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仮題:バイバイ・ディアナ 3 [仮題:バイバイ・ディアナ]

【3回目】

 ♭ 7 恐竜は化石になる

 イサオ・セキグチ、そしてフナイとクミが改修中のエアポートを出ると、そこには主にバーター取引を余儀なくされている商社の駐在員が迎えに来ていた。彼は若く、言葉もはっきりした、相手に好印象を与える若者であった。
 イサオは笑うでもなく、怒るでもなく彼の迎えに素直に従った。
「お疲れでしたでしょう——首相」駐在員はイサオのカバンを持とうと手を差し出したが、イサオはそれを断った。そして、首相とは呼ばないでくれといった。
「今回はほんとうにプライベートなものだ。だから大げさにしなくてもいい」
「そうとはいっても、国を代表される方の来訪を歓迎しない人はおりません」
「そうよイサオ——いや、セキグチ首相」とクミがいった。
「秘書の方ですか?」駐在員がクミに尋ねた。
「いや、彼女は学者だ」イサオが応えた。「そして彼はワンダ商事のフナイ君。僕の友人だ」ワンダ商事と聞いて駐在員の顔が一瞬険しくなった。しかし、すぐに顔をやわらげるといった。
「そうですか、三田カンパニーのヤマイと申します」彼は深々と頭を下げた。「そうするとやはり今回の旅はプライベートですか」
 フナイが応えようとしたが、脇からイサオがいった——「そうだよヤマイ君。これは仕事じゃないし、国務でもない。純粋な個人旅行だよ」
「それでは、お泊まりは? どちらかもうお決めですか」
「そのくらい決めていなくてどうする? わたしも野宿はしたくない。けっしてきらいじゃないが」イサオはそういいながら、さみしくなった。そう、もう野宿することはできない。
 ヤマイの対応は、イサオの機嫌をとりながらも、若さに似合い実に快活なものだった。彼の態度はイサオ・セキグチの空風船のような心に少しばかりの嫉妬を与えた。若さに価値があることは認めざるおえない。イサオは自分の目尻から頬にかけて現れるしわの数が少しづつ増え続けていることを知っていた。そんなとき彼が想像するものは、ささくれ立つほどに角質化した皮膚を持つ、古代の恐竜の如き自分の姿だった。ひとことに恐竜といっても様々であることは子供のほうがよく知っている。イサオがなるべき恐竜の姿は、どう猛果敢なティラノザウルスではなかった。
 ティラノザウルスを知っていますか? 実際にどれだけの人間がその恐竜の復活を望んでいるのだろう——人間はSFが好きなのである。いったい誰が前世紀にこの地を支配していた好んで生き肉を食らうであろう生物の復活にファンタジーの衣をかぶせようというのだ。彼の大腿はサッカー選手のそれより確実に大きいし、彼の爪は八年間で一生を終えた愛すべき猫、ベッシーのそれよりも鋭く力がある。ベッシーはよくネズミを捕った。ベッシーは毛の長いいわゆる座敷猫と呼ばれる類の猫だった。母親や祖母はその猫を中流階級へ足を踏み入れる第一歩として丁重に育てようと努力したが、当のベッシーは死んだ魚や果物を上品に食することを好まなかった。彼の長いアクリルのような毛にはいつも血がこびりついていた。ベッシーの前足についた爪は本来の目的をじゅうぶんに果たしていた。
 子供の頃のわたしにはベッシーが怪獣のように見えた。それはかなりイカしていた。だが今ではそう思った自分が恥ずかしい。
 いったい誰が——何度も『いったい誰が?』という表現を練り返してしまうが、実際そうである。「いったい誰が学芸会の頃の思い出を話したがるだろうか?」
 ベッシー——つまり恐竜である。わたしは地獄のそこで優雅な生活を楽しんでいるという暗黒大王の復活は望んでいない。だがイサオが自分の中に見た恐竜とは何だったのであろうか。それはティラノザウルスではない。ゾウの祖先といわれるアルマジロのような馬のような——とにかく絵の具を無造作にかき回すようにそれらを互いに掛け合わせた姿だった。そして極めつけは——その動作はとにかく『のろい』らしいのである。だがわたしはその名前を知らない。わたしが幼い頃、その姿を見た記憶がある。それは三センチくらいの厚さを持つ絵入りの図鑑で、その挿し絵にはゾウの祖先がまだ短い鼻で木の上に茂った草をつついている図があらわされていた。
 だが記憶にはあるものの、その真実はどうしたものだろうか。——というのも、その図鑑の最後のほうには火星人や金星人の絵が載っていた。火星人はあいかわらずモダンだった。図鑑は彼らの学名さえ記載していた。その名はこうである——『マルス・ホン・グラデンス』
 あなたは子供の頃を思い出さないでしょうか? 小さな頃はすべてが同じなのです。なんでも同じ。猫も怪獣もパパも宇宙人も。
 わたしはメガ感性に犯されてきたかもしれない。つまり『なつかしがりや』になってしまったのかものしれない。それもそうだ。この宇宙で独りきりなのだから。この時間ののろい世界では、未来を待つ間に、いくつもの過去が頭の中を過ぎ去っていく。衛星は話し相手にならない。もっと前なら故障した宇宙船が困っていたらしいが、その頃わたしはまだ人間の命を抱えながら地球がどこかにいた。早くラダに来て欲しい。

