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仮題:カシューム星人と地球人について 5 [仮題:カシューム星人と地球人について]

【5回目】

 友人がアメリカを出たのは、ビザが切れたためだった。友人はどこへ行ったか?——それはアルゼンチンだった。ブラジル・サンパウロを経由しブエノスアイレスに入った。友人がブエノスアイレスを選んだのは、そこにタンゴがあったからだった。そしてもうひとつ——南アメリカに行ってみたかったのだ。
 ブエノスアイレスに住む人々のほとんどが意志の疎通にスペイン語を利用していた。友人の知るスペイン語は割と多かった。それはアメリカに三カ月滞在した結果だった。彼女が得たものは、英語ではなくスペイン語だった。友人は空港を出てとりあえずタクシーを探した。とにかく『セントロ』——街に出たかったのだ。意外に高いタクシー代を払うと、友人は街のメインの通りに独り立った。手に持った荷物はキャリヤのついた小さなスーツケースだった。
 友人は何人かの行き交う人々に何かを訊ねたあと、その足は日本料理屋へと向かった。そして一泊十二ペソのホテルにチェックインした。友人の髪の毛はブラウンに染められていた。その色は友人に与えられ続けてきた時間のなかでは、割と控えめな色だった。

 ところで——そのころ彼女は髪型を変えようと思っていたらしい。だが彼女は変えなかった。それに反して旧マスターは髪の毛の色を変えた。その色は——ブラウンだった。

「マスターって携帯電話持っていないの?」そう彼女が訊いた。旧マスターがいった、
「持ってないよ」——そして「それほど電話しないしね」
 彼女が旧マスターにそう訊いたのは、店の中で携帯電話の呼び出し音が鳴ったためだった。電子音である。自然である音、そうでない音、脅迫する音、そうでない音——ああ、うざったい!——失礼。
 彼女の夜は一時である。寝るのは三時だった。わたしは彼女を見届ける。
 カウンターに座る彼女は日増しに成人していった。独りの客はたいがいカウンターに座る。カウンターはそのためにあった。
 彼女の前に座る男はおかしな男だった。男の仕事は古本屋だった。最近はじめたらしいことが、旧マスターとその男の会話でわかった。
 古本屋はその男が開かれたものではなく、男の父親が会社を定年退職してはじめたものだった。男はただの手伝いである。
 男はいった——「古本屋をやってます」これは間違いである。男は古本屋で働いているだけだった。男の年は二十九だった。
 たとえば本に対する知識、それは旧マスターのそれと似たようなものだった。ただ彼はマンガに詳しかった。マンガとは絵が言葉の代わりをする読み物である。古本屋——その男のことをそう呼ぼう——は一冊のマンガの本を旧マスターに見せた。
「これは貴重なんです」古本屋について説明した。それはこんなものである。『今から四十年ほど前に発行された、現在も続く週刊誌の創刊一号であり、今日十八万円で手に入れた。自分としてはこれを売りたくない』
 旧マスターは訊いた。「それじゃどうするんです?」
「ショーケースに飾っておくんだ——『非売品』って書いてね」
 旧マスターはそんなものかと思った。確かにその週刊誌にはなつかしさというものが漂っていた。だがそれだけだった。なつかしさだけでいったい誰が大金を払うのか?——しかし実際にそうしたものに大金を払うものがいる。
 古本屋の話しは彼女にも聞こえた。別に聞こうとしたわけではない。その声はいやがおうでも聞こえてきた。その声は彼女の耳に入るように発されたものだったと思う。
 古本屋がまた彼女に聞こえるようにいった。「それじゃ今日は帰るよ、いくら?」
 勝手に帰ればいいじゃん——これはわたしの感想だった。
 古本屋が帰ったあと、彼女が旧マスターにいった「わたしあの男あんまり好きじゃない」
「同感」と旧マスターがいった。
「誰があんな本を買うっていうの?」
「誰でしょうね」
「マスターなら買う?」
「買わない」
「わたしも」
 さあどうだろうか?——彼女にはかっとうもあった。それはときどき古い映画を見ることだった。その反論——『わたしは新しい映画も見る』
 誰でも過去を顧みたがるらしい。ちがいはたぶんその媒体だった。古本屋はマンガ。彼女は映画。そして——旧マスターは小説に過去への思いをこめた。

