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仮題:バイバイ・ディアナ 5 [仮題:バイバイ・ディアナ]

【5回目】

 ♭ 7 困る支配人

 手当たり次第のくだらなさは、どうあがいても消せる性質のものではなくて、日毎に増えていく。それを不満に思うのは誰でもない、レジスタンスである。ほう、レジスタンス! わしも若い頃にゃやっとたなあ——なあバアさんや。
 これもメガ感性です。
 ロマンキャバレーの支配人は、整形顔とはっきりわかる男に間を取らされた。彼の顔は火傷後のようにきれいに突っ張っていた。

 支配人がいった。
「あらゆるものをストップさせるには?」
「良い質問ですね支配人、まず、外堀を固めることです」
「外堀?」
「彼らの心とでもいいましょうか」
「心?」
「支配人、あなたは祖国の言葉をお忘れですか」
「忘れたわけじゃない、思い出したくない、そして使いたくないだけだ」
「まだ、迷っている?——」
「そうかも知れない」
「今そう考えていることは、ことを遂行していく上ではなはだ危険なものですな」
「そうだろうか」
「そうです」
「私はどうすれば良いのか。このまま店を続けて行くわけにもいくまい。私は好きでオカマになったわけでは無いのだ」
「あなたは実に不思議な人ですね、あれを取り去ってしまったというのに、まだそのような思いがあるのですか」
「笑ってくれ。如何に年月が暮れようとも、私の頭は相変わらず空っぽなのだ。私は古いことだけをいつまでも覚えているいかれた記憶装置なんだ」
「まぁ良いでしょう。あなたの頭が空っぽというのは私たちにとって、形勢が不利になる要素とは思えません。多分今のあなたは、どちらに転んでも可もなし不可もなし——少なくとも他に対してもに良い条件とは成りえませんでしょうから」
「まるででく人形、ピノキオだな。彼には性別がない。男の子? 止してくれ、男の『子』だろうが女の『子』だろうが『子』は『子』であって、男女の性別はないんだよ。たとえ女の腹の中で完熟して生まれでてこようとも、生まれてはいけないのに未熟のままでてこようとも『子』なんだよ。可哀想に。子には性別の選択権を与えるべきだった。二歳の子供に訊いてみろ——彼には胎内での記憶があるはずだ」
「止してください。私たちはあなたに悩む時間を与えるためにいっしょに仕事をしているわけではないのです。今、ホームにとってあなたの店はとても大事なものです。つながりは血よりも濃くあります。これは物質的にも、そして精神面においてもです。多分この店が泣けばホームも泣くでしょう、この店が笑えばあのホームはいっそうバルーンの輝きを増すでしょう。あの美しいね——もちろんあれを毒々しいという人たちもいるが——まぁそのために私たちはこうして努力しなければならないのですがね、恥ずかしい話しですが、そんな不らちがいなければ、私には仕事がないのです。そうでなければ机の上でインクを何度も吸い取っているのでしょうがね。クルクルっと(男は軽快に手首を回す)こうです、上手いものでしょう」
「私はそれを笑わなければいけないのかな、それとも悲しむべきか、それとも——」
「それはあなたの勝手でしょう。私たちはあなたを完全に束縛しようとは思っていない。笑うとか泣くとかそれは自由だ。自由を忘れちゃいけません。しかし、自由のためのレジスタンスは頂けませんな。自由は私たち、あなたを含む私たちが供給するものなのです。それをみんなが自分たちで作り出そうとする。それは自由じゃありませんな。私たちは人々の意向に沿うようにやってきたのです。人々の望むことをね。壇上からは見渡す限りのハゲ頭——国民会議の部屋がなぜ暗いかご存じですか? 頭皮や整髪料で固めた髪の毛に光が反射しないためですよ——そんな熱のこもった会議を通して、数々の自由を決定してきたのです。売り買いの自由、これはずいぶん昔からあったものです。言論の自由、少し手間取りましたが。これの難しかったところは、それについてもの申す者が直接的被害者じゃないことです。何度も問題をすり替えようとしたのですが、注意力散漫、好奇心旺盛な『護る会』会員の眼についつい触れてしまって行き詰まりの連続でした。