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仮題:センス・オブ・グラヴィティ 4 [仮題:センス・オブ・グラヴィティ]

【4回目】

 わたしがトキエさんからふろしき包みを見せられたのは、窓から夕焼けが見える頃の喫茶店の中だった。休憩時間というには時間が遅く、まだ仕事の終わる頃でもなかった。店の奥のテーブルを選んだわたしたちにも落陽は射し込んだ。わたしたちがその店に入ったのはコーヒーを飲むためだった。しかしわたしはコーヒーをオーダーせず、ハッカの入ったミルクを注文した。コーヒーは食欲をなくすからだった。トキエさんが手にしていた紙袋にわたしは別段注目することはなかった。だがその紙袋こそ、わたしが在籍していた会社の資金の一部から捻出された生のディンギが入っていたものだった。ああ、かわいそうなわたしが『元』所属していた会社よ——あなたは少なくはないディンギをドブに捨てたのだ——税金のがれのためでもなしに。
「どう? 仕事は調子いい?」
 これはトキエさんがわたしに会うたびに口にしてくれた言葉だった。仕事にいいかげんになれてしまったときでも、その言葉は変わらなかった。わたしはこの言葉にこう応える——「うん、まあまあ」
 わたしはハッカ入りの牛乳を口にしながら、ハッカ入りのタバコに火をつけた。わたしのタバコの量は相変わらずで、一日に一箱を費やしていた。わたしはなるべくトキエさんの方に煙がかからないように注意して吸っていたつもりだったが、それでも彼女はときどきわたしの煙をいやがった。口にはそうしなくとも、頭をうごかしたりする彼女の態度でそうわかったのだ。わたしはときどきヒデコさんにいった——「コーヒーは苦くないですか?」それはわたしが素直に感じていたコーヒーに対する印象だった。
「おいしいわよ」
 そのころ、ただのアルバイトであるわたしが抱えていた事業、それはデイサービス事業というもので、 高齢な在宅の虚弱老人などを対象として、彼、彼女らに様々なサービスを提供するものだった。サービスに挙げられている項目はにはこうしたものがある——
〈生活指導・日常動作訓練・養護・介護者教室・健康チェック・送迎・入浴・給食〉
 ——すべてのサービスは感動と正義に満ちあふれていた。しかし感動を呼び起こす行動は文字にされたとたんに、すべてが無機的になる。無機的とはいったいどういったことか?——それは炭素を基にする有機的化合物が命をイメージしていることの裏返しだった。無機はには何もなかった。わたしの造り出したサービスの献立は条件に合うものならだれでも注文ができた。わたしがハッカ入りの牛乳を注文したように。ただし利用者はそれなりの犠牲を払わなければならない。一日八百円の利用料金を支払わなければならないのだ。そしてもうひとつ。利用回数は週に一、二回であること——市民の中に存在する高齢者の数と介護する設備と人員数を考慮した結果だった。
【すべては資産の量によるものだった。経済や政治——すべての動きには自然や人為的なもののために絶えず波が発生している。だが——結局はタンパク質の製造量かもしれない。年をおうごとに人間は外観上ではわからない変態を続けていたので、人の嗜好も徐々にではあるが変わっていた。だが周囲何も変わらない。皆が他人が変わっていることに気がつかないでいたのだ。見かけ上の変化でなければだれもそれに気がつかなかったのだ。
 せっかく生まれてきたのにね。
 好きで生まれたわけではない。
 生きていればよかったのにね。
 生きるのが好きだったわけではない。
 死ぬなんてバカよ。
 死ぬのが好きな人もいる。
 ただ——迷っているだけだ。死ぬことは一度こっきりだから決めかねているんだ。けれども変化は一度こっきりではなくて、時間の方向に従いながらたえずアナログの波のように続いている。波の頂点の前触れはとても小さいときがある。それがタンパク質の波だ。
 変化に気がつかないものどおしの世界——見極めることができるのはよそ者だけだった。
 あんたバカじゃないの?——そう批評をする者はたいがいにおいて批評される方を知っていた。たぶんそうしたものだ】
 以上はモシアズが書いたある小説の大意である。
 わたしのいた会社では、自分たちの製品を大衆に売ることについて頭を悩ませ続けていた。たいがいにおいて大衆はそうした製品を購入することにちゅうちょする。その理由はまず高価であること。出荷を予想される台数を考えたらしかたのないことだ。その他の理由として挙げられるもの——それはその製品を一生涯使うことがないからである。ある程度まで育ってしまえば不要になる赤ん坊の乳母車のように、そうした製品も使用する者がいなくなれば要らなくなる——当たり前のことでしょう? そんなわけで一時の必要性にたくさんのディンギを支払うことに迷いが生じるのだった。購買層がそうであるから、製品の社会的必要性は見込めても、それを売ることは多難だった。製品を作り出す会社の営業も難しく、二年も製品が売れずじまいの人間もいた。そうした人間は結局会社を辞める。まあ、とにかく——必要なものほど売ることは難しいのだ。それが現実だ。
