゃんと食べた」これは不思議だ、小夜ちゃんちって、スルメしかないんじゃないか。いったい何を食べてるの。
「あらぁ、あゆむちゃん、小夜ちゃんちに行ったことあるの?」ボクは彼女の家に行ったことなどなかった。スルメの話しはキュウリかナスビみたいな顔をした股の太い利香ちゃんから聞いたことだった。ナエちゃんが耳打ちした。
「利香ちゃん、もしかしたら自殺するかもしれないよ」

 首つりの姿が浮かんだ。
 次には薬の瓶を残して横たわる人の姿が見えた。口元には一筋のよだれ。
 部屋のラジオはそのままつけっぱなし。テレビの画面は焼き付けを起こしてる。
 利香ちゃんは大学生だった。生まれたところは田舎らしいが、大学に行くために、本人曰く、「せまいせまい」アパートを、借りている。それも店から五分らしい。けれど彼女はよく遅刻をして店に来る。「そんな近いくせして何で遅れるんだよ」とマスターはいうが、利香ちゃんは「勉強が忙しいのよ」と捨てぜりふを残してトイレに入る。マスターはある程度、利香ちゃんに一目おいている。彼女はこの店で唯一、エロチックな話しをする女の子なのだ。
「わたし、したーいの」
 なんていう。利香ちゃんの言葉を聞いたお客はおきまりのように「そしたら、やろうやろう」という。ボクは遠くの席(といっても店は狭くて歩いて七歩くらいだけれども)からそんな馬鹿なやりとりを聞いている。ボクなら決していうもんか——そう考えるけれどどこかむなしい。それでも利香ちゃんが気になって横目でちらちら見やる。利香ちゃんはいつも「肉体の門」みたいな服を着てる。丈の短いスカートから、ちょっと短い足を見せる。さっきもいったけれど、彼女は腿が太いんだ。みんなが触りたがるのもよくわかる。針を刺したらはちきれそう。皮膚みたいな服が彼女の腿をくっきりと浮かび上がらせる。彼女に限ったことじゃないけれど、自前の服らしい。ボクは利香ちゃんも好きだけれど、ナエちゃんの襟やボタンの大きい、野暮ったい服が好きだ。彼女はきっと高級な洋酒のおいてある店では働けないだろうな。もちろんボクだってATMでも使わなけりゃ行けないけれど。
「利香ちゃんって、最近振られちゃったのよ。だから元気ないの」元気がないって? あの様子じゃ、真冬でも服一枚で踊りだしそうだ、吹雪の中でね。で、相手は誰なんだい。
「相手?——いってもいいのかな」別にいわなくたっていいんだ。聞く耳は忙しいんだから。それでもやっぱり気になるな。

 ナエちゃんは「いっちゃおうかな、どうしようかな」と指をからませながらボクの前で首を傾げたりする。顔が笑っていないところに、精いっぱいの真剣さが見える。なんて相談しがいのあるナエちゃん。彼女は寝起きに牛乳を五〇〇CC飲む。お腹をこわさないの、って訊くと、
「会社に勤めていたときは、電車の中でよくお腹がぐるぐるなっちゃった」楕円形に丸い目がぐるぐる回る。目があまりに大きいので、口や鼻が小さく見える。でも本当はどれも人より大きい。といってもナエちゃんは立派なヒト科のほ乳類だ。
「それって店の娘なんだよ」それじゃ利香ちゃんは女好きなのかい? そうかいナエちゃん。
「いやだ、何いってるのよ。店の女の子が利香ちゃんの彼氏をとっちゃたの」へえ、そんなことか。でも利香ちゃんはそんな素振りを見せないな。ナエちゃんはいう、
「そんなことみんな知ってるよ」
 ああ、ボクはてんで気が回らない。色恋沙汰には全く弱い。誰があの子を好きだとか、そんなこと全く気にしない。そのおかげで小さい頃から恥をかきぱなっしだよ。

 【第三章——終わり】

 あらためて——『家出少年』
 家出少年は自分の思いを外れてプロのダンサーとなった。家出少年は路上のダンサーだった。家出少年にどんな欲があっただろう。家出少年の欲は食欲だった。
 家出少年の欲を満たすべくもうけられた胃袋は、アルゼンチンのパンパ産牛肉を受け付けようとしていた。つまり——家出少年のスケジュールにはアルゼンチンへの移動がつけ加えられていた。
「スカイライトワン! スカイライトワン!」
 家出少年は原爆が好きだった。原爆のキノコ雲は人の脳髄のように見えた。実験中エイブルは軌道をそれた。そして監視船を直撃した。長門は残った。多くのアメリカ人が失望した。家出少年は叫んだ——「スカイライトワン!」
 彼女の友人は家出少年に会うことになる。