 イサオである。彼は今年で三十七歳になる。彼が自分の年を気になりだしたのは内閣を設立した前の年だった。それは一本の白髪からはじまった。イサオは毎朝トイレに入る。会長室の側にある約三十平方メートルの個室トイレにはいつも線香の匂いが漂っていた。前任である父親が壁に染み込ませてしまった葉巻の匂いを消すためにはじめたものだった。
 洗面台の上には化粧品とかいったものはいっさい置いておらず、それはイサオの趣味だった。すべての小物はきれいに右側の壁に取り付けられた棚に納められていた。その洗面台も父親が現役のころは鏡から蛇口までポマードやチックの油だらけだった。
 白いタイルに張り替えたトイレの床をすべるように便器から洗面台へと移動する。イサオの朝はわりと軽快だった。彼の足どりは軽い。かといってせわしいわけではない。そういったところも父親とちがうところである。父親は太っている。身長は百六十五センチのくせに体重が百十キログラムもあった。かといって父親は成人病を患うことはなく、いたって健康である。
 ある木曜日の朝、イサオはトイレの洗面台に立ち、自分のネクタイの乱れをチェックした。鏡の前の照明が彼の姿を明るく照らす。イサオは耳のあたりで切りそろえた髪の毛をかき上げた。それには頼りなくなってきた髪の毛にわずかながらのボリュームを与えるためであった。イサオのためにいっておけば、「彼はハゲではない」できるものなら、差別的表現を無くすために少しでも学術的要素を含めた言葉を使いたいのが、わたしにはわからない。
 イサオは鏡のなかに一本の白髪を見た。額の生え際に釣り糸のようにきれいに光る白髪があった。それはプラスチックの如く人工めいていて、生身の肉体にそぐうものではなかった。最初、イサオはそれを照明のせいかと考えた。明かりには魔法がある。いきなり自分を白髪の老人に見せることもある。薄暗い洗面所の光で髪の毛を染め具合を確かめても、外に出てみれば染め過ぎだったりしたことがないだろうか? たぶん明かりは色をわからなくさせる。イサオもそう思ったのだ。
 彼は一本の白髪の所在を実際に触って確かめた。そしてその白髪を抜こうと指でつまみ上げた。それをしばらくもてあそんだ。その白髪は確かに自分の頭皮からはえている自分の毛だった。調べてみれば他にもあった。
 彼の脳裏に父親の白髪頭が浮かんだ。黒と白のまだらで彩られたその頭は、ブチの犬を思い出させた。イサオは父親を好ましく思わなかったが、数あるその理由のなかでブチ犬のような白髪は、太った体格と同じくらい価値のある理由だった。
 その白髪を発見したとき、彼は自分も父親と同じ人間なのだと知った。
 だいたいの自分の欠点やある特殊な性質、さらには肉体的な特徴を発見したとき、それを父親や母親との間での共通点にしたがる。自分の胃が痛くなれば父親が死んだ原因であるガンと結びつけたくなる。
 すべては親のせいなのである——子供はそう思う。イサオもその独りだった。ただイサオは性格や気性、肉体など、あらゆる面において父親と両極をなしていたかった。彼は自分の中に遺伝子レベルで存在するであろう父親の影を少しでも消し去りたかった。
 ヤマイの頭髪には、外から眺める限り白いものは見あたらなかった。それは墨の黒さだった。イサオは「染めたな」と思った。それがヤマイの若さに対する感想だった。若さ——イサオは自分の若さを象徴するものを知らずに身につけていた。イサオの名誉または誇りを傷つけるわけではないが、ある意味でそれは部下といっしょに映したシール式の写真をコレクションする管理職クラスの人間の思考と似たような次元のものだった。だがイサオは凡人ではない。彼にはかっこたる地位があった。ニッポンだけでも管理職の人間が何人いると思いますか? けれど内閣を構成する幹部は、特にニッポンを代表する首相は独りしかいないのです。
 イサオが若さの象徴として身につけているもの——アメリカの作家が五十年代に出版した一冊の本だった。もちろん初版本ではない。彼がそれを初めて読んだのは高校生の頃だった。出版当時は品の良くない話し言葉の連続と、自暴的な主人公の品行に賛否両論を巻きおこした。今、その本を書いた作家は所在不明である。でも本に作家が必要だと思いますか? 本は遺伝子と同じです。彼らは人間の意志を越えて自分勝手な行いをはじめます。作家は彼らに培養地を与えているだけに過ぎないのです。そして本はマスな栄養のもと、新たな世界を創造するのです。本の表面にある緩やかなへこみが見えませんか? 木を原料にしたほとんど厚みのないうすっぺらな紙の表面には、人間には見えないくぼみがあって、それはどこか別の世界につながっています。わたしはそれを宇宙といいたいが、そうはいえません。なぜならこの宇宙でわたしは聖書に登場する人物に会ったことがないからです。
 わたしが会った唯一の登場人物はペトロだった。それもあの世の世界に一歩踏み込んだときのことであった。それは夢の中の出来事だったかもしれない。
 作家の手から解き放たれた本は、イサオのゆるいシェープの上着の内ポケットにしまわれていた。イサオは滅多にその本のページを開くことはなかった。すり切れてインクのにじんだ本は、現在の彼と実際に若かったころの彼を結ぶ『点』だった。わたしには見える。みなさんも想像してください。イサオの胸から発光されるビームが空気を歪ませながら地平に沿って真っ直ぐに走り、一秒前の時が刻み続けられている巨大メモリーのなかで再生されているイサオの残像に食い込んでいる様子を。
 いい忘れたましたが、イサオがその本を気に入った理由は、冒頭で書かれている主人公が自分の家族について言及する場面だった。
 彼は自分が一国の首相になったことになんの誇りも持ち得なかった。それは、内閣の中枢である首相という仕事のばからしさだった。それはあまりにも簡単な仕事だったのだ。

