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仮題:バイバイ・ディアナ 8 [仮題:バイバイ・ディアナ]

【8回目】

♪ 5・日常における化石の行動

 ♭ 1 化石の一日

 ゼンジの仕事はだいたい六時に終わった。ほとんどの仕事は外注先であるユニソフトからの派遣社員が行っていた。
 ゼンジはネットワークによるテロに対しては楽観的だった。それはなぜか? 彼にはそれを防ぐ知識や手だてがなかったからである。つまるところ——彼は開き直っていた。だがユニソフトから海を越えて派遣されている社員たちは、その処方箋を血眼で探し回った。そのテロの痕跡を見つけることは困難な作業だった。端末が徹底的に破壊されるためである。
 ユニソフトの社員であるウクライナ出身のアダホ・カーニャはある日虫メガネを持ち出した。おにぎりをかじっているウー・フォンがそれを見ていた。
「モグモグ——」これはおにぎりを頬張る音である。「ヘイ、アダホ——その虫メガネどうするんだ?」
「これで端末の中を見るんだ」
「そんなもんで自爆コードはわからないよ」
「だからこれでディスクを見るんだ」
 アダホは端末の中からネットワークを介して受け取ったコードが一時的にでも収容されていたディスクの表面をなめるように虫メガネで覗き込んだ。
 その様子を見ていたゼンジは、アダホの持っているディスクが爆弾そのものであると勘違いをした。ゼンジはコンピューターの中を覗いたことがなかった。だいたいの人はみなそうである。

 いつの時代にも、人間はものを分解することで至福に浸ることができた。
『ああ、わたしはもののしくみを理解したのだ!』——と。
 だがたいていのしくみはドライバーで開けることはできない。それだから人は人生を投げ出しそうになる。

「やったぞ! ついに爆弾を見つけたのか——」ゼンジはそういって、アダホのそばへ急いだ。アダホの持っているものを見て、「これがそうか? うーん何か爆弾みたいだな」
 アダホは虫メガネから目を離さなかった。 ウーがいった、「いや、これじゃない——」そして、「ミスター・ゼンジ、彼はディスクの表面にコードが収納されていた痕跡を見つけようとしているんだ。わたしにいえることは——『彼は気が狂ってしまった』ということだ」ウーの口元には海苔がくっついていた。
 実際そのときのアダホの目は普通ではなかった。——彼の目は空洞だった。わたしのすぐ目と鼻の先の宇宙空間にぽっかりと穴が開いた。それはアダホの目につながっていた。
 わたしはその穴からゼンジを、そしてウーを見ることができた。だがゼンジやウーにしてみればそれは単にちっぽけな穴だった。
 わたしがいたずらにラダのクラクションを鳴らしたとき、ゼンジのいる部屋の向こうでサイレンの音がした。
「うるさい音だな——」ゼンジがいった。
「警察の音ネ」とウーがいった。

 サイレンを鳴らしていたのは、制服を着た警察官を乗せたパトカーだった。彼は官庁のガードマンから呼ばれて参上した次第であった。
「B—1203地区から参上しました」参上したとは古風ないい回しであるが、警察官は若かった。それがメガ感性である。どうです、わかりやすいでしょ。
「おお、よく来てくれた——」ガードマンはそういって警察官を歓迎した。彼はある物体を指さしながらガードマンにいった。「——あいつなんだよ」
 その物体とはヒト科の動物だった。それの動物はこの惑星に誕生して六十一万三千二百時間を経ようとしていた。動物の頭には毛がなかった。毛のある動物もいるが、それが無かったとしても特に異常ではない。
 その動物は背中を丸め、地面にはいつくばるような格好でいった。それは怒鳴り声というタイプの声だった。「——おれへの付け届けはどうした!」それから「早く持ってこい! 時間を教えてやらねえぞ」
 警察官はここへ来る前にあらすじを聞いてきてはいたが、実際に状況目のあたりにすると「またか」といった体で、身体から『力』という『ガス』が抜けた。
 これはよくある騒動だった。うずくまっている動物は、この官庁で働いていた大蔵省幹部で公務員である。実際の役職名をわたしは知らない。彼は国から給料をもらっていた。それは大した金額であったらしい。その給料は、主に国民の税金でまかなわれていたが、それ以外にも多額の収入を手に入れることができた。それは彼と同じ動物が、自分の金をくれることに味をしめたからである。なぜ彼らが自分に金をくれるか?——彼にとってそんな理由はいらなかった。金は勝手にめぐってきた。相手がくれる金を断るやつは「たぶん」いない。
 この動物の頭の構造は「ほぼ」メガ感性によりしばられていた。メガ感性のほとんどは後天的である。彼のメガ感性は、官僚を目指した時点で芽生えはじめていた。それは官僚の一部となったときから急速に開きはじめ、わずかな年数で、利己的でわがままで幼児より手間のかかるメガ感性を作り上げた。それは脳ミソに作られた特別な部屋をすみかとし、革製のソファに寝そべってパンティをはかない女性がもてなしてくれるしゃぶしゃぶにうつつを抜かしていた。
 それは今でもそうである。
 頭に毛のない動物は、強力なメガ感性に操られて官庁の玄関にやってきた。彼の着た背広の背中には大きな足形があった。それはここに来る前によった銀行の支店長からけられたものである。
 彼はある発作にみまわされると昔——おっと『昔』とはメガ感性を持つものが使いたがるものである。注意をしないといけない。
 そにかく彼はときおりある発作にみまわれる。それは脳ミソの中の特別な部屋でしゃぶしゃぶを頬張る特別製メガ感性が発する指令であった。彼はその指令により、以前自分によくお金をくれた銀行やその他の会社に立ち寄った。そこでこういうのだ——
「監査の日を教えてやるぞ、イヒヒヒヒー」
 その日もそんなことをいってなじみの銀行に立ち寄った。銀行を利用する客のほとんどは、銀行を貸金庫として利用していた。その日も客はいた。その客のほとんどはレストランや電気工事を営む自営業のであった。普通の人は銀行に金を預けようとはしなかった。それはなぜか?——銀行はつぶれるからだ。
 頭に毛のない動物は銀行の入り口に立つと大声でいった。「どなたか大蔵省を担当されている方はおらんかな?」
 フロアを監視するガードマンが彼に近寄った。まあまあお客さん、静かにしてくださいよ——。ガードマンは彼をなだめる。彼——つまり頭に毛のない動物のことであるが、彼は子供のように『いやいや』をする。そのうちに奥から支店長がやってきた。歩きながら支店長がつぶやいていた言葉はこうである。「ふざけやがってこのおやじ——」支店長は彼にいうべきとてもはしたない言葉の数々を念じるように復唱していた。しかし、彼に五十センチ近づいた支店長は彼にどんな言葉を投げたか?
 支店長は何もいわなかった。そのかわりに足を動かした。そう、支店長はおもいっきり頭に毛のない動物の背中をけり飛ばしたのである。
 支店長はけり飛ばした後も何もいわなかった。肩で息をする彼の顔には満面の笑みがあった。
 頭に毛のない動物の背中には、二十七センチのサイズの足形が残った。
 そしてまた彼はけり飛ばされようとしていた。若くいつも同じことで呼び出されることのうっぷんでたまりきった警察官に。
「はいはい、おじいちゃん立ってください」
 動物は立たなかった。警察官は身の毛のよだつ言葉を吐きながら動物の脇腹をけりあげた。そして肩をつかむと、そのまま外へ引きずっていった。
「普段は好い人なんだがね。無口でさ」とガードマンがいった。
「同感です」と警察官がいった。「しかしいつもこれじゃね」
 頭に毛のない動物にも名があった。だがその名前は対して重要ではない。それであるから、ヒト科のほ乳類であることを尊重して『老人』と呼ぼう。
 老人はパトカーの後部座席に座り、こう考えていた——「エミちゃんに会いたい」
 それよりつい前の時点で彼のメガ感性は、脳ミソにある特別な部屋の扉を締め切って安らかな寝息をたてていた。