「ふーん、あのクソったれ脚本家のところにいたの」
「クソったれ?——まあ、どうかしらないけれどその脚本家の人と一緒だった」
「でもわたしあなたのこと知らないわ」
「うーんじゃあボクがあとに入ったんだな、うん、きっとそうだ」
「あんたダンスが好きなんだ」
「ああ、好きだよ。なんだか知らないけどみんなボクのこと知っているみたいだ」
「けっこう有名なんだ?」
「有名?——うーんそうかもね。マネージャーはいつもうるさい——『おまえは誰ともしゃべっちゃいけない』って」
「でもわたしあなたのこと知らないな。なんでここに来たの? ダンスのお勉強?」
「うん、タンゴってのを見に来た。『本場を見なきゃいけない』んだって。なんでも『いけない』ばっかりなんだ」家出少年はハウスワインのグラスに口をつけた。「うぇ、何これ? 苦い。ワイン?——なんてまずいんだ」
「そう? まあ、わたしも好きってほどでもないけど、普通そんな顔する?」
「だってまずいんだもの」
「じゃあガスで割ったら——ほら」友人はそういって家出少年のグラスにガス入りの水を入れてやった。
 二人は友人がいつも『トマトソースのタジャリン』を食べる店にいた。トマトソースのタジャリンは二ペソというディンギで食べることができた。
 二人が最初に会ったのは日本料理屋だった。友人が皿洗いのバイトを——それはときどきのことだった——していたときに、家出少年とそのマネージャーが現れた。
「ボクは別に食べるものは何でもいいんだ。でもこっちの方がいい」家出少年のいう『こっち』とは、わらじのように大きいが薄いミラネーザのことだった。「刺身なんかじゃおなかがふくれない」
「ここって牛肉が安いのよ。スーパーに入ったらびっくりするわ。でも——」
「でも?」
「あんまり食べ過ぎたらコレストロールがたまっちゃうわね」
 家出少年はオープンカフェでダンスをした。夜のカフェには恋人同士や、売春婦、そしてただ疲れた人が真っ黒なカフェを飲んでいた。
 友人は日本を出てから二通目の手紙を書いた。宛先は——彼女だった。
『こんにちわ、こんばんわかな? まあどうでもいいや。この手紙はアルゼンチン——ブエノスアイレスから出しています。もうアメリカじゃないの。あの国はなんだがわたしの性にあわないわ。全部が大ざっぱすぎるわりには何だかシステムチック。あの人たちがコンピュータを使わなければならない理由がわかる気がする——』
 それに恋人はお尻から血を流して死んでたし——とは書かなかった
『連絡していなかったけれど、けっこう前からここにいるの。南米のパリというだけあって雰囲気はけっこういい。なんか古そうな家やビルがあって、なんだか歴史も感じる。まだ田舎の方には足を延ばしていないけれど、少なくとも街の中では不自由しないよ。ここも白人至上主義——アメリカじゃ、わたしに英語を教えてくれた黒人のおじさんにはタバコを買えないキオスクがあった。ここもたぶんそんな感じ。だって黒人に会わないもの
 でも前に働いていたレストランの人にスペイン語を教えてもらってとても助かってる。買い物とかあんまり不自由しないのよ——それでもまだまだだけどね。最初はアルゼンチーナっていう安ホテルにいたんだけれど、今はこっちの人の離れを間借りしてる。ボタンや服飾品を作ってる日系の人の家なの。少し街から遠いんでいつもバスを使ってる。こっちはバスや地下鉄がいっぱいあって、とても便利ね——』
 友人は迷った。次に書こうとしていることはただしいことなのだろうか?——だが書いた。
『——それから、へんな子に会った。わたしと同じ芝居小屋にいたっていうダンサーの卵。ちょっとの間ここにいるっていってた』
 友人の良心はあのクソったれ脚本家の存在を記さなかったことだった。友人は最後にこう書いて手紙を終わらせた。
『かしこ』
 友人は何を見ていただろうか? 川を見ていた。その川は広く全体が目のやり場の固まりだった。

