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仮題:スタナーと彼をめぐる話しについて 2 [仮題:スタナーと彼をめぐる話しについて]

【2回目】

♪マーレーとカンジェロギャング

 カンジェロはマーレー・フラスコの部下だった。
 わたしは彼を知っている。一度——いや、二度顔を合わせたことがある。二度目はつい最近のことだ——わたしがスタナーに会った後のことだ。
 彼はサンフランシスコでちょいとしれた顔だった。だが一般の人は知らない。カンジェロはスカーフェィスが創始したギャングを引き継ぐ男だった。カンジェロはギャングとして食っていくために、くだらない教団も組織していた。これはカンジェロのアイデアではない——マーレー・フラスコの発案だった。マーレー・フラスコの発案は、たいがいにおいてそれが後であっても、彼の身のためになるものである。彼のアイデアはタダではない。
 カンジェロはマーレー・フラスコにとって友人のようなものだった。『仕事』という対面上における関連性は怪しいものだが、『個人』という共通性は大いにあったようだ。何せカンジェロは人の命を奪った経験があった——『バーン!!』てね。
 カンジェロはわたしに話してくれた——「オレはマーレーに呼ばれたんだよ——」
 それはマーレーがカナダに持っている山小屋で行われた。カンジェロはわたしにグチをこぼした「——オレはマーレーと話しをするために、エア・カナダと車を使ってビクトリアへ行き、そのうえスキーを駆使しなくちゃならなかった。重装備でね」彼は続けた、「寒かったよ——でも暑かったともいえる。しまいには汗びっしょりだった」
 カンジェロとマーレー・フラスコの話し合いはこんなもんだったらしい。
「こんにちわ——ボス」山小屋に足を踏み入れたカンジェロがいった。カンジェロは五分もしないうちに重装備をとかなければならなかった。それでもマーレーはクビをカバーするトックリのセーターを着込んでいた。カンジェロは毛糸の帽子で型がついてしまった髪の毛をなおしながらいった、「暖かい部屋ですね」
「おお、我が友カンジェロ——ビクトリアへようこそ。元気だったか?」カウチに座っていたマーレーは、セーターの裾をなおしながら立ち上がった。
「そのままでけっこうですボス。いつからこちらへ?」
「先週からだ」
 カンジェロは『どうしてこちらへ?』とは訊かなかった。訊いたところでマーレーはだいたいこういう——『来たかったんだ』たいがいにおいて、マーレーのすることに理由がなかった。マーレーがいった、
「今日はうまいサーモンがある夕食にしよう」
「あいかわらず料理を?」
「ああ、ここじゃ独りだからな。ブランデーでいいか?」
 カンジェロは少し迷いながらいった、「——何か冷たいもの」そして「水を」
「ほう、健康的だな。カロリーでも気にしているのか?」
「いえ、そんなことはないです。ただ喉が乾いて」
「そりゃいかんな、風邪でもひいたか?」
「そうじゃないんです——この部屋がとても暑くて」
 マーレーは不思議な顔をした。「わたしには何ともないが——」そして口をつぐむと笑顔を返した。「わたしの体温が低いのかもしらんな」
 マーレーは対面のカウチをカンジェロにすすめると、自分はキッチンに向かった。少しして大きなグラスでトマトジュースを持ってきた。カンジェロは礼をいってグラスを受け取ると、口をつけた。そして一瞬渋づらを見せた。するとマーレーがまじめな顔でいった、
「少しウォッカを入れておいた。ここじゃ油断するとすぐに風邪をひく。今きみがかいている汗もすぐに冷えてしまう。自然とはそうしたものだ。けっしてわたしたちのためには働いてくれない」
「ありがとうございますボス」カンジェロは笑った。「——で、用件とはいったい——」
 マーレーはカンジェロの言葉をさえぎった。「大事な用件ほどゆっくりと話さなきゃならん。まあゆっくりするんだ」
 カンジェロはわたしにいった、「ゆっくりと事をすすめるときのマーレーは、たいがい真剣なんだ。オレはよっぽど大事な用件なんだなと思った」カンジェロはネグロタバコに火をつけた。わたしはそのタバコの煙をまともに受けたので、思わずせき込んだ。カンジェロは『すまない』といった。そしてタバコの煙が風に乗らないようにあちらこちらと向きを変えた。わたしはいった、「気にするなよカンジェロ、もうボクは人のタバコをたくさん吸ってる。これでもけっこうタバコを楽しんでいるのかもしれない」
 マーレーが用件を切り出したのは夕食のサーモンを口にしている途中だった。「あのサーモンはうまかったよ——」カンジェロはいった、「——このくらい厚くて(といって指でその厚さを教えてくれた)バターが溶けていてね。付け合わせのポテトにはちゃんと下味がついていてパサパサしていない——とてもクリーミィなポテトだった」
 マーレーはこう切り出した、「ある男を捜して欲しいんだが——」
「男、ですか?」
「ああ、女といいたいところだが男だ」
「その男の素性はわかっているんですか?」
「わかっている。その男の住所も、家族構成も」
 カンジェロは不思議な顔をした。「それなら——」
「『すぐ捜せる』だろ」マーレーはそういって笑った。
「ええ、そのとおりです」
 マーレーはカンジェロのグラスにワインを注いだ。「その男を監視して欲しい。そして彼の行動を逐次把握してほしいんだ。そして連絡してほしい」
「ひとつ訊いてもよろしいですか?」
「『なぜ』か?」
「ええ、そうです。なぜそれをしなければならないんですか?」
 カンジェロはわたしにいった、「マーレーは教えてくれるはずがないと思っていた」
 ところがマーレーは応えた。
「ひとつだけ教えておこう。彼は『シビレ男』なんだ」
「シビレ男?」
「そう、『シビレ男』だ。まあ、電気ウナギみたいなもんだ。彼の身体には発電装置が入っている。といっても『装置』じゃない。変化した筋肉だ」
 カンジェロはほんの少しの間考えた。そしていった「わかりました」
「条件がある——」マーレーがいった。「これはきみがやってくれ。他の奴らにはやらせないでほしい。やらせるにしても人数は少なく——秘密というのは、知らない奴が少ないほどいい。かといって誰も知らなければ秘密じゃないが。今回はわたしときみだけだ」
 カンジェロはいった、「モーガン、オレはそのことでニッポンに来るとは思わなかった」