被害者たちは自分のことしか考えていませんからね。その後ろで、被害者を支援する連中は好きだからそうしているんですよ。あなたもご存じでしょう、彼らが直接の被害者よりも一回りも二回りも大きな態度で熱弁を振るうのを。実に楽しそうだ。その時に私たちが考えるのは、とにかく弱い者を丸め込むこと、それだけです。ディンギでも何でも費やしますよ。男には女をあてがうしね。今でもフビライの言葉は生きています。良く考えれば簡単なことなんですよ、結局わいわい騒いでいる奴等よりも被害者そのものを納得させれば良いだけなんですから。後は待つことです。ディンギは無くなるものです。こちらの方が多いに決まっている、何せ国のディンギなんですから。いわないでください。もとはといえば、彼らのディンギなんですがね。自分の首を絞めているようなものですよね」
「色々とご苦労をなさっているようですね」
「毛を見せることはもともと反対などしていません。こっちだって見たいですからね。あぁいうのは、子供にアメをあげる要領で緩くして行けばいい。思ったよりもあっさり決まったのは安楽死ですか。本人が死にたいというなら、死なせましょう。あんなものは保険さえつけてやればすぐに決まるんです。そりゃ国だってやたらに支払うわけにはいかない。そのなかの九十パーセントは不当な申請ですから。ぐずぐずと延ばしてやれば向こうが諦めます。まったくこんなに自由を与えているんです。いったい何が不満なんでしょうね。自由すぎて不満というが、そんなに不満であるならこの国にいて欲しくないですね。ただでさえこちらが移民の自由を世界中に公表してからというもの、メトロを中心に世界中から移民が集まってきている。戦争に参加しないのなら、何か世界のためにできることをしてやろうとはじめたのですが、これがこれが。ただし、彼らには『資格』を持ってもらわないと困ることも多いのですが。それでも移民の彼らはこの国を過ごしやすいといってくれますよ。当たり前のことですが、レジスタンスの輩よりもよっぽどうれしいことですよ」
「楽しい話しだ。ほんとうにうれしそうだ。でも私には良くわからない。毎日私は店で、あなた方のいうレジスタンスを監視している。そしてありったけのナプキン通信を収集することに勤めているのだ。うちの準支配人はまだ馴れていない——もっとも今ニッポン語を教えている最中なんだが——」
「うんうん、あなたのニッポン語は素晴らしくなった。資格をあげたいね」
「——しかし私には彼らのしたいことがわからない」
「あなたは彼らの通信内容について知っているはずです」
「いや、私にはわからない」
「ほんとうにそうですか。あの通信の読み方は知っているでしょう」
「読み方? あぁ、あのあぶり出しのことですか」
「そうです。あなたはそれを読んだことがあるはずです、読みましたね」
「あぁ、読んだ」
「そうがっかりしなくても良いですよ。私たちはあの通信方法についてあなたが良くご存じだということで、この仕事を頼んでいるんです。彼らの通信には何と書かれていました? 明日の昼飯、株の値段? それとも酒の値段かしら。まぁ何でも良いんです。とにかく彼らが通信していることに間違いはないんですから。たとえば彼らが酒の値段について祖国(彼らにとっては祖国ではないのだろう、何せ諜報員ですから)へ流している。赤がいくら、黒がいくら、ニッポン独自の酒の値段まで流している。そして我々はそれを黙認している。けれどもただ黙認しているわけではない。彼らはそれを密輸へと発展させるからだ。そうでなければそんなくだらない通信はしないだろう。でも密輸などどうでも良い、それはとても小さなことだ。売り買いの自由を公言している私たちにとって、それは健全な行動であるといえないこともない。それじゃ私たちはいったい何をしているのだ。そう私をまじまじと見ないでください。そして怒らないで聞いてください。それは私たちもわからないのです。つまり、彼らはいったい何のためにそんなことをするのか。この『彼ら』というのは諜報員のことです。彼らは私たちの国の人間だ。国の人間だといってもこの文明の中では怪しいものですが」