 わたしはときどき、宇宙空間にほんの小さな穴が開くのを見る。その穴のひとつはこの老人の目とつながっていた。だからわたしはこの老人を通じてエミを知っていた。彼女は可愛い娘である。
 彼女の名前はアヤベ・エミという。

 窓から身を乗り出したゼンジがいった「あーあ、あの警官けっちゃったよ。それにしてもあのじいさんって、よくうちに来るよね」
「みんなディンギが忘れられないよ」とウーがいった。ゼンジが振り向いた。
「ウー、あんた『ディンギ』って知ってるの?」
 ウーが当惑しながらいった。「ああ、知ってる。何をびっくりしてる?」
「だってディンギってロシア語だろ。何で知ってるんだ——勉強してたの?」
「ちがう。アダホに教えてもらった」とウーがいった。

 どんなにたくさんあっても使い道にこまらないものなーんだ?
 ——それはディンギです。
 わたしの乗っているラダも、もともとはディンギで買われたものだった。ただ、今のわたしにはディンギがあってもしょうがない。力を押した向きに方向を変えるラダにはガソリンは必要ないし、ここには自動販売機もなかった。

 アダホか——ゼンジは気の狂ったアダホの交代を要請しなければならなかった。だが彼が交代させたかったのは情報収集・プリント係の部下だった。
 アダホは料理が得意な男だった——ゼンジは思い起こす。アダホはつい二週間前に官邸の記者に鳥肉の入ったプロフという料理を紹介したばかりだった。そのときはカメラを持った男や女が大勢やってきたっけ——。
 少しセンチになったゼンジは時計を見た。時計は六時をさそうとしていた。
 ウーはディスクを持ったまま立っているアダホに、「もういい」とやさしく声をかけた。ウーはユニソフトとして派遣されて五カ月になる。アダホは八カ月だった。ユニソフトは四年ほど前から防諜部に社員を派遣している。彼らは十八と十九人目の派遣社員だった。同社が派遣する社員の質は段々と低下していった。

 気を取り直して——

 ゼンジは母性省特別地下運営センターあての電信文をタイプした。彼は端末の中味はちんぷんかんぷんだった。彼は今までの自分の職業を無事やり抜けてきたのが不思議なくらいに機械音痴だった。
「えーっと、『——センター殿へ、夜間外出という事実の有無を確認したくお願いもうしあげます——』うーんこんなもんかな。おい、どうだ?」——ゼンジは応えるはずのない端末に向かってぶつぶつつぶやきながら電信文をタイプした。タイプが終わると、ディスプレイを指でなぞり署名をした。
 この署名行為は部長緊急代理としては許可されない仕事だった。わたしはゼンジの気が狂ってしまったかと思ったが、わたしの目の前に穴は開かなかった。なぜゼンジがこのような電信文を打ち、許可されていない行為である署名をしたか——それは彼が名も知らない若者に——それはカンイチだった——興味をもったからである。
 ゼンジは端末の電源を落とすといった、「ウー、とにかく今日は終わりだな。おれは帰るよ」
「わたしはもうちょっと見ていくよ」
「アダホは?」
「彼はそっとしておく。気の済むまでやればつかれて寝てしまうよ」
 ゼンジはコートをはおると、「わかった——それじゃ明日な」といって出ていった。

 ♭ 2 ウーの通信

 ゼンジのいなくなった防諜部にウーとディスクを虫メガネでのぞき続けるアダホが残った。
 ウーは腹がへった、と独り言をいいながら、自分の机の引き出しを開けた。その中には、マンジュウやパンが入っていた。彼はその中からアンパンを取り出すと、思いっきり袋を引き裂き、半分にちぎった。ウーはちぎった方を頬ばり、残りを袋に入ったままアダホに差し出した。「食べるか? アダホ」
 アダホは何か低いうなり声をあげているようだった。ウーはアンパンをアダホの白衣についた大きなポケットに入れてやった。「後で食べなよ」
 ウーはアダホの様子に極端な悲しみをあらわさなかった。それどころか、ウーの顔には薄笑いが浮かんでいるかのようだった。
 わたしが宇宙空間の穴からウーの目を通じて覗き込んだウーの顔には、あきらかに『たくらみ』を秘めた表情が浮かんでいた。
 東洋系の人びとの顔には表情がない、と西洋系の人びとはいう。わたしはそう思わない。たぶん『表情が無い』というのは気を利かせた詩人が訳した言葉であろう。東洋人の表情は実に愉快である。それはいつも笑っているか、困っている顔しか見せないからである。
 
 ウーは、資産番号の明記されていない——つまり私用の端末に座った。ウーが愛する、そしてこれからも愛するであろうキーの少ない端末にはブッダのシールが貼られていた。これは彼が高校生の頃にアルバイトをして買った端末だった。東洋系の彼に与えられたバイトは、チャイナタウンにあった中華料理をテイクアウトする店で配達をすることだった。
 そこは『出血する乳首教団』のいかさま教祖チャンが泊まっていた宿の下だった。あえていおう——チャンはイカサマ教祖である。そのころの彼はまだ自分のすり鉢を持っていた。そのすり鉢はチャン自身の手で粉々にされた。
 すり鉢はたぶん土に帰ることができただろう。彼はラダとはできがちがう。だが実際には、すり鉢も土に帰ることはできなかった。なぜなら彼の残骸がばらまかれたあたりは、コンクリートで敷き詰められていたからである。
 ヒト科の動物はどこまで自然のルーチンの邪魔をすれば気がすむのだろう。
 ウーはアルバイトの身でありながらも、その中華料理レストランに革命的アイデアを提供した人物でもある。彼がその助言をするまで誰もが不可能だと考えていた。
 ウーは汁ソバのテイクアウトを可能にしたのである。それは『おか持』というアイデアだった。ウーはいった。「お客様はみんな口々にいうんです、『なぜ汁ソバのテイクアウトはしないんだ?』と——。それでわたしは考えました。出来上がった汁ソバをこぼれないように箱に入れて運べばいいんです」
 レストランのボスや店員は目を丸くした。それはこれ以上の説明を想像できる余地のないことを示していた。ウーはその晩に徹夜をすると、『おか持』のプロトタイプを店に持ってきた。プロトタイプといっても、それはじゅうぶん実用に耐えうるものだった。それを人びとは『ウー・ボックス』と呼んだ。
 彼はその功績により、アルバイトでは絶対に認められないであろう破格のボーナスをもらうことができた。そのおかげで彼はブッダシール付き端末を買うことができたのである。それは中古品だったが中味は新品だった。
 彼は愛する端末の前のイスに、ある儀式のような身振りで座った。そして何かをつぶやく。つぶやきはそのままウーの指を動かした。そしてその指は端末のキーを叩く。
 緑色のディスプレイに文字が浮かんだ。
『DIANA』