 ♭ 8 化石になる前の恐竜も涙をこぼす

「お母さん、ごめんなさい。ボクは逝ってしまいます」
 これはアユムが心の中でつぶやいた言葉である。首都タシケントのホテルに着いたアユムは、スーツケースの中にしまってあった、アスピリンに手を出した。いつものように十二錠飲んだ。それでも効き目がないようなのでさらに六錠飲んだ。一時間ほどして効き目が現れた。頭が自然とフラフラしてきて、腰に力が入らなくなる。腹は空腹なくせに満腹感で満たされ、意識はない。——彼は生きた化石だった。
 彼の耳の周りでは、あるはずのないファンがうなっていた。その音は連続的で、耳が感じとれる音域の上のほうを途切れることなく占領していた。どのような擬音をつかってそれを説明できるだろうか——。たとえば羽のないハエの飛ぶ音である。聞くからにじれったい音である。誰も聞いたことがないのに。
 アユムの耳元でうなるファンはアユムの耳の中に大きなかさぶたを作り上げた。そのかさぶたはときおりめくれあがってふさがる。そしてまためくりあがって空気を与えられたファンが音をにぶくする。そのあいだ、アユムは他の音が聞こえなかった。音楽や騒音、バイオリンの音、すべてが低くこもった、丸まった形をしてアユムの耳の中を転がり続けた。かさぶたはめくりあがり、また閉じる。めくりあがってまた閉じる。その繰り返しはひたすら続く。彼の無欲で無能な精神の窓はかさぶたでふさがれた。その精神がかさぶたのすき間から放たれようとするとき、かさぶたは閉じた。そしてまた一瞬をついて解き放とうとするとき、かさぶたはまた閉じた。彼の穴はふさがれた。目の視野は時間が、分が、秒が刻まれるたびに狭くなっていった。彼の精神は窓さえ失おうとしていた。胃は震え続けて、膨れ上がる空気のタマを食道へ詰め込み続ける。実際彼の胃の中は空っぽだった。胃は絶えず蠕動を続ける。絶えず発生しつづける空気は、袋に包まれて出口を探し、噴門へとなだれこむ。彼の身体は支配され続けた。支配されていた。アユムの身体の中に虫がいた。その虫は胃の中にいた。そう思えば頚骨をはいあがり顎をはった。腎臓の裏側をくすぐった。その虫はたぶんムカデだった。皮膚のかゆみが増す。むくむくとコブができてははじける。彼の身体は膨らみしぼむ。アユムの内蔵は外へと露出しはじめた。彼の身体は裏返しになる。肉がうれしそうに顔をだす。身体の中はひだで埋まっていた。無数のひだはたくさんの——現在数えうる数字では表せないほど無限のバクテリアが繁殖していた。だが彼はアユムを食い散らかそうとはしなかった。ただはい回る。ただはい回るのだ。目を閉じることが素晴らしき悦楽となる。しかし彼は冷静に目を閉じることができない。下瞼の痛みのせいだった。その筋肉は著しく収縮をはじめていた。彼の精神は、彼の心は痛みを感じなかった。身体の痛みはけっして心の痛みと同期しなかった。心はかさぶたのすき間さえとらえることができない。ただのかさぶたなのに。彼は完全にかさぶた化していた。セミの幼虫が木の上でさなぎになるように、かぶと虫の幼虫が地中でさなぎになるように、アユムの身体をおおうかさぶたによって彼はさなぎ化していった。アユムは空気に触れながら空気を体内に取り入れることなく呼吸を続けていた。心臓は鼓動を続けていた。心臓は血を循環させることをすでにあきらめていた。アユムの身体は疲労していた。あまりに細く収縮した血管は動脈でさえ毛細血管のように変わり果てていた。彼の顔はすでに血の色を失せていた。すべての音が丸みを帯びて耳の中で転がった。転がるたびに鼓膜の内側に反響が生じた。バランスを感じとる器官がゆれる。器官が異常を感じるたびにアユムの身体はゆれた。延髄は切り放されつつあった。彼はすでに痛みを感じなくなった。あとは自分の身体が延髄を境に分離されることだけだった。彼はすべてから解放される。
 解放される予感の中で彼はつぶやいた。
「お母さん、ごめんなさい。ボクは逝ってしまいます」