 整形顔の男の顔色は話が進む度に狂ったような熱気を帯びてきた。しかし、声はただ静かである。震えることを知らずに過ごすことが難しいくらいに。彼はさらに、自分が妻を見殺しにしたこと、小さい頃に受けた継父の仕打ち、どのようにして官僚の下で腕をふるうことになったのかを話し出した。暗殺が日常茶飯事だった頃に、彼は頭角を現しだした。彼は苦労することを惜しまなかった。そして、その結果自分は郵便爆弾に長けているのだともいった。話しがとうに絶頂へと達したと感じられた頃、彼の顔色からは急激に激しさが萎え、眼だけが爬虫類のように鈍く濡れていた。この男は自分がわかっているのだろうか——支配人は身を堅くしてその考えを探った。自然の中に隠れた姿は、なかなか見いだすことができず、保護色で目を眩ます昆虫の姿が男の身体を覆っていた。時に見せる茶色の陽炎はゆらゆらと目の前を覆い、それはタバコの煙に紛れて静かに空気の中に溶け込んだ。この男の本心が知りたい、そう支配人は考えたが、なるほど男は一流のプロフェッショナルらしく、心に覆ったマスクを丁度良い加減に厚くしていった。男は知っているのではないか、自分の境遇を、自分の育ってきた姿を、環境に反発しながらも自分をだますことに精いっぱいの努力を重ねてきたこの灰色の心を——

「どうしようもないことですが——」
 男はほんの少し額ににじみ出てきた汗を、手袋をした手で拭った。
「このキャバレーの支配人であるあなたに是非ともこの仕事を続けていただきたい。このような場所は通信には好都合なんです。適当に可愛くうるさい女が揃っている、そしてここじゃ客が騒ぐことは当たり前だ。又、監視する側からしても、ここでは人の価値を絞ることが簡単なんです。なぜなら、この国が発令した、『悪性運動消去法』のガイドラインに徹底して従っているからです、わかりますね」
 消去法か——支配人はこの導入にいくらの出費を強制され続けているか、それを思いやった。
「彼らの正常性はすでに試されているんです。実に好都合だ。彼らにはあらゆる適正能力があるのです。たとえ彼らの魂が地に堕ちようとも、救われると私は信じます。いや、宗教を信じているわけじゃありませんよ、これでもあのシンボルはきらいなんです。モンローといいましたか、あの下品な足出し女は——まあ良いでしょう、つまり彼らには適正があるんです。私たちはこの事実に強い感動を思うのです。消去法は正しい薬の使い方を目指して、作られました。この世の薬物は全て人体のためにあります、生かすにしろ殺すにしろね、色々と考えてご覧なさい、どれだけの薬といわれる劇薬がこの世にあるか。グリセリンといえど薬物でしょう。ニトロを毎日手放さない肥満体。絶えずワセリンで尻を濡らしているオカマ。それぞれ一長一短がありますよね。あなたはインターフェロンのおかげでハゲ上がった男をご存じですか。惨めなものです、まぁそれで私たちは安楽死の自由を認めたわけですが。でもこれは身体を治すためにはどうしようもないことなんですね。許せないのは、過剰なビタミンを発憤剤として用いる輩です。発憤剤などというと、何か古めかしいようで気恥ずかしくなりますが、事実そうなのです。液体の風邪薬——あれが効くそうです。五六本まとめてクイっと飲めば、気分は重く身体は鉛みたい、地べたをはいずる感覚で、頭だけが宙に浮いている、そして強烈な吐き気を催してもう大変なことですよ。そんな目にあって何が楽しいかって?——その後に来る真っ白な頭ですよ。何も無い脳ミソ、考えたくても考えることを忘れてしまうのです。中味にできた苔をはがすことのできないもどかしさ。背中に虫がはうようだ! 手が届かない! あぁどうしようってんだ!」

 支配人は自分勝手に悶絶する男を見た。やっていられない気分。それだけ男は正視に耐えない、まるでチーズのような臭いを感覚的に連想させる顔を見せていた。この男こそ薬の尊厳を知らないのかもしれない。まさにのけぞらんとする身体は躍動感というよりは快楽を合わせ持った自虐に近かった。

