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仮題:スタナーと彼をめぐる話しについて 7 [仮題:スタナーと彼をめぐる話しについて]

【7回目】

♪トミーの葬式

 トミーが時間を放棄してしまったのは雨が降る前の晩だった。秋は寂しいがとてもおおらかになる。トミーがあの世にいってしまったことを知ったのはリョーコの説明によるものだ。リョーコは中学校から帰り、家で宿題を済ませるとピーナバーへ顔を出す。店に顔を出すとバーの奥にあるとても小さな厨房の壁に背中をもたせかけたり、とても小さなイスにかわいいお尻を落ちつかせたりする。彼女はとてもかわいいのだ。少し低い背に、少しほお骨の張った顔はつるつるしていていつまでたっても赤ん坊のようだった。けれども彼女は間違いなく大人だった。少なくともアユムは彼女に比べれば小さな子どもに見える。アユムはときどき鼻の下にヒゲを生やすが、それはあんまりな姿だった。彼はけっこうリョーコのことを気になっているくせにいつも強がって「まだ子どもじゃん」なんていっていた。だがわたしはまじめに受けとめてやったものだ——「アユム、性行為にはたぶん理由が存在しない。それと同じようにきみが彼女のことを好きなることはとても自然なことだ。いや、いわなくてもわかってる。きみは彼女よりも十八年は年をくっている。だがそんなことは関係ないと思うよ」
 わたしはごくまじめな顔でそういってやった。そうするとアユムは黙ってしまう。それはどういうことか?——彼がわたしのいったことをまじめに考えているということだ。
 リョーコは母親が好きだった。同時に父親——ナフカディル・モシアズのこともまあまあ好きだった。モシアズはたいがい大学の研究室にいるか、家にいてもいつも書斎にこもりっぱなしで、かならずタイプライタを叩いている。サワコがいうには、モシアズはもうキーを叩くのにあきあきしているらしい。それでも彼はキーを叩く。それがなぜだがわからないが、サワコはそれを逃げ場だといった。つまり——スタナーがわたしには理解不能なキャラクターパズルのプログラムに逃げ込むように、また、わたしが上品な芸術にのめり込むのと似ているようなものだった。リョーコはこういう、
「わたし熱中している人って好きなの」
 だがたいがいの人間は仕事に熱中している人間にたいした興味を示さない。これはたぶん矛盾だ。そういった人たちは、あの世にいくまで働いた人の恩恵を忘れてしまっている。

 いつものように店に顔を出したリョーコの顔は沈んでいた。
 それはたぶんトミーの葬式が執り行われたせいだろう。

♪事実のなんと美しいことか!

 サワコは事実ってことをどう思う?——わたしは訊いてみた。「事実って?」サワコはそうわたしに問い返した。わたしの説明はとても幼稚だった。
「事実というのはつまり——きみがきれいだとか、そういったことだ」
「モーガン・サザーランド、うれしいことをいってくれるじゃない。でもそれは事実じゃないわ。ものをきれいだとか汚いだとか——それはすべて個人的見解に基づくものだわ」
「そうかもしれない。ただ、個人的な見解で考えればきみは美人なんだ。とにかく普遍的な事実があるとして、その事実に関してどう思うかということ」
「事実——『現実』ってこととするならば、それはウソの反対——裏返しね」
「ウソの反対?——」サワコの答えにわたしは拍子抜けがした。
「事実は時間がつくり出した記録なのよ」
 そうサワコはいった。事実はウソではなく、時間のつくり出した記録だとサワコはいってのけた。彼女とイタチのちがいは『神』と『時間』だった。だがどちらにしろ、事実はなしくずしに創りだされたものだった。その事実のなかのひとつ——スタナーはシビレ男になってしまった。スタナーはひしめいている事実のなかのほんの小さな滴に過ぎなかった。
 スタナーはそれだけの人間だったのだ。そして彼の手首は記録にすぎなかった。それは事実だ。

 博物館での会話——
「ママ、この手首はどこから来たの?」
「これはえらい人の手首なの」
「えらい人?」
「そう、えらい人なの——女の子を助けたのよ」
 美しいものは光り輝き、輝きはきれいに反射した。地球が誇るリフレクターは、事実というベクトルだけを抽出して宇宙に放射した。地球は事実に包まれていた。
 そのころ、そこに美しいものは去ってしまった。どこの国から来たんだね?