 カンジェロは、名門のギャングの出だった。彼はいつも古くから住む家にいた。用事があれば出かけるが、たいがい用事の方から彼の住む邸に足を運ぶ。わたしがそんなカンジェロを知ることになったのは、彼が資金援助をしている教団を介してのことだった。
 わたしは個人的でありながら、ある教えを広めたいと思っていた。それは火星に関するものである。が、それはあまりにプライベートなものだ。好きずきというもの——。それでおしまい。
 とにかくカンジェロはその後にニッポンへもやってくるだろう世紀末集団の面倒も見ていた。それは彼にとってはただの隠れみのにすぎなかった。その集団を保護する理由は、東洋から連れてきた薬剤師を囲うためだった。たいがいの事実には理由がある。

 つまり——スタナーはちょいと見は普通の男でも、実際は化け物だったのかも知れない——マーレー・フラスコはそういいたかったのだ。
 なぜ彼が化け物なんだ?——それを示す事実がある。それは博物館に展示された彼の両手首である。普通の人間の手首は、きっと世間の目にさらされることはないだろう。わたしはスタナーが普通の人間であるとかたく信じている。彼がシビレ男だという事実があるにしても。
 マーレー・フラスコは、視力を矯正する薬を研究していた。そのあげく、スタナーの身体の一部は発電器になった。これはほんの偶然だった。
 スタナーはわたしにいったことがある。彼がニッポンにきてほんの少ししてからのことだった。
「ボクが考えているのはね、モーガン——家族の幸せだけなんだよ。きみは家族って知らないだろう——悪いけどボクは知ってるんだ——妻がいて息子がいる。できれば娘も欲しい——ボクは家族があるおかげで生きてる。ほんとうに家族は良いんだ」
 何がそんなにいいんだ?——わたしは訊いてみた。
「愛するってことがさ」
 彼はほんとうに化け物かも知れない。

