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仮題:バイバイ・ディアナ 7 [仮題:バイバイ・ディアナ]

【7回目】

 ♭ 5 とりあえず生きている

「母親を見つけたっていう男がいるようですね」
「どこから——母性省か?」
「そうです」
「電車の乗客らしいですね——若い男という情報ですが」
 首相官邸内防諜部長緊急臨時代理のゼンジは部下の報告を素直に受けとめた。彼にとって報告は防諜部の中にいるかぎりいつでも真実である。そして部下はいわれたことしか報告しなかった。ゼンジはたとえ、臨時だろうが緊急だろうが、そういう札が役職名にぶらさがっていようとも、防諜部に配属されたことを悪くは思わなかった。それどころか、これからの自分の将来を考えた場合、履歴書に一行書き連ねることができるのだ。それで彼の将来はよっぽどの過ちを犯さなければ、若者たちの就職率のように下降することはないだろう。
 ゼンジは前任者がどういった理由で辞めてしまったのかは知らなかった。しかし、この仕事は、休養を必要とするほどハードな仕事ではないと思っていた。仕事は楽だった。それは自分が『代理』のせいであるかもしれないが。まあ、たいがいにおいて、上より下が大変だということだ。戦争の勝者は生き残ったものであり、生き残る確立というのは、位が上なほど高い。それは当たり前のことだ。最後の砦ほど敵からは遠いのだから。
 ゼンジは無駄死にした人類をよそに、生き残ってきた多数の中の一人であるが、彼自身そんなことに感心を持ってはいなかったし、自分が生き残りであるということにも、心から賛成する気にはなれず、ほんのちょっぴりの老婆心のような同情で過去を振り返ったりもした。多くの人々はゼンジと同じように自分が生き残りであるとは誰も考えてはいない。また彼らのうち大多数は進化を出世と取り違える傾向にあった。
 謝った考えのひとつ——進化は急にやってこない。
 進化は間違いなく急にやってくる、その瞬間には肉体的苦痛は決して伴うことはない。手が十本生えようが、不要な歯のほとんどが抜け落ちてしまおうが、脳ミソが極端に小さくなろうが、そういった過程は全て、母胎の中で行われるからである。それだから結果はご存じのとおりこうなる。
 生きている間には人は決しては進化することはない。そしてくれぐれも間違えてはいけないのは、学習することは進化ではないということだ。もっと進化を高尚にとらえてもらえないものか——。
 こういった進化に対する謝った考えや、自分が生き残りであるということを信じないゼンジ——いうなれば一般市民の代表である——は、今、首相官邸内の防諜部の席に座っていた。彼がこの部に臨時であろうが書類上でもとりあえず正式に配属されていちばん感じたことは、自分の将来に対する優位性であったが、実際、仕事をしてみると、あまりの粗末な職場に日々驚きを確認し、そしてそれを容認せざる終えなかった。一見して普通の職場——こういった判断基準の第一歩である視覚的要素を刺激させる状態ほど始末の悪いことはなかった。職場の壁には二十年前のモルタルの上に四重にも五重にも貼られた壁紙は奥の深い黄ばみで美しく飾られ、羽がいかれている換気扇と、年中稼働しっぱなしの空調のうるささは始終耳に入っていた。机はベニヤの張りぼてで、速乾性のボンドで固定されたさえない天板のすみは、しょっちゅう服にかぎさきをつくった。椅子のクッションはすでに利かなくなり、ダニすら安眠できる余地はない。そしてさびを極力同色のペイントで補修した書類棚。この部屋は東側に面した出窓さえなければ、取調室になる予定だった。しかし、そんな職場の中で一週間を過ごしたある日、ゼンジは椅子に座り机に向かっている二三人の職員と、暗号めいたものが印字されたプリンタ用紙で鼻をかんでいるとしか思えない外人二人を見てふと思った。
「予算がないんじゃしょうがないよね」
 これは病気の全快結果であった。ゼンジが座っている椅子にはもともと目に見えない医療薬が塗られているか、魔力によって封じられていて、座る者全ては最終的にそういう結果を見るようになっている。その医療薬はこの官邸内でしか働いていない。ゼンジ自身も知らないうちに、この医療薬の恩恵を受けていた。
 メガ感性——少数の常識を信じ、自分に存在した過去を常に顧みる感性は時代を重ねるごとに強まっていった。メガ感性は個庭制度が施行される以前から人間の間に広まっていった。それは未来を予想しえない状況が生みだした副産物であった。それは人間の欲求とマスメディアのタネ不足と並行してはじまった。
 メガ感性を売り物にする側にとって、それはすき間産業と似ていた。そして人間の間に自然に——とても自然に広まっていった。
 彼らは未来を恐れ、過去に振り向いた。過去の内容だけではなく、白黒や、旧ビデオ方式の映像自体の古さにも自分の経験したことのない頃へのありえないノスタルジーに酔った。
 メガ感性は『記録』が作り出したものか?

 ゼンジはメガ感性の浸食から抵抗し続けていた。メガ感性は人の外見上にその影響を見せない。が、ゼンジにはメガ感性の存在を感じとることができた。メガ感性に犯されたものはつねにこういった言葉をつぶやいた——『ああ、なつかしい』また、しいていえる特徴として、『ああ、ふぅ、ひやぁ』といった溜息をもらした。メガ感性に浸食される人間に年齢は関係ない。どんな幼い子供でさえ過去をなつかしんだ。
 メガ感性から絶えず距離をおき続けるゼンジは首相官邸防諜部にいた。彼の受け持つ仕事、というよりは防諜部の受け持つ仕事——実際ゼンジは何もしていないに等しいのだから——は、官邸から発信される情報の盗聴を防ぐこと、そして他からの情報を得ることだった。そしてそれはほとんどがイサオ・セキグチ首相個人に対するものばかりであった。
 実をいうとゼンジはイサオ・セキグチに関して、その素性というものを知らなかった。知らなくても別段不自由はなかった。
 ゼンジは過去、二度就職をしていたことがあった。
 働きはじめたゼンジがわかったことは、こうである——
『経済学に限らず、学、と名のつくものは何から何までおかしなものばかりである。学というものは全てが事例でなりたち、事例を踏まえることで終わるのだ。まるで、法律みたいなもので、結局は判決例だとか、そういう古い資料を引っぱり出してきて能書きを際だたせる。そうなれば古いことを知っている人間がいちばんの価値をもち、物ごとのほとんどがペシチオ・プリンシピーと良く似た形で終わる』——これはある教師がゼンジに語ったものの焼き直しである。
 ゼンジは新しい職場で何度か目の未来に希望を抱こうという状況にありながら、あきらめきっていた。彼の瞬間は化石的心境だった。
「必ず勝つ——たぶんそれは全ての生物に共通の思いこみだな」
 戦争に負けてしまった生き残りといえる人々は、また負けるのかと思いながらバクチに手を出すであろうか?
 ——否である。

 彼がイサオ・セキグチの内閣である防諜部の仕事につくことになったのは、二度目の退職のあと、ハローワークで求人を捜していたときだった。捜していたというよりは、時間つぶしだった。
 イサオ・セキグチはハローワークビルの事務局で茶を飲んでいた。彼は失業者の再就職状況を自分の目で見にきたのだった——と、いうのは表向きだった。彼のとなりには、家電会社の総務部から出向している労務省次官がいた。
「現状の失業率は五十二パーセントとなっています。こちらの支所に求職を届けられている方は全部で十七万八千三百二十七人です。これは一時間前のデータですが」
 次官がいった、「現在求職中の男子のリストを出せるか? 年齢は三十五歳以上で四十歳まで。できれば独りで仕事をしていた男——自営業じゃなくて雇われ社員だった男」
「はあ、出させてもらいます。で、何にご利用なされるんでしょうか?」事務所長が額に汗をかきながら訊いた。彼はイサオより一回り年が上だった。
「人が職を探すように企業も人を要求している」イサオがいった。「それに欲しい人間は雇用する側が決める。おしきせの紹介はいい結果を得られない」
 イサオは、ハローワーク——職業安定所の閉鎖を考えていた。データを集めるだけの機能ならば、事務所を運営するような労力は必要なかった。
「それはもう、わたしたちも一人でも早く片づいて欲しいもんです」事務所長はハンカチを取り出すと、なま暖かい息を吐きながら、額の汗を拭った。
 事務所長が額の汗を拭いている前で、イサオは彼の職場の解体を考えていた。皮肉なことである。だが、本来、仕事とはそんなものだ。会社の解体は会社が行うものである。