「すまないが、あなた——何とお呼びしたらいいのかな——」
「タナカで良いです」
「あぁそうですか、た、タナカさん、あなたが薬について何かしゃべりたいのはわかったつもりです。それでもいったい何がいいたいのですか? あなたは何かを排除したい、しかし私にはそれがわからない。そして薬がきらいなことはわかるが、そのビタミンだか何だかはいったい悪いものなのか良いものなのか」
「あなたはわかっちゃいない。みんな電車に乗せるべきだ。ホームでもうろうろしていれば良いんだ。あなたも乗ったら良い。あぁ、何て乾燥する部屋だ! 身体がかゆくてしょうがない、ああ! かゆいかゆい、ほら見なさい、この爪に着いた白く吹く粉を、除湿器を二十台くらい設置することを義務づけたいところですよ。私は吐き捨てるようにいいたくはないが、みんな常識ってものを忘れている。何度もいったでしょう、自由は与えるものだとね、勝手に興奮させてたまるものですか。薬だって欲しけりゃくれてやる! そのために国が守ってやろうというんじゃないか——わたしは、わたしは厚生省からやってきたんだ!」
 いくら男が音声をごまかしても無駄だった。男の喉と鼻に埋め込まれていた小さな球は時間を追う毎に体液に溶け出していった。男は球で圧迫することにより、空気の流出を変え、根本的に声質を変えることなく、発生される声に特異なアクセントをつけていた。最初は鼻声の感が強かったが、次第にそれは強烈なメトロ訛りとなった。その時に支配人は理解した。
「この人、移民ね——」

 ♭ 8 ホームドクター

 ナミオはマリアのアパートを見た。先に電話をしておいた方が良かったのかも知れない——そう考えたが、実際には番号など知らなかった。カンイチはときおり気がついたようにしゃべってはまた植物のように黙る。その繰り返し。

「オレは宗教など信じない。そうだから無宗教なんてこともいいたくない。宗教なんて言葉がきらいだ。死んだ者を敬うなんてとんでもないことだ。そいつはきっとあの世でまともに会えないくらいにひどいことをしたって証拠じゃないか。人を殺しておいて宗教に寝返るなんていったいどういうことだ、宗教はおかしいよ、罪のある奴等ばかり救うんだ——神様、私は悪いことをしました——そうか、じゃぁ懺悔したら?——これで全部終わるんだ。そうしてみんな偉大な奴になっちまう。そいつは本まで出しちまうんだ、印税付でね。これじゃ死んだ奴は報われないね。オレはナミオの親を尊敬するよ。ナミオ、お前はほんとに可哀想なやつだよ、思いっきりね。お前みたいな奴がよくズレなかったものだ。兄貴は人殺し、姉さんは売春、親は夫婦揃って宗教詐欺だ、それでもオレはお前に頼っているのだ。オレはそうすることで、親や身内などまったく関係が無いって事を証明してやろうというんだ。お前は真面目にオレのことを心配してくれる、そしてオレは子供みたいに文句をいう、それでもオレは安心しているから変なこともいえるんだ。でもくだらないウソは何処へ行った、ナミオ、オレにだけはウソをいわないでくれよ」
「何をいっているの? わからないな——さあ、もうすぐよ!」

 二つの通りを越えると、そこにマリアのアパートがあった。
 人が降りてきた。長いコートを身に着けていたその人間は女のように見えた。その人間は個庭制度により拡大されたある産業を象徴していた。個庭は、家庭での商売を用意にした。ヒールの高い靴が階段のステップをける。その音が甲高く響きわたった。
 さびたトタンを屋根にした階段は音をたてないことが難しい。マリアの部屋は壁に残る雨垂れの跡をつたって二階にあった。マリアのドアにベルはない。いくら探しても、マリアの気におさまるベルが無いためだ。だから最初についていたベルの押しボタンは外されて、むき出しの裸線が絡み合うように放置されていた。マリアのドアは表札がないのですぐにわかる。ネコが鳴いた。太ったネコだ。腹が地べたにくっつきそうな。注射器でラードを取り出すべきだ。ネコは一鳴きすると、外に出されたゴミ袋を倒して階段を駆け下りた。首にバンドの無いネコは自由を悲しんだ。ネコは自分をこんな腹にした飼い主の愛情を恨んではいない。恨むものがあるとすれば、自分の口に傷をつけた缶詰の切り跡だった。灰色のコンクリートの外壁が白く浮かび上がる通路。階段の手すり。人は手すりを握ったことによって付着するさびの粉を気にしていた。ナミオは胸裏のポケットから小さなビンを取り出すと、振って中味を確かめた。ビンからはマラカスのような音が小さく響く。油とヤニが着いたドアの上の黄色いライトが咲く並木をくぐって行くと、この世に存在しない死体洗いという職業を想像させる、アルコールとホルマリンの臭いがほのかにしてくる。ナミオは臭いを感じた身体を休めるように空を見上げた。それにしても月というものは何にでも似合う。豪邸だろうと、倒れそうなアパートの上に出ようとも。夜の月はぽっかり空いた穴だった。星は古くなった衣類に年毎に空いていく虫食いだ。地球はトマトもしくは卵であった。地球はやわらかい殻で包まれていた。雨の日に響く雷の軌跡は殻のひび割れだ。地球は、宇宙がきざむ時間の鼓動にあわせて、冬に舞う雪により受精した。そして宇宙の従順な奴隷となった。地球は夜に映えた。空は美しいけれども鳥に全てを渡してしまうには惜しい。しかし、夜のカラスに憎しみなど感じない。遠くに見える銭湯の煙突からは、活火山のような煙が吹き出ている。その下で茹でられている人間は一本のミルクで生き返った。ナミオは無性にミルクが飲みたくなった。
 すべて動物はみなトマトである。