 旧マスターに知識欲はあっただろうか?——旧マスターは職業的知識を欲していた。これはいかに商売としての儲けを出すかではなく、いかに商売を続けるかである。実際、店をはじめたころの旧マスターは、生活費のほとんどを貯金といわれる銀行に預けておいたディンギで生活していた。旧マスターは儲けることに固執しなかったとしても、それは決して道楽という遊びではなかった。たぶん旧マスターにとって仕事とは家だったのかもしれない。地球を包む地殻の表面に建築された家だったのだ。
 旧マスターが得ようとした知識はなんだかわかりますか?——それは彼女の誕生日だった。誕生日?——それは彼女が母親の胎内から顔を出した日のことである。
 旧マスターは誕生石を送りたかった。誕生石はロマンチックなものではない。それは護符である。旧マスターにとって彼女の誕生日は七月であるべきだった。それはなぜか?——七月の誕生石はサファイアであるからだった。それは彼女の爪先で輝いていたものだった。
「ねえ、マスター、あれかけてよ」彼女が頼んだその歌はショービジネスだった。
 ——どん底でも笑顔は忘れない♪
 それは職業病だった。店の隅では、寒い空気を避けて店内にはいるようになったトンが静かにくるまっていた。トンはときおり場所を変えた。人のいないテーブルの下。電話の置かれた台の下。トンの足底のゴムのような肉は、音もたてずにその身体を移動させた。そしてトンはまた静かに移動した。その移動した先は——カウンターに座る彼女の足下だった。彼女はそれに気づいても驚かなかった。彼女はうれしかった。トンは彼女の足の臭いをかぐように彼女の足下で横たわった。
 彼女はトンに話しかけなかった。トンがあまりにもくつろいでいたからだった。トンは犬だった。しょせん彼女とはちがった。彼女は人間だったのだ。だが——トンは彼女にとって目のやり場だけではなく、心の置き場となっていた。
 もっとも彼女にとってうれしかったのは、トンがしゃべらないことだった。
「この歌好きになった?」旧マスターがいった。
「いい感じ。うるさくないし」楽天的? 彼女はそう考えたが、歌の内容はそうでもなかった。