 ♭ 3 部屋

 イサオが帰った部屋は古い六畳間のアパートだった。鉄製の階段を上がって二階の奥。いちばん手前の部屋の前を通り過ぎると、いつもように消毒液の臭いが鼻をついた。彼はその臭いがきらいではなかった。それはトイレの臭いよりましだというのではなくて、消毒液そのものの臭いが好きだった。彼は父親を見舞いに病院にいくのが好きだった。それは父親がくれるおこづかいのほかに、病院に漂う臭いを嗅ぐことが目的だった。消毒液の臭いは、健康への欲望に満ちていた。
 ゼンジは消毒液の臭いが漂ってくる部屋の主人を知らなかった。
 手すりのさび付きはもう慣れっこだった。彼は手のひらに着いた赤茶けたさびを落とすと、ズボンのポケットに入っているはずの鍵を捜した。
 部屋の明かりがついた。部屋には普段どおり誰もいなかった。赤いマークのついた蛇口をひねると、熱い湯が出た。彼は手を洗う。それは彼の習慣だった。
 ゼンジは床に散らばっている原稿用紙やノートを踏みにじりながら、部屋の中で唯一の家具である古ぼけた茶色のソファにたどりついた。そしてソファに座ると深い息をついた。そしてそのまま座り続けた。これも彼の習慣だった。彼はネクタイや汗を吸ったシャツを脱ぎすてることもなく、ソファに深く沈んだ。
 それはある種の無重力体験であった。彼は小さな六畳間のすみっこで自分を支えることなく浮遊していた。
 彼は独りきりになると——たいがい独りであったが——Aっちゃんを思い出した。ナディアのことはほとんど忘れかけていた。
 彼はAっちゃんのことをすでにあきらめていた。彼女が自分の恋人になってくれたらとか、彼女と一緒になりたいとか、そういったことをである。それでもAっちゃんを思い出した。ただ、以前とちがうことはAっちゃんの存在が『思い出』へと変化したことにある。ゼンジは古い名前から今の『ゼンジ』という名前に変えたときに、すべての過去を捨て去った。そうするために名を変えたのである。
 ある日——ゼンジはふと自分が絶滅寸前の状態にある恐竜に思えた。それは彼が三十六回目の誕生日を迎える直前のことだった。
 その日から彼は思い焦がれていたAっちゃんと話すことができなくなった。それはほんのささいなことからであった。
 ゼンジはAっちゃんが重ねてきた年の数を考えてみた。そして自分の年を。彼はAっちゃんに三年間思い焦がれてきた。そのことになんの疑問も浮かばなかった。それどころかこれからも思い浮かべ続けるだろうことを想像していた。
 これは普通のことでしょうか? これだけでは判断できないと思うので、わたしは他人のあまりにプライベートな事情を暴露しよう。——なんてわたしはひどい男なんだろう!
「Aっちゃんには好きな人がいるんだ」
 これは旧ゼンジがわたしに語ってくれたことである。
 ゼンジはふと思った。——自分がこれからもAっちゃんのことを思い続けるとして、オレはいつまで思い続ければよいのだろう——。
 そのとき彼を苛つかせたものは、何よりも自分が重ねてきた年と、Aっちゃんのそれとの大きな差であった。
 彼女は若く、美しく、そして気高かった。(これはわたしが美化するものではなく、旧ゼンジの語ってくれた言葉そのものである)それにくらべて自分の醜さは何だ!
 まるでオレは恐竜じゃないか?——子供がよろこぶそれではなくて、とても惨めな、将来のない、過去に存在し、思い続けるしか脳のない脳ミソの大きな単細胞で、温度を知らない恐竜じゃないか!
 恋をすることに疲れはてた旧ゼンジの青春は三十六を前にして終わった。遅すぎる終わりだった。それはとても惨めで哀れな終わり方だった。
 そして彼はAっちゃんをあきらめた。未練たらしく就職した会社も出張後に辞めた。
 そして彼はたくわえた金の続く限り小説を書きはじめたのだ。まったくものにならない小説を!
 そうしながらも、ゼンジはハロー・ワークに自分の名を登録した。彼は自分の履歴書を提出したが、その用紙には過去の職歴が記載されていた。彼に残っていたものはその『職歴』だけだった。
 ゼンジはソファに座りながら思うのである——オレには何も残っちゃいない。そして、こうも思う——「もう少し恋が上手だったなら」そしてもう一回——、
「何も残っちゃいないんだ」
 ゼンジはふとポケットに押し込まれたプリントを見た。電車の中で母を見つけた男の画像だった。
 彼の顔にはメガ感性のかけらも見えなかった。彼は単に懐かしさだけで母親に会いたいわけではなかった。母親に会おうとする衝動は、懐かしさを別にすると、絶望からしか生まれない。
 今、この国に母親はいない。この国のシステムにおいて家族は存在しない。それはそうなるべきしてなったことだ。現に、システム法案の投票率は空前の百二十パーセントだった。あまりにシステムを望む熱狂的な人々が、投票件を偽造したせいだった。それほどまで国民はシステムの誕生を望んだ。
 システムの効力が発生したその日からこの国に母親はいなくなった。
 しかし、ゼンジにはうらやましかった。理由は何にしろこの男には捜し物があるのだ。
「オレに捜すものはあるか」

 わたし——くれぐれもわたしはモーガンである。そのときわたしは宇宙空間で腕を組んでいた。わたしはゼンジにあるテレパシーを送ろうと思っていた。そのテレパシーはこうである。
〈ゼンジ、君は独りじゃない。君にはナディアがいる。そして何よりディアナがいるじゃないか〉
 わたしにできた助言はとても応急処置的なものである。ほんの慰めのつもりだったのだ。試合に負けた男の子に「次の試合があるさ」とか、恋人に振られた娘に「男なんてたくさんいるわ」なんていう母親のように。また、こういう例えもできる。ここは女性がサポートしてくれる飲み屋として、
「なあ、今度デートしてくれよ」と客がいう。
「したいけど用事があるの」とはぐらかされる。
 なんて具合である。
 とにかくわたしは自分のテレパシー——助言に対してなんの気を払わなかった。旧ゼンジはもちろん、今のゼンジにしても死んだも同然の恐竜だった——はずのだ。
 彼には何もできっこない——イドの生み出したそうした安堵感? がわたしにはあった。
 わたしの心には、今のゼンジができあがる過程に荷担してしまったという責任感が少なからず存在している。それはわたしに軽々しい、ほとんど衝動的な慰みの言葉を投げかけさせてしまった。