 【旧マスターの新しい小説
   第一章——ボクはボクを信じない】

 ボクは人と話すときに自分のことをボクというけれど、そのボクとさっきいったボクは別人なんだよ。難しく聞こえるかも知れないけれど、簡単にいってみようか——、つまり、ボクがボクを話すとき、それは他人のことについてしゃべっているんだ。それだからボクは自分のことを『すげえ』大げさにしゃべるし、『ひどく』悲しんだようにしゃべる。他人が他人のことを話すとき見たいにね。おかしな話しに聞こえるかも知れないけれど本当にそうさ、自分はまるで他の人。そうじゃなけりゃ、絶対うまくいかないよ。誰だってじまん話しは聞きたくないものね。けれどそう割り切っていても、難しいことがある。姿を見つければボクは他人であるところの自分を話しているし、その話されているのが自分だということはじゅうぶん承知しているんだ。それだから、その話しで笑っている周りの人を見ると、他人のクセして自分が可哀想になっちゃうよ。都合よく聞こえるかも知れないけれど、話しているときのボクは確かに他人、でも話し終わっちゃうと戻るんだなこれが——、ずいぶん勝手だろ。そうだよ、勝手なんだな、本当にそう思う。けれど、自分を誇張したがるのはなんでかな——ほらきっとあるはずさ、新しい就職先やバイト先なんかで気に入ってもらいたいとき。これは海を越えた外国じゃ多々ある話しらしいけれど、みんな自分を売り込もうとするじゃないか。「はいはいボクはこれができますよ」とか、「英語はべーらべらです」なんてね。本当に自分のことをいっているのかな——、と本人は後から思う。そう、そこが注意すべき点だよね。誰も自分はそんな人間じゃないと思うんだ。これがそう、これがそうなんだよ、これこそが自分が他人である証拠さ。
 話しは変わっちゃうけれど、今朝、歯磨きをすると、なんだか酸っぱい味がしたんだ。この歯磨き粉はペパーミントのくせに、何だか照れくさいくらいに胸のすみずみにしみる味がした。それもそのはずなんだ、——ボクはふられちゃったんだもの。あの子が、「私だってつきあっている人いるのよ」といったときは、心臓なんかつぶれるくらいに吸ってる空気が重くなった。それは電気が消えた以上に深い暗い深海の中で圧力を受けながら耐えているようなものだった——。

 【第一章——終わり】

 以上は旧マスターが書きはじめた小説の第一章。

 大きなものは?——彼女の瞳だった。彼女は今泣き出しそうになっていた。その瞳はうるうるとして、涙が表面張力の力で瞳をおおった。それはテレビのおかげだった。テレビでは江戸時代をテーマにした放送劇が映し出されていた。江戸時代とは、時間が作りだしたひとつの『時代』だった。『時代』とは人間がある出来事を基準として区切った時間のことだ。それを選ぶ基準はでたらめである。時代は『時代』となったとき、はじめて人間の知識となり得る。だが時間とはそんなに単純なものであろうか?
 彼女は時間が作りだした『時代』を背景にした放送劇で泣いた。それは昼の二時だった。生理のために休暇をとった一日の中のある時間での出来事だった。
 涙はなんの役に立つ?
 彼女の胎内宇宙は涙の海であふれていた。わたしは彼女のなかの『涙』の理由を知りたかった。仮にその理由がほんとうにテレビにあるとしたら——彼女の胎内宇宙はディンギのために泣いたのかもしれない。
 「ええい、この娘をもらっていくぞ
 「ひええ、だんなさまそれだけは勘弁を
 「おとっちゃん、おとっちゃん
 「お? おやじ——たもとを汚したな!
 「あ、すいません
 「ええい、たたっきっちゃる!
 「え、やめてくだせぇ——うあぇ
 「きゃあ、おとっちゃん、おとっちゃん
 百文というディンギが払えないがために、おやじの娘は庄屋に連れ去られ、おやじは斬られて時間から見すてられた。
 涙は身体への刺激だけではなく、感情の動きによっても分泌されるものらしい。だから——わたしは彼女の感情が激しく、何かに揺さぶられたのだと思った。
 彼女を揺さぶったものは何であるか?——それは百文のディンギか? 連れ去られた娘のためか? 斬られたおとっちゃんのためなのか?——どれも外れ。——だと思います。わたしにも何かデリカシーが生まれかけていたらしい。わたしは彼女の手の感触をいまだに覚えている。
 だからわたしは彼女を弁護しよう——泣くことに理由はないのだ。
 彼女が見つけた仕事は派遣会社だった。不景気が見えてきた社会では、雇用をしぶる会社が多い。派遣会社は社員の代用だった。だが必ずしもそうでないケースもある。ある会社によってはほとんど正社員なみの待遇を得ることができた。——彼女の派遣された会社がそうだった。
 たいがい、派遣された人間は自分の立場をわきまえなければならない。それは特に雇用面での話しである。たとえばディンギのこと。それは派遣先の会社にいうべきことではない。彼女はその中で派遣の派遣だった。それは派遣された会社からまた別な会社へ派遣されるということである。
「これが——就業規則です」人事担当の禿げた男が彼女に薄いファイルを渡した。「——が、基本的には派遣先の時間に沿って働いてもらいます
 それから日報は月毎、二十日までに提出してください。ファクスでもかまいません」
 ——以上は禿げた男が一時間半かけて説明したことを要約したものである。
 次の日の朝、彼女は派遣のまた派遣先へ出勤した。彼女はその時点でも目的が見つからなかった。