♪スタナー悩むなかれ

 わたしはスタナーがトイレで吐いているのを見た。それは二人でニッポン料理店に入ったときだった。たいがいにおいてその国の料理店に入ったとき、出されるのはその国の料理である。であるから、『ニッポン料理店』というのはおかしいことだ。それはどこの国でもいえることだった。
 彼がなぜ吐いてしまったか?——それはわたしたちが『サシミ』を食べているときのことだった。そこにはいろいろな魚の切れ端があった。ひとつはマグロだった。そして、ブリもあった。普通、ブリは照り焼きがうまいらしい。信じられないものはイワシとサンマだった。ニッポン人はサンマのあの細かい骨さえピンセットで抜いてしまうのだ! 食に関してなんと浅ましく、そしてデリケートなことか! わたしはポルトガルで食べたイワシを思い出す——うまかったことを。
 スタナーは魚のサシミを食べることができるようだった。が、たぶん彼はその生臭さをかなり我慢しながら口にしていたにちがいなかった。それでも変わった味だとかいいながら、なんとか皿に盛られた料理をこなしていた。わたしはスタナーにいってやった——そんなに無理して食べることはないと。
「あとからうまくなったりするかも知れない」スタナーはそういった。「それに味は? だけど、噛んだときの感じが不思議でいいんだよ」
 そんな彼の胃を悶絶させ、そして吐かせてしまったものはタコだった。彼はタコを口にしてかみ砕いたとたん——彼は口に手を当てたままトイレへと急いだ。
 それ以来、わたしはスタナーが日本にいる間、彼にタコをすすめることはしなかった。それがおでんのタネとなっていても。

 スタナーは電車に乗るのが悩みのタネだといっていた。彼は人が見ていないとき、たいがい手袋をしていた。いちばん安全なものは、工事専門のスーパーで売っていた電気絶縁ゴム手袋だった。普通は皮の手袋をはめていた。それはカワウソの皮を剥いで作られたものだった。その手袋は——彼と彼の妻の間で最初の騒動のもとになった。
 彼の妻アリスは動物擁護団体に所属することはなくても、その意義に賛同する人間のひとりだった。アリスが身につけるものは、たいがい綿で作られたものだった。その他にはポリエステルという、地球に還元不可能な素材でできた服を身につけることもあったらしい。しかし動物の皮を身にまとうことはなかった。剥製を置くかわりに、大きなぬいぐるみを居間においた。アリスは食事の他に動物たちを傷つけることを好まなかった。油はなるべく植物性を使っていた。バターよりマーガリンだったが、それはパン以外には通用しなかった。だが、とにかく——アリスは動物を擁護した。
 アリスは、スタナーがはめていた皮の手袋を見てこういった。
「何のつもり? いったい何?——その手袋は!」
 スタナーは困ったらしい。彼は手袋をはめた手で頭をかきながらこう応対した、
「いや、ちょっと電気をいじってたんだ」——それはその場しのぎの言い訳にしかならなかった。彼が次の日にいった言葉はこうである。「うーん、何というか——コンピュータを使ってるだろ。そうするとけっこう指が大事なんだな。ちょっと指先に傷がついちゃってもキーが叩けなくなる」アリスはうさん臭そうな顔をしたらしい。それにもめげずスタナーは続けた、「——実際、ボクの同僚なんかはさ、コーヒーで小指をやけどして、作業能率が落ちっぱなし。それだから仕事はうまくいかなくなって、最初は落ち込んでたけど、だんだんとやけっぱちになってきてさ、手当たり次第に当たり散らすんだ。それはすごかったぜ——机の上の花瓶をガチャーンとか、本棚をバーンって倒したりしてね」アリスは信じられないという顔をした。そうしたときのアリスの目は日本人のように細くなる。「そうだろ、信じられないことさアリス、ボクらさえ——その場にいたボクらさえ信じられないよ——でもほんとうさ」
「その人だいじょうぶだった?」
 スタナーはほっと安堵したという。しかしそれからがかんじんだった。「ああ、アリス、きみは優しいよ。あいつのことを思ってやるなんて——でもあいつはたぶんおしまいさ。こわしたもののお金を全部さっぴかれて赤字の給料袋をもらい、そのままお払い箱。会社はあいつに見切りをつけちまった。ああ、そんなに悲しい顔をするなよアリス——実際、お払い箱なんだ。せめてリサイクルボックスに放り込まれたことを望むだけだ——次の就職が決まるように」
 アリスはスタナーの肩に顔を埋めた。スタナーはアリスの背中に手を回し、やさしくささやいた。
「だから手袋はどうしても必要なんだ——カワウソにはかわいそうだけど、必要悪さ。この手は守っておかないときみも抱けなくなる」
 その言葉は真実だった。
 アリスの擁護が手伝ったせいか、スタナーの家に居ついた犬——ジーンの身体はまるまる太っていたらしい。そうしたことに対するアリスの言葉はこうだ——「ねえ、わたしジーンのためのヘルスマシーンがあったらいいと思うのよ——ねえ、どうかしら」
 ヘルスマシーンはいい機械だった。それは外に出ずして運動ができる機械である。平らな箱の中に幅の広い肉厚のゴムが入っていて、その上を走ると、それがキャタピラのように回転する。そして、人はそこにいながらして、走る欲求を満たすことができるのだ。