 ゼンジは、ハローワークの古いプリンターが吐き出したリストの中から選ばれた。イサオは彼が名前を変えたという経歴に興味を持ち、それをずいぶんとよろこんだ。個庭制度が施行されたとき、今の『ゼンジ』という名前に変えた。彼はその前から自分の名を変えようと考えていた。その理由はあまりにプライベートすぎる。労務省次官はゼンジが一度改名しているという事実をいぶかしみ、「それはどうでしょうか」とイサオに発問したが、イサオは笑うばかりで耳を貸さなかった。
「こいつは防諜部にはぴったりだ。名前を変えるなんてスパイみたいで楽しいじゃないか」
「それでも経歴なんて大したことないと思いますけどね——」

 A市工業高校卒業 電子専攻
 リーベンエレキ会社    入社・退職
 オンブスマルヤマ株式会社 入社・退職
 現在に至る

「まあ、経歴じゃあ電子専攻とかいってますね、でもこの『エレキ』って会社はコンピュータこそ扱ってはいますが、実際にはその工事専門ですからね。コンピュータの中味を知ってるわけじゃない。おまけに『フラコー』という会社は『リーベン』の下請け。あまり上を狙う男の経歴じゃないですね。これならまだ、産業情報諜報部にいたこの男の方が良いんじゃないかと思いますけどね」次官は自分で赤ペンをひいたリストを見ながらいった。
「良いんだよ。それなりの仕事をしていたやつにはそれなりのことしかできないんだ。要するに頭が固くて自分の仕事に酔っぱらってる。エリートなんてそんなものだ。一般の会社員をバカにしちゃいかんよ」
 労務省室内でイサオは高笑いをした。

 ゼンジがイサオ・セキグチを見たとき、彼の若さに正直おどろいた。自分と少しの年も変わらないように見えたためだ。テレビや新聞で見たことがあるが、百聞は一見にしかり、写真は偽造と思われるくらいに若く見えた。実際にイサオはゼンジよりも五つ年上だった。
 ゼンジが防諜部に籍をおいた初日、イサオ・セキグチが挨拶をした。内閣講聴室にはゼンジの他に二人男がいた。彼らも今日付けで内閣の部門に配属された男たちだった。イサオを待っている間、ゼンジは二人に話しかけた。
「あんたも今日付けで配属されたの?」
「そうです」メガネをかけた男のワイシャツの襟元から肉がこぼれていた。ゼンジはその男がそれ以上話しをしそうにないので、話しかけるのを止めた。だが意に反してその男は話しを続けた。「わたしは山内証券の審査室から出向でこちらの財政部に参りました。あなたは?——」
 ゼンジはいわれてとまどった。好きな女性に何もいえない男、そして火星人の父親である男——結局ゼンジが答えたのはこうである、
「失業中でした」
 もうひとりの若い男がいった、「ぼくは美容師をやっていたんですけれどね。——なんでお呼びがかかったかてんでわかりません」男はブカブカのそれがファッションなのであろうスーツを着こなしていた。襟元を刈り上げた髪の毛は茶色で、ゼンジはその男からメガ感性独特の空気を感じとった。
『こいつもなつかしがるたちか』

 労務省次官の後にイサオ・セキグチが現れた。イサオの身体には男性化粧品の香りがわずかにまとわりついていた。その化粧品は『ル・モンド』といって、五年前からWC—COMの系列会社になった化粧品メーカーが販売しているものだった。三十名を収容できる内閣講聴室の片隅で彼らは対面した。イサオがいった、
「こんな片隅でこそこそ話すのは趣味じゃないな。みんな、テーブルにをめいっぱい使って座ってくれ」
「と、いいますと?」
「この広い会議テーブルに散らばって座るんだ。あるものはめいっぱい使った方が元が取れる」
 ゼンジたち三人は席を五つ空けて横一列に座った。その前の真ん中の席にイサオは腰を下ろし、足を組んだ。目の前にはゼンジがいた。イサオが咳払いをした。
「ごくろうさん。今日から仕事をしてもらう」イサオはそういって、山内証券から出向してきた男と、美容師出の若者に職名と役職を告げた。「ハマグチ・ゼンジ——」イサオを目の前に座っているゼンジを一見すると、「——君は防諜部だな。とりあえず代行。前任者は辞めてしまった。正式な後任者が決まるまで君にその職を代行してもらう。役職は『首相官邸内防諜部長緊急臨時代理』ってところだ。んーちょっと長いかな?」
 労務省次官がイサオの視線に従い、持ってきたフィルムケースから三枚のIDパスを取り出した。そしてゼンジたちの背後から、テーブルの上にそれぞれのパスを置いて歩いた。次官がいった、
「これはID——身分証明書ですな。首相官邸、その他の場所に入場するのに必要なものです。ただ、すべての場所に入れるとは限りません。入れないところは、どうやっても入れませんから説明は不要と思います」次官の口振りは馴れたものだった。「それと——これは大事なことですが、もし紛失したら実費で再発行となりますので注意してください。費用についてはその日の実勢レートで変わります」
 イサオが続けた、「それじゃ、各職場での規律、作業内容や人員構成は、各職場に備え付けられているマニュアルを見ること」
 イサオは出ていった。

「世の中はおかしくなっちまったな——おかしな言葉が氾濫してる」
「氾濫?——ですか」
「『画像』だとか『音声』だとか、カタカナばかりでなくて難しい漢字まで使いやがる。この『置換』てのは『痴漢』のことか?」
「ゼンジさんそんな言葉普通ですよ」
「そんなことあるかアホ」

