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仮題:スタナーと彼をめぐる話しについて 4 [仮題:スタナーと彼をめぐる話しについて]

【4回目】

♪サワコあるいはピーナバーのママの話し

 サワコは五年間を支局で過ごした。その五年のなかで、彼女には一人のステディができた。その男はケーブルテレビのレポーターだった。ニッポンの銀行のニューヨーク支店が行った損失補填の実体が明るみにでたとき、多くの通信社がその支店に通いつめた。サワコもそのなかのひとりだった。ケーブルテレビのレポーターも同じだった。
 情報を得るという面において、不可思議なニッポン語を理解できるサワコは他の人間たちにくらべて有利だった。サワコはいってくれた——「記者会見の発表ってだいたい英語でやってくれる。でもかんじんなヒソヒソ話しはみんな自国語だもの。わたしたちが訊きたいことってそのなかに隠れているわ。
 だからこの世の中でいちばん便利だけど不便な言葉は英語なのよ」
 わたしもそう思う——それはわたしの国が正義であるべき理由のひとつである。正義しかつらぬけないのだ。

 サワコは銀行の支店にいる一人の行員と親しくなった。二人は同じ大学を卒業していた。だが、その行員を見たのはニューヨークが初めてだった。いい寄ってきたのは行員の方だった。話しのきっかけはこんなものだった。
 サワコは中途半端な小雨にいら立ちながら、銀行の外で行内に入ってゆく社員の姿をレポートしていた。あちらこちらを小刻みに歩く彼女の後ろをついてゆくカメラマンはときおりサワコにいった。「もうすこしゆっくりできないなか? フットボールのステップみたいだ」
 サワコは行内に入ってゆく人々の半分がニッポン人であることに気がついた。チャイニーズ系もいたが、すぐにニッポン人と見分けることができた。彼らはたいがいよく笑っていた。
 たいがいの行員たちは、サワコを——彼女の手にしたマイクを見ると逃げていった。逃げていったほとんどの行員はニッポン人だった。それ以外の者たちは端的なコメントを残して足早に行内に入ってゆく。その中で一人のニッポン人がサワコに声をかけた。
「きみはニッポンから来たの?」
 サワコはすぐに感じとったらしい——こいつは下心がみえみえだ。たぶんこの男は、異邦の空の下で働くすべての女は寂しがっているにちがいないと思っている——と。その男の顔はつるつるだった。頭は染めたことがすぐにわかるほど炭のように黒々としていた。
「きみの居場所はどこなんて訊かない。でも今度ここに電話してきなよ——力になれるかもしれない」

 その行員は行内のオンラインを預かる部署に勤務していた。彼女は一人の知人として、銀行の内部に入ることができた。
 その男は銀行に見切りをつけていた。彼はほんの少しのコネを生かしながら次の仕事先を探していたのだった。
 知り合いかとカメラマンが訊いた。サワコは答えなかった。
 その男とあった場所は『レストラン・ミヤビ』だった。その場所でサワコは男が自分と同じ大学の出身であることを知った。彼女は彼の後輩にあたった。好きではないサシミを目の前に置かれてサワコは少々憤慨気味であった。おまけに男がたっぷりのワサビを溶かしたショウユにたっぷり染まった切り身を口を運ぶ姿は、ぬめりとした雰囲気をもってまこと動物的だった。何本めかの酒は男の舌を長くした。男は再三の昔話しに——それはキャンパスでの話しとか、同じ世代であっても特殊な集団にしか理解できないであろう文化のこと——夢中になっていた。サワコはいくつかの言葉で応じたが、やがてそれはうなづきに変わり、そして静止した。