 ジーンが時間を放棄した。
 涙を拭きながら、ステファンはいった——「ジーンがいなくなった」ジーンはシビレていたのだ。誰がシビレさせたのか?——それはスタナーだった。彼が可愛い可愛いと、ジーンの頭をなでたのだった。そのとき、彼は小用のあとで、カワウソの手袋をはめていなかったのだ。スタナーは心から悲しんだ。そのほとんどをステファンのために。その残りを——ほんのちょっぴりをジーンのために。そしてもちろん自分のために——
 ジーンは新聞をとってきてくれたり、ゴミ運びをしてくれる犬だった。ジーンは人がいなくてもゴミを捨てる。しかしジーンはゴミを選別することができなかった。

 スタナーは造られたものだったか?——それは事実ではない。スタナーは失敗から生まれたものだった。どちらにしろ、それは大きな悲劇であった。

 スタナーはニッポンで電車に乗った。彼はそこでたいへんな間違いを犯してしまった。彼は手袋を脱いだのだ。
 電車では痴漢行為を取り締まるために多数の警官がいたらしい。女の警官もいれば男もいた。ニッポンの電車の混み具合は超人的である。警官はスタナーの手袋に目をつけた。それはいかにも危険に見えたのだ。
 スタナーは普通の人間ではない人々——つまり警官たちの視線に気づいた。スタナーは笑い顔を見せて手袋をとった。
 スタナーの素手は目の前にあった吊革のぶら下がっている鉄パイプをつかんだのだ。
 その結果は?——ショックだった。

♪サワコの店(といってもぜんぜんあやしくなんかない)

 わたしはスタナーがニッポンに来たとき、会社にいるパートナーたちに彼を紹介する役目をおおせつかった。わたしはスタナーを紹介できるほど親しかったろうか?——いいや、そんなことはなかった。わたしはニッポンで初めてスタナーに会ったのだから。
 スタナーを初めて見たときのわたしの印象は、シリアスな舞台俳優の頃のシャルル・ボアイエだった。