 ♭ 6 仕事

 おだやかな夕べ、ビビアは台所でニョキをつくることにいそがしい。今日のニョキにはブタの挽き肉が入っている。故郷では牛肉を使っていた。この国に来てからはいつも豚肉だった。バイオ牛肉は使いたくなかった。オーブンのとなりの流しの上に板を渡しニョキの生地を練る。小麦を練る作業は慣れこそすれ、相変わらず力がいる。垂れ流しにしても外に出られるような黒色にちかい美しい髪を団子みたいにまるめ、つり上げられた髪の毛で引っ張られる白い額には自然と汗がにじむ。
 ニョキを独りで食べるのは寂しい——それでもニョキが食べたいという習慣化した欲望には勝てず、今晩ビビアはマリッサを部屋に呼んでいた。九時からの遅い食事である。たぶん、マリッサは自分の店でボトルを空けてしまうほどの赤ワインを飲んでくるだろう。「飲まなければやってられないわ——それにわたしはこれが好きなの」地下省の許可を得て——というよりはそのためにこの国にやってきたマリッサの口癖を思い出すと同時に、彼女の大きく張った尻が頭に浮かんだ。ビビアは同じ女性であるマリッサの尻をちょっとでも思い浮かべたことに少しの恥ずかしさを覚えた。それが独り身となったせいであるとは思いたくなかった。
 ミゲェルが彼女のもとを出ていってからはせまいアパートも広く感じる。そして、自分の胸の内にもぽっかりと空白ができた。ミゲェルはこの部屋を広くしてくれただけでなく、自分の心さえも風が吹き抜けるサッカー場のように変えてしまった。よくミゲェルにサッカーを見に行こうと誘われたものだった。ビビアはテレビがあるじゃないといって競技場へ行くことを笑いながら拒んだ。彼女は観客やフーリガンの足踏みで揺れるスタンドにいるのが怖かったし、彼らの決して応援という言葉でたかをくくれない罵声にミゲェルがのめり込んでゆくところを見たくはなかった。彼ら男がいうには、童心に帰る——そういった普通すぎる感覚なのらしいが、ビビアにはただ、何かに対してやけになり、親しい友人さえ殺してしまうこともやむをえないことを正当化する口実のようにしか思えなかった。事実、死んだものもいた。ビビアがサッカー観戦を断ると、ミゲェルはカスティジャーノ教師仲間と出かけるか、自分で焼いたチョリソーをはさんだチョリパンを食べながらテレビを見た。そしてゲームが山をむかえるたびに、両手の拳でテーブルを叩いたり、床をけっては一喜一憂する姿をビビアに見せた。ビビアは揺れるテーブルを押さえながら、笑みを見せていたが、彼女が見たかったものは、別チャンネルの『ファナと彼女の兄妹たち』だった。
 ビビアは独りになった今、自分が『この国』に来たのは、ただミゲェルと離れたくない一心だったからだと、正直に思えることができた。『人間はせっぱ詰まったときこそ正直になるものよ』——難民を逃れて故郷へと渡ってきた彼女のひいばあさんの言葉だった。ビビアはそれを自分の母から聞かされていた。今、自分は故郷へ帰りたいのだ。
 ミゲェルがこの『国』に来ることを彼女に伝えたのは、トマトソースのタジャリンが一皿三ペソで食べることのできるレストランのなかだった。
 ビビアは中学校で国語の教師をしていて、ミゲェルはコンピュータ技師だった。教師という職業は、他の仕事と実働的に大差がないのにも関わらす、給料は著しく安かった。それに同期するかのように、教職を目指すものも少なかった。ナースのように少ない人数で職場をたらい回しにされたり、専門教科外で教壇に立たされることも少なくなかった。ビビアは中学校の初級課程で数学を教えた。また、教師の過疎が増える都心を離れた田舎への配置転換の話しもあった。
 ビビア自身は、働くことにより生計を立てることを第一に考え、仕事のやりがいという意味においては多少の我慢や不満もしようのないことと心の片隅にしまい、毎日を率直に、そして忙しく送っていた。しかし、男であるミゲェルは絶えず、仕事の不満をビビアにもらした。「どれだけのスキルを持ってしても誰もそれを認めようとしない! なぜ自分は優遇されていないか!」

「一九九六年は良い年だったが——」
 首相イサオ・セキグチが親しい女友達にそういった。
「親父はいうんだよ——『俺が飲んでいるグリセリンを一粒でも持っていってみろ——俺の寿命が一日ちじむんだ』ってね。俺の親父は病気を自慢していたな。そして楽しみは女しかなかった」

 カンイチは仕事を探しに出た。安定所『ハローワーク』はいつも人であふれている。人びとの手には、『失職証明』の切れ端が握られていた。その紙切れが無ければ中央部からの保障を受け取ることはできなかったし、保険制度への加入申請もできなかった。安定所のカウンターは、新規就職者と失業者にわけられ、常に新規就職者が優遇された。失業者のなかには、新規就職と偽ってカウンターに並ぶものもいたが、二分で終わる指紋照合検査で退却を余儀なくされた。新規就職では保険制度加入のための預け入れ金——それは自分の年金を前もって払うようなもので、ほとんどの金が返ってくることはなかった——を払う必要があったが、それでも失業者が新規と偽るには、まともな仕事が残っていなかったからである。余っている仕事はいつも清掃局以外の清掃業務だった。
 カンイチは今、電気工事屋のアルバイトをしている。電気工事といっても彼は直接、その工事に手をつけたりはしない。彼に与えられた作業は『掃除』なのだ。
 彼はバイト代をカードで受け取ると、休憩所に数台並んだオレンジジュースや嗜好品の自動販売機の横に小さくひっそりと置いてある、『残高照会機』前面のスロットにカード差し込んだ。金額は十桁の数字で表示された。
 カンイチがカードを残高照会機にカードを差そうとすると、となりの自動販売機で缶ジュースを買っている、あごヒゲがとうもろこしの毛のような、いつも作業服で通勤する男がいった、「そいついかれてるぜ」
「壊れてるのか?」、とカンイチがいった。
「ああ、そうとしか思えねえよ、おいらが昨日もらったカードには九十八ドル五十セントしか残高がねえ、ってぬかしやがる」
 このとうもろこしヒゲの男は、自分が三週間入院していたことを忘れていた。
 誰かが会社の精算機さえいじらなければ、給料は規則正しく積み上がっていくのをカンイチは知っていた。毎朝夕ちゃんとカードを『時間精算機』に差していれば。ただ、それは会社の経理から聞かされただけで、そのプログラムは見たことがない。
「とりあえず、見ておくよ」カンイチはそういって、自分のカードを差して赤いタッチボタンを押した。一秒ほど待つとLEDに金額が表示された。カンイチは目で五百八十二ドル六十セント、という表示を確認すると、緑のプリント用ボタンを押そうと思ったが、指を宙にさまよわせ、止めた。
 カンイチは受け取ったバイト代と、働いた時間、そしてそこから生まれる肉体の疲労をどうにか目分量でも試算しようと頭をひねったが、掃除という仕事のくだらなさに考えることを放棄した。
 彼の仕事の大半は立っていることだった。ただ作業者のそばで立っている。壁材に使われている石膏ボードから吹き出してくる粉や、赤、白、黒色の被覆を被った電線クズが小さな音をたてながら床に散らばっていく。そして器具のはいっていたダンボールやビニール——カンイチは毎日立ちながらそれが床にたまっていくのを待つ。時には、濡れたネジ、ステイプルやボルトを拾い集めることがあった。それを最初に触ったとき、何で濡れているんだろう、と不思議になったが、指に残った鼻をつく臭いでその正体がわかった。——それはつばでありよだれだったのだ。工事者が自分の口の中にいっぱい含んで使い残ったものを、プププッ、とスイカの種でも吐き出すように床の上に吐き捨てているのだった。
 カンイチはそれを知ってから手袋をするようになった。それに付着したつば、よだれなどの唾液から菌に感染することを恐れたのだ。しかし、その習慣もいつかは忘れてしまうだろう、と思った。危機管理と自己防衛が同レベルになったとき、誰もが熱さを忘れる。
 人々は一九九六年に発生した菌の繁殖を密かに期待していた。死なない程度に感染すれば国からの保険金が手にはいるからだった。ただし、『死なない程度』であるが。
 エミはいった、「わたしのママは、科学者だったわ——性格の遺伝について研究していたの。
 母はまぶたの裏側にいた。

 B—1203地区。
「天気がいいな」カンイチがいった、
「うん、そうね」ナミオが答えた。
 カンイチはナミオの言葉づかいを聞くと、こいつの教師はオカマだな——そう確信した。それはナミオのその口振りと、彼の身の振りを見て容易に察した。一九九七年——それも七月以降に生まれたものは確実に女性的であり、カンイチたちのような古い生まれからしてみれば『オカマ』であった。彼らはオカマでありホモではない。
 一九九八年七月——それは個庭システムが施行された月である。そしてそれは政治が民間へと手渡されてからの最初の事業のでもあった。
 ナミオがいった、「今日はお掃除日和だね」
 カンイチは一九九七年生まれを別段嫌うことはなかった。それはひとつの新しいシステムが普及した結果であり、あの昭和が平成へと変わった程度の認識しか持たなかった。
「お前、年はいくつだよ」
「十五——」
「へえ、十五か——もっと若いかと思ったよ」
「じゃあ、あなたはいくつ?」
「おれはお前よりも九こ上だ」
「じゃあ、二十四だ」カンイチは頷いた。ナミオが思案顔で続けた。「でもボクのこと知ってたの?」
「知ってるのかって——」
 ナミオの顔そして彼の実体があること自体はよく知っていた。