 男はひとしきり話し終わり、やり場のない目は、話題も尽きたことを示していた。サワコは内心ホッとしたが、つまらない時間を費やしてきたことを考えると悲しくなった。
「教えたげるよ。あの銀行はもうダメさ。借入金は全部投資の穴埋めにつかわれてる」
「そう——」サワコは興味を抑えながらうなづいた。
「せっかくの栄転だったけれど、無能な経営者のおかげで倒産現地法人の一社員だね。経歴は白紙——それどころか汚れちまうね」
「あなたのせいじゃないわ」
「そんなことないさ。風当たりは冷たいよ。社内でも世間でもね。それだから——」男は言葉を切った。サワコは興味のないふりをする。男はサワコを見ていった、「聴きたい?」
「いいたくなければいわなくたっていいわ。わたし辛気くさい話しはきらいなの」
「別にそんな話しじゃないよ——」男はそういうと、目尻の下がった顔をサワコに見せた。「リークしてやろうと思うんだ」
「内状をもらすってこと?」
「そう——どうせこのままいても自分の風当たりが強くなるだけ。それだったら自分から今のアホな会社の内状を露見させてやるんだ」
「それこそあなたに対する風当たりが強くなるんじゃない? もうニッポンにも戻れないわよ」
「それは逆だな。良心の呵責に耐えられなかったという誠実さを訴えることができるし、同情も得られる。それよりも正義感をアピールできる——この国じゃ腹黒さと誠実さ、正義は紙一重なんだ。リークすることは必ずしも自滅ばかりじゃない。得ることも大きいのさ」
「そうかしら。それで——なんでわたしに話すわけ? それは——」
「考えているとおりさ。きみのところにリークしたいんだ」
「正直いって——突然でおどろいてる。それで見返りには何を要求するわけ?」

 サワコが得た情報は社内外を問わず、彼女の周囲から評価された。それがもとで本社政治部への配置転換を申し送られたが、彼女はそれを断った。カメラマンはいった、
「なんでニッポンにもどらないんだ? いいとこなんだろ」
「どうだろ——○○○○よりはいいかもね」

 彼女は十五年をニューヨークで過ごした。銀行の内状をリークした男は、アメリカの保険会社に職を得ることができた。今後計画されるニッポンの市場への参入を見込んでのものだった。男は十五年間の間にニッポンに凱旋することができたか?——できなかった。彼は保険会社で働きはじめてから六ヶ月後、ローンも払い終えていないニッポン車で交通事故にあい息絶えた。
 彼女が今の夫に会ったのは帰国したニッポンでのことだった。

 彼女はニッポンに帰国したあとピーナバーを開いた。そのバーにメニューはなかった。そのバーには音楽が流れていなかった。飾られているものは照明だけだった。カウンターには酒も並べられていなかった。サワコのバーには必要な業務家具以外なにもなかった。
 ピーナバーに入ってしばらくすると、客は壁に飾られているいくつかの絵画に目をやることになる。これはたいがい目のやり場に困った客がする普通の行為である。
 ほとんどの客はしらないだろうが、それらの絵画はサワコの夫であるナフカディル・モシアズの作品だった。それらの絵画はある作家の一時のモチーフやテーマを盗用したいわゆる『贋作』の類だった。それらすべての絵に描かれているのは、一人の娼婦と黒人のメイド、それからネコだった。
 娼婦はなんの媚びた態度——つまり男を欲情するポーズはなく、まっすぐに鑑賞者を見すえる。——それは一時の時代においてタブーとされていた。モシアズは今でもそれがタブーだと思っている。
 贋作家である彼の身体の中には複数の時代が並行して進んでいた。時計は遅れっぱなしだった。

 客はたいがい、『甘いものを』『強いものを』『冷やっとするものを』といった具合に飲み物を注文した。
 わたしが注文するものは、『強くて冷やっとして甘くないもの』である。それはとても小さなグラスに入っていて一息で飲むにはちょうど良い。わたしはたいがいこれを四、五杯飲む。スタナーが頼んだものはプースカフェだった。この店のしきたりをしらなかった彼に悪気はない。そもそもプースカフェをなんと例えて良いのかわからなかった。サワコはプースカフェを作ってやった。それはたぶん、ただ奇妙なだけの酒だった。
 ピーナバーをはじめるまえ——サワコは酒類調合学を学ぶため、大学へと足を運んでいた。彼女の夫となるナフカディル・モシアズは環境保護に関する客員講師をしていた。サワコは大学の廊下でモシアズに会った。モシアズの背は高くサワコを見下ろす格好だった。モシアズはサワコに恋をした。サワコはそれを受け入れた。彼女は素直な人間が好きだった。どちらかというと偶然や感応性を信じた。慎重そうに見えながら直感を尊重した。なぜわたしはサワコが慎重であると思ったか?——彼女があまり言葉を口にしなかったからである。
 二人はいっしょに住みはじめた。モシアズは客員講師を続けていた。その二人の間に子供ができたのはそれから一年半後だった。

♪モシアズの職業は文化をおちょくることである

 サワコがモシアズの別な職業に気がついたのは二人がいっしょになってすぐのことだった。モシアズは贋作家だった。正確なにせもの絵画を描く男?——そうではない。彼は小説作品や戯曲のあらすじを借りて、自分の国で作品として売り出していた。出版するたびに名前を変えた。それだから彼は出版されている、ありとあらゆる作品を読んだ。