 旧マスターは彼女に祝福した。そして二杯のスタウトビアを送った。ひとつは彼女のため、もうひとつは自分のためである。

 そして友人から二通目の手紙が来た。
 友人はアメリカでの出来事のいっさいを手紙にしたためたことはなかった。それは——書くほどのことがなかったためである。そして書くのがいやだったためである。
 友人の芝居にたずさわることができたのは、小さな演劇学校が公演する舞台の手伝いだった。友人の仕事は衣装のコントロール——その状態のチェックとクリーニング、そして会場の掃除だった。衣装は思ったより上質だった。布地の質がいいよ感心した。けれども、カビ臭さがひどくて、臭い付きのスプレーをふりかける必要があった。それも友人の仕事だった。そしてカツラのブラッシング。何日かの公演のうち、最後の二日には、テーブルに突っ伏して寝る、酔っぱらいの女の役をもらった。それは劇団長が考えたあげく、友人に与えた役だった。劇団長は探したのだった「どこかにセリフのない役はないのか!」——そして見つかったものは『暗い酒場。酔っぱらった女が独りテーブルに突っ伏して寝ている』という場面だった。
 友人はそのためにわざと裾がすり切れた長いスカートを身につけた。友人は(一杯の酒をねだった末に寝込んでしまう)みすぼらしい女を演じなければならなかった。
 これは記念すべき友人が立った初めての舞台だった。以前友人は彼女にいったことがある。「舞台に立っているわたしがほんとうのわたしだと思う」——はたして友人は『突っ伏して寝る、酔っぱらいの女』も自分であると考えていたのだろうか?
 友人に出されたものは、アルミの箱に入った電子レンジランチと炭酸飲料だった。
「ま、こんなもんか——」友人がいった。

 旧マスターはカウンターに座る彼女の足下に宝石を見た。それは青い宝石だった。地球上での名称でいえばサファイアのようだった。
 その宝石は彼女の足の爪に施されたペディキュアだった。旧マスターは意識してそれを見たのか?——いいや、それは単に旧マスターの視界に入っただけのものだった。旧マスターの視界はたぶん人間の標準と思われる広さを持っていた。たまたまうつむいていた旧マスターがもつその視界のなかに、彼女の宝石が入ってしまったのだった。
 彼女の足下には五つの宝石があった。二本の足であわせて十個の宝石。彼女に送るべき宝石はなかった。彼女の身体自身が宝石だったのだ。旧マスターはそれらの宝石をとても美しいと思った。そしてこうも思った——彼女の足にペディキュアをしてあげたい——と。