 ♭ 7 教育

 ナミオは個庭システム制定後に設立された、国家教育機構により脳ミソの栄養を与えられた。母性省の傘下にある国家教育機構は、家庭から個庭への変革にともなってあふれるでる子供たちを教育し、かつ生活させることを責務とした教育機関を運営するものだった。それまで存在してきた各種学校の中から必要なものは、国家教育機構に吸収され、必要なきものはその営業を廃止する道を選ばざるおえなかった
 個庭制度によって親と離れ、ひとつの世帯主となった子供たちは十三になるまで機構により教育され育てられた。ナミオは十二歳のときに機構のお世話になりはじめた。
 個庭システム制定後に生まれた0歳児は、延命器のお世話から解放されると、ただちに教育機構の機関に属され、教育を受けた。
 そう、教育者は赤ん坊の世話からはじめなければならなくなったのだ。たとえばここにミチオ・シンバラとタロウ・スズキという機関の男がいた。ミチオは六十五を過ぎたノッポのやせ男で、タロウは身長百六十センチの小太りでおまけにチビだった。
 彼らはほ乳びんを洗っていた。ミチオがいった、「ほ乳びん洗ってもう六年かぁ、長いのぉ」
「そうですねオジキ」柄付きのタワシでほ乳びんの中味をかき回すタロウがいった。彼らはある教育機関のなかの給湯室で五ダースのミルクを作っていたところだった。
 ミチオは本来なら中学校の教頭になれるところだった。それを目前にしながら、国家教育機構の設立と同時に吸収され、教頭の夢がおじゃんとなった男だった。タロウはいなかの教育大学を三年遅れで卒業し、四年の研修のあと小学校の教職を得た——と、思ったらその年に教育機構に吸収された。
「ほ乳びんの洗い方なんて大学じゃならわなかったっすよ。でも六年やれば慣れるもんですね、オジキ」
「わしゃ、もうちょっとで教頭だったんじゃ」
「オレ、校長になるのが夢だったんすけど」
 二人は教育機構に吸収されたその年に、異動通知を手にして様々な部署をたらい回しにされた。そのあげく、行き着いた先は、国家教育機構教育機関B地区の幼年部乳造課に配属されたのだった。ミチオは教頭を、タロウはわずか三カ月の教壇生活を思い出しながら、ひたすらミルクを作っていた。
「それにしてもオジキ、よくこんな仕事やってるね」とタロウがいった。
「おれぁもう六十五だ。この年じゃハローワークも仕事を捜しちゃくれないさ。それにわしゃこの仕事が段々好きになってきた」
「そうかいオジキ。オレは自分の乳臭い手の臭いを嗅ぐたびにやんなってくるね」
「それでもこれは国家の仕事なんだ。公務員じゃ」
「でも今は民間政府なんだぜ、公務員もへったくれもないさ」
 彼らは国家教育機構が支給するミルクの入ったラベルのないブリキ缶が山と積まれた給湯室の中で、熱湯消毒のための蒸気にまみれながら、自らの頬で温度を確かめ、これもまた機構の支給するさじ量りですりきりにすくいとったミルク粉を湯に溶かしていった。
 以上は教育機関の中の一光景であった。
 それでは教師はどうなっていたのか——それはオカマだった。
 オカマである。ホモではなく、肉体を改造していないオカマだった。
 国家教育機構が取り決めた新しい『個庭制度導入に伴う国家教育実施要綱』の『教師心得』では、
・母の役割を持ち、
・常にわが子のごとき愛情を持って接し
・機構ガイドラインに基づき育児、教育を行われるものである。
 と、指示されていた。また、『特別覚書』として、次のことが挙げられていた。
・十二年の育児、教育期間中に本人の過失いかんを問わず、病的、外的な障害が見られた場合は母性省と国家教育機構の裁定に基づき、相応の処罰を受けなければならないものである
・宗教は本来自由なものであり、教育においてその内容につき講義することはできない。また、そうした問いに対するいかなる答弁をする権利を持たない
 これらは実施要綱の中の一部であるが、いちばん特筆すべきことは、この一条である——、
・女性的特質を顕著に有した男性でなければならない
 ナミオはオカマに教育された。ナミオは知り合った人々にいった、
「ボクの母さんはすごくいい人さ、最高だよ!、何でも教えてくれたの」
 教育機構は、育児、教育するものを教師または『母』と呼んだ。今では教師という呼び方をするものは皆無に等しかった。

「カンちゃん、ほんとうに母を見つけたの?」ナミオがいった。
「ああ、ほんとうだとも、俺は見たよあれは俺の母さんだ」
「どこで見つけたんだ?」
「電車の中だ。おまえもいっしょにいただろう」
 カンイチの仕事は掃除だった。が、彼はそれを職業とは思っていなかった。時間つぶし、する事がない、たまらない——そんな人生の最後に後悔するであろう空白を埋め尽くすための手段であり、何てこと!、と後から叫ばないためにも、やらなければいけないことのひとつでしかなかった。
 カンイチはナミオが話していた教団の名前を知っていた。ただ、彼らのやっていること、——というか宗教というもの自体に彼の興味をもつべきことは存在しなかった。カンイチはだいたい宗教が発展していった先の偉大なてん末については理解しているつもりだったので、それを踏まえると、宗教自体には興味を持つ、ましてその団体に入信しようなどとする意志はことさらなかった。
 カンイチが考えるところの宗教のてん末というのは、全て無に帰することであった。その帰し方まるでお祭り騒ぎで、すべての世間一般の平凡な大衆を嗚咽と笑いを巻き込ませ、最後には弾圧されて幕を引いた。