 わたしがスタナーを連れていった店は『ピーナバー』といった。わたしはイスラム語をしゃべるママを彼に紹介した。
「彼女はこの店の『ママ』で、イスラム語をしゃべるんだ。見かけはニッポン人だがやっぱりニッポン人」
 スタナーがわたしに訊いた。彼の言葉は少々のぼせ気味だったが、それはこうしたものだった。つまり、ママはニッポン人なのになぜイスラムの言葉をしゃべるのかということだった。
「彼女のダンナがイラン人なのさ」
「インサラーム」——ママ=サワコがいった。「サワコです」それはニッポン語だったが、スタナーにはそれが名前であるとわかったらしい。スタナーはこうも訊いた。
「なぜあなたはママなのか? ママというのは母親のことではないか?」
「たいがいにおいて、その店をまかされている女性はママと呼ばれるんだ」
 ママ=サワコはわたしよりも若かった。それもほんのわずか——七百三十時間ほど若かった。スタナーとはその倍の差があった。ニッポン人の彼女は、年の差以上の若さをわたしたちに見せつけた。
 スタナーはママを見た。ママの髪の毛はふくよかで、栗色をしていた。服装は薄くてカジュアルなキモノだった。それは紫色をしていて、けっして合成繊維には見えなかった。それは一見ガウンにも見えた。そしてその下にはそで口の広がったブラウスを着込んでいた。彼女の口数は少なかった。わたしが知る範囲である彼女の時間を伝記としたなら、それは二三枚の紙で足りるかもしれない。
 ピーナバーはあまり客の来ないバーだった。このバーを紹介してくれたのはアユムである。彼はたぶん親切な男だった。わたしがニッポンに来たとき、親切なニッポン人たちはよく居酒屋へわたしを連れていってくれた。居酒屋とはニッポン独自のアルコールをたくさん抱えているバーである。わたしはけっしてその居酒屋がいやだったとはいわない。ショウユやミソといった味にもすぐになれたし、フレッシュな魚も食べることができるようになった。タバコはもともと吸っていた方だったので、きらいではなかった。
 わたしがもっともつらかったのは——正座である。それは一種の拷問だった。わたしの足にはズボンのしわが食い込んだ。あぐらにしてもそれは同じだった。わたしの足は日増しに神経がおかされていったのだ。
 そんなわたしにピーナバーを紹介してくれたのはアユムだった。ピーナバーに畳はなかったし、客もほとんどいなかった。
 わたしはときどき独りでピーナバーに入る。ニッポンに来た最初の頃のわたしを助けてくれた英語とイスラム語が併記されたメニューをスタナーが見ていた。そのメニューはアユムがプリントしたものだった。彼のコンピューターはヘブライ文字もタイプできた。アユムはママが丁寧に書いた文字を、その形だけを認識してタイプした。彼の趣味的な語学はスペイン語に向けられていた。
 わたしはよくグラスの七割くらいに満たされたスコッチウィスキーを飲んだ。スタナーはいったいどんな酒を飲んだろうか?——それは七色に彩られた酒だった。わたしはそういった酒があると思わなかった。それはプースカフェと呼ばれていた。わたしにとってそれは不思議で、そして感動するカクテルだった。だがママにとっては——いや、バーテンダーにとって少々やっかいな飲み物だった。
 初老のバーテンダーがそれを最後に作ったのは、四万三千八百時間前のことだった。
 わたしはそのプー、プププ、プースカフェというものを飲んだことはない。スタナーも滅多に頼むことはないといった。もしかするとスタナーは、ピーナバーで初めてプースカフェを飲んだのかもしれない。その論拠はこうである。カウンターにおかれたプースカフェを見たスタナーの顔には驚きがあったのだ。
 それはたぶん「こんなものはじめて見た」——そんな感じだったと思う。たぶんそうだ。

♪スタナー驚くことなかれ

 わたしはスタナーを職場の同僚に紹介した。
「彼はアメリカの本社から来ました。わたしとは職場がちがいますがよろしくお願いします」同僚たちは拍手を持ってスタナーを迎えた。わたしは内心ほっとした。大丈夫とはわかっていても、初対面はいつも緊張する。相手がシビレ男ならばなおさらだ。
 そのときスタナーは革手袋していなかった。そこには彼自身が事前に入手していた知識によるものだった。それはこういった知識である。『たいがいのニッポン人は握手をしないものだ』それは正しかった。スタナーは多少ひいきめいた深々としたおじぎでその場をしのぐことができた。
 ニッポン人はそんなものだった。
 わたしはスタナーにアユムを紹介した。アユムは「ランチをとろう」といってわたしたち二人を誘った。スタナーはわたしにいった——彼は英語をしゃべれるのか? それに応えたのはアユムだった。彼はこういったのだ「ジャングリッシュならね」
 レストランへ向かう路上でわたしはアユムにいった。「彼はシビレ男なんだ」アユムはわたしの言葉に驚きを見せなかった。と、いうより彼にはその意味がわからなかったにちがいない。驚いたのはスタナーの方だった。——何をいうんだ?——スタナーはそういってわたしの袖を引っ張った。
「きみがスタナーだってことをアユムには話しておくべきなんだ。ニッポン人があらゆることを深刻に考える——そのことをきみに証明してやろう」
 スタナーが驚いたのはわたしがスタナーがスタナーであることを知っていることだった。
「わたしは知ってる。マーレー・フラスコから聞いてるんだ。きみはこの地球上で唯一無比のシビレ男だってことをね」