 ナフカディル・モシアズの贋作、それもまた事実だった。彼は贋作家だった。彼の新しい、そしてニッポンにおける最期の贋作は、生きたキャラクターだった。彼はウサギを改造してピ○チュウをつくり出した。最初は交配によりつくり出すことを予定していたが、年数がかかることを好まなかったのだ。彼は手を縫い合わせしっぽを切り、
「はい、ピ○チュウ一丁上がり!」
 ——って感じである。
 これもまた事実。

♪反省

 わたしがスタナーのことを書き記そうと考えたのはなぜだったろう? ただはっきりしていることは、わたしがスタナーのことを書くにあたって、すでに時間を放棄している作家を手本にしたことだ。彼は——いや彼女は偉大なミステリ作家であったかもしれない。誰かが彼女を認めているはずだ。少なくともわたしは彼女を認めている。そんな彼女を手本にしたことは、とても感傷的であったと同時に、わたしの力量では無理があった。彼女はあるインタビューのなかでこう応じていた。
「まず第一章とタイプすることね。プロローグとか序章とかなんでもいい——それがすべての始まり。後先なんて関係ないの」
 そしてわたしはそうした。そして行き詰まった。書きたいことを先に書きすぎたことが原因らしい。彼女曰く——「すべてのつじつまはあわせられる」
 スタナーはつじつまの枠におさまりきることができるだろうか。

 サワコがわたしにいったこと。それはミステリ作家の彼女がいったことと同じだった。サワコはニューヨークで勤務していたときに彼女のペーパーバックを数十冊持っていた。そのうちの二冊は八百ドルと千百ドルの値段を付けられ、書店のショーケースに飾られていたものだった。サワコがわたしにいってくれたこと——
「人生なんて改行なのよ——カチャカチャ——ってね」
 それは彼女の受け売りだったかもしれない。だがサワコはそのミステリ作家によく似ていた。

♪トミー最後のコンサート

 十二時半を過ぎたサワコの店。客はまばらだった。
「ねえ、モーガン・サザーランド、リョーコをコンサートにつれていってあげてはくれないかしら?」——そうサワコがわたしにいった。「トミーって子のなんだけどね」
 サワコがいうコンサートというのはあの世にいったトミーを追悼するためのものだった。トミーの所属していた事務所は、残ったバンドのメンバーを説得して、ニッポンを縦断する追悼コンサートツアーを企画したのだ。つまりわたしが先に書いた——トミーが薄いモニターに映し出されるコンサートである。
「リョーコはあんな男が好きなのか? すると彼女はグルービーなのか?」
「あら、モーガン・サザーランド——あなたトミーを知ってるの?」
「そりゃ少しだけはね。あれだけ新聞で騒がれていればいやでも目に入る。ひとりの人間がいなくなったわりにはうるさすぎるね」
「そのトミーって子の追悼コンサートなの。リョーコは独りで行く気なんだけどね——まあそれでもかまいやしないんだけど。できるならついていってくれないかしら?」
「独り?——そういうのってたいがい誰かを誘ってゆくもんだろう」
「そうかもしれないけど、リョーコはたいがい独りなのよ。でも友だちがいないってわけじゃないけれど、たいがいどこにゆくのも独りなの。旅行でもなんでもね。このあいだ二週間ホッカイドウに行ったときもてっきり誰かといっしょだと思ったら独りだったのよ」
 わたしは思ったものだ。リョーコはいつも目的を持っているのだと。それだから彼女は独りで行動できるのだ。ずいぶん前まではそれが当たり前だったような気がする。