 ♭ 8 サンフランシスコ

『出血する乳首教団』というこっけいな名前の教団は、スカーフェィスのいかれたギャング教団の意志を継承するという形で、一九九七年、サンフランシスコで結成された。彼らの結成されたいきさつとその運営内容については色々と憶測の飛び交うところであり、数々の説がタブロイド版や、抗議団体が発行する無料配布のパンフレットで述べられている。通説では、東洋から輸入する薬物や大麻の量り売りをカムフラージュするための組織であるといわれている。
 良くある話しと思われるのはごもっともであるが、事実世の中とはそういうものだ。新聞を読めばわかる。
 しかし、つけ加えさせてもらえば、『出血する乳首教団』本体には、名前のとおりのいかがわしさや卑わいなの信仰は存在していないし、彼ら、すなわち信者たちにおいては、アーミッシュ的な受け入れ方——他を恨み憐れむ前に目前のものを神の所業として受け入れよ——そういった絶望ともとれる従順さで、教団の偶像であるモンローに宿った神をあがめていた。
 そして彼らは無神論者であり、無宗教を常としていた。
 教団は無神論者の集まりで構成されていた。彼らは神を信じず、宗教を否定することを教義とする宗教団体であった。
 わたしごとですが——その教団には小さく小さくしぼんでしまった火星宗教からの改宗者もいた。ディアナが悪いのではない。
 信ずることは神と宗教を信じないこと——そんな彼らの間に聖書は存在しなかった。
『出血する乳首教団』の集会所は、ラスベガスの近代化にいき遅れたカジノ跡だった。あったはずであろうネオンは解体業者に引きはがされ、ポールだけが残った。付け焼き刃の豪華な外装は、水のない土地で日を追う毎に汚れと痛みが増し、設備を取り払ったあとの床に残された無数のボルト孔には虫が住みついていた。天井からたれ下がっている元々は照明器具やディスプレイを取り付けていたのであろうチェーンにはクモの巣が幻想的な雲を作っていた。そしてハワイアンショーやリンボーダンスで盛り上がってた筈の何もないステージには、身長三メートルの張りぼての汚れたモンローが直立していた。
 集会所から三千キロメートル離れたコンドミニアムの三階の三〇九号室で中国の調剤師は自分で作ったオートミールをすすっていた。彼の習慣は大さじ三杯の砂糖を入れ込むことで、その砂糖の杯数ごとに自分の故郷は頭の片隅にあるちっぽけなブラックホールの中に吸い込まれていった。
 朝食はオートミール——これに限る、彼はそう自答しながら、レースの白いカーテンを開き、バルコニーに立った。下には丸いプールが見えた。このコンドミニアムに入ったころは一階の部屋に住んでいたが、テラスからの侵入者により危うく殺されそうになり、最上階である三階へと移り住んだ。自分から殺されそうになったこともあった。真実は永久にひとつだけであり、この場合のそれは、彼がプールサイドでくつろいでいた同じコンドミニアムに二カ月の滞在予定の中国人女性と恋に落ち、カナダへの亡命を企てたためであった。
 彼は現状の生活の中で性衝動以外の不自由さを感じなかったが、運命は絶えず女性により狂うものであり、彼の心の中に冷凍保存されていた不純さは、ツナブロックのように解凍された。彼は亡命計画を部屋備え付けの便せんに二十分で書き記した。
 計画は三行で書き記された。
 1・荷物をまとめる。カバンは小さなテニスバッグ。すり鉢は目立つので置いておく。
 2・朝五時にテニスコートに行く。
 3・監視員にテニスクラブのトイレに行くといって、そのまま窓から出て、彼女が待たせている車に乗り込む。
 そして最後に英語で大きく『逃げる!』と書いた。それは彼がアメリカに来ていちばん最初に覚えた言葉だった。
 彼は朝の出発時間五時ぎりぎりまで荷物の整理に手間取った。ランニングとパンツの上下で、額に汗して——といっも、考える時間が動く時間を勝っていた。彼は思いもよらないところから現れる感傷的な遺物(それはクロゼットにしまわれた景徳鎮のツボの中からだったり、キッチンの下に置いておいたクツの中にひそんでいた)の中でよろこびや憂いで胸を熱くした。彼はいくつかの生薬や、漢方の材料をコレクションしていたが、そのうちのどれを持っていくか、ということにも悩んだし、露店で買った十枚のサンフランシスコ市のTシャツからお気に入りを選ぶのに頭を抱えた。結局、生薬は入国や税関で何かトラブルのもとになりはしないかと危ぶみ、一握りの冬虫夏草をテニスバックにしまい込んだ。
 彼がいちばん名残惜しかったのは、長年慣れ親しんできたすり鉢だった。
 彼はベッドに座って、それを膝元におき、しげしげと眺め回した。きれいに渦を巻くように削られた内側をいとおしげにさすっては指先の感触を確かめ、持ち上げては頬をすり寄せた。崩壊は背信から始まる。彼はこれで固形薬を作るために粘土をこねたり、カルシウムを含有させるために卵の殻を砕いたりもした。彼はこのすり鉢を愛し、信じるからこそ、ときに手荒な扱いもしたが、すり鉢は彼を裏切らなかった。彼の信頼できる仲間。家族との間ではかよわない親友との熱き友情と信頼で結ばれていた。彼はすり鉢を胸にベッドの上に仰向けになった。過ぎてしまった今までのことを、覚えたての歌を繰り返しつぶやくように、彼は何度も回想した。
 彼は寝てしまった。
 うたた寝から醒めたとき、時計は午前五時五分前だった。
 彼は勢いよく体を起こすと、胸の上にのしかかったすり鉢はベッドの下へ転がり落ちた。
「ちくしょう、こんな時間じゃないか」
 彼の胸には赤く丸いすり鉢の跡がくっきりと残った。
 彼の頭は熱暴走で真っ白になった。転がっているすり鉢に一瞥をくれてやると、ナイキのテニスバッグをいっぱいにすることだけを考えて、手当たり次第に自分の近くにあるものを拾い上げてはバッグに詰め込んだ。
 ひと段落——バッグがいっぱいになったという、本来あるべき姿の作業に対するサブスティチュートである安心感につかの間溺れると、キッチンに入り、冷蔵庫のミネラルウォーターを首を真っ直ぐに立ててのどを鳴らしながら飲んだ。そして戸袋やキッチンの下の下をかき回しながら、『ある』ものを探した。
 『ある』ものとはすり粉木だった。
 すり鉢が転がる部屋に入ると、彼は長さ六十センチメートル、直径五十ミリメートルのすり粉木を上段に構え、それを力いっぱいに振り下ろした——。
 すり鉢は三つに割れた。彼はいった——、
「ニッポン製のすり鉢なんか誰が使うか!」

 色々なことがありながら、結局彼はテニスクラブのトイレの窓から出たところで監視員に行く手を阻まれた。彼を見張る監視員は二人いた。ひとりはムースと呼ばれていて、身長が百八十センチメートルある髪の毛を後ろで縛り付けたメキシコ系の二十四歳だった。もうひとりはムースより背の低い五十近い年よりのイタチと呼ばれるハゲの男だった。イタチは自分のネクタイをなおしながら、ムースの背中を飾る低俗なゴールデンイーグルの刺しゅうを見て、「若いの、いいかげんにそれらしい格好をしたらどうだ」という。ムースはしかめっ面をした。イタチは『それらしい』ということをうまく説明できず、「とにかくわかってんだろうが」——そうごまかしながらムースにネグロタバコをせがんだ。
「なあ、チャンちゃん——いい女だったな」イタチがタバコをくわえながらいった。「俺たちトイレの裏であの娘に道を訊こうとしたんだが、どういうわけかわけわからんことをいいだしてな。あの娘のいうことにゃ、なんでもお前さんと待ち合わせをしている、というじゃないか」チャンを見上げてしゃべるイタチのとなりでは、ムースが指先で火をつけたばかりのタバコをくるくる回す。しゃべるのはもっぱらイタリア訛りの強いイタチだった。
 女は待っていなかった。あわれな薬剤師チャンは女にふられてしまったのだ。
「だいたいお前さんのやりそうなことはわかっているんだよ」イタチは、今日の計画は全て見切っていたことや、彼女を金で買収したことを話した。二人の監視員に両脇を抱えられて立っているチャンの頭には、薄紅をつけた中国人の女性の顔が思い浮かんだ。彼女は昔、自分が故郷で大学出の店長の店で薬剤師の修行をしていた頃に見た、曲技団の少女に似ていた。身体を逆海老に湾曲させて踊る彼女は、頬に明るさの強い桃色の紅をさし、眉は墨で細く長く描かれていた。目張りされた目には黒砂糖の糖蜜のように深く黒く輝く瞳があった。チャンはムースとイタチの二人にはさまれながらも、曲技団の少女を思いだしたのは、ただ、他に考えることがなかったからだった。実際は自分の亡命相手とその少女が似ているということ自体があやしかった。ただ、今の彼の立場では感傷や絶望に浸るほかなかったのだ。
 憂うつさは時に人生を語る上で最高の暇つぶしになるのだから。
 そして自分がなぜ亡命をしようとしたのか——その理由は自分の非を認めたがらない意識の下に完全に隠れてしまった。
 チャンはアメリカに住むようになってから、女性と同棲すらしたことはない。彼は今でも不法滞在者だった。最初にサンフランシスコに着いたときは乞食とキリスト——その紙一重の体で船酔いにふらつく頭とむかつく胸を抱えて、ニッポン製のアヘンが充満する安宿へ入った。ニッポンの税関はアヘンが輸出されるものとは知らなかった。安宿はエビチャーハンのテイクアウトが評判の中華料理レストランの二階だった。世話をしてくれた宿のマダムは、屋上の金だらいに満たした湯の中に彼を入れ、メイドに体を洗わせた。メイドの手が身体に触れてから、教団の教祖として信徒の前に顔を出すまでの七年間を、彼は一日一回の食事と、週に一回のシャワーを週間としながら、西日だけがあたる部屋のなかで独りきりで過ごした。
 その七年間に彼女が見た女性は、ドア越しのマダムかメイドだけだった。ただ、彼女たちの年齢からして、女性といって良いかは人の判断に委ねられるところであった。
 彼にとって彼女たちは人間だった。
 彼は就寝を除いた七年間のほとんどの時間を、すり鉢とすり粉木で薬草をする練習に費やした。故郷では見習いだった彼が、自分の技術を向上させようとするのは当然のことだった。手の皮は擦りむけ、血がにじみでた。しかし、どこまですろうとも、それを評価する者は誰もいなかった。彼は解答のない試験を制限時間無しで受け続けた。しまいにはすり粉木に自分の手型が残った。
 チャンは部屋のトイレで用をたすとき、天井から目の前までぶら下がった消臭剤を吊るしているチェーンを触るでもなしに、ただだまって見ていることがあった。何も考えずに見ていたのだが、チェーン自体が人生に似ていた。いくつもの輪がつながっているけれども、それぞれの接触する面積は非常に小さく、それはおそらく点か線でお互いを結びつけている。そんなわずかな結びつきでチェーンという製品が成り立っているのは、個々の輪の強さだけだった。結局お互いに頼ることはないのだ。
 食事は毎日決まった時間にメイドが持ってくる『ウー・ボックス』と呼ばれる運搬器具で運ばれてくるテイクアウトの料理だった。『ウー・ボックス』は階下の中華料理店の誇る革命的料理運搬器具だった。これはどれだけ揺らしても、その中に納められた汁ソバの汁はこぼれなかった。
 彼がチャイナタウンの安宿から出たのは、教団の救世主としてドラマチックな登場をした一年半後だった。
 そういうこともあったものだ——チャンはバルコニーに立ち、朝の景色を楽しんでいた。若いメイドが昼前の掃除と夕方のベッドメイクをしてくれる部屋は、植物の芳香剤とバルコニーから射し込む陽の匂いでむせかえっていた。それらはチャンの健康状態にはなんらの悪影響を及ぼすことはなかった。
 彼は筋力を持続させるために行っているテニスの時間を除いては、一日を自分の部屋の中で暮らしていた。