 イサオ・セキグチは自分の部屋にいた。食事時になると、もと妻であった女性が食事を持ってきた。彼はシステムが施行された日から妻と別れた。
 彼は父親と同じことはしない——そういった意志があったが、妻と別れたときには父親と同じことをした。それは妻にマンションを買い与えたことである。
 その時、イサオは父親の残したラブホテルのうちの二部屋を妻に与えることを考えた。その部屋はシーベッドとプールベッドの部屋だったが、もちろんそれは改装することを前提としていた。しかしそんな考えもすぐに変わった。ラブホテルに妻を住まわせることは、父親が行ってきたことを肯定してしまうような気がしたからだ。
 余談だが、わたし、モーガンはニッポンの漢字をとても面白く思う。たとえば『父親』は『ちちおや』であるが、『親父』は『おやじ』である。このふたつのシンボルをひっくり返すと、同じことを表す言葉でも、品があったり下品だったりする。
 イサオは、システム施行により、父親の築いてきたラブホテル事業は下降をたどるものと考えていた。これは個庭というシステムにより、あらゆるプライベートな営みが個庭で可能になると考えていたからである。もちろんその営みには、ヒト科の動物が子孫繁栄を目的として行う性交も含まれている。
 だが、父親のラブホテル事業の業績は下降をたどらなかった。着実にグラフの線は上向いていた。子は抑制のうえで常に安定した出生数を数えている。原則的に子は民間から生まれない。そうするとラブホテル事業の業績はいったいなんなのか。イサオは考えたくなかった。
 わたしは旧ゼンジにいったことがある。
「——君はまだ性交する条件など存在しないことに気がついていないのか?」
 これをそっくりそのままイサオにテレパシーで送ろうか?——そう思ったが止めた。あのときの旧ゼンジはまだ子供だった。だがイサオは結婚した立派な大人であった。
 イサオの父親が残したラブホテル事業、正確にはアミューズメント統轄本部特殊ホテル事業部の経常利益は五十パーセントを越えるものとなった。同時にそれはイサオにとって足の裏でお目めぱっちりの魚の目だった。
 父親を越えることは難しく、またその見極めもつかない。イサオは誰にも愚痴をこぼさない。だがひとりぼっちになったときに自分自身をなぐさめるときもあった。彼が自分に贈る言葉はこうである。
「なやむなイサオ、おまえはいちばんえらいんだ」

 彼は仕事を家に持ち込む主義だった。それは一概にいけないこととはいえない。だがわたしはきらいだ。そうした努力により繁栄しすぎた経済は、メガ感性を生み出す一因になったとわたしは信じている。
 イサオが見ていたものは、アメリカ大統領がイサオに宛てた、対火星人養育資金の延長を求める手紙で、二枚目はNASAが大統領にさらなる資金提供を求める稟議書のカーボンコピーだった。
 イサオは火星人にさらさら興味はなかった。それは彼の範囲外だった。アヤベ・クミから、『火星人の身体はほぼ人間と同じ』という説明を聞いたせいもわずかにあった。
 仮にあの六歳になる娘がほんとうに火星人であったとしても、それがどんな繁栄をわれわれにもたらすというのだ。
 彼女はひとりぼっちの子供である。ほぼ生まれたときから地球で育てられた彼女には、地球人に対して有益なものをひとつでも持ち合わせていないだろう。彼女は宇宙船の造船方法はもちろん、折り紙の飛行機さえ作ることができるかあやしいものである。
 彼女を養育しようとする考えのほとんどはあまりにボランティア的考えで、一部の反対運動家からは「ホームレスハウスに入れろ」とか「養護施設に入れろ」とかいう声があがった。彼らのいいたいことを一言でいうならば、「金をかけるな」である。イサオはその意見に賛成だった。
 とりあえず、イサオは今までの研究経過、そして将来性の公表を大統領に要求することにした。だいたい火星人に関する関係各所の発表はいいかげんで、ほとんどがタブロイド紙的情報がほとんどだった。たとえば、
 ・今日火星から来た友好の天使、ディアナちゃんが立ったしました!
 ・ディアナちゃん、ウシにびっくり!
 ・ディアナちゃん、ウマにびっくり!
 ・ディアナちゃんが、『ママ』といった!
 ・ディアナちゃんが好きなものはバター
 ・ディアナちゃんが嫌いなものはタコ!
 こんなものである。学会は、ディアナの生体を一日一時間毎にチェックし、そのデータを研究所のサーバに送り込み続けた。が、それは一般人から得られる結果とあまりにちがわないので、よほど童話好きな研究者でないかぎり、根気の続く仕事ではなかった。
 資金の提供はその後決める——彼は返書にそういった意味の言葉を書いたのち、使い捨てのボールペンで署名した。イサオはその書面にそれなりの価値を見いだせなかった。
 イサオははなから要求された内容を却下する考えだった。すべてのODA・借款のための予算は民間の手へ委ねられ、国家予算からその名を消していた。就職援助費と電車の補修費を国家事業として予算に組み込まれた状況では、火星人養育費なるものを捻出できないことは明白だった。
 電車はひどい痛みを受けていた。それはガソリン式自動車の完全廃止によるものだった。惑星の破壊を恐れた国はガソリンの燃焼により機関を運動させる自動車の廃止を決定した。自動車を生産してきた企業や、タクシー、バスなど、それを営業活動に利用するほとんどの企業が姿を消していた。一時期、そうした営業に対する特別徴収税の検討がなされたが、そうした考えは、金で解決できるものできないものを見極めたうえで検討されるべき議題であり、議場へ出される前に立ち消えてしまった。
 自動車を主生産物としていた企業は電気自動車の開発を目指したが、それに必要な電力の供給が間に合わなかった。彼らの規模は数学的に縮小され、すべての営業所は姿を消した。ガソリン販売業者は、電力供給を開始するための許可を取得することができなかった。彼らの需要に応えるためにはこの惑星を永久に消滅させる容量をもつ核発電所が必要だったからだ。これはニッポンだけの話しではない。
 港には船に乗り込む直前に差し止められた自動車が今でも並んでいる。それらはすべて家として、世界中のホームレスたちに寄贈された。彼らはよろこんでギアを外し、力いっぱい車をおして自分の敷地へと向かった。
 わたしは自分の家兼ソファとしてラダを地球上からこの宇宙空間へ呼んだ。ラダは宇宙に漂う細菌にもびくつかない。
 自動車産業とそれによる二次産業の消滅は、それはオゾン層の命を十年縮めただけだったが、環境委員会は「オゾン層は蘇った」と発表した。世界中がラダ——動かない自動車で埋まった。人びとは電車を利用した。
 しかし、企業の倒産は別段不思議なことではない。誰が制度としての終身雇用を証明できるか。イサオはそれを証明しようとはしなかった。企業は企業を興したもののためにのみ存続されるのである。
 イサオは自動車産業が崩壊していく状況を冷静にながめていた。なぜ冷静か?——それが自分で決定した結果だからである。すべての状況は予想されていた。予想されていたからこそ驚かなかった。
 イサオが驚いたことはただひとつ——父親のラブホテル事業が、どんな状況下でにおいても予想を裏切り業績を保っていることだった。イサオ——ヒト科に属する動物の営みに理由はないのだ。
 電車の補修費は何に使われていたか?——そのほとんどは清掃費に費やされていた。清掃されるものには主として、ジュースで汚れた床、窓にこびりついたガム、そして胃から吐き出された酸性の強い未消化物だった。
 ニッポン人はきれい好きである。だがこの惑星はどこか変だ。いくら大きな書店でも「自分の部屋をきれいに飾りましょう」という本が売られているが、惑星を清掃するための本は売られていたなかった。
 わたしの国アメリカも含め、世界中のほとんどの人々がこの惑星をないがしろにしてきた。特にないがしろにしてきた人びとは、ないがしろにしてきた事実を誇りに思いながらこの世から姿を消していた。人間には寿命がある。寿命があることも、ときにはよろこばしいものである。寿命に従順であればこの惑星はあと少し生き延びることができる。だがもう遅いのかもしれない。
 それだからマーレーは人類を火星に追い出したがったのだ。