 【モシアズの贋作——緑毛のアン】
 緑色の毛をもつアンは、家族の中でたいへん憎まれっ子でした。十二歳のときに両親をなくしたアンは、母親の姉の家に引き取られました。アンは十四歳になっていました。
 緑の裾野が広がる山のふもと。一軒の家。それがアンの家でした。一家の住む町の人々の生活は、林の多い山での林業により支えられていました。アンの家も同様でした。強情ぱりでヒグマのような叔父さんを先頭に、十九の長男と、十六になる三男は毎日朝早く山に入っては木を切りました。叔父さんは、力のない息子たちを毎日しかりとばしました。
「おら、ピーター、いつになったらナタをまともに振ることができるんだ。もっと腰をいれろ!」叱りとばされる三男のピーターを長男のマイクはこういいとばします。
「そんなもやしみたいな腕じゃ一生無理さ」
 マイクはしょっちゅう弟のピーターをやじりました。でもそれは無理もないことでした。この町にマイクと同年代の男の子——遊び相手がいませんでした。
「バカやろうマイク! そんな口をきくのは、まともな方向に木を倒せるようになってからいえ!」
 父親と息子たちが仕事場でこういったやりとりをしているとき、アンのいる家ではどうだったでしょうか?
 叔母さんは今年十四歳になる娘ジェニーと庭でお茶を飲んでいます。とても幸せそうです。叔母さんは物音に気がつくと——それは洗濯かごを持ったアンでした——声を荒げていいます。
「アン、洗濯は終わったのかい、終わったんなら庭の掃除、それから窓を拭いていつものように部屋中の掃除——ベッドもちゃんと叩いとくんだよ」
「わたしの部屋に散らばっているネコの毛もきれいにしておいてね」とジェニーがいいます。
 はい——ジェニーと同い年のアンは小さな声で返事をしました。アンはいつも『はい』というしかありませんでした。アンはこの家を追い出されたら、もう行くところがなかったのです。アンはいつも叔母さんにこき使われていました。
 叔父さんやピーター、マイクが帰ってきても忙しさがひどくなるばかりの毎日です。
 ジェニーの手は白くてきれいですが、アンの手はどうでしょう? 彼女の手はひび割れてかさかさです。アンは家の掃除から食事の用意まで家の仕事のいっさいをまかされていました。
「あんたはなにもしないんだから、家のことぐらいやらなきゃダメよ。緑色の毛を持つあんたは他にできることはないんだからね」——これは叔母さんの口癖でした。
 叔父さんたちの働くところにお弁当を届けるのもアンの役目でした。アンは三人のお弁当を詰め終えると自分の食事もとらずに叔父さんたちの働く場所まで歩いていきました。アンの足では三十分かかります。みんな——特に叔父さんはアンが一分でもおくれるととても大きな声でどなります。
「バカやろー! おれたちは働いているんだ、腹がぺこぺこなんだよ。ちぇ! このコーヒーなんかさめてやがる!」という調子です。
 その日もアンは急いで仕事場へ向かっていました。食事を用意するのが遅れてしまったのです。彼女は走りました。走って走ってようやく仕事場が見えてきました。仕事場につまれたたくさんの丸太、その側で誰かがもみ合っています。声は聞こえません。アンにはそれが叔父さんに見えました。叔父さんが仕事仲間ともみ合っているようでした。
「ちくしょう腹がへった、アンのやつはまだか! 早く弁当をもってこい——」叔父さんはお腹がすいたイライラで、うまそうに昼飯を食べている仕事仲間にやつあたりをしているうちにもみ合いになってしまったようです。「こら、お前の弁当をよこせ、そのうまそうな干し肉をよこせ——」
 叔父さんの太い腕が仲間の胸元つかみます。仲間もだまってはいません。叔父さんのようにあらあらしい男でした。「なにいってるんだ! これはおれんだ」二人はとうとう殴り合いをはじめました。マイクやピーターは面白そうにそれを見学しています。まわりの仲間も「やれ! やれ!」とそそかします。二人は殴って殴って殴りまくります。お互いの顔から血が流れています。
 アンが見たのはそうした光景でした。アンはなぜ叔父さんたちがもめているのかわかりませんでしたが、とにかく急がなければならないと思い、一生懸命走りました。そしてようやく仕事場についたとき——叔父さんが倒れていました。
 アンはぼうぜんとしました。叔父さんは頭から血を出していました。叔父さんは仲間とけんかをしたあげく、足をすべらせ、つまれていた丸太に頭をぶつけてしまったのです。叔父さんは起き上がろうとしません。目は開かれたままです。マイクたちがかけよって叔父さんを揺り起こそうとしますが、それでも叔父さんは目をさましません。大人がひとり叔父さんの側にひざまづき、叔父さんの首元に手を当てました。その大人の人は首を静かに振りました。そしてこういったのです。
「あの世にいっちまったよ」
 アンはあまりの驚きで、お弁当の入ったバスケットを地面に落としてしまいました。コーヒーやスープが土の上に広がっていきます。アンは何もいえませんでした。しばらく静かにしていたい気持ちでした。けれどもマイクが追い討ちをかけます。
「お前が遅れたせいだ! もっとはやく弁当を持ってきたらおやじはけんかなんかしなかったんだ! 全部お前の——お前のせいだ!」
 アンは目の前がまっくらになりました。
 気がつくと緑毛のアンは何も見ない何も聴かない緑色の小さなエンドウ豆になっていました——
 【続く】