 彼はときおり後悔した。あのすり鉢を割ってしまったことを。だが、彼自身、自分の調剤能力など今の仕事には不要であると自覚した結果、後悔は少年の時の思い出と似たようなものとなった。思い出したくないこともある、という点において——学芸会みたいなものだ。
 彼のすり粉木はオリエンタルハウスで仕入れてきた秋田犬——食べるには旨そうな——の遊び道具と堕落し、無数の歯形が刻み込まれていた。
 チャンは朝食のオートミールを食べながら、昼食はどうしようかと考えた。そして夕食も。食事のことを気にするのは始終のことであった。他人との会話の中にも必ず出てくるのは、「——で、昼は何を食べるわけ?」であったが、それでも彼の風貌と体型は、東洋のキリストであり、あばらは山脈のような高低をつくっていた。
 安宿の七年間は、小さいときから小さな靴を履いて足の成長を極力抑えるように、彼の胃を収縮させ、完全なカリスマ的体型の基礎を確立した。そして毎日のほんのちょっぴりの薬物の連続摂取により、信徒の前ではけっして急性中毒のように薬の力に溺れた姿をさらけだすことはなかった。今のチャンにはいかなる薬も純度五パーセントの安物に過ぎなかった。
「教祖さん、いるかい」ドアを叩き、勝手に入ってきたのはイタチだった。彼は後ろに立っているムースに黙って手を差し出すと、ムースはネグロタバコを一本面倒くさそうに、イタチの手のひらに落とした。「さあ、お仕事みたいだぜ」
 チャンは着替えるというようなことを身ぶりで示すと、「そんなものはいらねえよ、服は向こうにあるんだ。カンジェロ様が待ってる」とイタチがいった。
 チャンがわかったのは、『いらねえよ』という言葉だけだった。しかし、彼の取るべき行動について理解するに十分な言葉だった。
 彼は黙ってランニングと縞模様のパンツ姿のまま、イタチの後をついていった。

 ♭ 9 キャバレー通い

 カンイチは母親に会いたかった。たとえ彼の手がほんの小さな出来心的罪で汚れていたにしても。母に会い、そして許しを請うことで、その汚れの全てが洗い流されることを信じていた。まぶたの裏には母がいたのだ。だが実際、その物語の結末は悲しい。なぜなら、その話しを裏で支えているものは『見栄っぱりな母親』だがらである。

「わたしのママは科学者だったわ。とても白衣のよく似合う人だった。ママはわたしを産むとすぐにパパと別れたらしい。ママはパパが要らなかった。ママはわたしが欲しかったために、パパといっしょになったの。パパが生きているのか——わたしは知らない
「ママはいつもわたしを保育器に入れて研究所に通ってたんだって。わたしはママに訊いたことがある『いったいなんの研究をしているの?』って。そうしたら、『お母さんの研究をしているのよ』っていったわ。でもそれだけなの。わたしが学校へ行くようになってからも、よく研究室に入れてくれた
「わたしを除けばお客さんのほとんどって、ママみたいな白衣を着た医者みたいな人ばかり——それもめったに来ることはなかった。でもときどき首相が来ていたわ——いまの首相ね。そうイサオ・セキグチ?——とても若かった。その頃はまだ社長さんだったんじゃないかな。二人はとっても仲のいい友達みたいだった。わたしの目の前でよく抱き合っていたわ
 診察台の上のエミがいった。マリアはエミの髪の毛を手ですきながら聴いていた。
「出ましょう」
 マリアは外に出るときもピンク色の白衣を着ていた。

 ナミオは誰の顔も見ずに、足下に転がったビスタチオの殻を爪先でもてあそぶことに夢中になっていた。ナミオが真剣味なさそうにいった、
「カンちゃんはほんとうにお母さんを見たの?」
「ああ、見たさ」
 マリアがいった。「さあ、どうかしら——見間違えたんじゃない? だいたい『お母さん』だとか『ママ』だとかみんな似たようなものじゃない」
「・・・」カンイチは何もいわなかった。
 カンイチ、ナミオ、そしてマリアとエミはロマンキャバレーの丸いテーブルでそれぞれが好きに頼んだドリンクをすすっていた。
 ロマンキャバレーは電車の管理者である交通省が所有するホーム——駅の前にあった広大な空き地を利用して建てられた大衆サービス機関ビルの一部であった。これは駅前ビヤガーデンとか、そういったものの延長線上にあるもので、単に交通省が赤字の民間国鉄を買い戻したときにおまけのようにくっついてきた借金を減らすために経営されていた。こういった行為が資金調達のための麻薬売買とどのような異を唱えることができるか——それは誰も唱えることができなかった。似て非なるものではなく、まったく同じものだった。大衆サービス機関ビル——『TSK』は、飲食、風俗、キャバレー、そしてダンスホールを収容する娯楽施設だった。TSKが建てられた当初は、テナント入りする店のほとんどが、香港や台湾、アジア人の経営によるものだった。今では経営者のほとんどがニッポン人の経営によるものだった。が、本質は変わらない。なぜか?——経営者の全てが帰化しただけのことだったから。彼らは国籍を捨てることに寛大だった。彼らは国籍の意味のなさを知っていた。紙上やスタンプで証明される所在よりも、血のつながりの重要さをよく知っていた。それだから彼らは国を出るのだ。自分の国を忘れることで経済はネズミ講的に発展する。