 わかったこと——イエスは巨大な木の十字架を作る父ヨーセフを手伝った。その十字架にはりつけられたのはイエスだった。
「マーレーは近視矯正用の薬を作り出そうとしていた。そしてきみはそのドナーだった。その結果きみの近視は治っただろうか?——治らなかったね。治るどころか——きみの目はバチバチしはじめたわけだ。もしきみがコンタクトをはめっぱなしでいたならば、今頃きみの目はプラスチックでコーティングされていた」
「マーレーは本当に失敗したと思うのか?」
「それがきみの誕生だ」
 スタナーはあきらかに不服だった。誕生という言葉が。二度目の誕生——再臨できるのは神だけである。わたしは神がまた再び地上に降りてくることを願っていた。それを実現できたのはまだ先のことだったが。

 それはわたしたちがパスタを食べているときのことだった。ちょうどテーブルには、前菜の皿が片づけられた後が丸く残っていた。わたしは食べ方が下手なので、よくドレッシングをこぼした。けれどもアユムのようなせせこましい食べ方は好まなかった。食べるときは楽しまなければならないとわたしは思う。だがアユムは楽しんでいないわけではない。その証拠に彼は食事が終わった後たいがいこういうのだ——「ああ、うまかった!」
 三人の座るテーブルにパスタが届けられたあと、アユムはいった。
「シビレ男ってなんなの?」
「スタナーのことさ」
「スタナーっていったいなんなの?」
 辞書に出ているよ、とわたしは教えてやった。しかしアユムはたぶん辞書を開こうとはしないだろう。アユムはたぶんスタナーというのが、趣味のグループか何かに思ったにちがいない。たとえば彼の知り合いは、おもちゃの銃を持って戦い会う、シューターと呼ばれる戦争同好会に入っていた。
「独りで住んでいるんだったら、スタナーは独身なんだ。それじゃボクらといっしょだね」
「ちがう。それは『今』の話しだ。今の彼はたしかに独りさ。実際には妻もいるし息子もいる」
「きみらは親友なのかい」
「ボクと彼は会社が同じなんだ。でも会ったのは昨日がはじめてさ」
 時間は過ぎると同時に消えていく。人の時間は心臓と同期しているのだ。
 わたしはスタナーにいってやった。「きみは注意しなければならない」それはスタナーが人と握手するときにある。スタナー自身も心得ていた。彼は握手をするとき、額に汗を浮かべながらそれをした。そのとき、彼の力は手以外の部位に集中、もしくは分散されていた。そしてスタナーは眉間にしわを見せる。それだから彼の握手にさわやかさはみじんもなかった。

 スタナーはよく宴会に呼ばれた。彼が初めてサケを飲んだのも宴会が縁だった。赤い鼻の男がスタナーに透明なサケをさしだした。「こりゃワンカップ! ワンカップ!」スタナーはそれを飲んだ。「?——」その甘さはスタナーの喉に引っかかり、彼の食堂をのたうちまわりながら胃の中へ落ちていった。そのサケは何杯となくかわされ、アメリカナイズされたサケの提供者は、目元を赤くするスタナーに握手を求めた。そして提供者は身体に強い刺激を受けた。
 極力握手をさけるスタナーにとってアユムは都合のいい人間だった。それはなぜか?——アユムは極度の恥ずかしがりやだったからである。彼には握手をするという心の余裕がなかったのだ。そのかわり彼はこう練り返した——「オーイェー」と「グッジョブ」ただし状況を顧みないそれは、スタナーにとって困った言葉のひとつだった。