♪月のゴミ

 スタナーは一ヶ月の間の休みを終えるとまた以前の職場に出社した。わたしはまさかスタナーが出社していると思わなかったので、正直おどろいた顔を見せてしまった。
「あ——すまない。まさか来ているとは思わなかったんだ。でもそうだよなもう一ヶ月経ってしまったんだ」スタナーは気まずいわたしのようすを察してくれたのか、彼の顔は笑っていた。
「そうだよあっという間だ。正直ボクの方がおどろいている。まだパーティションは残っているし、それにちゃんと掃除までされている——ボクはクモの巣だらけだと思っていたからね」
「だいじょうぶさ、きみのパーティションはなくならないよ」
「なくなってはほしくないな——今のボクにとってここが唯一残された家なんだ」——スタナーはだまってしまった。それと同時にわたしもだまってしまった。わたしの目は逃げ場に困ってしまったあげく、スタナーの席を囲む青色のパーティションを見ていた。スタナーもそれを見ていた。そして、「やっぱりこれはどうみても箱だね。駅やガード下にある箱だ」といった。わたしは箱というより病室に見えた——ん?——少し美化しすぎたかもしれない。
「ボクはとうぶんのあいだここで仕事に没頭しなきゃならない——するつもりだよ。今は何も考えたくはないんだ。時間のちょっとした隙間に家族が現れる。するととたんに気が遠くなって、他に何も手が付かなくなる。アリスのすてきな笑顔や、ステファンが抱きついてくる感触——そういったもので脳ミソが埋め尽くされて何もできなくなってしまうんだ。何か没頭できるもの——それがほしいんだよ。しばらくのあいだは。それがボクには仕事なんだ」
 わたしはスタナーのことがかわいそうになり、かつ不思議に思った。スタナーがニッポンに来たとき、彼は一日中仕事に向き合っていた。それはなぜだったろう?——家族に会えない寂しさを紛らわせるためだった。今度は二度と会えない家族を忘れるために仕事をするという。あのキャラクタの中に埋もれながら。とにかく——スタナーの求めていたものは逃げ場だった。

 スタナーはロック・ミュージックを知っていたのだろうか? わたしは訊いてみた。するとすばらしい返事が返ってきた。
「何をいうんだモーガン! もちろんさ! ブーにストーブス、ニッキーとドリルズ——みんなアイドルだったじゃないか。今でも聴いてるよ!」実際のところスタナーはロック・ミュージックについてほとんどマニアだった。彼は多くのロックスターたちのバースデイを知っていたいたし、あの世にいった日も同様だった。スタナーがメタンセタニン、いやマリファナについて語ってくれたのもそのときだった。「ボクに『マリファナでも栽培する気か』と訊いた男——あいつはほんとうに弁護士だった。昼は髪の毛を後ろに束ね、しわひとつないスーツでモーターサイクルにまたがり弁護士事務所の所長をしてる。三人の男を雇いながらね。そして夜は入れ墨だらけの腕をむき出しにしてビリヤードバーに入りびたりなのさ」

 ここで書かれるべきことは、スタナーがいかにロック・ミュージックを好きなのかではなく、彼が見つけた影である。それは月の影だった。スタナーはそれをゴミといった。
 スタナーは彼の休暇中に仕事を引き継いでいた前任者から、衛星画像を解読するためのキー——それはレシートの裏に書かれたものではない——を受け取っていた。スタナーは会社にとって必要な人間だった。あとから知ったことだが、彼は衛星画像の作業のためにある誓約書にサインをさせられていた。サインとはアユムたちにとってハンコのようなものである。それはまた『ハンで押した毎日』といった形容にも使われる。
 職場に戻り、キーを受け取ったスタナーがまず最初にしたことは、前任者が行っていた仕事のチェック——それは主にキーを変更した履歴を調べることだった。そして、彼が月のゴミを見つけたのは、二日後のことだった。彼がいない間に記録された衛星画像を見てゆくうちに、前任者が気がつかなかっただろうゴミが当たり前のように写っていた。このとき、スタナーは前任者のずぼら加減を腹の底でずいぶんとののしったらしい——ア○・バ○・間○け・フ○○ク!——といったわたしも聴いたことのない言葉で。
 その後、彼は多少の後悔をしたようだった。なぜあんなに腹を立てたのか?——わたしはそれをしようないことだと思った。スタナー、普段のきみは優しすぎる男なのだ。たいがい仕事のできる人間は無口だ。それは仕事に没頭しているせいだ。スタナー、きみはたぶん最後まで自分のたけを叫んだことがなかっただろう。
 スタナーはわたしに何枚もの画像を見せてくれた。そこには月をあらゆる方向から写された姿があった。スタナーが指を差したところ、そこに彼曰く『ゴミ』があった。
「これがそうなのか?——考え過ぎじゃないか? カメラが汚れてるとか。この世間と同じように宇宙にも無数の塵がある。それがくっついちゃったんじゃないか?」そういうわたしにはスタナーの意見を批判するつもりはなかった。ただ、結論はもう少し先でもかまわないんじゃないか、そういいたかったのだ。基本的にわたしは職場の女性が形容するに『のんびり屋さん』である。
「だからスタナー——」
「だからなんだいモーガン?」
「きみを信用していないなんてことは絶対にないが——」わたしの言い方はたぶんおかしかった。「——それはほんとうに『ゴミ』じゃないのか?」わたしは彼の反応に少々恐れを抱いていたが、彼の答えは落ちついていた。
「とにかくゴミが写っているの真実だ——」スタナーは溜息をついた。「——もう少し調べてみるよ」