「入ろう——」ナミオが『Roman Cabalet』という名が浮かぶピンク色のネオン管の前でいった。カンイチはため息をつくように「ああ」ともらしながら頷いた。ナミオがドアを開けるとガサガサと紙が擦れる音がする。足下には『出血する乳首教団来日講演』という黄色のビラが厚く散らばっていた。
 ドアを開けると目の前に暗闇が広がった。それは黒く厚いビロードのカーテンだった。そしてカーテンを引くと暗闇のなかに鈍く赤青黄の矢印が光る。上り階段を方向に向いた赤い矢印には『Bar』と『Restaurant』という単語が添えられ、青い矢印には『Discotheque』の文字が浮かび、薄暗い廊下の方向を指していた。そして右を向いた黄色い矢印は『Roman』という単語に小さく『Eleverer』と書かれ首を傾げるように傾いていた。四人は赤青黄——安い色付きの白熱灯の光のなかで誰がそうしたでもなく立ち止まった。静かだった。
 ナミオは他に誰ひとりついてくるものがいないように、黄色い矢印に進んでいった。彼の後をカンイチやマリアたちが従った。彼らの馴れた足下は床のへこみや柔らかさをいつものとおりに感じた。暗い照明に照らされるワックスの染み込んだ床の感触は石綿のそれだった。
 カンイチがマリアにせがんだタバコに火をつけると、廊下の壁に貼られた黄色いポスターがぼんやりとした光のなかに浮かんだ。
「わたしこの教団知ってるわ——エミもでしょ」
 エミは静かに頷いた。そしてあいかわらず黙っていた。彼女の唇は開き加減だったが、それは息をするための最低限の動作にしか見えなかった。
 ナミオの無邪気な声がした——「え、エミさんも知ってるの? わたしも知ってる、アメリカ製だよね」ナミオの声は明るかった。「でも知ってる? 教祖さんは中国製なのよ」
 マリアがいった、「それをいうなら『中国製』じゃなくて『中国人』でしょ」
「なんだいマリア、そのくらいわかってていったのよ」
「だいたいあんたはなんでわたしのことマリアなんて呼び捨てにするのよエミのことはさん付けするくせにね」
「だってボク、マリアのこと良く知ってるもの」
 ナミオはなぜマリアが呼び捨てにされることに文句をいうのかわからなかった。ナミオの足は目の前の階段の手前のエレベータで止まった。その鉄の扉の上には、エレベータの止まる階数の表示はなく、『Roman・Cabaret』の文字に型どられたネオン管が黄色く、薬のように光っていた。
 四人を乗せたエレベータのドアが閉まり、上昇しようとしたときに室内の白色照明が一度消え、そしてまた点いた。ナミオが得意げな口調でいった、「知ってるかい? 上に上がるのにモーターはいっぱい電気が要るの。それで明かりが一瞬消えるのよ」
 マリアはいい子ね、といった風な笑顔を見せた。が、同時に彼のオカマ言葉を哀れに思った。
 エレベータが止まりドアが開きはじめると、かすかに聞こえていた音楽がクラリネットによるものだとわかった。テイクファイブだった。カンイチには懐かしい曲だったが、おかしな拍子のメロディは聴く人によってはヘビをイメージさせた。ナミオもそう感じるひとりで、彼はこの曲を聴くたびに腰元にムズかゆさを感じた。そしてマリアは腰を浮かせている遠い中東にいるだろうヘビ使いを想像した。だが、客がどんなイメージを持とうが、店にとっては単に必要な装飾品でしかなかった。音楽と女、酒、そしてチップ、どのどれひとつが欠けてもキャバレーじゃない。
「おお、いらっしゃいある」エレベーター到着のベルで条件反射的に現れたマスターが四人を迎えた。「また来てくれたあるか、うれしぃね!」マスターは客の名前など覚えちゃいない。が、彼らの顔だけは網膜に焼き付いていた。
「おお、ヒロシさんいらっしゃい、よく来てくれたある」マスターが口にする名前はだいたい決まっていて、ジロウとかヒロシ、そして女ならばミヨコである。そんなでたらめな調子で呼ばれた名前を決まって客が訂正する。マスターの犬歯は差し歯であるが、これはいつもの調子のでたらめをヤクザ相手にふっかけたら、したたか殴られたためである。だがマスターは自分の調子を正すことはなかった。彼は自分の歯が全て入れ歯になって初めて自分のバカさに気づくだろう——客たちの間では、マスターは愛想と人数を数えることしか知らないアホで通っていた。
 ナミオがいった、「ボク、ナミオよ」
「そうだったあ、ナミオさんある」マスターはげらげら笑い、釣られるようにナミオも笑った。それを見たカンイチは、マスターとナミオの二人が同じ根を持っているといわれても不思議ではないと思った。
 ここで一言——まだこの世のなかにはクローンは存在していない。まったく同じ性格を持ち得るだろう人間はいなかった。クローンの存在は、ほ乳類ならばサルで止まっていた。人類のクローン化はひとつも進んでいないにしろ、その他のほ乳類や、ペットして扱われる機会の多くなった爬虫類たちは、すでに生態系が破壊されつつあるほどのクローンとして増え続け、闇や、動物問屋へと流出していった。毒を持たないように作られたコブラがどのようにして自然を生きろというのか——。人々が爬虫類をペットにしたがることには理由があった。それは悲しみの違いである。ほ乳類が死に比べれば、爬虫類のそれは虫が死ぬことと同じだった。干物のようになった亡骸は黒いビニール袋に入れられてそのまま火曜日——燃えるゴミの日に都市清掃車が運んでいった。また、ほ乳類のクローン化はサルで止まっていたが、なぜそこで止まり、現在でもそうなのか。その理由は単純である。誰もやりたがらなかったのだ。クローンの存在価値やその利用価値については、主に科学者たちにより討論、検討されつくしてきたが、それをしてきた科学者たちの全てが、その実現に手を出さず、後を引き継ぐものに引き渡していった。それがまるで実現不可能な未来的産物であるように、将来を担うであろう若い科学者たちに伝達していったのだ。親が子へ民間伝承的なおとぎ話しを語り継ぐように。
 ただ、彼らはどの遺伝子が目を構成するのに必要であるとか、どれを入れ替えれば、どんな結果が出るとか、そういったことを机上で論議できる域に達していた。
 科学者たちは、自らの手で実際にクローンを作りたくはなかった。何時の時代にも存在するマッドサイエンティスト的学者すらそれを拒んだ。それは倫理・社会、または道徳的理由というより、自分のクローンが現れることを恐れたのである。また、政府はクローン流出に対する法案を審議すべきか?、という段階にあった。凶悪な政治犯のクローンが現れたとして、収容所に入っている政治犯が偽物であるとする。そうすれば必ず混乱が起こる。そのため、クローン流出の前にクローンであるかそうでないのかを見分けるためのガイドラインとなるクローン製造法という案も検討されていたが、見分けるために必要なマークなり、記号を埋め込むことは、クローンを人間と見なさない人権を無視する行動として否定された。話しが回りくどくなってしまったが、結局のところ、政府はまだクローンを容認していなかったのである。
 密造されたバイオ牛肉——クローン牛のほとんどは菌に犯されていた。その菌はじゅうぶんに毒薬になりえるものだった。