 独りでニッポンにやってきたスタナーは、しばらくの間ホテルに住んでいた。それは五百四時間ほどの間だった。スタナーはわたしにいった。「ホテルはそうたいして快適じゃない」——それはわたしもそう思う。わたしもコンクリートの中に住みたく無いという点において彼に同感である。それは『陽が輝く』という意味の名前を持つホテルだった。わたしにとってもあの建物は少々窮屈だ。身体の大きさや部屋の狭さのためではない。箱が苦手なのだ。箱には住みたくない。わたしは大空のもとに住みたいのだ。
 スタナーはいつも濡れタオルで手を拭いた。ホテルの従業員たちは、二十四時間に二度スタナーからの電話に応対した。そして温かい蒸しタオルを彼の部屋に運んだ。
 スタナーはときどき思うのだ——わたしはなぜシビレ男になってしまったのか?——わたしには何ともいえなかった。スタナーが訊いているのは、そうなってしまった理由ではなく、『なぜ自分なのか?』ということである。彼はじゅうぶんに理解していた。自分がスタナーになってしまったのは、あの臨床実験のせいだ——彼はそう納得していた。
 わたしはスタナーにこういった、「きみのそれは病気じゃない。筋肉の一部が発電器になってしまっただけなんだ。筋肉が動くことによって電気が発生するんだ。幸いなことにきみはナマズのようにはなっていない。なんていうかな——電気が発生する場所は身体全体に行き渡っていないんだ」
 わたしはどんな言葉を彼にかけてやろうかと考えたが、たいして効果的な言葉は思い浮かばなかった。彼にとっていちばんのそれは妻、そして子どもからの声だった。
「愛しているわダーリン」
「パパ、大好き」
 ああ、これ以上のうれしい言葉が他にあるでしょうか——

♪スタナーとロック・ミュージックへの序幕

 スタナーは普段通りに仕事をしていたのだろう。彼はコーヒーが好きだったのでよく飲んだ。職場にはスチール製のスタンドに載せられたコーヒーメーカーがあった。彼は月に千円というディンギを払って一日中コーヒーを楽しんだ。彼はよく考えが煮詰まったときや落ち込んだときにタバコを吸ったという。それはアメリカタバコだったが、実際にはニッポンで製造されていた。彼のタバコの吸殻は見事なものでほとんど根本——つまりフィルターの付け根まで吸われていた。それだけ彼が一本のタバコに費やす時間は長かった。
 彼がいちばん好んでいたもの、それはマリファナだった。わたしはスタナーと話したことがある。マリファナの自家栽培について。

 スタナーはよくアムステルダムにいたことを話してくれた。
 パーティ会場になっているアパートの部屋に入ると、そこはマリファナの売り場だった。彼は赤ら顔でつばのない帽子をかぶった男に声をかけられた。普段その男は、二丁目の角にあるコーヒーショップでマリファナ売っていた。
 男は帽子のかぶり具合を盛んに気にしながら、「やあ、前も来てたよね」そういいながらも帽子をなおした。
「ずいぶん前さ」とスタナーがいった。「ひさしぶりに吸ってみたくなってね」
「買っていけばいい」
「そうしたいけれど持ち込めやしないさ」
 スタナーはよくわたしに語ってくれた。
「ロックミュージックってマリファナだと思わないか?ボクはそう思うんだ。最初は格好だけかと思ったがそうじゃない、結構意味があるんだよ」わたしはわからない顔をしてやった。「——意味があるというのは——たぶん吸えばわかってくれると思うんだ」
 彼がはじめてマリファナを吸ったのは高校を卒業したときだった。それは友人にすすめられたものだったが、それっきり習慣になることはなかった。そのときの彼はまだタバコも吸い出してはいなかった。スタナーには罪の意識というものが存在していた。
 彼がまたマリファナを吸おうと思いはじめたのはタバコを吸ったときだった。彼が吸ったタバコはイギリス製のタバコだったが、それは以前吸ったマリファナにくらべて実にまずかった。そのとき彼はもう一度マリファナが吸いたくなった。