 スタナーの活火山は少しさめたようだった。彼の山は高く急ですぐに沈んだ。しかし——もしかするとそのときが初めてだったのかもしれない。
 わたしはスタナーの目の中に青くスパークする火花を見たのだ——ビリビリ!

♪わかりきってしまっているアユムの最期

 わたしにとってトミーは宇宙人のようだった。彼の若干大きめの顔と頭は人種でいえばアジア人だったかもしれないが、白塗りのその顔はユーレイのようだった。そしてわたしはなかなか思い出せなかったのだが、スタナーがそれをすぐに思い出させてくれた。
「これはデジーだね、『リンボー・デジー』一九七二年から音沙汰のないオカマの宇宙人——彼の焼き写しだ。なんだか音楽まで聞こえてくるね——『#男も女もオッケイさ#』ってね」
 そうスタナーからその男の名を聞き、わたしの頭の中でようやく一人の人物ができあがった。
 悲しいことにこれはわたしに限ったことではない。人は名前がなければ存在することができなかった。人に限らず道に落ちているものにさえ名前があった。アユムは自分の名前を変えようと法律書に目を通していた。わたしはそんなことをして——などといわず、感情的な言葉を極力抑えていった——
「ミスター・アユム名前を変えていったいどのようになさるおつもりですか?」ところがそういった丁寧さは逆効果だった。
「やけにいやみな訊き方だねモーガン。——まあ、とにかく変えてみたいのさ。この名前で呼ばれるのはもうこりごりなんだ」
「それじゃわたしが『アユム』と呼ぶのはいやだったのか?」
 アユムはかぶりを振った。「いや、そうじゃない。すこし言い方をまちがえたかな。なんだか自分を変えてみたいのさ。ボクは画数——わかるかい? 文字を書くときに必要な筆を運ぶ回数のことなんだけどね。その回数によってはその人の運が悪かったりするんだ。それだから名前を変えようと思ったのさ」
 つまりアユムはこういいたかったのだろう——『名前によっては損をする』と。わたしは少しアユムが気の毒になった。
「アユム、きみの名前が原因かどうかは知らないが、自分の運は悪いと思っているのか?」
「運が悪い訳じゃないかもしれない。ただ疲れちゃってるのさ」
「何に?」
「この年になると恋は疲れるんだ。ボクは人生の意義ってのは恋をするかしないかだと思ってた。けれどその恋さえ満足にできない身体になっちまってる。かなわない声の前でボクは消えてゆくばかりなのさ」
 なんだかんだといって——アユムが名前を変える必要はなかった。彼は恋に思い悩んだあげく時間を放棄してしまうのだから。それもやっとの思いと勇気のおかげで——アーメン。

 スタナー曰く『デジーの焼き直し』というトミーの葬儀には二万人という礼拝者が集まった。そのほとんどが彼のグルービーだった。血がつながった身内は五人だけだった。一人っ子であるトミーは母親から愛されていた。真綿でくるむように。二人は二部屋のアパートに住んでいた。母親は生活のために——結局それはトミーのためだったが——昼夜を問わずして働いた。そしてトミーにねだられるままエレキギターを買い与えた。そのギターは二十九万円した。そして山ほどの弦とアンプリファイヤー。いちばんトミーが気に入ったものは魔法の音がする不思議な箱だった。その箱につなげばトミーのギターはどんな電波より強力になった。そして振動と耳の裂けるような帯域をもって、彼の住むアパートを地震のように揺さぶった。トミーがいなくなって母親は泣いた。自分が息子をおいつめてしまったと信じてやまなかった。泣き続ける母親を姉妹たちが慰めた。その母親の意をしらずに、バンドのメンバーは彼の遺影の前でロック・ミュージックを演奏した。母親はそれを聴きながら唇を噛んだ。自分を、そしてロック・ミュージックを呪った。この母親に限らずロック・ミュージックを恨むものはかなりいた。少なくとも——
・セタニン中毒のアル
・トミーに傷を負わされたグルービー
 誰にでも恨まれることはある。