 彼はトマトを思い出した。
 そのトマトはAっちゃんへと変容した。
 その次にナディアの顔が浮かんだ。
 最後はディアナだった。
 そして彼の瞳から涙がこぼれた。

 アユムは作家志望だそうだ。作家志望とはわたしが勝手に解釈したものだが、彼がいいたかったことはたぶん、『ものを書くことが好きだ』ということだったと思う。
 わたしは彼が書いた作文を読んで聞かせてもらったことがある。なぜ読んでもらったのか?——それはわたしは日本語を読めないからである。かといって日本語を話せるとは思わないで欲しい。わたしが話せる日本語は、『ワタシハ、カセイシュウキョウヲヒロメルタメニキタ、モーガントモウシマスデス』とA市のWC—COM入場のさいに看守と交わした奇跡的な日本語だけである。わたしはアユムがだらしなく、悲しく、そして純真な人間だと思う。彼に向上心があることは間違いない。これはわたしのえこひいきかもしれないが、彼は異国人であるわたしに、わたしの国が使っている言葉で話しかけてくれるからだ。発音は滅茶苦茶であるけれども。
 彼がわたしに読んで聞かせてくれたのは、『涙』にまつわる作文である。それは涙がどれだけドラマチックであるものか、どのように涙腺が刺激されて涙が吹き出してしまうのか——ということを、まったく科学的考証もなしに、実際に涙が出る様々な場面を盛り込んで書き連ねた約三十枚の作文だった。その小説には『涙博士』という人物が現れる。彼の名はその作文のタイトルにもなっていて、彼はその名のとおり涙について研究をしている人物である。作文のなかでも自分の研究について講演する場面が出てくる。そして主人公ともいえる泣き虫の男が涙博士に、「なぜ自分は泣き虫なのか」とたずねる。博士は、それはかんの虫のせいだと応える。——ただ、それだけの作文である。わたしはかんの虫というものの意味がよく理解できなかったが、たぶん『神経質』だという意味だと思っている。
 アユムがその作文を書いた理由は自分が泣き虫なことに起因するするらしい。
 だがわたしはアユムが泣き虫なのもアユムらしいことだと思う。だから彼はナディアのことを追いかけることもできなければ、Aっちゃんという女の子にも満足に話すことができないのだ。
 そういえば、アユムは割とたくさんの作文を書いている。そのなかのひとつに『ボクはなぜボクのことをボクというか』というタイトルの作文がある。それはアユムが「なぜ自分の好きなる女性は他に恋人や夫がいるのか?」という疑問のもと書いた作文だった。これを書いた理由は、恋をするのはもうたくさんだ——そうした思いすべてを顧みるためだった。実際彼はわたしに、「恋をするための体力がボクにはもうないんだ」と話してくれたことがある。わたしはそんなものは必要はないと助言してあげた。だが彼は、「彼女はまったく海みたいだ、そしてボクにはそれを泳ぎ切る体力はないんだ」といった。いや、『泳げない』だったかな——。
 わたしが特筆したいことは、アユムの書いたその『ボクはなぜ——』という誰も知らない作文のスタイルが、イサオ・セキグチが内ポケットに納めている小説のそれによく似ているということだ。
 アユムの天才性を説くのではない。アユムは影響されやすい男なのである。わたしはそれを純真であるといいたい。
 はたしてオリジナリティがすべてだろうか?
 この問いに対してわたしは答えを用意している。それはこういったものだ——
「真似っこがすべてじゃない」
 だからといって、「ディアナは火星人の真似をしている」というのはあまりにかわいそうだ。
 しかしわたしはディアナをつくり出すことに手を貸したことは事実である。
 それはわたしのなかの現実だった。

 とにかくアユムはホテルの部屋で泣いた。医者がくれたモルヒネには手をつけず、アスピリンを口にして。泣く理由もわからずに。
 それはアユムが生きてきた計三十万六千六百年という時間のほぼ最期の出来事だった。

 ♭ 9 ディンギは信用される

 あなたは耳鼻咽頭科に行ったことがあるだろうか。そこは鼻の通りや喉の調子を治すところである。台所のシンクみたいなものが向かい合わせで長く並んでいて、患者はそこに置いてある椅子に並んで腰掛ける。そして病院が用意している器具を自分の患部——つまりふたつの鼻の穴や、口の中に突っ込んで喉に薬を含んだ蒸気が当たるようにあてがって痛みをやわらげるのだ。
 わたしの周りには細菌や微生物がうようよしている。宇宙は汚染されている。わたしは小学校のころに風疹にかかった。まだ仕事をしていたころ、会社はインドネシアに行くわたしのためにマラリア予防接種のプレゼントをしてくれた。だがその有効期間もとっくにすぎていた。