 サワコはいった。
「モシアズ——あなたってほんとうにまじめな人ね。わたし人の書いたものってまともに読んだことないの。贋作っての楽じゃないと思うわ」
 モシアズにとって贋作は楽な仕事だった。もともとこれは、彼が言葉を勉強しようとして外国語の本を読みはじめたことがはじまりだった。最初に彼が読んだ本はスペイン語で書かれたウィニー・プーだった。

 わたしが広めようと——いや、人々に分かってもらおうとする教えの合い言葉はこうである——『ブー』
 それは火星宗教の合い言葉だった。

♪ギターまたはデバイスに適した材料

 トミーはギターの材質にこだわる。軽いものより重い木できたギターの方が好きな音を響かせるらしい。アルミニウムでできたギターもトミーの好きな音を出す。わたしは松の木なら良い音を響かせるだろうといった。
「松でできたギター?——ぜんぜんいかしてないね。そんなものジュラ紀の遺物さ、一億五千年の骨董品だ!」
 トミーは時々かんしゃくを起こした。トミーは月の上で稲妻ギターかき鳴らすことに少々あきていた。尻切れで行き先のない電波はどこにも届かない。

♪デジーの勘違い

 わたしの目の前にはデジーがいた。
「きみはずっと『男好き』——つまりホモセクシャルといってきた——いや、『いわれてきた』ね」デジーの顔色は変わらなかった。「でも実際はちがうんだろ」
「そんな地球的話しには真面目につきあわないようにしてきた。ワタシの性をこの星に当てはめろというのが無理だったんだよ。
 いちばん最初に——ボクがロック・スターになったときに迫ってきたのは女性だった。ワタシは彼女たちとこんなことをしようとか、あんなことをしようとかは思ってもいなかった。ワタシは拒んだよ——最後までいくのはね。そりゃそうさ、『やり方』がちがうんだ。
 たぶんきみのいった、その——『ホモセクシャル』といった言葉は彼女たちがいいふらしたんだろう。
 それでもマネージャーたちはそんな噂をよろこんでいたよ——彼らはワタシが特異なふるまいをすればするほどそれを歓迎してくれたんだ。
 マネージャーはこういった——『デジー、きみはタコと寝るんだろ』——ワタシは正直ドキッとした。たぶんワタシたちの『寝る』ってのは、地球上のあらゆる行為に例えるとするなら、それがいちばん近い——ほんとにタコみたいだ。そう、まるでタコ——それを公開したならB級映画くらいのヒットは期待できるだろう——恐怖映画部門のね」
 たしかにデジーは男好きでもなければ女好きでもない。彼はこの星で誰と寝ることもなかった。それは何を意味しているのか——デジーにはこの世に子孫を残す力はなく、永遠に独りぼっちだということだ。

♪独りぼっちあるいはホームシック

 わたしはスタナーが少々ホームシック気味であることをよく知っていた。それは時折——というよりしばしば家族の写真を眺めることでわかった。彼に与えられたパーティションは、わたしのそれとはちがってずいぶんきれいにされていた。スタナーのパーティションを飾っていたものは、二枚のスケジュール表、そして家族が揃った写真に、妻と息子の写真だった。
 わたしは遠くにいたけれどスタナーが何かを呟いているのがわかった。それはたぶん、愛する一人息子『ステファン』それから『アリス』、そして『愛してる』という言葉だった。
 写真を持つ彼の手には皮の手袋がはめられていた。彼は手袋に包まれた指で写真をなぞった。彼は写真すら生身の手で触れることができなかった。