♪トミーの追悼集会へ行く

 わたしはリョーコとトミーのコンサートへ行った。スタナーといっしょに。わたしはリョーコを守るといった信念を持っていた。スタナーといっしょにリョーコの両脇に立てば、確実に彼女を守ることができる。その結果サワコに顔がたつ——それはわたしの持つサワコに対する使命感のなしえることだった。彼女が期待していたのはリョーコを守ることだったから。
 トミーのコンサートは夏には野球の行われるドーム型球場で行われた。そこへ行く電車のなかでわたしはリョーコに訊いた。
「リョーコ、きみは独りで観にゆくつもりだったのかい?」
「ええ、そうよ」とリョーコは応えた。吊革にぶら下がったリョーコはわたしの目線のずいぶんと下にいた。
「でもああいったものは連れだって——たとえば友だちなんかといくんじゃないか? 友だちにトミーのファンはいないのかい?」
「そんなことないわ。トミーのファンは多いわよ。トミーがいなくなってからファンってわかった子も多いけれど。でもみんなグルービーなの。トミーのように着飾って、トミーに向かって手をさしのべて、トミーの前で服を脱いで、おしまいには絶叫して倒れちゃうの。わたしとは趣がちがうの」
 わたしはいった——「それはたぶん、いや、きっとずいぶんちがう『趣』だよ。まさかリョーコは手を振ったりしても——なんというのかな——とにかくそんなことしないだろ?」「そのまさかってのは人を決めつけた言い方よ。でも正解。わたしはトミーに向かって手を出さないし絶叫もしない。服も脱がないし下着も投げつけない。だってわたしにとって彼は絶対じゃないもの」
「それじゃトミーはいったいなんだろう?——きみにとって」
「芸術の対象ね。わたし彼にはなんの興味もない。わたしが興味を持つのは様式よ」
 わたしがサワコやその娘リョーコとつきあいだしたのはけっして長いものではない。だがわたしにはリョーコの口振りが日増しにサワコに似てくることを感じた。
 スタナーは——彼は少々やつれていたようだ。彼は電車に乗るときと降りるとき以外に一言も話すことはなかった。スタナーは黙りどおしだった。彼にはまずリョーコに対して話すことがなかった。それは年の差もあったかもしれない。そういった意味で、スタナーの行動はアユムのそれに似ている。そうした他に、彼の頭には月のゴミが渦巻いていたのかもしれない。わたしは彼に変質狂的な集中力があることにうすうす気づき出していた。それは特に仕事に対して目立った。
 電車の中にはリョーコがいうところの『トミーのように着飾った』人間がたくさんいた。この電車内のスナップのみでニッポンを紹介したなら、バチカンは悪魔払いの儀式を無料で執り行うにちがいないし、マッカーサーの血を引くものたちは植民地にしなかったことを後悔するだろう。ある女の子の孔雀の羽根は電車の天井にあたっ折れていた。わたしの視線に気がついたのかサワコ、いやリョーコも彼女や彼らを見た。わたしたちはその感想を口にしあうことはなかった。電車はときどき大きく揺れた。レールのボルトがゆるんでいたせいだったかもしれない。たぶん危険は身近にあるものだ。壁紙や塗料、そして土のように。

♪また反省

 わたしはスタナーのことを書くべきではなかったかもしれない。それが今いえることだった。スタナーのことを書き記すために小さな手帳に書かれたわたしの雑記はあまりに意味がなさすぎる。そこにどうやって意味を見いだすべきか。わたしの集中力ではあの一瞬の輝きを、すさまじいスパークとともにわたしたちのために散ったスタナーの栄光と優しさを書き残すことはできない。ああ、わたしの背後にいるであろう偉大な時間を放棄してしまったミステリ作家よ、この心を救いたまえ。アユムが時間を放棄してしまうまでに何回か見いだした光は、朝鮮に向けて広がる海に面して立つ石碑の中にあった。それもまた時間を放棄済みの偉大な作家の屍だった。——アーメン。