 わたしは時間を止めたり、戻したりする方法を見つけた。——それはとても自然なやり方だった。だれでもできることだった。それは記録を再生することである。
 人間たちは絶えず記録をとり続けていた。旧マスターが聴いていた女性の歌も、光を反射する一枚の円盤に記録されていた。その円盤は何度も回り、再生され、そして止まった。時間のところどころが寸断された。
 旧マスターや彼女のたちの生活は、地球のあちらこちらに存在する飢えた人々と同じ単位の時間のなかに存在していた。いかなる場合にも悩みや芸術は支持されるものでない。必要なものは救荒作物である。必要なものはタンパクである。そして——収容所の時間は消えかかっていた。
 誰がいったい記録を必要としただろうか——記録などだれも必要としないのではないだろうか?——そして誰がそれにディンギによる価値を与えることができるのか?
 それでもわたしは肩すかしをくらってしまった。時間を変えるのは簡単なことだった。とりあえず過去には行ける——。
 果たして未来はどうだろうか?——人々はいくつものの未来をすでに作り出している。とりあえず未来は芸術の域にあった。現実は芸術を裏付け続けた。
 旧マスターは自分の店で音楽という消えた時間を再生し続けていた。何度も繰り返して記録を再生した。その記録は、来店する客からの要求にもよって、それぞれの好む記録が再生された。ときには同じ記録が続けて再生された。
 たぶん人々は、お互いに地団駄を踏みならしていたのだ。その割には足音が聞こえなかったが。
 再生・再生・再生・再生・再生——再生され続ける時間。もし再生されるべき時間——記録が存在しなければ、人間は進化はもっと早くなるだろう。

 彼女の友人は変貌を続けていた。友人の髪はトビ色になった。眉毛は本来の生理、本能的機能を失っていた。それは皮膚から飛び出した毛ではなく、ペンにより描かれたものだった。
 彼女は変わろうとしていたか? 彼女は長かった髪の毛を少し切った。

 彼女の友人は激しくタンゴを踊った。それは借家の一室からはじまった。
 ブエノスアイレスに立った友人が日本料理屋に入ったのは、この街で住むヒントを得るためだった。昼の仕事が終わるまで待ってくれといわれた友人は、荷物をおかせてもらい、しばらく街をぶらつくことにした。
 夏に近い街の通りには、薄着の人が目立った。友人は年輩の男女が多いことと、黒人の姿が見えないことに気がついた。だが、それは別段気にとめておく必要のある現象ではなかった。たいがいにおいて、若者は夜に現れるのだ。

 【旧マスターの新しい小説
   第二章——ボクがボクがいることに
        気づいた理由】

 ナエちゃんが何かをいった。独り言には聞こえなかったので、ボクは何ていったのかたずねてみた。そうしたら、また、ナエちゃんがポツリといった。かつおぶしが食べたいなってね。かつおぶしと聞いて、ボクはよくある缶やパック詰めのホコリみたいなやつを思い出した。あんなものを食いたいのかい? ボクは訊いた。
「わたしの家は、ちゃんとしたやつよ」
 ナエちゃんはそういいながら、かつおぶしを削る真似をした。ボクは実際、そんな本物の? かつおぶしなんて見たことがないので、正直に驚いた。あれって堅いんじゃないの、どうやって食べるの? とあれこれ訊いてみた。だってそうじゃないか、鉋みたいな道具で削らなきゃならないほど堅いものを、どうやって食べるっていうんだい。
「お父さんに金槌で叩いてもらって、——あ、前はお爺ちゃんがよくやってくれたけれど——その叩いてできたかけらをしゃぶるの。美味しいわよ、するめみたいにイカ臭くないし——」それじゃ食べるんじゃないな、何ていうか——ガムみたいなもんだろう。パックのかつおぶしじゃダメかい?
「あんなもの口に頬張ったら、全部歯にくっついちゃうわよ」