 アユムはナビの友人であるデミがナビゲートするヘリコプターで首都についた。ヘリコプターが着陸した場所は民間機も着陸する国際空港だった。
 五百メートル先にはイサオ・セキグチの乗ってきたボーイングが停まっていた。その機内はキムチのにおいで充満していて、掃除を担当する者たちに臭い消しと芳香剤は必需品でだった。ボーイングは腹の中からすべての荷物を取り出した状態にあった。荷物の大半はテレビやラジオカセットなどの家電製品とアクリル製の毛布だった。コリアへ出稼ぎに行った者たちが買ってきた荷物はすべて税関で調べられる。それはたいがいどの国でもいっしょである。それを助けるものはだいたいディンギである。ディンギとは金をいい表す言葉のひとつである。色々な国で色々な呼び方がある。
 そして、そのディンギを受け取るものはたいがい公務員である。大蔵省も公務員である。
 アユムはヘリコプターの中におよそ人間らしくない格好で身を落ちつけていた。あらぬ方向へ緊張した身体の筋肉は、ふりほどかされるたびにきしみ、神経を刺激した。その痛みは骨折の痛みを忘れさせるほどだったが、実際は骨折のほうが痛い。
「ヘイ・ボス、着いたぜ、タシケントへようこそ」
「ははーようこそニッポンのボス」いったのはデミだった。デミはそういいながらナビの脇腹をつついた。「で、いくらなんだ?」
「いくらって?」
「きまってるだろ、ディンギだよ」
「ボスに聞いてみるよ」
「今か?」
「ああ——」ナビはそう応えたが、実際アユムのほうを見ると、彼にはとても金の交渉ができる状態にはないように見えた。「今はちょっと無理かもな」
「じゃあいつなんだ? おまえはなかなかおれに会えないし、おれだって会えないぜ」
「けれど、俺のボスは気むずかしいんだ。こんなときに金の話しを出せばすぐにすねちまう」デミの不安そうな顔は友達の終わりを思わせる。しかしナビはその表情にたいして深い意味を感じとることはなかった。
「しょうがないな、聞いてみるよ」ナビはそう言ってアユムを見た。いうことを一度頭の中で整理すると、「ボス、おれの友達にディンギをやらなきゃいけない。いくら出す?」
 アユムは難儀そうにほぼ直角に曲がっていた首を起こす。アユムが溜息のようにいった、
「何?」
「ディンギをいくら出しますか? ヘリコプターのオペレーション代」
「いったいいくらなんだ?」アユムが苛立ち紛れにいった。
 アユムはどちらかというと金の話しがきらいだった。仕事の話しはいくらでもするが、金の話しはしたくはなかった。たいがいのニッポン人は金の話しになると言葉少なにする。わたしはこれを根強い職人気質によるものと思っていたが、それは間違いだった。たいがいの人間には金を自由にする力がなかったからである。それを自由にできる人はたぶん公務員である。そしてその人を自由にする人は企業である。いや、「だった」といわなければなるまい。なぜなら、イサオ・セキグチの内閣において、基本的に公務員はいないからである。彼らのほとんどは、一般企業からの出向者であった。彼らは自分の会社の優位性のために金を一時的にでも自由にすることはなかった。彼らはいずれ自分の会社に戻るか、辞職するかのどちらかだった。
「いったいいくら払えばいい?」アユムがそうナビに訊いたのは、実際彼がヘリコプターに運ばれるための値段というものの相場を知らなかったからである。しかもそのヘリコプターは軍用機だった。
「おれも知らない。けれどほんの気持ちで良いんだ」ナビがいった。
「わかった——じゃあ、二十ドル」
「おい、デミ、聞いたか?」
「いや、おれはおまえと違って英語がわからない——どうぞ」
「その『どうぞ』はやめてくれ。いいか、ボスは二十ドルといったんだ」
「二十ドルか——」デミはしばし考えたが、それは格好だけのように見えた。ナビにはその考え方がいかにもわざとらしく見えた。
「いいんだな、二十ドル、どうだ?」
「まあ、いいか、よし——よし、二十ドルだ! 二十ドル、二十ドルに決定だ!」
「ボス、交渉は成立だ。それから、これはボスのことだが——病院に行くか? それともホテル?」
 アユムは病院といいかけそうになったが、気がかわった。痛み止めなら医者からもらったモルヒネがあった。だが、アユムはどのホテルも予約した覚えがなかった。
「ホテル——けれど予約してない」
「予約? 心配するな。ホテルなんていつでも空いてる」ナビはそういうと続けてこんなことをいった。それは、空き部屋がありませんなんていうホテルは、『今晩飲みに行く?』といわれて、何の用もないくせに『用事があるからダメ』なんていう見栄っ張りな男女と同じだ。つまり彼らは、自分たちのホテルがいかに人気があるかということと、木賃宿みたいに安く見られたくないだけなのだと。
 アユムは耳が痛かった。そうやって飲みの誘いを断るのは自分だった。彼はAっちゃんに今晩飲みに行こうと誘われた——それはこのうえない素晴らしい幸運だった——が、なんだかんだいって断った。そのあとの二カ月間、彼は後悔し続けた。ちなみにその時に断った理由は『腹が痛い』である。
 顔から火が出るほどはずかしいウソだった——とアユムはいっていた。彼はトラウマの塊である。そして彼は自爆しやすい。彼が自分で失敗したな思うことのほとんどが、彼自身の過ちによるものであった、と彼はいっていた。まあ、それは誰でもそうである。かくいうわたしも失敗したなと思っている。わたしがいつそれを思ったか?
 それはナディアの涙を見たときだった。
 そういえばナディアはどうしているのだろう。まだ彼女は歌っているのだろうか。自分の娘の歌を。