 盛岡の夜でわたしは個人的に製品、しいては会社から自分の身を引くこと決めた。いわゆる風俗店のベッドを借りてもだえながら寝た晩である。人のきっかけはどこの場にあるかわかったものじゃない。ある人間は小用をたしながら決断するであろうし、快楽の絶頂で何かに目覚めるときもある。関連性など何もないように見える。しかしほんとうにそうだろうか?
 わたしはこうしたことを『福祉製品販売評論家』として発言した。そのときの周囲における反応はこうである——「当たり前だよ、きみ」
 事実を述べることはあまりに簡単で、ときに非難を浴びるものだ。
 身を引くことのできない人間の手のなかでもてあそばれている製品は売られる手段を待っていた。そしてその方法は、紫色のふろしきに包まれたディンギだった。
「実はこれなのよ」
 トキエさんがわたしに床においた紙袋を見ろというように目配せをした。わたしが彼女のいうとおりにその紙袋に目をやると、その中にふろしき包みの箱のようなものがあるのを見た。わたしの一言はこうだった——「ふろしきなんてめずらしいね」——事実、わたしがふろしきを最後に見たのはわたしが住んでいたいわゆる田舎の家でのことだった。そのふろしきはクリーニングに出される服を包んでいたものだった。
「で、いったいそれは何?——おみやげか何か?」
「うーん、おみやげといわれればおみやげね」トキエさんはそういってわたしの顔に口を近づけた。「何だと思う」
「葬式まんじゅう」
 彼女はわらわなかった。そして小さい声でささやくようにいった——
「お金」
「これが全部そうなの?」
「そうよ」
「ど——どこで見つけたの?」
 トキエさんはそれを接待室で見つけたのだという。彼女は庁舎四階の総務部に支出金のファイルを借りにいった。その途中で接待室の前を通ると、ドアが開いていることに気がついた。彼女はちゅうちょせずに部屋の中に入ると、テーブルの上に紫色のふろしき包みが置かれていた。彼女はすぐにカンザキさんが給湯室でしゃべっていたことと、階段でぶつかった男たちのことを思い浮かべた。
「それがこれなのよ」
「持って来ちゃっていいのかい」わたしはそう訊いた。だがそこには罪を諭すような高尚な考えはなかった。ディンギという言葉に興味があったわけではない。トキエさんのひそひそ話しにたまらない好奇心を持ったのである。そして彼女が説明してくれた〈そんなものを持ってきてもよい理由〉もわたしの考えにほぼ似ていることだった。
「だいじょうぶ。これはきっと良くない考えのお金なのよ。わたし知っているの、だいたいそうしたものってこんな感じ。時代劇でもそうよ——人を拐かすお金ってこんなふうな格好をしているものよ」
 トキエさんにとってそのディンギは悪代官や庄屋たちの前で取り引きされるディンギと同様な価値を持っていた。
「で、いくら入ってるんだい」
「千五百万円。束になっていたから、一円玉を数えるより優しかったわ」
「たぶん、すごいお金なんだろうね」
「どうかしら。それからこれ——こんなのが入ってた」彼女がわたしに差し出したのは一枚の名刺だった。そこには聞き覚えのある会社の名前と取締役と肩書きされた名前が印刷されていた。そしてその名刺の角にはある名前が青いインクで書かれていた。
「そこに書いてある名前は財政部の部長の名前よ」
 わたしは少し考え、そしてうなづいた。「そうだね。それから——ボクこの会社知ってるよ」
「へえ、何をしてる会社?」
「うーん、なんだったかな?——たしか福祉器具とか色々作っている会社だよ。もとはそんな仕事していなかったはずなんだけれどね」
 彼女はよく知ってるわねとわたしにいったが、わたしは知り合いがいると答えた。しかもその知り合いはたまたま飲み屋であっただけだといった。そしてわたしは冷静にこうもいった。
「それから——たぶん、役所に入札しにきた会社じゃないのかな」
「やっぱり? 後で調べてみよう。それでもきっとこれはいわゆるワイロってやつね」
「そうだろうね——きっとそうだ」
 これがわたしがいた会社が製品を売るためにとった手段だった。
「今頃部長はあせっているかもね。このお金がなくなったんだもの」トキエさんはそういった。そして、「でもいくらあせってもどうにもできないわ。だってだれにもいえないお金だもの」
 ヒデコさんは、事次第で財務部長をゆすってやろうと考えていたらしい。しかしそれはやめたそうだ。こうした多額のディンギが現金としてある以上、それをただだまって持っているのが得策だという結論に至ったのだ。わたしはそれに同感だった。わざわざ騒ぎを起こす必要はない。
「しばらく様子を見るわ。それまでこれをどうするか——それが問題ね」
「ぜんぜん問題じゃない。君が持っていればいい。部屋にでも置いといたらいいじゃないか」
 ヒデコさんは少しのあいだ考え込んだ——そしてこういった。「それじゃ○○○さん、預かっててくれない?」
「ボクが? このお金を?」
「たぶん少しの間よ。あなたならだれも疑わないわ」