 スタナーの仕事は、わたしのそれとはちがって、必要とされる仕事であり、個人的技能が活かされるもので、それだけ独りで仕事に取り組むことが多かった。彼は尻に根でも生えたかのように八時間もの間イスに座り続けた。そしてわたしには理解できるキャラクターを一見して不規則と思える組み合わせでタイプし続けた。そのコードはWC—COMが所有する通信衛星が送る画像コードの認証キーを変更し、コードを解析しながら不正流出がなかったを確認するためのプログラムだった。それは一週間に一度の定期的な仕事だった。その仕事はWC—COMとして、わりと重要な仕事であり、それを遂行するものは今のところスタナーしかいなかった。そうした仕事は複数の人間に与えられなかった。
 その点わたしの仕事は楽かもしれない。わたしの仕事はいくぶん美術的なものだった。それはわたしの勝手な思い込みだったともいえる。だがたいがいの人は自分の仕事に何かしらの美術的、広くいう芸術性を求めるものだと思う。それも本人のしらないうちに——それは『きれい』という単純な言葉でも表現できる。またこういう言葉もある——『プロフェッショナル』または『職人』ということ。
 わたしがこの会社にいて、まず考えさせられたことは、誰もが自分の仕事を複雑にしているということだ。機構だとか技術といった抜本的なことではなく、誰しもが知らずの内に『キー』を作っていた。各個人が自分の感性を基にしたキーを所有していたのだ。それは古来からの風習のように言い伝えでしか残らないものだった。平たくいってしまえば——みんな勝手にやっていた。
 どうしたらいいのだろう?——わたしは会社が支給してくれる文具の一つである一本のボールペンを見ながら考えた。そのボールペンはペン先が巧妙に作られていて、インク液がほとんどもれてこない、あまり面白みのないペンだった。それでもこうした技術のおかげで、書類作成はずいぶん助かってきた。だがあまり人間味のないペンであるとわたしは思っている。どうせこのペンもあと十日も経てばインクがなくなってリサイクルボックス行きになる。だが果たして何本のペンがリサイクルされているだろう。わたしの指先で回されているこのボールペンは二百年後までその残骸を残す。絶対に残す。絶対に! これはラダだ。ロシア製自動車のラダだ。ラダは修理を重ねて永遠に生き続ける。

♪裁かれるものは何か?

 公判にもはじめてがある。何ごとにもはじめてがある。ロック・ミュージックにもはじめてがあった。たぶんそれは今裁かれるべきである——ロック・ミュージック第一公判。
 法廷に現れたのは稲妻ギターを抱えたクレイジートミー
 そのとなりには『記録』——リンボー・デジー
 陪審員であり、被害者はスタナー
 本名は——忘れた!

 わたしの身体はスタナーが紹介してくれた草で埋まっている。草なんてそんなものだった。

♪トミーは家出をしたことがある

 ある人はバンドをファミリーであるといった。『家族』である。トミーはその家族から一度家を出た。彼は失踪したのだ。これはリョーコから聴いた話しである。
 彼はバンドが組まれて四年後に一度失踪したという。失踪?——わたしにいわせれば家出だ。バンドがファミリーとするならば。
 ところでトミーがいなくなったことによるバンドの損失は、テレビとラジオの出演料だけで二千五百三十四万五千八百二十一円だった。
 たぶんそうした額だから問題になったのだとわたしは信じている。
 ところがこうともいえる——人の価値はディンギで決まるのだ——合掌。ディンギはその媒体を変えつつある。今では質量ゼロでもディンギの代わりになる。

♪地球を捨てるには

 デジーはあきらめが大半を占める腹立ちを紛らわせながら呟くようにいった。たぶんそれは珍しいことだった。
「地球人は地球を捨てるつもりらしい。彼らは二千年初頭までに火星が復活するきっかけを作ろうとしている。地中に埋まっている氷を溶かすつもりだ。あらわれるコケ、生産される酸素、そして広がる緑——三百年も経てば火星は新しい星になってくれると信じている。
 そして——地球はたぶんゴミの山になる。
 火星に住みはじめた住民はあらゆる廃棄物——それにはきっとあらゆる不燃は器物が含まれている。ウランちゃんも、すべての廃棄物が含まれている。それは地球に捨てられている。彼らは教訓を持っている。ゴミを捨てれば星は再生する手段をなくしてしまうと。
 ほとんどの人間が火星に移り住んだと同時に地球にあるものは——地球事体を含めて一切が不要になるのだ。
 その中には人間は入らない——本当にそう思っているのかい? すべての人間が火星にいけると思うのかい?
 ——それは無理さ。特にワタシなどそのなかには入らない。——絶対! 無理なことさ——