 アユムはまたディンギを払った。それは空港からホテルまでのタクシー代だった。思ったより高い金額だと考えたら、ナビのアパートによったためだった。ナビは確実に手に余るリンゴを抱えヘリコプターとタクシーの間を何度も往復した。
 アユムの髪の毛は汚かったし、服は汚れていた。おまけにギブスと杖でおぼつかない足下はときおり毛深い絨毯に引っかかった。彼を迎えたドアマンが彼を宿泊希望者であると理解したのは、タクシーのトランクから出てきた茶色いスーツケースだった。運転手はアユムの姿を見てよろこんで手を貸してくれた。
「ミスター、このスーツケースどこへ持っていけばいい?」
 アユムの姿に戸惑っていたドアマンは、足早にタクシーの側へ向かうと、年老いた運転手からスーツケースを受け取った。運転手がいった、「ほら、大事に扱えよ、あの客は良い客だぞ。今日は女房とシャンパンだ」
「たんまりもらったのか?」ドアマンがいうのはもちろんディンギのことである。
「まあね」運転手が鼻をかいた。「おまえももらえるぞ」
 ドアマンが舌打ちした。「うちのホテルはノーチップなんだ」
 アユムがこのホテルの部屋に入れたのはカードのおかげだった。カードとは、ディンギの代用品のひとつで、人の信用を証明するものでもある。ホテルや外国人相手の商売では、このカードの使用を推奨される。彼らはこのカードを利用してもらうことで、代金のとりっぱぐれがなくなるわけである。カードの信用もそのブランドや使用上の制限の有無による。
 アユムのカードはごく一般的なカードで、上限は三十万円だった。
 アユムは以前もこのホテルを利用したことがあった。この国にいちばん早くから進出していた三田カンパニーのエンドースによるものだった。アユムや三田カンパニーに関係する出張者たちは、三田カンパニーの名で予約することでささやかなディスカウントを受けることができた。一般室で二百二十ドルというディンギを支払わなければならない部屋は、百八十ドルになった。一日百八十ドルのディンギは、アユムの口座がある都市銀行の関連会社が発行したカードをホテルに提示することにより、ホテルはその関連会社が加盟しているカード会社に支払いを請求し、カード会社はアユムのカードを発行している関連会社に金を払ってくれといったのち、アユムの口座のある都市銀行に対して引き落としを要求するのである。これによりアユムが保有するディンギは底をついてゆくわけである。
 ホテルは三田カンパニーの予約シートをアユムに要求したが、あいにく今のアユムはそれを持ち合わせていなかった。するとホテルはそれでは後から持ってくるようにといった。
 こうしてアユムが無事ホテルにチェックインできたのもいわゆる『信用』のおかげである。
 どの商売でも信用はつきものである。
 はたしてわたしに『信用』はあるのだろうか。

 ♭10 無限ループ

 アユムはチェックインするとエレベータに向かった。骨折を初めて体験するアユムにとって、杖をつくことも初めての体験だった。床にしかれた絨毯から大理石の床に移ったとき、杖の先が滑った。ギブスで固められた足で自分の身体を支えようとしたが、石膏のためにそれも滑ってしまい、アユムは股を開く感じでそのまま垂直にしりもちをついてしまった。アユムは自分でおかしくなった。今の自分の格好は端から見てもおかしいものだろう。自分が間抜けに思えて自分からクスクス笑ってしまった。側についていたポーターは笑いをこらえていた。

 誰かがアユムを見ていた。それは誰だろう? それはアヤベ・クミだった。
「イサオ、あの人骨折っちゃたのね。かわいそう」
 イサオ・セキグチはアユムを見ずに空でうなづいた。「身体の自由がきかないっていうのはイライラするんだろうな」彼はそういいながら、ホテルのチェックインカードに必要事項を記載していた。それは見事にバランスを考えられた字で、そのカードに指定されている欄の大きさにぴったり合うように書かれていた。
 ヤマイはこの国の言葉でレセプションの女性スタッフに熱っぽく指示をしていた。彼はイサオにいわれたとおり、ニッポン国首相であるということは明かさなかった。ただ、自分の最重要取引先であるとだけ説明し、一切の失礼のないことを約束するように要求した。さらに彼は「マネージャーを呼べ」といった。この国の駐在を三年続けてきたヤマイは、下っ端ではなく上にいわなければいけないことに気がついたのだ。大事になことは上にいわなければ、この国で物ごとは進展しない。ヤマイは不意の首相来訪に少なからず動揺していた。
「早くマネージャーを呼んでくれないか」ヤマイの語気は荒くなっていた。
「だいじょうぶヤマイ君、普通でいいんだ。ぼくらは旅行者なんだ。一般のね」
「どうでしょう、一般の旅行者はスィートなんかには泊まりませんよ」クミが横から茶々を入れた。
「それはボクの責任じゃない。勝手に予約されていたんだ。たぶん僕のカードが特別なんだろう」
 クミは笑いながら、またアユムの姿を見た。
 アユムは何とか立ち上がり、エレベータに乗り込むところだった。クミはアユムが気になってしょうがなかった。笑いながら焦っているヤマイは、所在なげにクミの視線を追った。
「あら、帰ってきたのか——あの方をご存じですか?」ヤマイがクミに訊いた。クミは首を振った。
「ご存じなんですか?」
「リーベン電気のハマグチさんです。お帰りになられたんですね——あれはギブスかな?」ヤマイは足を動かそうとしたが、それよりも早くアユムの姿はエレベーターの中に消えていった。
「どういった人なんですか?」クミが訊いた。
「光通信のプロジェクトの関係で出張されている方です。ここ二カ月くらい国内を回っていたんですよ」
「怪我してましたね」クミがいった。
「ええ、電話で怪我をされたことは聞いてました。あの人も大変ですよ、ほんとうなら三人はこのプロジェクトのために人が派遣されるはずだったのが、とりあえず——ずーっととりあえずかもしれませんがあの人独りなんですからね。こっちも本社を通してクレームを入れるつもりです」
「ウェルカム・ミスターヤマイ」腹の出たスタイルを黒いスーツで隠したマネージャーがヤマイに声をかけた。ヤマイはマネージャの姿を見て安心した。ヤマイは月に一度このマネージャーと昼食をともにしていた。
「こんにちわ、ミスターボーノフ。こちらはわたしどものとても大切なゲストです。くれぐれも粗相のないようにしてください」
「それはもちろんです」ボーノフはそういうとかしこまりながらイサオを見た。「ようこそいらっしゃいました。わたしはボーノフと申します。当ホテルのマネージャーをさせていただいております」そして握手の手を求めた。
「イサオ・セキグチです」
「おや、ニッポンの首相を同じお名前ですね」
「同じ名前はたくさんありますよ」イサオは笑った。ボーノフも釣られて笑いを見せた。
 たいがいの国において、ニッポンの首相の顔は知られていない。
「とにかく今日は休もう。今は——」イサオは時計を見やった午後五時だった。「食事にも早い」
「明日は朝七時から車でブハラに向かいます。ランドクルーザーをこちらに支店のある輸送業者から借り切りました——ファー」フナイがいった。最後のほうは『ファー』はあくびである。
「あら、ヤマイさん眠たいの?」
「そんなことはありません。でもつかれました」