 『革命評論家』であったわたしはインタビュアーの質問に対してこう答えた。
「革命を起こすものは社会を知った人間です。政治を知った人間です。学校しかしらない人間たちに革命を起こすことができるのでしょうか?——できるかもしれません。しかしそれは革命ではないのです。ある不満がありそれを解消しようとしているだけです。子どもがほしいオモチャを無理矢理手に入れようとしているだけなんです。たぶん社会的なものを知れば、そこで思い直すことがあるはずです。それでも何も変わらなければ——そのときは革命を起こすべきでしょう。革命といわずとも運動です。そうして現れた革命は必ず受け入れられます。それから革命というのは社会だけではなくあらゆる分野において考えられるものです。ながく芸術にたずさわってきた人間がどこの馬の骨かわからないような新人が発表した作品を『革命』と認めるにはずいぶんと勇気がいることでしょう。しかし彼らは認めざるおえないのです。そうした勇気がなければ先に進むことはできません。それが革命です・・・・」
 わたしの答えは途中でフェイドアウトされた。それはなぜか?——当たり前すぎたのである。プロデューサーの忠告——
「あのねえ、わかってるの? みんな当たり前のことはわかってるんだよ。そこら辺の女の子や若い人間に訊いてみな、みんないうよ『うざったい』ってね。みんな当たり前のことにはあきあきしてるんだ。それはなぜだかわかるかい? 当たり前のことを知っているからさ。なぜそれを知っているか?——周りが当たり前だらけだからさ——」
 そうなのかい?——わたしは心のなかでつぶやいた。〈だれも重力に気がつかないじゃないか〉わたしはいつも重力の存在を気にかけているし、そのおかげで生きてきた。今でもそうだ。当たり前のことはわかりきってしまわれて以来、もうこの世に存在していない。当たり前すぎたためだ。