 アムステルダムではマリファナの栽培が自由だった。マリファナはコーヒーショップでも買うことができた。コーヒーショップはときどきパーティーを主催した。それはキャナビスといった。そこに現れる人間のほとんどが外国人だった。主催者側はマリファナの栽培方法も教える。アメリカ人の多くが屋内栽培の仕方を訊いた。そうしたときのアドバイスは、『なるべく小規模で栽培すること』だった。屋内栽培を行うための『栽培セット』という栽培用の道具を日照の役割をする照明器具も含めて売っていた。たいがいの人間は家にあるクロゼットを栽培場所に使っていて、その中にライトを取り付け、人工太陽の下でマリファナを栽培した。マリファナの種一粒が五百グラム。一袋が一キログラム。五袋で五キロになる。
 マリファナ一本栽培して千アメリカドル。パイナップルやバナナなんかよりよっぽど良い金になる。それを三千ドル、場所によれば五千ドルで引き取られ、末端では最高七千ドルになった。捕まれば連邦刑務所で十年間の刑が待っていた。その刑は最高で四十年、罪状によっては終身刑になった。
 捜査員は不法栽培者に目星をつけるとき、ヘリコプターを使い、上空から裏庭の温度を赤外線カメラで確かめる。そして電気代が不自然に高くはないか調べる。
 マリファナの栽培に手を出した人間のなかには、事業に失敗し、会社の借金の穴埋めのためにはじめる者もいた。そうした人間はたいてい捕まった。
 キャナビスやコーヒーショップでは加工したハシシを売るだけではなくて、ばあさんがそのレシピを売っていた。パーティー——キャナビスとなると、マリファナの繊維で作られた服のファッションショーや、マリファナやクスリを歌うバンドが演奏した。そしてカンファレンス——最新の科学技術を駆使したマリファナの研究会が開かれた。一粒の種から何種類のマリファナを作ることができるか?交配によるイモやリンゴのような品種改良の近況。
 スタナーは、キャナビスの出店で買った紙巻きを一服しながら、カンファレンスで著名なサイエンティストの話しを聴講した。となりでは、女性が独り——ずいぶんしわが見えたがたぶん昔はきれいだったような女性が座っていた。スタナーは何か話しかけようとしたが、彼女はそれどころではなかった。その目はとろんとしていて、その奥はどこか別の時空につながっているようだった。
 トミーのスクリーンが天国へつながっているように。
「ハーイ、すごくインテリだね、お兄さんは——」片手にビール、もう一方の手に葉っぱを持った、髪の毛を後ろで束ねた男が腰をふりながらスタナーに近づいてきた。彼はスタナーの格好を見てインテリだといった。スタナーはフラノのスーツに自分では上等だと思っているチェック柄のネクタイを締めていた。それはスタナーの普段着だった。彼はもともと服に気をかけない人間だった。その証拠は彼がみかけは上等そうでも、たいがい同じ格好しかしていないことだ。それに対して、話しかけてきた男は、油で汚れ、ひざが擦り切れたジーンズをはき、袖のないジーンズのジャケットをはおっていた。あごと鼻下には濃いヒゲがはえかかっていた。
「やあ、ごきげんだね」スタナーがいった。
「インテリさんはカンファレンスが好きだね」
「ああ、こんな話しはめったに聴けないからね」
「このカンファレンスを聴くやつはたいがいよそから来たやつで、自分でも栽培しようかなんて思っているやつなのさ」
「そんな——ボクはちがう、そんなこと考えちゃいない」
「そう、それが身のためだ。いい子だからお金をためて買うことをすすめるぜ——そちらの国じゃあね」
「ああ、そうするさ」
「もし何かあったらおれにいいな。うまく助けてやるよ。おれは弁護士なんだ。あんたは? 博士かい?」
「ボクは——ん——エンジニア」

 スタナーはわたしにいった——「とにかくロックは自由なんだ——そう思わないかい」
 素直に自由を語ることができるもの——それはスタナー、そしてアユムだけかもしれない。彼らがなぜ自由を語ることができるのか——それは彼らが現実を認めたくないから——だと思う。わたしもときどき自由を口にする。たとえばそれはこういった自由である。『早く退社する自由』——ごく当たり前のことだった。

 アメリカ自由党のスローガンはマリファナの合法化だった。

【続く】



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