 【旧マスターの新しい小説
   第四章——小さな自分は果たして
        他人か——】

「ねえ、アユちゃん、ノート持ってきた?」アユちゃんというのは、小学校の頃のボクのあだ名。同級生や、女の子、それに先生や用務員さんまでアユちゃんって呼んだ。だけど保健室の先生は、自分の名前が鮎子というものだから、ボクの名前をアユちゃんって呼ばなかった。照れくさいとかいっていたけれど、実は鮎子先生も小さな頃にはアユちゃんって呼ばれていたらしい。でもボクの「あゆむ」っていう名前は学校中探しても、ボク一人だけだった。
 話しが遅れたけれど、「ノート持ってきた」と、ボクに訊いたのは、新潟から越してきた大池さんという、同じクラスの女の子。今まで誰にも言ったことはないんだけど、ボクは大池さんのことをゴボウと思っていた。野菜のゴボウ。大池さんはクラスで書記をしていて、なかなか活発な子。ホームルームなんかじゃ、委員長もなんのその、って感じで、積極的に発言をする。それを聴いている何人かは、うんざりそうな顔をしていた。話しが退屈なんだけど、それはつまらないとかくだらないっていう訳じゃなくて、話してる内容がすごく高度なんだ。今にして思うと、大池さんは、小学校の頃から、「甲が乙に云々」なんて言葉を使っていた。そうだよな、だって彼女のお父さんは弁護士なんだもの。あの頃のみんなには申し訳ないけれど、ボクは彼女の話しをちっとも退屈だなんて思いはしなかった。ボクの頭がよかった? 違いますね。ボクは彼女の声が好きだったんだな。とても柔らかい声。少なくとも、母ちゃんのヒステリー声を聴くよりはよっぽどましだった。女の子は声変わりをしないというけれど、今でもあの声でしゃべってるのかな。どんな声か聴いてみたいだろうけど、ボクのボキャブラリーじゃ表現しきれない美しさだよ。素晴らしいのはその声だけじゃないよ、彼女の運動神経のよさは、スポーツ新聞なら、ものすごくでっかい活字で「大池・また勝つ」——って見出しを書くだろう、なんてぐらいに憎らしい。グランドを短パンで走る彼女の足は、ちょうどマッチ棒と大根の中間くらいな程よい太さ。長さはゴボウ。ゴボウは泥だらけで、大池さんには悪いけれど、ほら、あるだろう?——思いきりころんじゃって、おまけにグランドに竜巻が立つくらいすごくホコリっぽい日なんかで、足が真っ白になっちゃうってことが。ボクは大池さんがリレーの練習中に転んだのを見たことがある。長い足が真っ白になったんだけど、その姿をボクは誰でも礼儀正しく見える体育帽のアゴにかかったゴムがかゆいのも忘れて呆気にとられながら眺めた。周りで見ていた女の子は「のりちゃん(彼女の名前)大丈夫!」とか「キャー」とか、なかには「うぇー」なんていう男もいた。とにかくみんな騒いでいたけど、ボクはそれどころじゃなかった。真っ白になった彼女の足がゴボウに見えたんだ。
 ダメだ、話しがそれっぱなし。「ノート見せて?」——いや、「ノートちょうだい」だっけ。——とにかくノートをどうのこうのっていうのはマンガを描いたノートのことなんだ。ボクが小学校に通っていていちばん楽しいこと、それはマンガだった。ボクはマンガを描くのがすごく好きだった。それで小学校の四年生くらいから二人の友だちとマンガを描きだした。大池さんがいうノートは、その二人とボクのマンガがいっぱい描いてあるノートのこと。マンガ友だちのうち一人は、焼き肉屋の息子で、すごく分厚いメガネを掛けていた。そいつのところへ行くと、いつもお昼にユッケを食べさせてくれた。ボクは滅多に外でご飯を食べるなんてことはなかったんだけれど、焼き肉なんて一生縁がないと思っていた。大人の食い物だと考えていたんだな。まして、ユッケなんて食い物があるなんて知らなかった。そのころのボクは素直だったし、好奇心が旺盛だったから、その焼き肉屋に訊いたよ——いったいこれってなんて食べ物さ、肉のお刺身がのってたよ。それに生の卵——って。そしてボクは耳を疑ったね。「ユッケ」——え? ユッケ?——何ておかしな名前なんだろう。怪獣が好きだったボクは、そのころのテレビ番組で、怪獣にあまりにふざけた名前をつけているのに憤慨していた。それでユッケっていうのもそのひとつに聞こえて、少しいやな感じがした。働くようになるまで食べたことはなかったけれど、今、ユッケはボクにとって、胸が酸っぱくなる大事な食い物だ。