 ふと考える——わたしはだれかに必要とされただろうか?
 なぜトキエさんはわたしにワイロであるディンギについて話してくれたのだろう?
 もしかするとそのとき、トキエさんはわたしを必要としていたのかもしれない。
 あんがいわたしも必要とされていたのだろうか?
 ところがこうした考えもある。わたしは二人の看護婦や医者たちを必要とはしていない。驚いたことに彼や彼女たちはわたしが頼みもしないのにわたしを治そうとしている。だれも頼んではいないのに。だがわたしは面と向かって彼や彼女たちに〈なぜわたしを治そうとするのだ〉と訊いたことはない。それはなぜか?——たぶん彼や彼女たちはいうだろうから——
〈当たり前のことでしょう?〉

 モシアズが彼の作品のなかで忠告してくれた。それは当たり前のように暮らす生物たちの話しだった。生物たちはとりあえず人間たちのような姿をし、そしてそれに似た慣習で日々を暮らしている。そうした状況に設定されているのは、読者が物語を想像しやすくさせるためである。とにかく人間——霊長類ヒト科のような生物は霊長類ヒト科のように暮らしていた。生物たちには歩行するための足があるので、それを動かすことによって移動している。移動するにあたり、その方向性を判断し決定するのは霊長類ヒト科でいう『脳ミソ』にあたる器官で、それは移動するためだけではなく、生物が生きてゆくために必要なすべて決定を司っていた。その生物たちは移動するために自ら持っている二本の足をそれぞれ互い違いに前方に差し出し、それを繰り返した。
 生物の数は日増しに増えていった。二人から一人が生まれ、そしてまた二人目が生まれ、おおよその規則的な期間で増え続けていった。そして地上を移動する人間も多くなった。地上でうごめく人々の密度は秒刻みで凝縮されるチップのように高度になっていく——しかし土地は増えない。
 最初の頃、生物は道を譲り合った。しかし密度が高くなるにつれ、生物は自身の他の存在を無視するようになった。生物たちの本能はこうだ——密度が高くなるに従って保身性も高くなり、私的な機密事項を保ちたがるようになったのだ。
 あるものはぶつかり合って砕け、そして時間を放棄し続けた。その結果生物たちが持っていた種は変異し続けてゆく。生物密度が高まるかぎりその生物種は変異し続けたのだ。
 モシアズは忠告する——どんな生物でもその人数が増え続けると、彼らまたは彼女たちの人種はアジア人——特に中国系になると。
 あいにくわたしの密度に関してはこのところ一定を保っている。この部屋の中を占める生物はわたしだけだからだ。モシアズの忠告に従えうとするなら、わたしがこの部屋から出る頃には、周囲の生物は霊長類ヒト科ではなくっているのだろうか?
 そうならばわたしはたぶん化石だ。今から百年ほど前に発見された恐竜時代の遺物、シーラカンスのごとき存在となるだろう。わたしは深い深い海の底で暮らすことになるのだろうか?
 わたしはこれを問い返さない。なぜならその返事は決まってこうだからである——
〈当たり前のことでしょう?〉

 トキエさんの手にしたディンギはわたしの手元に置かれることになった。そのディンギは押入の中に古いコンピューターといっしょにしまい込まれることになった。どちらにしろ、『モノ』を保管するには涼しくて陽の当たらないところ——すなわち冷暗な場所が良いだろうと考えた結果だった。考えすぎに悪いことはない。だがそのディンギもある日を境に、銀行という事業が扱う口座という形を持たない財布に納められることになる。ちなみにわたしは財布を持ったことがない。今でもそうだ。それはなぜか? 簡単である。ディンギを納めるものをディンギで買う気がしなかったからである。それからもうひとつ。ディンギを失わないためである。世の中にはスリという仕事が存在していて、そのお世話にならないようにするために。ディンギを失う理由はただひとつ——それは消費すること——それだけのはずだったから。
 しばらくトキエさんは財務部長の様子を伺っていた。わたしも同様だった。仕事の合間にちょくちょく、いや、実際にはほとんどの時間をその様子伺いに費やしていた。トキエさんもそうである。普段彼は四階に席をおいていたが、階下に降りてきたときはもちろん、わざわざ四階に出向いていって、彼の様子をうかがったこともある。わたしたちはよく休憩時間におたがいに財務部長の様子についてひそひそ話しをし、そしてくすくす笑った。それはまるで、たぶん——安っぽいテレビで放送されているドラマのようなものだった。もちろんコメディといった主旨のものである。
 トキエさんと二人で財務部長の様子を伺っているかぎり、彼はあきらかに慌てていて落ち着きのない様子だった。時には声が裏返ったが、そうしたときは決まって、名刺に印刷されていた会社の名が呼ばれたときだった。こんなこともあった——昼食の時間、財務部長は決まって市役所の食堂を利用していたのだが、そこでは食事中に備え付けのテレビでニュースを映していた。そしてそのニュースが不法な政治資金や贈収賄に関する事件に触れたとき、彼は口にしていたラーメンを吹き出してしまった。正面の席に座っていた女性は彼の唾液がまじった食べかけの被害を受け、彼女が発した奇声も手伝って彼は当然のごとく注目の的となった。だが彼は自分の置かれた状況に気づくことなく、口を開けたままテレビに釘付けになっていたのだ。