 天井をはっているパイプにぶら下がっているセロファンで彩られた照明が機械的同期ですき間だらけの床を照らした。マリアの顔が赤く照らされたとき、エミは真っ青になっていた。緑色をしたカンイチの頭上では、ピアノ線で吊るされた模型飛行機がプロペラの音を控えめにグルグル旋回していた。十五個の丸テーブルが人やウェイターの通ることのできる間隔を開けて並び、その奥に続くスペースの右側は多国語のラベルの貼られた酒が並ぶカウンターになっていた。その前には黒いアップライトピアノが置かれ、それは主にホステスたちが腰を休める椅子代わりに使われていた。四人が通り過ぎたときにも、銀色のビニールスカートにセルロイドのスパンコールが散らばったワンピースを着た女たちが座っていた。彼女たちの髪の毛は銀か金色に染められていた。
 壁には一見価値のありそうな絵や書画が飾られていた。ナミオはカエルが相撲をしている古いニッポンの絵とピカソの間に挟まれたバナナの絵が気に入っていた。ときおりナミオはマスターにこの絵をちょうだいとせがんだ。最初は渋っていたマスターも、最後には「かわりの絵を持ってくるんなら良いよ」といった。ナミオはかわりの絵など持ち合わせてはいなかったし、これにかえてどんな絵をあげたらよいのか見当もつかなかった。彼は店に飾られている絵が、ある芸術的観点から選ばれているのだと思いこんでいたため、その絵のあとにどういった絵がふさわしいのかわらなかった。マスターはバナナの絵のかわりにライオンがきたとしても飾っただろう。つまりどんな絵でも良かった。芸術的感覚というのはこのように正直者の感性をとても自信のないものにしてしまう。
 ナミオは豊満な肉体をしたホステスたちの前を通り過ぎ、カウンターに続く次のスペースに入っていった。その部屋は店でいちばん静かなところであるが、ホステスや芸を見せるキャバレーガールたちのたまり場でもあった。部屋に入って左隅の通路の奥には生理用品や使い捨てたスキンが山ほど捨てられたバケツの置かれたトイレがあり、その手前の上り階段は店の女たちと寝る部屋へと通じていた。正面には料理を出す小さな小窓があった。その奥には厨房があり、いつもバターの匂いを漂わせていた。この店の出す料理はどれもバターソースがかけられていて、そのなかでもニョキは人気のあるメニューだった。ナミオは皿の底に残ったバターソースをなめ尽くすのが好きだった。
 四人が入り口に近いテーブルに落ちつくと、ある視線が彼らの背中を刺した。それは他のテーブルで出番を待っているキャバレーガールの視線でだった。マリアは何人かの女たちの顔を認めると目線で挨拶を交わした。キャバレーガールたちのなかで、マリアを知らないものはいなかった。彼女たちのほとんどがマリアの患者だった。マリアは彼女たちのホームドクターであり、ときに彼女はある行為紛いな診察を彼女たちに施すのだった。
 キャバレーガールの中に金髪で肉感の強いユリという娘がいる。彼女はナミオを男にした最初の女だった。ニッポン語を話すが、顔立ちにはラテン系の血があらわれ、若いけれども女たちの中でいちばん年上に見えた。
 ウェイトレスがカンイチたちのテーブルに皿とドリンクの入ったコップを置いていった。カンイチは皿に盛られた錠剤をひとつまみすると口の中に放り投げ、ボリボリと噛み砕いた。苦い粉っぽさが口中と舌を刺激した。そしてイオンとアルカリで味の付けられた、透明な軽いアルコールを一口含んだ。
 空席の多かったテーブルの八割ほどが埋まった。幅広い年齢の客がいたが、彼らのほとんどから失業者の匂いが立ち昇っていた。
 ヘビを身体に巻き付けた女がテーブルの間を練り歩く。その後方では、別な女が鎖でつないだ二匹のサルに芸をさせていた。サルたちはテーブルの上で踊り、客の肩にまとわりつき、手を叩き、そして宙返りを見せた。ある客には女が持っているヘビがワニに見えたし、サルの姿は毛むくじゃらの小人のようだった。しかしどうだろう、実際に女が身体に巻き付けていたのは赤いモールだった。客たちはそのモールを愛しそうに撫でてやったり、また、ある客は「止めてくれ!」と悲鳴を上げ、そのモールから身をよじった。その反応がどうあれ、客たちはどちらにしろそれを見てよろこびあった。他の女たち——キャバレーガールたちは、丸く狭い舞台で踊り、テーブルの側で腰を振った。

 ♭10 化石のイメージ

 ゼンジは部下に命令し、ホームに備え付けられたビデオに収まっている男の顔を拡大させた。
「この男ですよ」部下は真剣味のない間抜けな声でいった。一日分、またあるときはそれ以上撮り続けたビデオを早廻しで見るづけることは、退屈きわまりない作業であり、その中から知りもしない男を捜すというのは、自分にひとつの利益ももたらすものではなかった。こんな仕事をやらないやつでも自分と同じ給料をもらっている——部下にとってそれが不満であった。ただ、ホームの時計廻しに転向されるよりはありがたいとあきらめていた。
 その男はカンイチであったが、ゼンジはまだカンイチを知らなかった。ただ、その男の顔に涙をながしたあとがあることを認めた。ゼンジはなぜか母親が恋しくなった。それがなぜかはわからなかった。人間の機械的構造の中で唯一感情に左右される機関は涙腺である。この男は涙腺を機能させるようなある感動の中に身をおいていたのだろう——ゼンジにとってそれは母親だった。まだ、システムは完全に包皮をはがしてはいなかった。戦争が終わったあとの世代交代には六十年近くの年数を費やした。あれだけの子供たちを製造したというのに!
 ビデオの男は電車の戸口付近にいて、片手は何かに触れようと外に向かって宙をさまよっていた。そしてゆっくりと動いた。それは無理もないことだった。雑踏の中を走るのは難しいことだろう——ゼンジは同情した。今じゃ満足に走ることもできやしない——メガ感性は雑踏と同じだ。邪魔するものが多すぎて、結局はみな横並びで何人さえ一歩でも前に出ようとはしない。それどころか、けん制しあい、お互い同じことしかいわない。

 ゼンジは何も捜すことができなかった。Aっちゃん、ナディア、そしてディアナ。彼は何も見つけることができなかった。見つける前に——
 彼は何も手に入れようとはしなかった!
 彼はすべてをあきらめようと腹を決めた。そのきっかけは、ふとした思いつきであった。
 ゼンジはある夜、ベットの中で考えた。もし、自分が今までのことをこのまま引きずるのもいいが、自分はもう若くはない。オレは自分自身が排除すべき人間で、この世に後々残るべき人間ではない。オレはあきらめなければならない。このまま引きずり続けて年をとってしまうのも考え物だ。オレは変わらなければならない。
 ゼンジは、今まであった名前を変え、ゼンジとなった。今まで引きずって来た思いはすべて古いゼンジから消え去った。彼は言葉の振りすら変えた。そして二の腕にゼウスの入れ墨をいれた。彼には新しいIDが残った。

 さて、ゼンジは自分の引きずっている湿っぽさを振り切って、もう一度ビデオの中の男を見た。そして真剣味の無い部下にプリントを指示した。ゼンジが部下からプリントを受け取ろうとすると、「ゼンジさん、すぐに表面を触らないでください! まだ乾燥していませんから」と注文を付けられた。
「それじゃどこを持てば良いんだ?」
「すみっこを持つんです」部下がぶっきらぼうに答えた。
 ゼンジは腹の中でいつかこの部下の首を切ってやろうと思いながら、自分が首相官邸内防諜部長緊急臨時代理の持つ職権を調べる面倒くささを考えると頭が痛かった。マニュアルの厚さは五センチメートルあった。それでもずいぶん簡略化されたらしいが、結局は『分冊1を見よ』とかいった記述で代用されている始末で、実際には百三十二冊に及ぶマニュアルが共通の書庫とディスクに納めてあった。考えてみれば、国の政治が一冊のマニュアルで終わるなら、そんなに楽な仕事はない。ゼンジは、この部下がいつか自分から辞職を願い出てくれることを望んだ。その前にいつ自分の首が切られるかわからないが——なにせ自分は『緊急臨時代理』なのだ。
 ゼンジはタバコをくわえ、火を点けた。煙を吐きだした途端に、天井に取り付けられている、メッシュでカバーされたファンが回りだした。震動音が響き、埃が舞い上がった。ゼンジはなんの関心も示さなかったが、彼の見えないところで部下は埃を追いやる真似をした。
 ゼンジはプリントされた写真を見た。
 別に悪い男じゃない——第一印象は最高だ。少し鼻が曲がり気味か——けれどそれがなかなかワイルドでいい感じじゃないか!——ゼンジは引き延ばされたカンイチの顔を見て独り感動した。ほ乳類みたいな顔はざらにいるが、こんなトカゲみたいなやつは最近めずらしい——ゼンジは男の顔に、絶滅寸前の恐竜——そんなものは見たことはないが——らしいものを見た。

 恐竜はベッシーとよく似ている。ベッシーは毛の長く愛らしい座敷猫だが、その毛にはいつも血がこびりついていた。
 ベッシーは死んだ魚より、生きたネズミを欲しがった。ベッシーはその時の『今』を追い続けていた。
 写真の男はベッシーに似ていた。彼にはメガ感性が発する一切のオーラも見られなかった。
 それだからこそこの男は母を見つけたのだ。
 そういうわたしはモーガンです——(忘れないために!)

 ゼンジは思った。
 この男は母を見つけたという。それは対して危険なことじゃない。この世の中には自分に似た人間が必ずいる。それだから見間違いということもある。おまけに自分の母親を見つけて悪いことはひとつもない。ただし、それは尊敬すべき個庭システムという管理下では別な話しであった。
 ゼンジが個庭システムで母親と法律上別離したのは彼が三十五歳のときだった。
 母親はまだ生きていた。
 居場所はわからなくても彼にはまだ帰るところがあった。
 誰がいなくても彼には土地があった。

(続く)



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