 イサオは火星人養育資金をあっさりと解決した。彼にとって、大統領官邸やNASAからの回答がどのようなものであろうと、それらすべてはウソになる回答だった。イサオの時間の向こうには、彼自身が創り出す真実があった。
 次の仕事である。それは『DIANA』というメッセージに対する回答だった。

 『DIANA』とは火星人ディアナのことであった。コードネームがハッピーなプロジェクトほどシリアスなものだ。メッセージを思い浮かべたイサオの顔は緊張した。
 『DIANA』とは、イサオがほぼ無作為に集めた仲間とのプロジェクトだった。それはディアナを一時的に拘留するためのプロジェクトだった。
 イサオはディアナがもつ火星人という価値に疑問を抱いていたし、その結果、彼女の将来性にも懐疑的であった。が、——彼はディアナ自身の存在を軽視してはいなかった。それはディアナが女性であり、母になる要素を持ち合わせているからだった。
 イサオにはごく単純で当たり前な考えがよぎった。——「無いよりあった方がいい」彼はディアナの細胞を入手することを決意し、計画を立てた。その入手を発案した人物はイサオではない。発案者はアヤベ・クミだった。
 彼女は、ディアナの細胞保管を提案した。クミ自身も、ディアナがほぼ火星人でない——いや、ほとんど地球人であるという判断をくだしていたが、仮に火星人としたなら、国が誕生させる『子』たちにひとつの宇宙的バリエーションができる、といった。
 クミはもうひとつ提案した——それは母胎かオリジナルを捜すことだった。つまり母親か父親、もしくはその両方を。
「イサオ、ディアナを仮に火星人とするわね。彼女はあんなに地球人に近い。彼女を創り出した親たちはどうかしら? ディアナが突然変異でもないかぎり、親たちもとうぜん地球人に近いでしょう。もしかすると片親が地球人だったりとか——」
 どお、興味ない?——クミは最後のそういった。それはちょっと意地悪な質問だった。

 イサオが自分でどうしようもないと思うことをふたつ挙げよう——
 ・父親の存在はまだごく身近に存在し続けている。
 そして、
 ・自分たちがいまだに母親から生まれ続けている
 イサオはいかにしてこのふたつの問題を解決すべきだろうか?

 クミは、移民たちの利用するメトロのより深いところにいた。高い天井まで垂直に伸びる黒く灰がかった壁は、天へ届くことを目標にしたゴシック様式の雰囲気をうかがわせた。だが凝った飾りや作りはされていなく、バウハウス調で工業的な機能に満たされた工場にも見えた。
 曲がり角や交差の多い廊下は先を見渡すことができず、薄暗い照明のせいもあって歩きにくそうだった。そんな廊下を薄いファイルを手にしたアヤベ・クミが速い足どりで通り過ぎた。四十四歳になった彼女は今までの六年間をここで働いていた。ほつれぎみの、のりが効いた白衣の裾を揺らめかしながら廊下を歩いていく彼女はとても四十四歳には見えなかった。白い肌と痩せた身体のせいかもしれない。メガネはセルフレームに変わっていた。彼女の視力は年を重ねるごとに低下していった。
 わたしはメガネをかけたことがない。ただ、かけたいと思ったことはある。それはジョン・レノンを知ったときだった。彼は拳銃で撃たれて死んだ。彼を撃った男は、イサオの愛読書と同じ本を持っていたという。これはまだわたしが地球上に生息していたときの話しだ。
 廊下の両側には病院かドミトリーのように数室の部屋が並んでいた。入り口のドア横には、名前らしきもの書かれた札がかけられていた。クミはひとつの部屋の前で立ち止まった。札には、WOMB961901とプリントされていた。
 クミが入った部屋ふたつのベッドがあった。マットレスだけが敷かれた左側のベッドに人はいなかった。クミが近寄っていったのは右側のベッドだった。
「ニイダさん、ニイダ・カンコさん——」クミがいった。目の前にベッドには毛布が山の形をしていた。そのなかにあるのはあきらかに人の身体だった。もぞもぞ動く毛布の山を見てもクミは冷静だった。それは見なれたことだったからである。
「ニイダさん」——クミの声に怒気はなかった。彼女は手にしたファイルを開いた。ファイルの中には一枚の電信文が挟まれていた。電信文の末尾には、・送信元・首相官邸内防諜部・とタイプされ、その上に『ゼンジ』と見るからに投げやりな署名があった。彼女は署名のほかに楷書で自分の名が書いていないことに、電信文の信用性を疑っていた。「検診です。起きてください」
 クミは少し待ったあと、毛布に手をかけた。そしてまたやさしく声をかけた——「起きてください」

 クミが勤務している場所は母性省地下運営センターだった。クミは帰り際にセンター内電信室から四通の電信文を受け取った。それにはクミの上司にあたるセンター長の受け付け印が押され、その横には『アヤベ宛て』と書かれていた。「なぜこんなものをわたしによこすのかしら——」彼女は半分苛立っていた。その電信文には、『この四十八時間以内にセンター外にいた母胎があるか調査願う』という以来内容が記されていた。
「センター長は電信文の配付先を間違えてるわね。これは守衛室の仕事だわ——」
 それに、母胎が外へ出ることはめずらしいことではない。それはこのセンターの許可の範囲でもある。各母胎は一日に一回、決められた時差でそれぞれが地上に続くシャフトをつかって、外へ出ることができた。ただし、決められた範囲内で——。
 たぶんこの電信文はその範囲外を徘徊したものがいるか、ということを意味しているのだろうとクミは理解していた。
 彼女はこの部屋に入る前に三人の母胎と会っていた。彼女たちはこの四十八時間以内には外出していなかった。彼女たちは自由意志で許可をしりぞけた。