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 テレビジョンのプロデューサーには眉をしかめる話しかもしれませんが——革命家は法律を知りませんでした。法律こそが悪だったからです。けれども革命家はその法律により自らの革命が裁かれることを知らなかったのです。ああ——なんという悲劇!
 そして、だれもが宇宙の存在を突き止めようとして、観測機器の驚異的発達により、真実をひとつひとつかき集める資料が収集されました。けれどもわたしは宇宙の存在など知らない振りです。どうしてでしょう?——なぜならわたし自身はわたし自身の胎内宇宙だけで脳ミソがフル稼働しているからです。
 いってしまえば——わたしのブラックホールはケツの穴でした。ケツの青い青二才のわたしにはふさわしい事実でしょう?
 そうじゃないか?——どこかにいるモシアズ、ナフカディル・モシアズよ。
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 取締役を先頭にした会社が、ワイロであるディンギを用意してまで得ようとした利益——それは自社の福祉製品購入の確約だった。その矛先である財務部長は、そのためのワイロを取り損ねた。彼は確約と引き替えに何も得ることができなかった。彼が手にするはずのワイロはトキエさんの手に渡り、最終的にはわたしの手元へ転がり込んできた。
 財務部長は一瞬見ただけのワイロに思いをはせながら、わたしが元所属していた会社からの要請を受けた。彼はどのように考えただろう?——〈あのときたしかにあったのだ——あのテーブルの上に〉——そう思いながら部屋中を探し回ったのだろうか?——〈ない! ない! どこにいったの? 愛しい愛しい『わたし』のおみやげちゃん〉——テーブルの下を覗き、数冊の本しか置かれていない書棚をひっかきまわし、そしてソファのクッションをひっくり返したのだろうか——〈どこだ! どこだ! どこなんだ!〉——彼はたぶんだれにもいえない。すべては彼の脳ミソの中でだけぐるぐるとループを描いている——〈あいつか? あの取締役のハゲ野郎が持って返ったのか?——それじゃあたんなる見せ金か?——オレはだまされちまったのか!〉——ところが彼は訊けないだろう——〈あれは見せ金ですか?〉
 真実を知らないわたしは財務部長の真実を探りたがっていた。ところが彼と同様わたしにも話し相手がいなかった。わたしは財務部長に同情するわけではないが、彼にはあのおみやげが『夢』の産物であったと説明したい。それとも『気のせい』か——まあ、ぶっちゃけた話し、それしかわたしには説明できないのだから。真実を話さないわたしの影にはトキエさんがいた。いや、実際にはもうこの時間には存在していない。それだから——真実を説明できないこともある。
 だれが存在しない人間を傷つけることができる? 貧歯類のアルマジロであるわたしは少々古風であるかもしれない。それに——わたしはなるべく差別をしないように心がけている。そうすることの近道はなるべく人と接しないことである。

 わたしは変わらないはずだ。わたしの運命はたぶん決まっていたので。今この部屋にいることも決められたことだったのであろう。しかし『運命評論家』であるわたしは演説する(演説とは人々の前で自分の意見を述べ主張することである)——わたしの運命はあらかじめ決められていたものかもしれないが、その人生はわたしが決めたものだ。人に決められたものではない。だれが運命を変えることができるだろう?——あの人か? それとも角にあるタバコ屋の年をとった女性か?——いいやだれもいない。それでもだれかが変えているかもしれない。わたしは自分をなぐさめる術を知っている。それはこうだ。
「わたしは運命に逆らえないかもしれないが、わたしの運命の弾みはわたし自身がつけたものです」
 わたしは論じたときの収録が『冒険評論家』であると勘違いしていたのだ。そのときのわたしの格好——それは土色のズボン、緑色のパーカーにほんとうに土で汚れているワークブーツだった。そしてヒゲは枯れ葉だった。まるでウドの大木ならぬ小木で、そこらへんに立っていたなら『木』と思われるだろうものだった。それにわたしの動きは人に較べて鈍かった。
 わかる?——たいがいにおいて問題は重力であり重心なのだ。それがすべてだった。けれども当たり前。当たり前とはわたしの目に見えないところにある。とにかくわたしはそうしたものに縛られていたので、他の生物よりも歩みが遅かったのだ。

 財務部長が向けた疑いは職員たちにも及んでいたようだった。彼が職場内を歩き回るとき、目先の相手を見るはずの目は、相手が座っている机の上や下、そして机の引き出しが引き出されればそれに配っていた。職員たちは財務部長の挙動の理由を知ることもなく、ただいぶかしがり、人間の本能らしく配られる目先をさえぎったりしてみれば、財務部長の挙動はそれに呼応するかのように一段と激しさを増した。トキエさんは堂々としたもので、そんな財務部長にこう訊いた——「いったい何をお探しですが?」そしてこうもいった——「最近財務部長の様子がおかしいってみんなが口にしているんですけれど——どうしたんですか?」
 まあ、そういわないでトキエさん——この世には捜し物をする人くらいいるだろう。『捜し物評論家』であるわたしには、そう説明するしか術がない。そしてまた、自身の心を評価するものは自身ではなく、他人なのだ。たとえば自らが自身の心は純粋であるというだろうか? わたしのテーマはなんだったのか?——それは〈永遠に純粋を求め続ける捜し物評論家〉である。それがこの世に存在しなくとも。そう、この世の中に存在せずに存在するものそれが純粋だ。純粋は人の心の看板だった。看板が飾るのは見かけだけだ。看板は平面でありながら、それはまさしくブラックホールのごとき未知の世界への入り口だった。どこにでも看板があり、あちらこちらでポツンと穴が開いている——あちらこちらが入り口でいっぱいだった。そこらへんのドアや引き戸、入り口が多すぎた。わたしの部屋にも入り口があり、それは出口を兼用していた——信じられますか?——入り口と出口が兼用だなんて!——たとえば食事を摂るはなからゲップを——ときには脱糞さえしてしまう!——ああ、たいがいにおいてわたしたちの出口と入り口は同じだったのです。なんという理不尽! なんという恥!——習慣や慣習といった名においてわたしの行動は霊長類ヒト科とほぼ同じだった——顔を赤くして恥ずかしくなることまでが!
 たとえばわたしは他人にケツの穴を触られて喜びの声をあげる——ああ、なんという恥ずかしさ!——ゆっくりと、とてもゆっくりと変態し続けたあげく、またはその過程にあるわたしはそうしたことにさえ喜びの声をあげてしまった——自分の出口をいじられて——つけくわえていって、そこはカスが出ていくところであって断じて『もの』が入るところではないのです!