 ああ、ダメだ——もっと大事なことがある。マンガ友だちの残った一人は、な、なんと驚くなかれ、大池さんだったんだ。二人とボク、その三人でマンガを描いたノートを回していたんだ。大池さんもマンガを描くんだ——それを知ったときの喜びといったら! ノートを回すことになったきっかけは、大池さんが転校してきたことだった。よく焼き肉屋の息子とは、クラスで見せっこしていたんだけれど、昼休みに机をむかいあわせにくっつけてよく二人でマンガを描いた。描くものといったらみんな真似っ子なんだけどね。でもボクはその時から思っていたさ、きっとちゃんとしたマンガを描いてやるってね。大池さんは転校してきた日、その日も二人でマンガを描いていた。焼き肉屋は朝のホームルームで紹介された大池さんがちょっと気になっていたみたい。だって授業中に彼女の背中を横目でちらちら見ているのがわかったからね。ボクはというと、短い髪だなあ、って思うくらいでそんなに気にならなかった。それに彼女はボクより背が高かった。でもこれはボクが思うだけで、周りから見ればボクの背が低すぎるんだ。背が低い——つまりボクはあまり女の子にもてなかった。「あまり」というのは、別にきらわれもしなかったから。ああ、情けないね。
 でも大池さんもマンガを描くなんて驚いたな。大池さんは少年マンガが好きで、特にアクションもの、つまりケンカものが大好きで、読む本だって少女マンガは読まないといっていた。
「わたしだって描くんだから」といって、ボクのノートに、ほっぺに傷のある少年を描きだした。へえ、うまいんだなあ、って正直に驚いた。素直っていいもんだ。何でも受け入れるんだから。焼き肉屋はあまり口を出さなかったけど、これはどうだいとかいいながら自分のノートを見せたっけ。ボクは焼き肉屋のことが不思議だった。授業中にちらちらと彼女を見ているくせにあまりしゃべらないんだ。ボクはといえば不思議なくらいに言葉が出た。「へえ」とか「すげえ」とか子供っぽい言葉ばかりだけれどね。そうして大池さんはマンガ友だちになった。
「三人でノートを回しましょうよ」大池さんがいいだした。ノートを家に持って帰ってマンガを描く。それを次の日に他の人に回す。その人は家に持って帰って自分のマンガを描くんだけれど、ここが大事なところで、他の人が描いたマンガに評論をつけとかなきゃいけないんだ。もっと鼻は高い方がいいです、なんてね。でもノートを回しましょうなんていういちばんの理由は、大池さんがあまりに忙しかったせいだと思う。彼女はとても優しい女の子でいろんな人とつきあわなきゃいけなかった。彼女の運動神経のよさは前にもいったけれど、彼女は学校で運動もしなきゃいけなかったし、勉強も好きだった。女の子とおしゃべりをしなきゃならなかったし、みんなと同じように給食当番や掃除当番もやらなきゃいけない。あと、変わったことには、女の子をいじめる男の子とケンカをしなければいけないことと、女の子にいやらしいことをしたジャージ先生をこらしめることだった。こらしめるといったって、殴るとか蹴るとかはしない。その先生の前に立って大きな声で抗議するんだ。
「先生、そんなこと教わっちゃいませんよ。おっぱい触っていいなんて」まるでジャンヌ・ダルク。ときには保健の先生に横に立ってもらったりして。先生は顔を真っ赤にして「まあまあ」といって背筋をピンと伸ばした大池さんをなだめる。あの先生はボクが小学校を卒業した一年後に辞めちゃった。
 とにかく大池さんは忙しいんだけど、やっぱり運動が好きだったみたい。走ることでもドッジボールでもなんでも大好きなんだ。メガネをかけた焼き肉屋も運動が好きだった。でもボクときたらてんでダメ。徒競走はいつもビリだし、野球のボールだって二塁に投げるのがやっと。高いフライなんかは捕れたら幸運。ボクは本当に運動音痴。それに泣き虫。これは今でも治らないのだけれど——。ボクが家を出たのはこれがいちばんの理由かも知れない。かも知れないなんていうところが、それが正直な理由であることを物語っているみたいで悔しいよ。調子のいいときは勢いでみんなとつき合っているけれど、本当は家でこっそりしている方が好きなんだな。絵を描いたり、なんか考えることの方が性にあってる。こんなことをいったらさぞかしお勉強ができるんでしょうと思うかも知れないけれど、そっちの方もさっぱりダメ。得意科目は何もなし。俳優や怪獣の名前なら全部覚えていたけどね。志村矯って名前も知っていたんだけど、そんな漢字は小学校じゃ出てこなかった。焼き肉屋と大池さん、その二人とボクの間に共通するものはマンガしかなかったんだと思う。