「カンちゃん、あの煙突を見ろよ、あれは銭湯の煙突だ。何だかミルクが飲みたくならないかい」
「飲みたいな、一杯で良いから——あの生臭い感じが良いよな。多分ミルクは薬だよ」
「何で?」
「やっぱり薬だ、オレはあのおかげで腹を壊すからね。身体を震わせる感動なんてクソくらえっ」
 ナミオは安っぽい化粧版の貼られたドアをノックする。
「僕だ僕だよ、いるのかい、僕だよ、ナミオよ、いるの?——マリア、こんなにたくさんノックをしているんだ、いるなら返事をしてちょうだいよ、——あ、そうだね、一息つくさ、時間をあげるわ」

 マリアの手はトカゲのように女の肩の上をはっていた。浴槽にはアルコールを主とした消毒液がうすくためられている。マリアは女の患者——蒼白な顔色のエミを診察していた。消毒灯を模して、青色セロハンを張ったライトが天井から部屋を派手に照らしているが、内が白、外が黒のカーテンはその光を外に漏らすことはない。エミはベットに寝ていた。マリアは手にした器具をかちゃかちゃもてあそぶ。診察? 診察ではない。こんな風景はいったいどこにあるものか。マリア自身そんな気分はほとんど無い。なぜなら、エミはマリアにとって魅力的な患者ではなかった。青く照らされた部屋はさながら菌一つ無い消毒室の様である。彼女は青い色の中で清潔を感じた。ドアをノックする音に驚きを見せたのはマリアではなくエミだった。それでも大した驚きではない。エミは音を感じ目を開くとすぐに閉じ、そのままベッドに横になった。そうさせたのはマリアの触感によるものだった。マリアはエミの胸を軽く手のひら全体で押さえるとクッションの薄い円椅子を立った。青の診察着の襟を正しながらドアまで歩くと狭い曇りガラスから外を見た。

「誰なの」
「僕だよ、ナミオだよ、友達を連れてきたの、入れてちょうだいよ」
「ナミオ? 久しぶりね——でも今患者さんが来てるのよ、二人もいっぺんに診られないわ」
 冷たいマリアの口振りは耳に優しくてとても快い。
「良いんだよマリア、診るのは後でも良いんだ、とにかく入れてちょうだい、お願いなんだ」
 マリアは鎖を一つ詰めたドアチェーンを外し、ロックを解除してドアを開けた。
「どういうこと? まだ遅くはないけれど——いつでも急なことは急なのよ、みんなわかっちゃいないわね。何で今頃いうんだとか、どうして今さらとかいうけれど、それはまったくしようの無いこと。たとえばここに来る前にナミオが電話をしたとするわね、それはいきなり来るなんて野蛮なことをしないためによ、でもその電話が私には突然だわ。でもその電話のために電話をちょうだいなんていわないわ、それこそ空回りだわ、まったくのエネルギーの無駄、気配りなんていったい何だというの、優しさかしら——ほかに説明は持ってないの?——いうんじゃないわ、無理しなくても良いの。ナミオが優しいのはわかっているわ、女の子みたいにね——でもけっして中性じゃない——今まで見たことのないくらい、そう四月バカ以上に信用できるわ。あら、そんな困った顔をしなくて良いわよ、でも変ねほんとうに困っているのナミオ? 顔が青いわね、えっ薬に酔ったの—あぁこの消毒液のせいね、しょうがないわ、ここは病院なんだから」