 さあ、汚い言葉が出たところでなんだが、わたしはちょうど病院のトイレから出てきたところである。正直いって、このトイレがいちばん落ち着くのだ。それはここが病院のあらゆる場所のなかでいちばん生物らしい香りのするところだからである。非常に生理的な香りでわたしはそのみずみずしさ酔いしれる。これがあるからこそわたしは『湿度感知式オムツ』のお世話にだけはならないように努力していた。このいまいましい電子のオムツめ——生物たちはときどきこいつに感電した。
 冷静に——わたしの楽しみのひとつそれはトイレでタバコを吸うことである。ほとんどガキのように若かった頃のわたしは、ワルにもなれずかといっていい子ちゃんにもなりきれない、とりたてて話そうとするこもないただの未熟なガキだった。そのケツは今の青とはちがってみずみずしい青だった。それはきっと『青春』という青だったかもしれない。

 わたしは外堀を埋めつつあった。完全な外堀である。いまどき小説を書く人間はいない。だからわたしはこの独り言を作品としては仕上げない。わたしはこの独り言をナフカディル・モシアズに送るだけだ。それがすべてでそれがわたしにできることだった。そう、それができることだ。だれがどこにいるというのだ? それがだれであっても——

 さて、わたしが『老人の首に吊り下げ式携帯電話』の後のプロジェクトである『湿度感知式オムツ』の開発に携わったときに壁となったいちばんの問題は、わたしたちにはオムツ自体を造り出す能力に乏しかったことだ。ほとんどといっていいほど、わたしたちにはそれを造り出すためのノウハウがなかった。そのころ、ほとんどの家庭では、簡易型の使い捨てオムツが使われていて、そうした商品はそこらじゅうで売っていた。じっさいわたしの周りにうろうろしていた人間たちも自分の子孫にそれを使わせていた。わたしはそれを使わされたことはない。まだ、わたしがガキ以前だったころ、それは商品として生まれていなかったし、それだからもちろん売られていなかった。わたしが商品として成立した後の『簡易型使い捨てオムツ』に対して得た印象——それは不格好な包帯だった。その使い方はいたって簡単で、小さな子孫の尻にあてがい、付属のマジックテープやそうしたもので固定する。あとは子孫たちがそこにオシッコやウンチをする——そこで『簡易型使い捨てオムツ』の一生は完了する。そして彼らの行き着く先はゴミの山。そうして人類の遺がいである排泄物もろとも燃焼され、空気となって人々に摂取される。わたしたちは開発のためそれを参考にすることにした。色々な製造者がその製法について研究した。だが何をどれだけ探しても何も見つからなかった。オムツ、オムツ、オムツ——わたしたち開発員の頭はオムツの山で埋もれていた。わたしたちはわたしたちがしようとすることを前にしながら、その基礎となる部分ではやくもくじけつつあったのだ。そんなわたしたちを救ったのは『簡易型使い捨てオムツ』である。
 さっそく開発者リーダーと営業部長がオムツ製造メーカーの門を叩いた。それはわたしたちが数ある『簡易型使い捨てオムツ』を研究しつくした後のことである。そして選び出したメーカーは、ニッポンにある八十パーセントが病院へ『簡易型使い捨てオムツ』を納入している会社だった。わたしたちは彼らの持つ販売シェアに興味を持ったのだ。それはとても浅はかなことだった——『大きいことはいいことだ』——それは多分幻想だ。かつ意味深な差別表現だった。差別! 差別! 今ここにいる人たちにも差別があり、ここにかぎらずあらゆる場所で差別や虐待があった。当然のことじゃないか?——人に好き嫌いがあり、かつ集団であるかぎりは。たとえば集団とは病院で、虐待されるのはわたしたちである。わたしたちが虐待されるのは、弱者であるがゆえのことだった。
 思い出として注目すべきこと——それは、わたしたちが協力を求め、提携を行ったオムツ会社は、病院のみならず、福祉においても大きなシェアを占めることになった。たいがいの会社は売り上げがたたなければ存続できない。それは景気という漠然とした表現がなされるものによっても左右されるが、わたしが費やしてきた時間の途中でもときどきその『景気』というものの影響で、多くの会社、そして銀行さえもつぶれてしまう時期があった。社会では失業率——勤めていた会社をクビになったり、就職できない人間たちの割合が日増しに多くなっていることがニュースとして広報された。これらは会社を存続しようとしたものがとらざるおえなかった決断によるものであった。失業者たちは自分たちを解雇した会社に対して、集団で抗議を行ったり、その悲惨な状況は社会問題としてテレビなど様々なメディアで紹介された。
 そうしたさなかのあるテレビプログラムにわたしは出演した。わたしの周りには会社から解雇されたり、自分たちの会社が倒産した自称『被害者』たちが恥ずかしさをいとわずに素顔で出演した。そして彼らを支援する経済評論家に文化人が顔を連ね、それに対抗するものは経済企画庁長官やら、銀行の元締めである大蔵省の役人といった国政を代表する人々だった。そのなかでわたしに与えられた役は、日和見でどちらの側にもつく〈失業評論家〉だった。
「さあ、みなさんは職がないようですね。それはたいへんなことだ。明日のメシも食えません。なぜあなた方の職がなくなったか?——それはかんたんです。会社がつぶれてしまったからでしょう。そして会社はなぜつぶれてしまったのでしょう? (わたしは眉毛のつながっている元自動車部品製造工場の社長に向かっていった) それはあなたがたの親会社ともいえる会社があなたがたを必要としなくなったためなんです! さあ、これが事実なんです!
 だれもあなたがたを必要としていない。必要とされるかされないか? それはだれが決めるものでしょう?——簡単、簡単——あなたがたを使っていた人たちです。要らなくなったらさあお終い。仕事もできなきゃさあお終い。そんなものなんです! そしてあなたたちは文句をいえません。社長さんの隣で座っているあなた——そう、薄笑いを浮かべているあなた——あなたも文句はいえません。だいたいが会社を作っていたのはあなたたちではないんですよ。会社を潰そうが潰すまいが社長さんの勝手。株主だって儲からない会社の株など捨ててしまいたい。けれども元手がかかっているのでなかなかそうはいえない。それが現実。だから社長さん——あなたが会社を潰してしまったことに何を悔やむことがありましょう! あなたはもっとものことをしたんです。株主にもそして雇用者に対してもどんな後ろめたい気持ちを抱く必要があるのでしょう! 仮に人を減らして行く末が少しでも延びる可能性があってあなたもそう思うのならどんどんクビを切ってしまえばよかったんです。そうすればこんなくだらない討論の場に出る必要はなかった。それどころか今頃のあなたは小汚い日本車を優雅な外国車に変えることができたかもしれないんです! 社長さん! どんどんクビを切ったらよかったんだ。
 会社は生き延びることが大事です。そうでなければ次の世代はどうなります?——会社のない社会! 洒落ではありません。会社のない、もしくは会社がほとんどない社会なんです。それも残っている会社のほとんどは砦みたいに大きな会社——きっとそれは一国の政治にさえ影響を与えるような——そんな会社が残り、あなたたちは(そしてわたしは失業者の面々に目を向けた)ますますは会社に対して引け目や後ろめたさや恐怖さえも感じ、かといってあなたたちは会社の大きな視界にさえ入らなくなるんです! 社長さん! あなたは会社を再生するべきだったんだ——社員の前途などまったく気にせずにね!」
 ビッグブラザー——偉大なる兄弟——『大きいことはいいことだ』——これは事実だ。本末転倒。
 『簡易型使い捨てオムツ』や『老人の首に吊り下げ式携帯電話』を開発した会社は今の時間に現存している偉大なる兄弟のひとつである。創立五十八年を迎えたその会社は八回社名を変えていた。その過程がいかなるものであったかはしらないが、今の社名は『ソシアル・ナッピー・ネットワーク・カンパニー』といった。社名のなかの『ネットワーク』とは時勢による付け加えられたもので、その実体はけっして開かれたものでは結局は戻ってしまうループのように閉ざされたものだった。『ソシアル・ナッピー・モノポライジング・カンパニー』——つまり『社会のオムツを独り占めカンパニー』だった。