 アユムは部屋に入るとベットの上に横になった。ベットは就寝のためのメイクが施された後で、白いシーツが頬をやさしく撫でた。こうして自然な体勢で寝ることが十年ぶりのように思えた。骨折した足とひびの入った手がときおりジーンと唸るように痛んだ。これでシャワーさえ浴びれれば——アユムはいかにギブスを保護しながらシャワーを浴びるか思案したが、結局ランドリーの袋を入れるビニールを破ってギブスに巻き付けようと考えた。
 彼の脳ミソのなかを所在ない考えが浮かんでは消え、そしてまた浮かんでは消えた。アユムの思考は出口のない無限ルーチンのなかを駆け回っていった。
 そうした時はしばしばあった。色々な考えが浮かぶ中で、必ず混じっていること——それはAっちゃんのこと、ナディアのことであった。彼の耳の中には彼女たちの声がこびりついていた。笑い声が聞こえ、楽しげな会話が聞こえる。ナディアの歌は彼にとって神話となっていた。火星で聴いた百の歌。最後にバンドンの片田舎で聴いた歌。ギターを抱え、宙を見つめて歌うナディアは何を見ていたのだろうか——彼女の心はディアナを見ていたのだろう、とアユムは思った。アユムは何も口にすることができなかった。ただ、口を閉ざし、目を見開いてけっしてこちらを振り向くことのないナディアの目をみているだけだった。そしてAっちゃんの笑い声である。
 アユムはAっちゃんと話せなかった。彼は彼女の前に出ると温めていたどんな言葉すら発することができなかった。話しかけようとしたときは何度もあった。ただ、彼女の楽しそうな話し声を聴くと、その幸せな時間をつぶしてしまいそうで、ついつい話しかけることができなかった。
 ナディアに対してはどうだったろうか? アユムはナディアを抱いた——いや、彼女がアユムを抱いたのかもしれない。
 アユムはいまだに抱いたり抱かれたりすることに理由がいると思っていた。それはただ単に気持ちがいいとか悪いとかといったことではなくて、ほんとうに純粋なところから。
 わたしはアユムに対していいたいのは、性交に理由は無いということだ。仮にもっともらしい理由をつけてみるとするなら、子供を作ること。いや、誕生させることといおう。『作る』という言葉は子供に似つかわしくない。
 アユムはこうともいったことがある。それはディアナが生まれ前の話しだった。
「モーガン、ボクは子供が欲しくない。何でかって?——ボクの子供が産まれるなんてぞっとしてしまう。この中途半端なボクに誕生する二世は、この中途半端さに輪をかけた最高の中途半端になってしまうだろう」
 それから、「ボクは泣き虫だ。だから子供も泣き虫だろう。それにボクの鼻の下には溝がない。モーガンの鼻の下にはナイフで削ったような深い溝がある。それに体つきもただの栄養失調とは思えない体型だし、いくら鍛えても筋肉はつかない。おまけにあそこは小さいとくる」
 まだある——「決定的なのは、ボクのヒゲの色だよ。茶色だったり白だったり斑だったり。これはボクの父親からの遺伝だ。なぜなら父親もこんな色だったんだ。ついでにいってしまうと、あそこの毛も茶色いんだ」
 そして最後に、
「だからボクは自分は子供は欲しくないし、欲しがっちゃいけないんだ。母親には悪いけれどね」といった。
 わたしはアユムに訊いた。「それじゃどうしてその茶色ヒゲを剃らないんだい」そうすると彼はいった、
「父親を思い出すためだよ。ボクは父親の死に目を見なかった。それを後悔しているわけじゃない。ただ、困ったとき鏡を見ると父親がそこにいるような気がしてね」そして、
「とにかくボクの血はボクで止めるべきだ」

 無限ループの真ん中で彼は薬を飲んだ。
 アユムは精神的にヒポコンデリーである。彼は自分を確実に非難している。自己排除も考えている。
 今の彼は消えゆく古代の原始生命であった。彼はトマト化しつつあっても、堅い、生きる化石であった。
 アユムが好きなった女性には優しさがあった。たぶん広い海のような優しさが。
 だが彼はそれを泳ぎ切ることができなかった。いや、泳ごうことはしなかった。
 どうしてですか?——アユム自身、自分は排除される人間と信じているからだ。