♪薄っぺらなトミー

 スタナーがどれだけの印象をトミーに対して持っていたのかはわからない。だが驚くべきことは、スタナーの目が画面の中のキャラクターを見るようだったからだ。彼にとってトミーはまるで作業の対象だった。もしかすると彼はこのとき、トミーを組み替えるべきだと考えていたのかもしれない。それの正体がトミーであることを知る以前から。
 ところで『かもしれない』といった言葉が多いのは、わたしが敬愛するミステリ作家のいわゆる手癖であるともいえた。彼女はよく自分のストーリーのなかでそう書いた——『彼女はあの世にいってしまったのかもしれない』——とか。
 リョーコは穏やかだった——宙を舞う薄っぺらなタタミのようなモニターに閉じこめられたトミーを目にしても。そうしたギミックはあらかじめ知らされていたことでもあった。彼女はそれに手を伸ばそうともしなかったし、喉が裂け鮮血がほとばしるような声をあげることもなかった。トミーはまるで薄っぺらだった。彼の居場所は二次元でほんの少しの奥行きさえなかった。角度を変えてみようともそこにはどれだけの影さえ見いだすことはできなかった。
 リョーコは語ってくれた——「あれが彼の本当の姿かもしれないわ。彼は絵なのよ——額縁のなかにはめこまれたキャンパスの目地に詰まっている絵なのよ。油絵のでこぼこさえももたない、つるつるの紙にプリントされた薄っぺらな絵なのよ。まるで古い時代のスープ缶のように」
 わたしは何度も彼が宇宙人ではないかと疑っていたが、リョーコの答えによればトミーは薄っぺらな絵だった。その絵は電気という光の中に浮かび、薄っぺらな角度を変えながら私たちの頭上で舞っていた——大きなドームをすみからすみまで。彼の母親が憎んでやまないロック・ミュージックに支えられながら。
 わたしはどうだろう?——わたしの頭の中は空っぽだった。そうベイカント——空っぽでかわいいプリティ・ベイカントだった。回りの人間の喉が放つ声に酔わされたせいかもしれない。
 あなたはこう生きるべきである——わたしはそんな道しるべがほしいと思った。
 それと同じ時間、同じ場所でスタナーは何をしていたか?——彼はトミーたちが放つロック・ミュージックのうなりをアナライズしていた——なんてことをわたしは知る由もなかった。

♪サワコのかすれ声とその真実

 たとえばその日のサワコはとてもきれいだったのかもしれない。しかしたぶん彼女の声はかすれていた。それはたぶん——めずらしく客と話していたためだろう。彼女はしゃべることに疲れるたちだった。彼女はとてもすてきな女性だが滅多に客と話しを交わすことがなかった。それは彼女の防衛本能が働いた結果であるといえた。人と交わす会話からどれだけの虚栄心が見つかるだろう?——口のなかのバイ菌くらいの数か?
 そういった事実をさしおいて話しをしたことがあるといえば、——少々自身過剰であるが——わたしかスタナーだった。それにアユムもつけ加えておこう。彼女はアユムと会話することを拒まなかった。それはなぜか?——アユムの会話には自身を主語としたセンテンスがほとんど見あたらなかったからだ。彼の言葉には彼自身がいなかった。彼の言葉はほとんどが相づちで埋められていたから。
 それではサワコはいったい誰と話しをしていたのだろう——それは『お客』である。
 ——ああ、わたしがタイプする手に脳細胞にたまったウィルスが降りてきたようだ。わたしの手は鈍り、あらぬ文字をタイプさせる。そう、それだけスタナーについて振り返ろうとするのは疲労をともなうのである。意味もない話しをどれだけ長い間話す?

 とにかく得体のしれない人間と話すときの焦燥感と来たら!

♪ブラックホール

 突然見える丸い穴——その奥からはみじんの光もこぼれず、ただただ真っ黒だった。そうした穴がポッカリと目の前に浮かぶ。その中には誰かの姿が見えた。その穴を覗き込む様子は、老人の目を覗くことにいていた。その目は深い深い暗闇——胎内宇宙へと接続していた。つまりその穴は帰るべき穴だった。人々はその穴から家に帰りつくことができた。自分が発生したであろう空間へ。なんの刺激もない、なま暖かいエーテルのごとき胎内湯に満たされたその限界のない空間に。
 近づきつつ明日をわたしは待たなければならない。事実今も待っている。そこにスタナーはいない。彼の手首に脳ミソはない。トミーはスタナーが見つけたゴミという存在から、自由で危険性のない無害な魂の抜け殻に変化した。デジーはスタナーが放つ電気光をもってしても自分の星に帰ることはできなかった。
 ——これがすべての結論なのだ。結論は容易い。
 ちなみにアユムも時間を放棄した。
 かろうじて生きているのはウィルスに犯されているわたしだった。

