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仮題:バイバイ・ディアナ 4 [仮題:バイバイ・ディアナ]

【4回目】

♪ 3・ホームとその家族

 ♭ 1 いろいろと前振りを

 これは現在の話しである。そしてここにハルさんという男性がいる。
 ハルさんは、机で頬杖をついていた。口は惚けたように開いている。机の上には一箱二五百円になった柏屋の草団子が一口かじっただけで放されている。スシ屋の上がりのように巨大な湯飲みからは湯気がたよりなく立ち昇った。
 彼は大理石の天板に顔を埋めた。彼の背後には、一枚の肖像画が掛けられていた。
 その横に取り付けられたデバイスコーポレーションの名前がプリントされている電子式カレンダーは、まもなく二〇〇四年元旦を表示しようとしていた。
 細長でやせ気味の顔立ち、アメリカ軍アーミー風に刈り上げた頭。大きめの眼には黒い炉の瞳が斜めを見ている。ヒゲはなく若々しい。額の下にはアルファベットで、『ISAO・SEKIGUCHI』と彫った金メッキのプレートが貼られている。
 ハルさんはため息をついた。
 ハルさんは料理人だった。彼は役所へ自分の職業を届けるときに料理人とか書く。彼はやせ形で、人の良さそうなじいさんである。口をそぼめるようにポカンと開けて、目はしょぼしょぼ。彼は自分が悪いことをしたわけでもないのに何か悔やんでいた。わたしにはこういう人を憎まない。

 ケーキ屋のハルさんがイサオ・セキグチの座っていたイスに座っている。これはどうしたことか? それにはまた話しを続けなければならない。
 ちなみにわたしはモーガンである。
 ずいぶんと年月が経ってしまった。話しを続けるためにはある若者の話しからはじめなければならない。その若者の性別は『男』で、その名はカンイチといった。
 それじゃはじめよう。

 ここにカンイチという若者がいる。彼はこの話の中ではたぶん主人公という立場にいて、さっぱり変わらない今より少し後の未来の中で母親を追い求めることになる。
 一九九一年に中学校へと入学したが、少し早めの思春期の中で、彼は家庭内・外において見事なまでの反抗期の少年を演じた。
 反抗期、またはグレるとかグレン隊に入るとかいうことに、責任を自ら放棄した末路の評論家やジャーナリスト、そして理解力あふれるエスプリのあふれたコラムニストたちは、少年をとりまく環境——特にその親を問題の最大要因として述べるが、実際のところそうではない。
 反抗期というのは立派な病気であり、突発的かつ自然消滅的な精神病なのである。ただ、ときにその症状は他の命を脅かす、または奪ってしまうこともある。
 その場合は当然罰されるべきではあるが、この国ではそのような仕組みにはない。宗教のない国でそれを支えるのは、他国に習った人権尊重の声だけである。
 ただ、反抗期を精神病と仮定しても、なぜそのような病気に感染してしまったか——その病菌はどこで、媒体はいったい何であるのか——つまり、反抗期病の発症するまでの過程の究明といった問題は残るが、答えはわからない。
 あえていうならば人参のようにぶら下がっている自由だとか自立、それを手に入れることのできない不満の大小ではなかろうか。
 実際のところさっぱりわからないし、その究明はこの物語が進行していくことにはまったく関係ない。とにかくカンイチという青年が反抗期を何がどうなってどうのこうのとならないと、この物語は始まらない。その反抗期という話題が持つ価値は、物語の伏線となりえるかということも怪しい話である。
 とにかくカンイチは反抗期をむかえた。彼を可もなく不可もない平均的な思春期でマスを覚えた少し後の怒れるティーンエィジャーと見るのは、自分の現在であり遠い、または近い過去を振り返るように自然なことである。
 カンイチは一九九二年に母親に対し口答えをするということで反抗を宣言した。最初は髪の毛だった。長いから切れというのである。
 概して少年は正直である。彼らはきらいな者に対しては口を開こうとはしない。そして、自分を理解してくれない者に対しても。理解される筈のないことをポツリポツリと話し出すことは、大変な労力を要するものであるし、その瞬間の時が鼻くそをほじくっていたりという間抜けで完全に浪費されているとしかいいようのない時間でも、急にそれが自分に取って人生を左右するような貴重な時間に思えてる。
 それだからしゃべること——喉や舌、口とエスプリを交えながら話す——よりも、釘さえ打てる冷凍マグロのように身を固くすることに力が向いてゆくようになる。そしてすぐに力は喉仏も盛り上がらんばかりに喉へ伝わっていって、口中は酸素で膨れ上がる。
 そうなるともうお手上げ——ひとつの唇の隙間からみじんの空気をもらすものか、と顎を引き頬肉の筋肉を作動させながら唇をかたくなに閉じ続け、その換気をしようかとポカンと口を開けたときに言葉は発せられるのだ。
「うるっせえなオバサン」
 少年は得てして人に指図されることを好まない。腹が減れば飯を食うし、眠ければ寝る。勉強したければするが、たいていはしない。世間——少年たちにとってはテレビであり、あらゆる報道媒体であることが多いが——では、勉強よりも大事なことがあるという。その大事なことというのは、アマゾンを冒険するとか、一文無しで世界を回るとか、自転車に乗って世界を一周するだとか、何かそんな俗にでっかいこと、かもしれない。
 でっかいことはなかなかできるものではない。俺はナニナニフンフンとかいうナントカのように有名になってやるぞ、とか子供じみた野望で胸焼けのあまりしていない胸中を燃やすが、いつもその出鼻をくじくのは親——特に母親である。
 少年にとって母親は、



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