 でもそんなことは気にしなかった。ボクにとっては大変なことだったんだ。何が大変かというと、女の子と一緒に何かをするってことが大変なことなんだ。これでボクは一皮むけたんだ。そりゃ子供のことだから女の子と遊んだりもしたけれど、発展性というものはみじんもなかった。恋への発展性とかじゃなくて、仕事という意味での発展性。つまり大人になったんだ。批評をしあうためにノートの貸し借りをするなんて、うぶな小学生にはできはしないことだぜ。大池さんがボクの家まで来てノートを渡してくれたこともあった。そのときは感動したけれど、恥ずかしかった。だってボクの家ってすごくボロだったんだ。クラスでマンガ描く時間は減ったけれど、日曜日だとかに焼き肉屋の家に集まったんだ。その日は朝からずーっとマンガ漬けで、もちろんお昼も食べさせてもらったよ。ユッケをね。寒い冬の日のビビンバは最高だ。焼き肉屋の趣味は変わっていて、ボクの持ってない少女マンガをいっぱい持っていたんで、寝転がりながら読ませてもらった。そのときにわかったよ、男も少女マンガを描くんだなってね。それを知ったときは、何だか奇妙な気分だった。男は男のマンガを描いて、女のマンガは女が描くと思っていたから。子供の思いこみって、同性愛に似ているのかも知れないな。
 ここまで大池さんのことを説明したら、もう二〇〇%犯人が刑事の前でゲロを吐いたようなもの。田舎のお袋の話しをしながらタバコをくれたり、カツ丼を出されたからってわけじゃなくて、自分からべらべら白状しちゃう——そこが自分のいいところだと思う。そりゃそうだ、ボクは少しの罪も犯しちゃいなかった。好きとか、小学生のくせに恋をするなんてことが罪といわなければね。逆に考えてみれば、恋なんかをする人の方じゃなくて、恋自体がよっぽど罪だ。金だって貸す方が悪いじゃないか。
 そう、ボクは大池さんが大好きだったんだ。でもそれが分かったのは、とても残酷な出来事のせいだった。
 大池さんはどこに行っちゃったんだろう——犬のお巡りさんにでも訊いてみようか、なんて体で、ボクはピカピカのタイルの上を滑るように学校中を探していた。ボクの学校は昔からあった二つの小学校——ひとつはもう無くなっちゃたけど——の間に新しくできた学校で、他の木造校舎と較べて、すごくきれいにできていた。壁は白いし、床には毎週ワックスが塗られていて、転んだって服が汚れないくらいだった。それに較べて前の学校ときたら——。前にいた学校は汚れと油で床の目が埋まっていて真っ黒で、手にはコールタールみたいな油がくっついちゃうんだよ。でもあの学校も無くなっちゃったな。どこの学校にもあったと思うのだけれど、その学校にも怖くて誰も入りたがらないところがあった。三階の長い長い廊下の突き当たりの壁に一メートルくらいの高さの油絵が掛けてあって、その右側に暗い暗い物置になってる部屋があった。そこがものすごく怖いところなんだ。まず電気が点いてなくて暗いこと、というよりみんなどこにスィッチがあるのかわからなかった。そしてそこに置いてあるものときたら! 両目の無いダルマさんに、歯が欠けたように鍵盤が折れたりとれたりしているオルガン、それにビロード張りの丸いピアノ椅子。ボクはそれが赤色であれ黒色であれ、あのビロードってのが大きらい。あの手触りが死んでいる生き物みたいでなんだか気味が悪くなる。そのうえ、ビロード張りの周りには挽き肉みたいなひも飾りが何本もぶら下がってる。ありゃ人間の座るもんじゃないよ。まだまだ気味の悪いものがいっぱいある。タカのはく製、右半分の内蔵がむき出しになっている人体標本、あちこち錆の浮いている金庫箱。あと、観音扉のカバーが着いた、チャンネルのないテレビがあったな。色々並べ立てても、ちっとも怖さなんか感じないかも知れない。けれど、日常に存在しないものって、得体が知れなくて気味が悪いとは思わないかな。お金持ちの家ならわからないけれど、いくらなんでも大腸むき出しの人体標本なんて置かないよね。でもきっと挽肉付きのビロード椅子はあるに違いない。本当に性格を疑うよ。
 家庭科の部屋だとか、音楽室だとかを色々捜したんだけれど、なかなか大池さんは見つからなかった。そんなに彼女を捜す理由は、面白いマンガの本を手に入れたからで、それを見せたかったんだ。つばの割れた学生帽を被ったガキ大将が番長なんかとケンカして日本一になっちゃうマンガで、ケンカものが好きな彼女ならきっと気に入ると思ったから。本当はマンガを学校に持ってきちゃダメなんだけど、そのときはそんなこと構わずに持って歩きながら彼女を捜した。でも考えてみなよ、マンガは描いていいけれど、マンガの本を持ってきちゃいけないなんて変な校則だったよな。ボクは高学年だったので三階にクラスがあった。ようやく大池さんを見つけたのは一階の理科室だった。それも大変なシチュエーションの中で。
 理科室に限らず、どの部屋にも、大人が背をかがめれば入れるくらいに大きな木製のロッカーがあった。両開きの扉がついたやつで、木目がとてもきれいなやつ。理科室にもそれがあった。
 大池さんはそのロッカーの中にいた。
 焼き肉屋と抱き合っていたんだ。