 毛布をやさしくひきはがす——うずくまっている人間は毛布つかみ、つかの間の抵抗を見せたが、それはすぐに終わった。クミはフッと安堵の溜息をもらしながら、ゆっくりと毛布をはいだ。「ニイダさん——」
 ベッドの上にはクミよりも年が上であろう女性がいた。彼女は乾いているように見えた。丸顔の頭はの半分は白髪でおおわれ、大きな瞳だけが生きていた。その目尻には十数本のしわがあった。ニイダとよばれる彼女が着ている寝間着のあわせから白い肌が見えた。その肌は彼女の瞳と同じように、彼女が生きていることを物語っていた。クミはその肌をうらやましく思っていた。
 クミはニイダという母胎に関心を持っていた。それはその母胎がクミと同じ年齢だったからだ。クミは彼女の年齢が母胎として高齢過ぎることを案じていた。ニイダがクミよりも老いて見えるのは、彼女が繰り返してきた出産の結果によるものだった。
 ニイダは個庭システムが施行されたがための母胎だった。彼女の他、多数の母胎が母性省管理下にある地下運営センターで管理されていた。クミはファイルを見た。年齢・四十七歳——このセンターで管理されている母胎のなかでは最高齢だった。今までに双子を六回出産し、彼女は今年解放される予定だった。
 ニイダは抵抗を見せたり、奇声を発することもなく、ベッドの上で横になっていた。彼女には苦悩にみちた表情は見られず、微笑んでいるように見えた。クミが声をかけた。「ニイダさん、昨日は外出した?」
 ニイダは応えなかった。クミはそばにあった椅子に腰掛け、クミの腕をやさしく撫でた。もう一度声をかけた。「聞こえてる? ニイダさん、昨日は——」
「出かけました」
「そう、——で、どこに行ったの? あのアドバルーンのあるモールかしら」
「電車にのったわ」
「え——」クミは一瞬耳を疑った。「電車に乗ったの?」
「ええ、一回りしましたよ。いい旅行でした」
 クミは努めてやさしくいった——「ニイダさん、決められたところから出られると困ります。あなたたちは大事な身体なんですよ、それにニイダさんは、もうすぐで退院できるんです」
 ニイダは「わかった」という表情を見せた。

 クミは自室にいた。彼女は首相官邸内防諜部宛のリポートをまとめていた。
〈以下電文——この四十八時間の間に範囲外を出た母胎はひとり。名・ニイダ・カンコ。旧ID・DZK9601イッパン。報告・ニイダ・カンコは十二月十三日午後四時三十分ころ、徘徊許可区域を出てホームに立ち寄り電車に乗った。その際に交際した男子または女子は無し〉
 クミは散らばった自分の机の上をまさぐり、署名用の電子式ペンを捜した。ついでにたまった書類を整理していると、首相官邸が発行している『デバイス・リポート』の最新刊が現れた。「あたらしいやつね——」クミはそうつぶやいた。デバイス・リポートを手に取ると、捜し物の電子式ペンが顔を出した。クミはディスプレイに自分の署名をすると、電文を送った。
 ニイダ・カンコを早くここから出してあげたい——そう思いながら、クミの手はデバイス・リポートにのびていた。そしてページをめくる。デバイス・リポートは首相官邸が隔週で発行するトピックや人事情報をまとめたニュースペーパーで、ちょっとした息抜きにはちょうど良い厚さだった。これを読んでおけば、慣れない省とでも雑談のタネになった。
 一ページ目はあいかわらずイサオ・セキグチの言葉だった。それは読まずに目次を捜す。『ウズベク風プロフの作り方』というタイトルが目に入った。
「ウズベク——行ったことあったわね」甘ったるいワインとシャンパン、そしてウォッカには閉口したものだ。
 ちなみにプロフというのは、ピラフと似たようなもので、生米にスープを合わせて炊き込んで作るライスである。クミは興味を持ってその記事を読みはじめた。料理人は、『首相官邸内防諜部・ユニソフト社派遣社員・アダホ・カーニャ』と紹介されていた。防諜部ね——その名前はクミにほんの少し前に送った電文を思い出させた。そしてニイダ・カンコを。
「防諜部っていやなところね——」クミは独り言をいっていた。
『まず、ライスです。古いのでも新しいのでもなんでも良いです。ライスは水でさっと洗います。ただし水にしたしておいてはいけません』
 クミは料理ができる女性だった。それは彼女がよく食べるせいでもあった。彼女は大学の食堂で日替わりランチを三回頼んだ。彼女が二回目のランチを取りにカウンターへ向かったとき、その後ろで声がした。そして三回目のランチ——小さな声で話しをしていた人々の口はつぐまれ、ただつばをのむばかりだった。クミはどの場所にいても大食いだった。ただ、彼女のための弁護——クミにはそれだけのエネルギーをたくわえる必要があった。彼女のたくわえられたエネルギーのすべては彼女の研究や欲望のために費やされた。
 クミの持つ均整のとれた身体は、彼女の大食に関心をもった人々にとって謎のひとつだった。彼女の脳と肉体は、摂取したカロリーのほとんどを食い散らかし、疲れ切った身体はほんのわずかな暇を見つけると睡眠を要求した。それだから、大食の次に彼女について、『どこでも寝る』という情報が学内の人々の間で広まった。(この『寝る』は睡眠欲のことである——念のため)
 クミのふくよかな髪に枕は不要だった。研究室に並べられた重い研究台によしかかり、地べたに尻をついて白衣にくるまって寝ている彼女を見たことがあるだろうか?——彼女のまわりにはやわらかな霊気がたち昇っていた。間抜けな妖精はその霊気に吸い寄せられ、ずるがしこい天使は彼女の匂いだけを嗅ぐと、また雲の向こうへふわふわと舞い上がっていた——、というのはウソである。
 だが、彼女がほぼ毎日、研究台のかたわらで寝るような生活を送っていたのは確かなことである。研究室の中には彼女の空気が漂っていた。

『ウズベク風プロフ』にいちばん肝心なものはなにか?——それはすでにいったようにライスである。ライスが無ければプロフははじまらない。そして色づけするためのサフラン。残りは豚肉。野菜はニンジンしか使わない。ニンジンは極力千切りにすること。アダホのレシピの中で重要なポイントは以上の三つであった。それ以外について聞き手がたずねると、「あとは鍋でたくだけよ」といった。ごく当たり前の顔で。デバイスリポートにはその行程が五つに分けられ、それぞれの写真が掲載されていた。
 クミは写真を見ながらゴクリと唾をのんだ。プロフにはあたりはずれがある。彼女は今までに三回プロフを食べたことがあった。そのうち、二回のプロフはライスが生煮えだった。クミはライスの一粒一粒がすり切られ生の味が口中に広がり、芯が奥歯にはさまる感触を思い出す。そして思った——もしかするとこの企画はイサオがいい出したのかもしれない。
 その思い出を振り返りながら、写真に目を追う。『煮込んだらできあがりです』とだけ書いてある注釈がクミには不満だった。「——あんなプロフはもう二度と食べたくないわ」それは、生煮えに対するなんの注意もされていないことに対する不満だった。彼女がそうした不満をもつのは、三回のうち残りの一回のプロフがうまかったからである。うまさはあとをひく。
 最後の写真は、アダホがにこりと笑ってプロフの盛られた皿を傾ける、という構図のものだった。その写真のバックになっている壁のタイルは官邸の給仕室のものだった。だがそれはクミにはわからなかった。それではアダホの隣にいる男は?——クミの脳ミソにはそんな疑問も起こらなかった。