 ナミオは少し恥ずかしくなった。病人であろう友達を連れてきながら、自分の調子が悪くなって来たのだから。しかしナミオは正常であるとしかいえない。病院は常に反作用で成り立つ社会であるのだから。通気だけではとれない壁にまで染み着いた病院臭は、健康を害させた。恥ずかしさはエミを見たことで増幅した。
「エミ、なんでここにいるんだ?」
 エミはベッドの上で横になっていた。彼女は動かなかった。息をしていることさえ疑わしく感じさせる。これはどうしたことだ——ナミオは座っているマリアに訊いた。マリアは答える代わりに薄笑いを見せる。冷静さもはなはだしい、肉感をまったく持ち合わせないその笑いには、人の心を鋭く見据える完全優位の衣で覆われていた。くだらない噂や勘ぐりは、枯れた空気の中でほんの少しの摩擦で火を起こす枯れ葉のように、微妙なものだ。容易く発火する秘密はベットの上で燃え上がった。前を紐一本で結びあげた診療着姿のエミは、ベットの上で仰向けになり、ただ上を見ていた。時々目を閉じ、そして時々目を開く。視線に不安定さはない。グッタリとしたエミの全ての中で目だけが生きていた。つまり彼女に思考はあった、彼女は死んではいなかったのだ。
「だからいったでしょうナミオ、患者を診てるって。あなたがこの女とどういう関係があるのかは知らないけれど、とにかく静かにしているが良いわ。ほらほら、連れてきた友達の面倒を見なさいよ、床に倒れ込んでしまってるわ、となりの部屋で待っていなさいよ、どのくらい待たせるかは知らないけれどね、しょうがないのよ、私が決めるわけじゃないの、彼女が決めるんだから——そう、私は彼女がもう良いというまで診てあげなければいけないの、彼女、エミといったわね、エミが安心するまでね。それにしてもいったいその男は何なの、完全なビタミン中毒ね、それはそうよ、診なくたってわかるわ、顔が青い割にこめかみが真っ赤、何でも多く採れば良いってものじゃないわ、そんなことくらいわかるでしょう、でもそんなことすらわからないのが薬中——下品な言葉でごめんなさい、でもシャブ中よりましでしょ。また自家製の濃縮ビタミンね、そのビンはそうでしょう」
 マリアは診察室のカーテンを仕切った。ナミオは彼女から大きなコップで水をもらうと、ビタミン入りだとごまかしながらカンイチに飲ませた。そして自分は習慣じゃないといい聞かせながら、錠剤が水の中で産卵するようにたくさんの泡を吹き出すのを眺めた。

「すまないナミオ、大丈夫だ、だと思う。どんな気分かって——一日三回インスタントヌードルを食った気分だよ。腹の底から力が沸いてこない、全てかき消されてしまった。こんな時はビタミンだ。オレの腹の中には泥流が渦を巻いている、重い重い流れだ、何度も腹の壁にぶつかるのがわかる、それを下痢といいたい奴にはいわせておけ、だからオレは医者がきらいなんだ。この国は良い国だ、何をやっても許してくれるのだから。でも眠ることを許してくれないのはなぜだ。神経ばかりが擦り減って、残る物はもろくなった骨だけだ。今この国にはレジスタンスはいない、いるはずがない、栄養を吸い取り尽くされた土壌にはイモだって育ちやしない。今オレはこうしてビタミンを摂取している、この水という媒体を使って。これだけがオレの反抗心を求める手段なんだ。国がいうとおりにやってやろうじゃないか、国がそうしろというならそうしよう、ああしてくださいといえばそのとおりにやってやろう、でもわかるか、そのためにどれだけ力を消耗するか、そうだよ、ビタミンはそのためなんだ。