 【第二章——終わり】

 旧マスターがタイプを打ち終わったとき、時計は朝の七時半を指していた。ときどき、考えることは、もう少し時間があったならということだった。時間をコントロールできるはずがない。だがその前に——旧マスターにはそれ以上書くことができなかった。力量の問題である。
 たぶん人間は自分の力量を前提とした場合、ほとんどの時間を持て余してしまうのだろう。
 旧マスターの持て余された腕は、宙を漂っていた。その先にある手は何をつかむかもしれずに力無く動き、何かを触ろうとしていた。が、旧マスターは眠かった。眠りたかったのだ。生活に支配された旧マスターのスケジュール——それはゴミ出しだった。
 経験することはあまりにむなしいことだったが、必要なことらしい。わたしが知識として得ることは、すべてが人づてか経験だった。だが、悲しいことにそれは必要なことなのだ。経験が本当に正しいことであることまでに昇華されるには、やはり人の意見が重要らしい。
 地震があったとき、わたしはカウンターの天板から、地盤のずれることによる揺れを感じた。揺れはとても微妙だったが、その回数は多かった。なかには彼女や旧マスターの気がつかない揺れもあった。
 旧マスターが話したことのひとつに『揺れ』があった。それは旧マスターがインドネシアという国で体験したことだった。旧マスターがその話しをはじめた発端は、泳ぐことができるとかできないとか、そういった会話のなかからのことだった。
「へえ、マスターって泳げないんだ」
「うーん、正確にいえば泳げるけど、二十五メートルだね、しかも——」
「しかも?」
「プールでね。海はダメ」
 彼女はイタズラっぽそうな顔をしていった「なんか怖ろしい目にあったんじゃない?」
 そんなことはないけれど——旧マスターが口を開いた。「あれはインドネシアにいたときだった。観光の名所とかいって小島が集まっているところがあるんだ。そこっていうのはだいたい大きな高速ボートに乗って行くんだけど、たまたまボクと友だちが選んだツアーはいわゆる『格安』ってやつだった。ボクらは誰もいない島で降ろされた。そうすると漁船がくるんだ。小さな漁船で、ブリキの屋根にのせた魚の干物がプンプン臭いをさせているようなね」
「それで?」
「ツアーの案内人がいうには、それに乗って島を渡るというんだ。それがものすごく揺れるんだ。その日はまだましだった。次の日は最悪だった。こわくてこわくてしようがなかった。ボクはずっとそこらへんにしがみつきっぱなし。波はどんどんかぶってくるし——それに船長の顔も笑っていなかったんだよ」
 旧マスターは身ぶりで波の大きさや揺れ具合を表現した。
「たぶんそのときボクは死ぬと思ったよ」
「ほんとに?」
「ああ、そのときには本当にそう思った。だから、つらいときは漁船のことを思いだすようになったし、これ以上こわいことはもうないと思った」
「へえ、じゃあこわいものなしだ」
「でもまだこわいことはあったよ」
「何?」
「——車さ。仕事の帰りにボクよりもずっと若い友だちの車に乗せてもらった。それがすごくこわかった。すごいスピード——ボクはスピードに弱くてダメ。とにかくすごかった。あの二時間は長かった。おまけに雨まで降ってきてね。ボクはただ席に座ってるだけ、少しも動かないでね」
「マスターって車苦手なの?」
「ああ、苦手。スピードがだめだ。遅く走ってる分ならいいんだけど、かといってそれじゃ逆に危ないらしい。つまりみんなにあわせなきゃならない」
「そうなんだ」
「手足のように動かせれば、きっと便利なんだろうけどね」
 旧マスターはなんといったか?
「それがあれば時間も節約できるのだが」
 ああ、車——その車というやつがあれば時間を節約できるのだ。だがその節約ってのは何を基準にして節約とかいっているのだろう?
 だがそれは時間を支配する第一歩かもしれない。それでもわたしはまだ時間を支配するエネルギーを知らないのだ。
 それにしても揺れは止まらない——旧マスターやこの店の人々はこの揺れがわからないのだろうか? それは『車』のせいだった。通りを走るトラックである。この店の地盤は実に頼りないものだった。そうした頼りなさは、何にでも基盤があるということをわからせる。基盤が弱ければ、それぞれにたちそびえるプロジェクトや物事は崩壊する。