 わたしの助言はゼンジの感情を広い海へ開け放したことになった。ああ、何という軽口だったろうか——

 ♭ 4 ディンギの使い道

 ゼンジは無重力体験から抜け出せずにいた。彼のあやういバランスは、たとえるならば一本の糸である。無重力の中でおぼれたい欲求と、それを打破するための行き場のない行動を今直ぐにでも求めようとする力は、一本の糸で平衡されていた。
 ゼンジが求めようとする行動は、彼のイドに染み着いたあきらめにより、抑制されていた。抑制されながら、彼の心を支配していたものは何か?——それは泣き虫の根性ナスビだった。
 ソファの上で無重力体験から彼を呼び起こしたのは、ドアをノックする音だった。友人などが訪れない彼の部屋をノックしたのは売笑婦だった。
 ゼンジの中で糸が緊張を失った。
 彼はネクタイに手をかけながら、狭い玄関に立った。ロックを解除すると、ドアは訪問者の手によって開けられた。
「ハーイ——さみしい夜にさようなら」ドアもとに立つ売笑婦がコートの襟を喉元あたりで押さえながら、静かな声でいった。彼女は極力自分を押さえ、つとめて冷静を保ち続けた。これは彼女が自分の商売をまっとうする上で必要なことだった。顔には笑みを浮かべながら、実際には自分はあなたを欲していないのよ——そう見せようとした結果の態度だった。彼女は産業の一部だった。
 ゼンジは彼女の手を引いた。彼女はわざとらしく驚き、引きずられながらも早口にいった。
「口なら百五十ドル、本番は四百ドル。二回目からは口だと九十ドル増しで、本番は二百ドル増しよ。もし一晩借り切っちゃうなら、全部できて千二百ドル」ゼンジは荒々しく、自分が座っていたソファに彼女を押し倒した。「あんたあせってるわね。で、どうする?——口、本番、それとも——一晩?」女は二十センチ前にあるゼンジの顔をながめながらいった。媚びる彼女の顔は真っ赤な唇だった。彼女の顔は唇のためにあり、唇により支配されていた。
 彼女がゼンジに説明しているのは、自分のサービスにはどれだけのディンギが必要であるかということである。

 ディンギはあらゆる価値を作り出した。
 ゼンジは彼女を抱いた。わたしは以前の——旧ゼンジにいったことがある「性交に理由が必要だと思っているのか——」と。ディンギはその理由を作り出した。
 ソファの上でふたつの物体が上になったり下になったりした。ときどき足を大きく開いたり閉じたり、折り曲げたりした。また、胸にあるポッチをなめあった。ディンギはそうすることをゼンジに認めさせたのだった。
 わたしはそうしているゼンジの気が狂ってしまったかと思ったが、わたしの目の前にはまだゼンジの穴が開いていなかった。
 ゼンジの頭の中にはあきらめきった恋が埋まっていた。そしてディアナがいた。ゼンジはなんとふしだらな男だったろうか!——彼は彼女と身を交わしながら、心の中は忘れられない女性のことと、自分の娘のことで満ちあふれていた。
「——ちくちしょう、ちくしょう——おれは誰だ!」そして「取り返せ! 取り返せ!」
 彼女はゼンジの戯言に興味を持っただろうか、——いや彼女は持たなかった。気味が悪いとも思わなかった。そんな客はざらにいた。自分との交渉にディンギを絡ませる男はたいがいそうだった。彼らは決まって商売の最中に戯言をもらした。「ああ、いいかい」とか「うう、○子」とか「もっとか、もっとか」なんてことを。

 わたしは彼女のようにゼンジを見ることはできなかった。わたしはゼンジがかわいそうになった。とても哀れに感じられた。
 わたしはゼンジにあるテレパシーを送った。
〈ゼンジ、君は独りじゃない。君にはナディアがいる。そして何よりディアナがいるじゃないか〉
 だがそれはとどかなかった。そこでわたしは目を閉じ、もう一度強く念じて今度はこう送った、
〈そうだ、必要なら取り返せ! 取り返せ! 何もかも! 必要なものなら取り返せ! だいじなものなら取り返せ!〉
 わたしの額には汗が浮かんだ。わたしの身体の疲れは、テレパシーが確実にとどいた手応えだった。
 わたしの目の前に一瞬とても小さな穴が開いた。——その穴から真っ赤な唇が見えた。
 ゼンジの中で糸が切れた。
 わたしが「しまった」と思ったのは、もう少しあとのことだった。

「まだ正気なうちにいっておくよ」
 カンイチが口中に残った薬のかすを舌先で集めながらいった。ナミオが不思議そうな顔をした。「俺は母親を探すよ」
 マリアがいった——「あんたの母親ってどこにいるのよ」
「それはエミが知ってるんじゃないか」カンイチの視線がエミに移るとほぼ同時に、マリアたちがエミを見た。エミは注目されるような状況にあっても、そのとりすました態度が崩れることはなかった。エミは涼しげに青いジュースをすすった。
「知らない。でもたぶん、わたしのママがいるところにあなたのママもいるわ」——でもこれは公然の事実、とエミはつけ加えた。
「公然の事実?——って何?」身を乗り出してそういったナミオの顔には好奇心でいっぱいだった。
「それは簡単なこと。今は家族ってものがない。みんな『個』なの。親でも子でもない。そして個から子供は生まれてこない」
「そうか、子供ってのはママとパパから生まれるんだよな」ナミオが頷いた。「そう、それが人間の身体だ」
「けれども、個人は着実に新生している。バランスを崩さないように」
 ナミオがいった、「ボクはときどきママに会うよ」それはどっちのママ? とエミが訊いた。「——うーん、勉強を教えてくれたママ」ナミオは七歳のときに国家教育機構の保護下になった。彼の家族はその制度により崩壊したが、それは彼らにとって好都合でもあった。個庭制度が施行される前にすでに彼らはバラバラだったのである。
 彼の母親は、自分が肝臓を煩って入院したこときっかけにある宗教団体に入信した。勤めていた証券会社を四十を過ぎた頃に解雇された父親もそれに加わった。日が重なるにつれ、父親の解雇を契機に移り住んだアパートには売り切ることができない乳白色をしたツボが増えていった。ある日母親がいなくなった。彼女は宗教家と別の土地へ移り住んでいた。父親は借金にしばられ、取り立てから逃れるために一日のほとんどを外で過ごした。
 真面目な兄はナイフで少女を刺し殺した。そのとき兄は中学三年だった。兄は鑑別所に送られた。姉は中学一年から売春をはじめていた。家には滅多にいなかった。
 個庭制度がはじまったとき、アパートの部屋にいたのは十一歳になったナミオだけだった。
 それからナミオは、国家教育機構が選任した教師——『母』により育てられ、教育されたのだった。
「あと十年もすればすべての母とは国家教育機構を意味することになるわ」
 黙っていたカンイチの口が開いた。
「オレが内地の保護鑑札所にいた間に一家は別れた。すでに父親はガンで死んでいた。母親はオレに会ったあと——」
「いなくなったんだったわね」マリアがいった。
「なぜ知ってる?」
「前にも話したわ」
 カンイチは両手で顔を拭った。
「母親は見つからなかった——と、オレは鑑札所で聞いた。
 鑑別所を出るとオレはすぐ市役所の端末で母親の居場所を調べた。名前はあった。そして古い住所もあった。だが、その存在はなかった。図書館へも行った。そこの端末で捜しても同じことだった——」
 マリアがいった、「でもエミ、わたしの母親はまだ生きているわよ。居場所も知ってる」
「たぶん選んでるの。母親を」
「そうすると、わたしの母親は合格しなかったわけだ」
「知らない」