「少しは気が楽になった——」
「えぇ、とても良い気持ちよ」
「そう、良かったわ」
 エミは静けさに浸った。とても良い気持ちなのだ。緑の匂いがする。そして触られている感触。マリアの手のおかげもあったかも知れないが、そのほとんどは自然なものだった。宙をつかむような静かな興奮とその高まりは、身体自身と微妙に、そして自然に同化していく。細かい神経はとても敏感なものから次第に緩慢さを帯びてくる。身体にかかる重力を忘れて、浮き上がっていくその感じは、不安定ながらも気分の悪さを感じさせない。全てはマリアから与えられたか?——彼女は単なる仲介に過ぎなかった。彼女は脳の中枢を刺激するために取るべき手段を知っているわけではない。たださするだけだ。もっと重要なことは息だった。マリア自身の息づかいと患者のそれを合わせること、それは熱い吐息となって、適当な湿度と温度を持って表面へ伝わったり、身体に当てた手のひらから直接体内へ伝えられた。興奮は頭の中の酸素を大量に消費して、目は開いていても見えるものはネガのような闇だ。しかしそれは明るさの中の闇だった。きらきら光る素敵な闇、奥行きのある深い闇。快楽はその中にあった。エミは静かに呼吸する。身体からにじみ出る汗を清潔な診療着が吸い取る。堅いベットは浮き沈みを知らない。それでも感覚は浮いている。エミは重力を無視した。マリアはエミから手を離した。
「あなたはなぜここに来たのかしら」
「客に訊いたのよ」
「勤めてるの?」
「えぇ、そうよ」
「どうりでね」
「どうしたの」
「あなたを知ってる人がいたのよ。でも教えてなぜここに来たの?」
「理由はないわ、私は楽になりたいだけよ、それと良い気持ちにね。あなた電車は好き? 私はきらい、あいつは私の部屋を震わせるの。私はわけがわからないわ、自分でまったく理解していないの。悲しいけれど電車が通ったことはわかるの。悔しいわ、とても悔しいの、そんなことしかわからないのがね、だから私は部屋が震えたとき、それが電車のせいとは思わないようにしているの。ほかのことを考えるの、地震が来たとか、となりで何かしているとかね。実際にそうだとうれしいわ、すごいじゃない、アレをして大地が震えるのよ、この国中でやればみんな沈んでしまうわね。きっとハエ叩きの棒を持ったおばさんが飛び出してきて、むき出しになったお尻というお尻を叩きまわるでしょうね、赤くなって血が吹き出すまで。とにかく私は電車がきらいよ、だから遠出もしないわ。いつも部屋にいるの。あとは店だけ。ここまでも歩いてきたの。近くで良かったと思っているわ。でも遠くでも来たかも知れない。みんな病院が必要なの。病院——というよりも診察がね。あんな国営病院じゃないわ——あそこには医者がいないもの。もっと知ってくれる人が欲しいの、そしてコントロールされたいの。自然な欲求だわ。私自分から何かしたいとか思わない、何かされたいの、それで最高になればたまらなくうれしいことだわ。あなたもそうなのかしら、いや、あなたはちがうわよね、だってお医者さんだもの。人のことを知りたいんだわ。どちらが先なのかしら、知りたいことと知られたい思い。でもあなたは器具を使わないから良いわ、あんなアヒルみたいな器具を使われるなんて嫌よ」
「みんなおかしいわ、耐えきれないくらいなくだら無さを抱えながら、すごく簡単な打算的解決しか見つけないのね。ほんとうにがっかり。万引きする子供みたいね、理由の一つもあったもんじゃないわ。そういっても始まらない、私は黙って見過ごすわ。だって私あなたみたいな患者好きよ、よろこんでくれるもの。後味の悪い食事をしたような気がしないから。将来の夢は多分ゴムでできた家を建てること。そして水の上に浮かべるわ、重たいコインをみんな捨ててしまってね。それでも空き缶が連なって、その中には貝が住んでる。栄養たっぷりの鳥の頭が空を飛んで、硬直した鶏冠が真っ赤に燃えて夕日の中に溶けるのよ。声など出したって無駄なことよね、そうでしょう」
「私、今日は店に行きたくないわ」
「行かなきゃ良いじゃない」
「私は部屋にいたいだけなのに、みんな追い出そうとするの。部屋にいなさいっていうのは顔にほくろを付けたお爺さんだけよ」
「家に帰って鏡でも見ていたら良いわ——気が休まるでしょ」
「へぇ、お医者さんって何でも知ってるんだ——」