 旧マスターはコンピュータの電源を切った。それはなかなか勇気が必要なことだった。そしていった、「まあ、こんなもんだね」それは独り言だった。

 彼女は部屋で掃除をしていた。だいたいにおいて彼女の部屋はきれいである。わたしは一度彼女の部屋に連れていってもらったことがある。それは、彼女がわたしに似ている人形を買おうとしたときだった。彼女は旧マスターに申し出た——「一日貸してくれない?」それに対して旧マスターは断っただろうか?——いいや断らなかった。旧マスターはわたしを彼女に手渡した。
 わたしが彼女の部屋に置かれたとき、わたしの下にはテレビがあった。わたしがうれしかったことは、彼女が自分を茶色のバッグから出してくれたことだった。うぬぼれかもしれないが彼女はわたしのことを本当に好きだったのかもしれない。
 彼女はずーっとテレビの上に置かれたわたしを見ていた。彼女は何をするでもなくテーブルに頬づえをつき、わたしを眺めていた。テレビでは天気予報が流れていた。なんでも台風が近づいているという。
 この星は季節に翻弄されていた。このときは、偏西風で停滞した雲と、ゆっくりと近づく台風のために、この国中が雨にさらされていた。その雨によって川の水かさはまし、橋は決壊し、崩れた土砂は家を飲み込み、雲の巣のような道は寸断され、鉄道という動脈もその動きを停止させた。それにより人の時間も止められた。自然にはコントロールできない本能があった。
 自然のエネルギーは時間をも転覆させるのだろうか? わたしにとっては「どっちもどっち」——こうしたいいかげんな答えをするほどわたしは落ちぶれていた。
 彼女のやさしい眼差しはわたしをとろけさせた。
 彼女はテーブルの上で日記を書きはじめた。それは中学校のころから書いていたものだった。日記とはとてもプライベートなものである。プライベートなものであるから、それを公開することはいけないことである。そう、いけないことなのだ。それには秘密が書いてあるかもしれない。つまり——人が得る知識や記録には、共通的なものと個人的なものがあるのだ。
 彼女の開いた日記には秘密が書かれていた。それはいえない。だがこれだけはいえる。彼女の日記は中学校の頃からつけられていたが、その量は圧倒的に少ない。それは旧マスターの筆量に匹敵していた。だが、旧マスターのそれよりよっぽど価値があった。それはなぜか?——それは彼女の日記が記録だからである。そこには日記を書いているときの彼女の姿があった。
 彼女の日記で差し障りのないことをひとつ
 『九月十六日
  足がいたい。今日は歩きすぎた。教材が
  売れなかったが、あの教材は売れなくて
  正解。売れなかったおかげで今日も寝れ
  る。おやすみトン』
 トンは犬である。彼女はトンにおやすみといった。トンは好きな主人には忠実である。

 旧マスターの店の時計は、針により時が表示されていた。これはアナログと呼ばれたらしい。それは回転するように、なめらかに、そして従順に時にしたがった。ところが世界のほとんどはデジタルだった。デジタルはアナログな波形を区切って作られた人工的な数字である。わたしは時間を感じるにあたってデジタルに対しては否定的だった。それは今でも変わらない。わたしたちが宇宙船を建造するにあたってデジタルという技術は不要だった。必要なものは重力を無視する石だけだった。
 わたしはマーレー・フラスコに対して助言したことがあった。「あなたの息子が勉強していることや、行おうとしている事業はすべてが無意味なことなんだ」——わたしはデジタルや通信といった技術的革新や、それに付随するであろうあらゆるソフトウェアの可能性を否定してやった。いつか『石』が見つかったとき、それはみんな無意味なものになる。
 今、人間は無意識のうちにもとに戻りつつあった。そうなるべきなのである。
 マーレー・フラスコが新しい人類を創造するために完成させた不格好な試験管『トランスポーター』は人間を含めたあらゆる物体を短時間で移動させた。だがわたしにいわせれば、しょせん時間を飛び越せないガラス管だった。