 ロマン・キャバレーの支配人は、カンイチたちがくつろぐ場所の上——TSKビルディングの三階にいた。
 すでに玉虫色のタキシードに着替えていた支配人は、どうすることもないちょっとした時間をつぶしていた。いつものように店へ顔を出すにはまだ時間があったのだ。彼が座る椅子の前にあるテーブルの上には、ニュースマガジンが置かれていた。その表紙は笑っているディアナだった。彼はそのマガジンをペラペラとめくっては、「この子かわいいじゃない」、などと独り言めいたことをいった。
 同じ部屋にいる準支配人は、そろばんを片手に店の経理に頭を悩ませていた。机にはレシートや領収書が散乱し、そのうち赤でバツをつけられたものは、自社名をきちんと書いていないために、領収書として使えそうにないものだった。それは領収書の大半を占めていた。
「社長、このブロイラー購入の領収書だめですよ。使えません。取り直せませんか」準支配人は苛立ちを隠しながらいった。
「ああ、わたしは社長じゃないよ、何回いわせるの。でも、何? なんでその領収書は使えないの?」
 準支配人は領収書を一枚手に取ると、「これにはちゃんとした店の名前が入っていないからです。ここにはちゃんとした名前を書いてもらってください。『ロマン』ではなくて、『ロマン・キャバレーTSK本店』と書かなければだめなんです。そうしないとブロイラーの購入が必要経費として認められなくて、大量購入のための特別税が課せられます」
「ああ、そうか」
 支配人の素気ない返事に、準支配人は思わずいってしまった。「わたしのいない間に社長が受け取っている領収書はいつも使えないんです。しっかりしてほしいですよ」
「何をいってやがる——わたしは『社長』ではなく『支配人』だ。それに何だ、みみっちいことをいうな。特別税? そんなもの払うだけ払ってやれ、うちにはその分客が入っているし、毎月儲けは出てるんだろう。それよりも大事なことは、人の使い方だ。おまえはそれがなっちゃいない。店の女ひとりまともに扱うことができないじゃないか。店に女がいなくてどうする?」
 準支配人はたじろいだ。彼の額には汗がにじみでた。支配人はそれに構わず、ニュースマガジンを握りしめながら続けた、
「わかってるのか? たとえわたしたちがその特別?——特別税を払うことをしなくても客は来るだろう——お客様はそんなこと知っちゃいないからな、でも考えてみなさい、女がいないとどうなる? あぁ? 客は来ないよ、お客様は来ないよ!——そう、どうあがいても。すると?——わたしたちはおまんまの食い上げよ!」彼は手にしていたマガジンを壁に叩きつけた。埃が宙を舞った。支配人の目頭が熱くなった。そしてみるみるうちにその目は潤みを帯びた。彼は椅子から崩れ落ち、テーブルにひれ伏した。「ほんとうにわかってない! わたしがどれだけこの店のことを思っているか、どれだけこの店を愛しているか——ああ、悲しいわ、なぜわかってくれないの? ねぇ、なぜ?」
 支配人は泣いた。彼はよく泣く去勢された男であった。彼はどれだけ、店を続けることに身を粉にしてどれだけの努力をしてきたかを話し続けた。
「そりゃわたしはニッポンに生まれたわけじゃない、それにニッポン人でもない。わたしがこの店を続けていくのに必要だったのは涙なのよ、そう『涙』——どれだけの涙をこぼしてきたか、どれだけの苦汁をなめてきたか! いやがらせのように現れる整形顔のいやな男——お互いが移民だからって、わたしにとても嫌なことを押しつける。どれだけの通信を傍受すればいいのでしょう——どれだけのナプキンを拾い集めればいいのでしょう? 昨日も来たわ、あの『タナカ』って男、ああ、いやらしい。あいつはまだわたしにこの仕事を続けてくれっていうの。でもいうことをきかなきゃたぶん——たぶんあいつは爆弾でも仕掛けるわ。どのみちあいつは爆弾を仕掛ける、わたしにはわかる。まずこの店をふっとばしても、あいつには痛くもかゆくもない。それにわたしの口を封じるためにも——絶対この店を爆破するわ、粉々にするのよ」
 支配人の顔は涙のためにぐしょぐしょに濡れていた。わたしはこれだけ泣く男を知らない。旧ゼンジでもこれほどではないだろう。ただわたしは、支配人が去勢した男であることに気を止めないではいられない。彼の神経は実に複雑だった。前以上の男の機能を発展することのできない彼の身体の中で、新しい神経が発達し、古い神経との同化が続いているとてもデリケートな状態にあったのだ。
 支配人が去勢した理由は、ミゲェルと同様な理由だった。それは『教師』または『母』という資格を得るためであった。国家教育機構が『母』を選任する条件のなかに、こうした肉体的改造の必要性を示すものはないが、こうした男性が望まれているのは事実だった。それは公表されている雇用条件には含まれていなかった。だが彼らは去勢した。確実性のある就職のために。
 彼らは『資格』を得るために去勢した。それには、彼らが移民であることも深く関係していた。ああ、これは悲しいことだ。とても悲しいことだ。
 支配人はひとしきり泣くと突然顔をあげた。
「だから領収書なんてのは屁だ。そんなものカスだ。人のプライベートへの侵害だ!」
 準支配人に返す言葉はなかった。店で働いて六カ月の彼に支配人が背負ってきた苦労を知るはずがなかった。が、若い準支配人には支配人の理解が現実性のあるものとは思えなかった。彼にとって支配人の存在自体が理解できなかったのだ。たとえば、明日彼が店に顔を出すと、支配人の姿は忽然と消えている、だがいつもと何も変わらない——そういった存在にも思えた。彼はいつその姿を消してしまっても、それはとても自然なことだった。支配人の存在はメガ感性に乗っ取られた準支配人にとって無に近いものだった。
 メガ感性を持った者は、直接の情報を取り込む力を持たない。彼らは、フィルター——テレビネットを通した情報でなければ受け付けることができなかった。だから、いくら支配人がバケツいっぱいの涙を流しながら、告白する一切のことを準支配人は受け付けることができなかった。
 いまではメガ感性がすべてだ。

(続く)



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