 ナエちゃんがいった。
「あゆむくんって本当にどん感ね」そんなことをいわないで欲しい。知らなかったんだもの。ボクは彼女に好きだなんて一言もいっていないんだと、自分でも訳のわからないことをいった。でもそれは、好きだった彼女をとられちゃったということの裏返しだ。ただ、子供の頃の素直な正直さを忘れてしまっただけなんだ。
「それであゆむくん——あ、アユちゃんって呼ぼうかな」それだけは止してくれよ、とボクは頭を掻いた。何だかこめかみと、鼻元がじわりと熱くなった。昔の恥ずかしいことを思い出すといつもそうなる。
「彼女は何かいってた? 抱き合っているところ見られて」うーん、そうだなあ——なんて思い出す振りをするけれど本当は鮮明に覚えてる。

 焼き肉屋はメガネを外してた。いっておくけど、二人とも服を着ていた。裸じゃないよ。メガネを外した焼き肉屋の目は細かった。ボクは一度焼き肉屋のメガネを割っちゃったことがあるんだ。後ろにあいつがいるのに気づかないで冗談で腕を振り回していたら、ボクの細い腕の尖った肘がメガネを直撃しちゃったんだ。何だか変な感触だったな。文字どおり「ミシッ」って音がした。振り向いたら、焼き肉屋のメガネのレンズが割れていた。その日、あいつは割れたレンズをテープで張り合わせて使ってた。ときおり冗談だろうけれど、「見えないよぉ」なんていったりする。それを聞いたときは本当に悪いことをしたな、と思って、早く帰りたくてしようがなかった。
 大池さんといえば、彼女の表情は何だかとろんとしていた。しまりがないわけじゃないけれど、集中しているようで、顔をほんのり赤みを帯びていた。息づかいが聞こえてきそうだった。彼女はそんな感じなんだけど、焼き肉屋の方はボーっとしてたな。力の入れ方も大池さんの方が強かったようだった。どうだい、よく覚えているだろう。ボクも信じられないくらいさ。ずいぶん冷静だったんだな。あまり大変なものを見ると、惚けちゃって口がぽかんと開いちゃうだろ。間抜けな顔で眺めながら、頭の中ではありのままを観察していたんだ。
 あ、彼女が何かいったかって話しだったよね。ああ、いったよ、それはね——。

「へえ、誰にもいわないで、っていったの」ああ、そうなんだ。これだけは信じて欲しいな、ボクは誰かにいうとか、そんなことなど考えもつかなかったってこと。え? そのときだけだって?——うーんそうか、今しゃべっちまったもんね。でもこれはもう時効だよ。人間って思い出話しをせずにはいられない弱い動物なんだ。それは認めてくれるよね。とにかく、少なくとも、ボクはそのことをクラスの友だちにも先生にも、保健の先生にもね、それに母親にだっていわなかった。それは別段、苦痛でもなかったよ。なんでかわかる?——そうさ、だって彼女のお願いなんだぜ。もしそれを破ってしまってボクのことをきらいになったりしたら、それは悲しいことじゃないか。
 でも悲しいとか悔しいとか、そんなことはその秋に襲った台風と一緒に吹き飛んでしまった。大池さんは転校してしまった。お父さんの転勤のせいでね。春まで待てばいいのにと何度か思ったよ。そりゃ、行かないでくれりゃ何よりもうれしいけれど、転校するんだったら、新学期がはじまるころにしたらよかったんだ。そんな気も知らないで、彼女は突然行っちゃった。結局彼女は、一年もボクらとつき合わなかった。
 焼き肉屋は泣いてたな。
 でもボクは泣かなかった。

「その焼き肉屋くんって、彼女が転校しちゃうの知ってたんじゃない。でも弁護士さんも転勤するんだ。普通事務所でも構えたらなかなか移れはしないわよね」実をいうと、彼女のお父さんは裁判所の検事なんだ。ナエちゃん、これでボクの鈍感さがわかったかな。ボクは彼女と焼き肉屋がお互い好きだったなんて知らなかったんだ。

 【第四章——終わり】

 焼き肉を食べていたのは彼女の友人だった。それはアサードと呼ばれた。大家の家の庭にはアサード小屋というものがあった。これは肉を焼いて食べるための小屋である。小さな小屋には八人が座れる長方形のテーブルと肉を焼くためにいちばん肝心なかまどがあった。
 大家の老夫婦は月に一回くらいの割合でその小屋を使った。その小屋には老夫婦と友人、そして家出少年のダンサーがいた。
「うわ、すごい」家出少年の目は焼く前の肉を見たときから輝いていた。「この肉を食べるんですか!」老夫婦はその反応に悪い気はしなかった。
「焼く前に何をするか?——それは火をおこさなきゃならん」と主人がいった。そしてかまどのなかに炭をいれはじめた。家出少年はボクもやりたいといって、主人のもつ火ばさみを見つめた。「あんたはその新聞紙をかたくしぼっといとくれ」主人の言葉は少し西の方の訛りがあった。
 家出少年は肉が焼ける臭いに鼻をひくひくさせて、落ちつきなくイスに収まっていた。
 肉が焼ける前に、夫人がチョリソをはさんだフランスパンを出してくれた。友人はそれをいたく気に入った。