 わたしが共有できたものはトキエさんとの間に存在していたディンギだ。わたしのそろそろお終いになる生活はこれで成り立ってきた。本来はトキエさんにより遣われるべきものだった。
 今、それを共有するものはだれもいない。

 わたしの重心を崩したものは、たんなる病気だ。病気が人を不幸にして何が悪い? だが、わたしには必要な病気だった。その病気とは老いである。もともと寿命といわれる生命の保持時間が短いわたしから、老いはその姿を早々と見せはじめていた。わたしの重心は、月の引力にさえ引き寄せられつつあった——

 その引力はたぶん——これからも一生見ることはないであろうナエコさんだった。

「どういった状況にしろ自慢するのはよくないのよ」
 そういったのは、トキエさんだった。わたしには自分が自慢できるようなことがなく、そうしたことを自慢げに誇らしく喋った覚えがなかったので、気になり、トキエさんに問い返した——「ボクはなにかいったっけ?」
「いった」トキエさんの唇には谷中ショウガがくわえられていた。「今、あなたがいったことを復唱しましょう——『ボクにはさっぱりわからないんだよ』——です」
「それがどうかしたの?」
「ちょっとね。なんだか、さも吹聴しているように思えちゃって——いや、ぜったい吹聴してる。わからないってことをね」
「そんなつもりはないよ。ただ理由のつもりでいっているだけさ」
「そうかしら? なんだかとてもえらそうに聞こえちゃう」
「ほんとにそんなつもりなんかないんだよ。信じてよ。それに——」
「それに?」
「何もわらないってことが自慢になってしまうのかい?」
「よくあることよ。逆ギレ?——っていうんだっけ? 単なる開き直り。でも恐ろしいくらいの自我が詰め込まれていて、うすーくプライドがまとわりついている。ほんとに恐いくらい。とても凶暴な武器よ。人間をダメにするのが目的だけの、限りなく知識っぽくて文芸らしい武器。薄っぺらなね」
 トキエさんがいっていたことは、ダーウィンや様々な生物が持ち合わせていたウィルスのことだったのかもしれない。逆ギレウィルス?——そんなものはそこら中に存在していて、今でもそうだ。
 たとえ人がどういった形で時間を放棄してしまおうと、すべては内側か外側かの違いでしかないようだ。自らの放棄は内的なもので、殺人は外的な要因によるものだった。ナフカディル・モシアズは自らの小説のなかで、すべては胎内宇宙のなかで作用している胎内引力の仕業であるとしていた。そしてわたしはそれを信じている。すべての生物は口というブラックホールを通じて、互いに引き寄せあっている。主人公であるアンコ星人はニッポンの国技である相撲を生業とした宇宙人だった。生業の要求に呼応するかのごとく、彼の身体は日々の膨大な食事も手伝って膨張をつづけていた。身体の大きさが生業を成功させるにあたってひとつのポイントとなったからである。胎内宇宙はいくつかの実際に存在する臓器で成り立っているように見える。しかし、胎内宇宙そんなに薄っぺらなものではない。もっと深遠な存在なのだ。腸の長さなど屁の突っぱりにもなりません。
 とにかく——アンコ星人の身体は膨張していった。ビッグバンにおける通説であるもの——膨張は次第に爆発を引き起こす。その結果の前に、ブラックホールは宇宙外への進行を進めた。自分の胎内宇宙の限界を打破するために、外宇宙との融合を試みたのだ。その様子はアンコ星人が繰り返す深い呼吸となって現れた。方法的には、肺という臓器を利用し行動だったが、それは何度も繰り返された。相撲でよく使われる技に『張り手』というものがあって、彼はそれを多用した。張り手とは、手の平を向かってくる相手の顔に対して張る技である。その張り手をちょうだいした相手の顔は、押されるという力により激しく歪んだ。ちなみにその力は、キログラムやトン重さの単位であらわされた。これはその存在を物理学という手段を得て証明させるために行われたことだった。しかし、証明のために得られたたいがいの結果は、ぜんぜんピンとこないものだ。多くの人はこう思うだろう——『まるでゴマかされているみたいね』
 さあ、早く『革命』を証明してくれ、さあ、早く『流行』を証明してくれ、さあ、早く『立っている』ことを証明してくれ——さあ、早く『重力』にしばられていることをわかってください。
 モシアズの戯言はわたしの心を打ってくれるが、それはこのさいおいておく。つまりはアンコ星人の張り手である。物理学的根拠で証明されることが可能な彼の張り手は、相手の顔を苦痛でゆがめさせ、口はねじまがらせて開く。そしてその口と融合した!——ところがどうだろう!——その相手も自分の胎内宇宙を満たすべく新しい空間を探していたのだ!
 すべてはアンコ星人の宿命だった。アンコ星人にとって自分たちを取り巻く宇宙は地球でいう『海』にすぎなかった。アンコ星人は海以外の陸地を求める。
 ——膨張し続けた彼らは見事に融合してくれた——さわやかなくらい潔く!

 わたしはトキエさんヒデコさんという女性のことを語った。そして今、その人がどこにいるのかはわからないとも。自分が働いていた店にもしばらく出向いたことはなかった。マフネちゃんがいなくなってから、店の営業はあきらかに落ちていた。彼がいなくなったあと、多分二ヶ月ほど後のことだと思うが——わたしは自分の会社の場所が変わることを理由に店を辞めた。店に不満はなかった。むしろ、昼の仕事よりも楽しかったくらいだ。一度は慰安旅行だとかの名目で、店の人間や一握りの常連たちと遠くへ遊びにいったこともある。そのころの経済は、株や地価、そういった資産を投機の対象としたさいの価格が、実際の評価をべらぼうに上回ってしまったあげく、実体以上に膨らんでいた。それだから、にわか仕込みの株売買や、土地開発で利益を得るものが多数現れ、そうした結果のディンギが市場に氾濫していた。みんな大ディンギ持ちだったのだ。そんな勢いにのって、マスターの店も客で繁盛し、それまで扱っていなかった高価なシャンパンが山ほどはけた。その慰安旅行はそうして儲けられたディンギにより実行されたものだ。だからわたしは一銭のディンギも払っていない。
 それもディンギの使い道のひとつだったのだ。
 わたしはトキエさんにこういった——「ディンギのことはあまり気にしたことはないな」
「あんたが食べているつくねは一皿六百円なのよ」——トキエさんはいつもわたしの目を覚ませてくれた。
 わたしはトキエさんに自分がヒデコさんと関係があったことを話さなかった。その頃の時間的位置においてすでに二万六千時間ほどが経過していた。その時間は約三年間に相当する時間量だった。