 現実の話し——それは旧マスターや彼女がまだ生きていた頃。
 人間には見るものが必要だった。見ることがない——それは眠っているときだった。人間は絶えず見るものを探していたのだと思う。それは旧マスターや、店に来る客も同じだった。独りでいようが、複数人であろうが、ふとした瞬間にでさえ、人間は見るものが必要だった。その目はさまよった。あるひとつのものを見たがった。だがその目はたいがい下を見ていた。そうしたときの人間の状態はうつむいているといわれていた。
 ある客は黙ってテレビに映し出されるテープに閉じこめられた記録を眺めていた。それは三時間におよんだ。それは目のやり場にすぎなかった。
 何人かの人間は、記録を閉じこめたフィルムを見るために建設されたシアターへと足を運んだ。これも目のやり場を探した結果にすぎなかった。人間たちの目は何かを見たがったのである。
 ああ、見るもの! 見るものが必要なのだ。
 彼女はわたしを見ていた。わたしはテレビの上に置かれていた。テレビでは、その場所から遠く離れた場所でおこっている出来事を中継していた。
 彼女はわたしに似ているものを探しだそうとしていた。結局彼女はわたしに似ているものを探し出すことができなかった。それだからといって、彼女は旧マスターにわたしが欲しいとはいわなかった。これはちょっぴり残念なことであるが、所有権の問題でもある。彼女はきっと控えめだった。
 どれだけの薬を飲むことができる? 人間はいくらでも薬を飲むことができる。自分の時間を放棄するまでは。

 彼女は仕事の帰りに小さな店の集まったデパートに入った。そしてアクセサリーや小さな置物を置く店を覗いた。それらの目的は人間の目をなごませたり、場所を飾ることに堕落していたが、悲しくもそれが機能のすべてだった。
 わたしも彼女にとって『目のやり場』にすぎなかったかもしれない。そうなのか?——わたしは単なる目のやり場なのか?——彼女に送ったテレパシーは見事なまでに彼女に届くことはなかった。

 一晩十ペソというディンギが理由でチェックインしたホテル・アルゼンチーナの二階にある食堂で彼女の友人は『米とチキン』という料理を食べた。これはたぶんプロフのように大衆的な料理だった。ところがたいがいにおいて、米の半分は芯があった。
 この街のレストランにおける友人のメニューは、この『米とチキン』や『トマトソースのタジャリン』そして『ニョキ』に支配されることになる。これらの料理はレストランでもっとも安い料理だった。
 友人の手元には、街の交通網が完璧に網羅された地図があった。それはニッポン料理店に紹介されてキオスクで買い求めたものだった。その地図の上には友人はいくつかの大劇場や小劇場、そしてダンスホールの場所が鉛筆でマークされていた。
 友人はウェイターに水を頼んだ。ウェイターはガス入りしかないといったが、友人は拒まなかった。彼女はときおりおくびをしながら水を飲んだ。それはしょうがないことだった——友人は人間だったのだ。
 ホテルの古い木の床はところどころ隙間が見えていた。各階の廊下の行き止まりに置かれた、振り子の揺れる大時計が音をたてながら時を刻んでいた。彼女はバスのない浴室でシャワーを浴び、部屋の面積のほとんどを占めるベッドの上に横たわった。
 友人は日本料理屋で聞いた話しを思い出していた。タンゴを踊る日本人がいたと。その日本人は友人がこの街に来る二週間前に時間を放棄していた。時間を放棄する前にその日本人はもう踊れる状態ではなかった。病気だったのである。
 友人の目のやり場は染みのついた天井だった。

 たいがいの人間はとても苦しんでいたらしい。苦しんで苦しんで苦しんだらしかった。苦しむことはたいがい「後の祭り」と呼ばれるものと同意だった。

 彼女が旧マスターにわたしを返すとき、彼女はウソをついた。
「よく似てるのがあったのよ」
 旧マスターがいった——「そりゃよかった」旧マスターは自分が間抜けに思えた。旧マスターがいいたかった言葉はこうである。『ボクの持っていったら?』旧マスターは彼女がウソをついているとは思わなかった。旧マスターには少しの後悔さえあった。——こんなことなら、最初からこの『バイオリンを弾くネコ』を彼女にあげたらよかったのだ。けれども——それは彼女との間をとりもつ数少ないきっかけのひとつだった。それに——『バイオリンを弾くネコ』——つまりわたしは『目のやり場』だった。
「ボクは音痴じゃなくて、『運痴』なんだ。運動音痴——反射神経がいまいちで、スピードも苦手。兄貴はスキーもうまいし運動が得意なのに——なんでだろうね」
 車も乗れないんだ——旧マスターはそういおうと思ったが言葉にはならなかった。それは旧マスターが以前の妻と別れる理由でもあった。

【続く】



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