 時間は経っていく。彼女の派遣先の同僚たちは旅行の行き先を選んでいた。時間は過ぎていく。わたしは将来完成するであろう『トランスポーター』の存在を教えるべきだった。だが『トランスポーター』は、彼女が時間を放棄してしまった現在でも商用化されていない。地球には発見されるべき鉱物や科学が少なすぎた。不自由な人間の構造や性格がすべての発見を遅らせた。発見されるべきものはたぶんそこらじゅうに埋もれている。
 彼女は旅行に出ようと思った。だが止めた。彼女は秋田に行こうと思った。それはなぜか? 夜にバイトをしいていたパブの女の子の郷里だからだった。パブの子はキリタンポが好きだといった。それでも冷めるとまずいらしい。脂が浮くのだ——。
 彼女はそのパブに勤めていた秋田の女性とどういった関係にあったか。二人は電話番号を取り交わすことはなかった。夜二時に店がひけた帰り、六時まで開いている店で飲んだことがあった。ポップコーンを食べながら秋田の女性はいった——「疲れちゃったね」彼女はいった、「疲れた」彼女は薄っぺらくて甘いサラミを食べた。舌が気持ち悪くなったので口をゆすぐようにカンパリを飲んだ。
 秋田の女性は彼女より八つ年上だった。今のパブは五軒目の勤め先だった。「あんまり若いところで働けなくなっちゃったわ」
 女性は家へ帰りたいといった。帰りたい、帰りたいと何度もいった。そして何度もそれを繰り返しいったあげく、もうしばらくここにいるといった。女性は抜け出せなかった。彼女はその女性のそうしたほぼ癖といえる言及を好みもしなかったが、きらいでもなかった。そんな女性が店の置いてあるディスクの山からリクエストする歌があった。それはこんな感じの題名である——『昔のよかった日々』
 彼女がその歌を聴いたときに感じた印象、それはマンドリンのような民族楽器が奏でるトリルである。
 その歌はこんな内容だった。『あの頃はよかった。わたしたちはよくいく酒場で歌い、踊った。自分たちの道を信じて疑わなかったし、何も恐れるものはなかった——。しかし、もうその酒場にわたしたちの姿はない』
 秋田の女性は、その歌が好きだといった。彼女はうなづき返してやった。彼女は少しばかり憂うつだった。歌を知らなければ人間じゃないような気がしたのだ。今まで自分から何か歌を聴こうとしたことはなかったし、誰かがいわなければ何も聴かない——それは確かなことだった。
 友人もこの女性も——歌は身のやり場だった。心をそこへ逃がしていた。それが歌だった。わたしはいったい何を感じていたか。友人や女性が聴く『歌』のある場所には——その場所のそこらへんにはある程度緩急をもった時間が流れていた。そこでは時間は途中で止まっているかのごとくゆっくりと動き、ある時は現在を飛び越さない程度の早さで動いた。その緩急の繰り返しは感情と一致していた。
 時間のへこみは感情のレセプターだった。
 わたしがさがしていたものは時間のリアクターだった。時間がレセプターであることは『棚からぼたもち』的発見だった。わたしにはさほど重要ではない。だってわたしは受け皿を必要としたことはない。
 わたしにとって歌は記録に過ぎなかった。わたしはリズムを感じることができない。歌のすべては、ちがった時間で並べられた雑多の音だった。そのなかで唯一時間的なものは人の声による音だった。そこには連続性があった。
 友人やその他の人々はその記録を練り返し聴いたのだ。旧マスターは若い女性の歌手が歌う、自分の時間を越えた歌を聴いていた。
 秋田の女性がリクエストした記録は、何度もこうしたセリフを練り返した——
『ああ、なつかしいあの頃!』
 彼女が気づいたこと——それはこの歌と友人の好きな歌を歌っている声が似ているということだった。
 わたしには母親の顔が浮かんだ。前は母親とはいわなかった。わたしはそこから——母親から分裂されただけだったから。だいたい、母親という名称はわたしの星では存在しない。
『自分たちの道を信じて疑わなかった——』
 彼女にはまだそれがなかった。わたしは不安になった。ただ漠然と不安になった。

【続く】


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