 サワコが話していた相手は人間だった。子の世にはとうてい人間とは思えないものもいる。

♪ヘッドフォン

 ある日のアユムはヘッドフォンをしながら歩いていた。後ろからアユムの背中を軽く叩くと、彼は身体をびくつかせながら後ろを振り向いた。
「ごめんアユム、おどろかせたかい? けれどもいったい何を聴いているんだ?——ここまでシャカシャカ聞こえるぞ」
「色々——でもロック・ミュージック!」
「アユムはいったいどんなロック・ミュージックを聴くんだ?」
「照れくさいね。でもわからないかい?——ほら——これだよ、ギターの響くロック・ミュージックさ!」
 アユムが歩きながらでもロック・ミュージックを聴く理由は何かを忘れるためだった。それと冬の乾いた空気が運ぶ不快な響きから逃れるためだった。アユムが冬にヘッドフォンをかぶるのは、動物が冬眠する習性のようなものだった。スタナーのように近眼であるアユムは、ロック・ミュージックの吹き出すヘッドフォンをかぶることで空気の振動と周囲の映像からほぼ隔離されることができた。彼に与える刺激は遠い空の気流が巻き起こす風だけだった。アユムのすべては、環境のなかで完全な異物だった。
 異物といえば——たとえば鼻くそをほじり方は指を鼻の穴につっこんでほじる。そして老人から胎内宇宙を取り出す方法——それは広口のビンを老人の右目に押しつけ左目を残った手のひらで完全にふさぐ。その後に腹を思いきり足で踏みつける。そうすると広口ビンの中には右目から絞り出されるようにしみ出す黒い液体がたまってゆく。その液体が胎内宇宙だ。

 スタナーはただの外国人で、彼もまた胎内宇宙を持っていた。特異な筋肉の中の胎内宇宙ではときおり激しい電気の光が輝いていた。筋肉に充電された電気が放電を練り返すのだ。
 スタナーはときおり目の中を走る光に悩まされはじめていた。わたしが見たあの光である。それでもスタナーは普通の人間だった。その証拠に彼はこの世から家族がいなくなったとき、身体中にたくわえられていた涙が涸れはてるほどに泣いた。
 だがスタナーはこういった——「なぜボクは近眼をなおそうなんて思ったんだろう? なぜあんなクスリを飲んでしまったのだろう?——あれさえ、あれさえのまなけりゃボクはただの人間だったんだ!」
 ?——つまりスタナーは自分のことを普通の人間であると認めていなかった。それでもそうした思いを持つ普通の人間は案外多いものだ。

 練り返し——
 アユムがヘッドフォンをする理由のひとつには忘れたいことを忘れるためだった。その忘れたいことというのは好きな女性のことである。たいがいにおいてアユムの恋は実ったためしがない。彼は女性を好きになると同時にその恋をあきらめなくてはしかたなかった。たとえばこれはアユムの記録——彼がある女性を好きになって三百六十五日が経過した。その時点における彼が彼女に話した回数は十二回である。これは記録でしかない。わたしはときどきアユムにいってやった——
「アユム、きみは恋をするのに慎重すぎるんじゃないか? あたってくだけろなんて言葉もある」
「たいがいにおいてボクは自信がないのさ。このどうしようもないボクの身体。欠点だらけ。満足な子孫なんか残すことができないだろう——これは間違いないんだ。ボクは乗り物酔いが激しくて車もまっすぐに運転できない。歩くときもびっこをひく感じでヒョコヒョコバランスが悪い。重心がおかしいのさ。たぶん地球を回る月のように不細工な円運動を練り返しているんだ」
 アユムが自らの時間を放棄したのはその一年後だった。その原因はカゼ薬の飲み過ぎだった。身体は悪くなくても薬を飲む人間はいる。
 ただアユムはわたしたちのためになることをしてくれた。

 そんなアユムがいちばん最期に好きになった女性はリョーコだった。それは確実に実る恋だった。なぜならリョーコもアユムのことを悪くは思っていなかった。むしろ好意を持っていた。
 ああ、もう少しアユムに自信があれば——
 残念!

【続く】


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