 暖かいようだけれども、外には灰みたいな雪が降っている。冷たい雪の結晶はバルーンに近づくと水となり、冬の雨となってホームに降りそそいだ。ホームに置かれたモニターの中ではスターが踊る。友達は銀幕の十九世紀女、見えない吊り輪にぶら下がった一夜干しの消毒で、泥だらけのハマグリをいくつもいくつも拾い上げる。空気だらけですかすかのアスファルトは人が歩く度に足がめり込んで、腰を冷やす。無い頭を絞って作った意識のない産物は、廃品となって新しい息吹をまき散らし、ゴミの山のスーパースターを自称する。走ることに疲れた運動家の末路は自己犠牲のテレビスター。少しで良いから何かをなめたい。そうでなけりゃ何かをしたい。ホモとはしたくないけれど、ハーフとならしてみたい。それにしても彼はノータリン。紙の質が悪いためにリサイクルができない外貨は、使用を禁じられて枯れ葉のように迷宮の街の石畳に落ちる。ブルジョワジーはディンギの価値に加え、その素材すら吟味する。毎日見る風景は資料映像となり未来へ継承されて、何回も何回も正しい歴史のように繰り返される。それが正しい歴史であるかのように。

「正体がばれそうなのか」
「あぁ、多分彼は知っている。でも、ここに来るのに問題は無かったのか、もちろんオレはうれしいけれど」
「特に問題はなかったさ。でも『資格』を取るのは難しかったよ。フィジカルな審査員、それから鳥の足跡みたいなシンボルのニッポン語にはいまだに馴れなくてね。おかげで金が懸かった。ネットの口座を使い果たしておまけにIDまで売り渡したよ」
「今はまだ楽らしい、前には漢字ってやつがあったらしいから。脳ミソにも空きができる——でも俺がいっているのは——何ていったらいいのかな——お前のワイフだよ、文句いわなかったか」
「ホームに爆弾を投げ込んでやろうといっていたな、確かにそうだ、電車が動かなきゃここには来れないからな、でもそれはまだやっちゃいけないことだ。おやおや、心配することは無いよ、大丈夫。照れくさいが、昔の恋人もなかなか大事なものだよ。いや、何もいうな、お互い昔のことだ。まだその写真を持っているのか、母親の写真を。わかるよ、母親ってのは大事なものだ。いなけりゃ、俺もお前も生まれちゃいないんだからな。生まれて来なきゃこんな思いをしなくても良いけれど、楽しいこともあるのは事実だ。ただし、それが見つかるかというのが問題だけれども。でも俺はあの女を母親とは思っちゃいない。単純な生殖行為なんだ。その結果がこの俺だもの。小説家に生まれて、生涯一度も本を出さない奴もいる。舞踏家に生まれながら一生踊ることのない奴もいる。芸術家に生まれながら日々の生活に追われる奴もいるし、大工に生まれて自分の家すら建てれない人もいる。ごめん、考え方って奴だな——主観と客観を混同してる」
「俺の母親はまだ、国にいるよ。俺には理解できない。何度も乱暴された国なのに、なぜいなきゃならない、まったくの物好きだ。俺は母をここに呼んでやりたい、甘いお菓子を食べさせてやりたい、お前のいた移民街に入れてやりたい、しかし、それができないのだ。俺はすでに取り去ってしまったのだ」
「そうか——」
「な、泣くことはないわ、全てはあなたのため、でもわかって、あなたのせいでは無いの。いっちゃうけれど——私はまだあなたを愛しているわ、ミゲェル」

 ♭ 9 母親を見つける

 カメラはナミオの姿を捕らえた。しゃがみ込んだカンイチはモニターから外れた。しかしそんなことはホームにはまったく関係のないことだった。ヒッピーみたいな会社員を尻目に現代人とも近代人ともつかぬ眼で席を探す。
「ナミオ、ナミオ、オレは母ちゃんに逢いたい。逢いたいんだ、逢いたいんだよ」

 かなり以前、男はよく泣く者であった。それからセンチメンタルな歴史を経て、泣くことを許されなくなった。しかしカンイチは泣いた。誰もいない隣席に人を感じると、そこには下を向いてこっくりこっくりしている女がいた。カンイチは目を疑ったが、ナミオに頼み込んでタブレットを一錠もらい、それを噛み砕いて、もう一度となりを見た。
 そこには母がいた。

(続く)



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