 デジーの顔には深いしわがきざまれていた。それはフェイクである。デジーはとても——とても若々しい顔をわたしに見せてくれた。
 デジーの言葉によれば、ほんの近い将来に——わたしはゴミ捨て場となった地球で働いているらしい。働いているというのはそのまま『生きている』ということでもあるらしい。
 そして重要なことは——その時を誰も止められないということだ。

♪スタナーの次第

「やあ、スタナー——調子は?」
 スタナーはいった、「まだニッポンに慣れていないよ——ついつい仕事に打ち込んでしまうんだ。逃げてるんだな」スタナーの目はモニターを前に充血していた。わたしはいってやった。
「たいがいの人間が逃げる先というのは、暖かい絵画とか優しい音楽、それにロックンロール、それとジョギングだろうな。まあ、とにかく——こんなわけのわからないキャラクターの集合体の中のどこに逃げ場があるというんだ?」
「これはこれで楽しいものさ。物を動かすものは機械や歯車だけじゃないんだ。こうした『わけのわからないもの』が必要なんだ」スタナーは後頭部を手で支えながらイスの背もたれに身を投げた。「もちろん——本当に逃げたいところは自分の家——家族のところさ」
「家族たちは来れないのか?」
「アパートメントの整理ができればね」
「何か足りないものなんかはあるかい? 食器だとか色々——」
「全部揃ってるよ。休日くらいしか料理はしないけどね」
 スタナーはフライパンをゆする真似を見せた。たぶん彼の見せたシャドークッキングで調理されているのはパスタだろう。スタナーはパスタが好きだった。
「たぶんボクは思うんだが——今晩当たりピーナバーでもいかないか?」

 わたしがスタナーのことを評するとするならば、彼はかなりのカタブツだった。彼の容姿は多分イカしてる。絵画や美術に傾倒するわたしがいうのだから間違いないことだ。ところが——彼はあまり女性に対して積極的ではない。それでも言い寄ってくる女性は多かった。そうした女性たちに彼は二、三言の話ししかしなかった。彼がした話しといえば——天気の話しである。

 だがそんなことはどうでもいい——この地球はゴミ捨て場になってしまうのだから。
 スタナーの手はなぜ博物館に飾られたのか?——ああ、もったいないことだ。

 スタナーには話し相手が必要だった。それはサワコだろう。
 サワコが新聞社に勤めていたことをわたしはサワコ自身から聴いた。スタナーにはわたしが話してやった。彼女の夫であるモシアズに訊いたら、彼はそれを知らなかったという。「フーン、そう——」それが彼の返答だった。そして「——ところで代替フロンでもダメだったって知ってるか?」と訊いてきた。何やら色々と書き込まれたレポート用紙の束を抱えていた。彼は中米で行われたカンファレンスの帰りだった。
「これおみやげ」モシアズがそういってサワコに渡したものは馬の毛でできたマフラーだった。「あとからワインが三ケース届くよ。赤いやつ。店で使ってよ」
 スタナーはサワコに訊いた。「彼は——きみの夫はきみを愛しているのかい」
「ん?——ふつうよ」サワコはそう応じた。スタナーはどう思ったか? 『ふつう』ということを自分のことと同じように考えていたようだった。
「それじゃよほど愛しているんだな」
「そりゃどういうこと?」
「ボクとアリスはとても強く愛しあっているんだ」
「だから?」
 スタナーは納得のいかない顔をした。「それがふつうの家庭ってものだろ」

 わたしは少しだけ悲しかった。それはなぜか?——スタナーは『ふつう』ではないからである。

 スタナーの両親はシビレ男ではなかった。息子のステファンもまたシビレ男ではなかった。仮にスタナーの中にシビレ男になるべき細胞が存在していたとして、そのシビレ細胞がステファンの中に紛れ込んでしまっていたとするならば——可愛いステファンはプールに入ることもできなかったろう。自分のガールフレンドと手を握りあうこともできなかったろう。母親は皮の手袋をはめさせない。そして彼はいじめられただろう——それも残酷に。たぶんそのときのステファンは、尻にクラッカー花火を入れさせられるカエルと同じだろう。

【続く】



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