 トキエさんの身体をむしばんでいたものは、何を隠そう、具体的に現れることのない、空気に似たものだった。それが現れるのはずいぶん後のことだった。
 トキエさんは仕事を放棄した。それは彼女に与えられた、ワイロという名前のディンギのせいだったのだろうか?——結果的にそうなった。直接的であれ間接的であれ、結果的にはそうなった。それが現実だった。
 彼女が上司に辞表を提出したときに周囲が見せた反応といったら! 彼女は涙の中で期待されながら送り出された。そのとき彼女の年齢は三十七才だった。彼女以上の人もいた。
 わたしは彼女が辞めたあとも約一万七千五百時間ほど役所の仕事を続けた。
 トキエさんはディンギをわたしにあずけたままアパートを出ていった。わたしがそのディンギをトキエさんに見せたのはその二年後のことである。その場所は寒い寒い函館という街で、そこはトキエさんが生活を営んでいた場所だった。
 もともとトキエさんは静岡で創造され、発展していった人間だった。市役所を辞めた彼女が向かう先を、わたしはてっきり静岡であると考えていたのだが、まったくの見当違いだった。
 それにしてもわたしはなぜ、トキエさんが市役所を去ってから二年もの間を市役所の保健福祉部介護支援課でバイトを続けていたのか。わたしにはその理由をはっきりと明確に応えることができる。それには二つあって、何人かの老人たちの最期を見とってやりたかったこと、それから——トキエさんの連絡を待っていたことだ。彼女はわたしに対して「連絡をするわ」などと口にしたことはない。だが、わたしには彼女からの連絡が必要だった。もともとは財務部部長の欲を満たすために使われるはずだったディンギのためである。そのディンギは、ゴルフというスポーツで使われるバットのようなものがワンポイントでデザインされているスポーツバックの中に眠っていた。
 わたしは覚えている。トキエさんからの連絡はこんなものだった。介護支援課にかかってきた電話を目の下に青あざをつくった男子職員が受け、そしてわたしに電話である旨を伝えてくれた。こうした流れはほとんど常識的対応であるが、貧歯科のわたしには、緊張するシステムで、いまでもそうだ。現状において、病院の窓口にわたし宛の電話をかけてくる人間は、わたしが社会生活を営んでいた頃に利用していたアパートの大家だけだ。頭の禿げた大家は律儀者で、わたしの口座から、家賃が振り落とされる毎に、お礼の電話をかけてくる。そうしたときわたしはとてもいい気分になれる。まるでその日が給料日でもあるかのように。
 ちなみに男子職員の顔面を飾っている青あざは、介護課の窓口に来た老人に殴られたためにできたもので、その原因は『身分証明書』という言葉だった。男子職員が「身分証明はございますか?」老人に訊ねると、老人は一喝した——「身分?——いったいどんな身分を証明しろってのか? 農民か? 商人か?——貴族?——それとも部落民だとでもいうのか!——ふざけちゃいけねえ」
 老人にとって、身分という言葉がかんに障るらしかった。その結果男子職員は老人の節くれ立った拳を目の下に受けた。
 わたしが『部落差別問題評論家』だったころ、スタジオの人々にこう発言した。
「身分はだれが造ったのでしょう?」
 そしてお決まりの一言、
「天は人の上に——」
 それから、こう付け加えた。「差別は市役所などの公共の場所でも行われています——」
 ある出来事が進行するなかの一点に存在していたという時間的経験は、なかなか役に立つものだ。

 わたしが取った受話器からは男の声がした。それはまったく聞き慣れない声で、聞き返す間もなく受話器から懐かしい声が聞こえてきた——それはトキエさんの声だった。
「こんにちわ、ひさしぶり——」
 彼女の声を聞きながら、わたしは少々困惑した。とても恥ずかしいことだが、わたしに電話をかけてきた男とトキエさんの関係についてだ。たぶん正常な人間なら、こうしたゲスの考えは浮かぶまい。
 こうした考えはトキエさんに再会してからしばらくして消えることになる。彼女と男——実際の姿は、やせて黒縁のメガネをかけていた——の関係は、完璧なる仕事づきあいで、わたしは勘ぐったようなことは事実無根の妄想だった。

 これもまたゲスの勘ぐり——トキエさんはわたしに会いたがっていたのではなかろうか?
〈トキエさん、驚くことはないよ。それがほんとうのことなんだから〉

 幅の広いネクタイをはめた韓国人——あれがだれだったかわかりますか? わたしにはわかっていない。その男がナフカディル・モシアズでないことは確かだと思います。

 あろうことか、すべての元凶はわたしだったのだ——《今頃気づいた?》

 トキエさんはわたしに何を与えてくれただろうか。優しさだろうか。彼女は確かに優しかった。口振りは姉さんぶっていたが、彼女はいつもわたしを励ましてくれた。彼女は母親のように無理強いをしなかった。わたしは母親のいうことすべてがきらいだった。母親のいうとおりのことをしていたら、父親のように死んでしまうと考えていたのだ。今では以前のように強い考えはない。なぜなら、父親を倒れさせたガンという病気は、なかば遺伝という説もあるからだ。いつだったろう——わたしが『遺伝子工学評論家』としての肩書きをテレビ局のディレクターから頂いたときにかじった付け焼き刃の知識である。それだからわたしも病気になった。しょせん、わたしは遺伝子に生かされているのだから、遺伝子がどうしようもなくなったとき、この殻は捨てられてしまう他ないのだ。ただ、わたしの遺伝子は『無駄死に』をしてしまうだろう。それはなぜか?——彼、遺伝子は、自身の染色体を後世に残すことができないからだ。これもわたしの身勝手で、かつわたしが唯一、遺伝子の無理強いに刃向かったという証である。それでも彼、遺伝子自体が対した身分ではあるまい——彼は『貧歯科』の生物を形作ることしかできなかったからだ。まあ、どっちもどっち——わたしもわたしの遺伝子も。大したものではなかったというだけの話し。
 これもまたほんとうのことだ。
 いったい時間が何を解決してくれる?
 時間は遺伝子かもしれない——これもまた、当てずっぽうでインテリぶった『遺伝子工学評論家』であるわたしの意見である。また、わたしの住んできた星はそういう星だった。みな宣教師で伝道師で説教師の一億人相互誤解者で満たされた惑星だった。だれでも人の意見を聞きたくないときがあるものだ。それを理解してくれない人々は多い。それが『人生』というもので、わたしの人生を半分くらい満たすもの——それもまたそうしたことだった。わたしは人に説教をこいたことがあっただろうか? わたしはいつもこんな調子だった。「うーん、そうですね、ハイハイ、そうかもしれないね」

 モシアズはこういっている。
 ある惑星、そこの生物たちのほとんどは、他の生物がすでに自身のことを理解しているような口振りで話した。
「ねえ、わたしってこうでしょ」
「おれはあれだろ」
 そうしたときの相手の言葉。
「そう、そう」
「知ってる知ってる」
 そして時は流れる。
 ある日、ある生物が他惑星爆破スイッチのボタンを押した。被害者たち、つまり生き残った他惑星の生物たちは爆破させた理由を問いた。
 その回答はこうである——
「だから、わたしってあれじゃないですか」
 理解されているとはどういったことか?

【続く】



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