 ♭11 バーでの少し長い会話

 アユムがアスピリンの支配から逃れたとき——時計は午前一時を回っていた。彼の口元から多量の涎が流れ出ていた。目を覚ますと急に窒息するような気分に襲われた。それはたぶん部屋の狭さから来るものだと思った。彼はせめてコーラだけでものみたいと考え、深夜でも開いているはずの二階にあるバーに行く決心をした。とりあえず顔を洗う。右側の頬に涎が白い跡を残していた。彼は不器用に片手で顔を洗った。よじれたネクタイを外すと、髪の毛を適当に撫でつけた。ほんとうは歯を磨きたかったが、ドリンクが不味くなると思うとやめた。
 バーの壁は、誰が書いたのか人の似顔絵でいっぱいだった。それは新聞に載っている世相を風刺したマンガにも見えた。
 バーの時計を見ると、一時四十分だった。部屋の時計は一時過ぎだったが、今のアユムにはたいした違いはなかった。
 ジーンズにカーディガン姿のウェイトレスが迎えた。アユムの杖をついた姿を見て驚く素振りも見せなかった。バーの中には客がいなかった。アユムは普通ならカウンターを選ぶが、今の彼には高すぎた。ギブスのついた足をぶらぶらさせるのはつらい。彼は円形に置かれたソファを選んだ。
「ウェルカム・ミスター、お飲物は?」
「コーラ」とだけアユムは応えた。そして戻ろうとするウェイトレスに思い出したようにいった。「サンドイッチある?」
 テレビでは、ミュージッククリップが放映されていて、その荒い画像が、何回もダビングしたテープを想像させた。
 コーラはうまかった。サンドイッチには固いコールドビーフが挟まれていた。アユムはそれを一口かじるとゆっくりとのみこんだ。十六時間ぶりの食事だった。彼はようやく一心地ついた気分になった。コーラをまた一口のむ。炭酸が心地よくはじけた。
 誰もいないと思ったバーの中で声がしたことには少しばかり意外に思ったが、それが自分のかけられているものと知ると驚きに変わった。しかもその言葉はニッポン語で、女性の声だった。
「となりの席いいですか?」
 アユムはわけもわからずいった、「い、いいですよ」アユムはじゅうぶん空いている上にさらに尻をずらしてスペースを作ろうとした。女性はギブスを引きずるアユムをかばうようにいった。
「だいじょうぶ。じゅうぶん空いてます」彼女は赤い色をしたドリンクを片手に静かに席についた。「わたしアヤベ・クミ。あなたハマグチさんでしょ」
「ボクは——そうですハマグチです」アユムは確実に動揺していた。なぜ自分の名を知っているのか?——だがそれがいえなかった。いいたいことのいえない男である。
 クミはアユムのギブスを指さし、「その足痛そうですね」
「え、えぇ痛いですよ」アユムがアクセントのおかしい間抜けな声でいった。「手はそうでもない」
「いったいどうしたんですか?」
「説明するにはあまりにプライベートすぎて恥ずかしいです」アユムは赤くなった。
「お仕事はどうするんですか——その身体じゃ——大変でしょ」クミはドリンクを口にし、グラスをテーブルに置くとフッと息をついた。そして肩にかかっている髪の毛をいじった。彼女の足をゆるく包んでいる厚めで茶色いコーデュロイに野暮ったさはなかった。彼女の着るアンゴラのVネックにはあるセクシーな雰囲気を漂わせた。それは胸骨が見えそうだということである。クミの姿に均整を与えているもの——それは彼女のかけている細い金縁のメガネだった。それはかなり度がきつそうだった。アユムもメガネをしなければ仕事ができない。彼の視力はメガネをかけたり外したりという習慣の中で、着実に低下していった。彼はわたしに語ってくれた——「ボクはメガネを買うときに店の人にこういうんだ、『映画館のいちばん奥に座っても、スクリーンが見えること』ってね」
 アユムはクミに知性を感じていた。『知性』は彼が持つ数多くのコンプレックスの中のひとつだった。それは大学を出ていないことにもあてはまる。
 ニッポンというのはおかしな国で、会社自体がある教育機関であり、政府であり、国である。彼らの多くは、たとえ高校しか卒業していなくても、エンジニアになることができる。それはたぶん海外、特に英語を公用語か第二外国語とする国のそれとは、似て非なるものである。
 わたしがWC—COMの研究室にスーパーコンピュータを据えつけにやってきたアユムを見たとき、彼はどうみても頭が良さそうには見えなかった。それは誰の目から見てもそう見たに違いない。
 しかしアユムは誠実だった。わたしたちは人の能力の他に人の尊ぶことをたいへん大事にする。わたしを含め、研究所の人々がアユムの何を尊んだか?——それは誠実さである。
 頭の良さそうに見えない彼のなかに、誰でも見いだせるもの——それは『誠実さ』だった。
 アユムはクミの知性に対して、どれだけの対抗できうるものを持っていただろうか? 何もない。実際、彼はクミが科学者で、遺伝子学を研究していることを知らなかったが、それを知る前に、彼には彼女と比較できるものをなんら思いつくことができなかった。アユムは薬がのみたくなった。あがり性の彼には少しの薬が会話に役立つことがある。あいにく彼の手元に薬はなかった。それに彼は多量の薬による症状から目覚めたばかりだった。
「仕事は——とりあえずニッポンに連絡してからですね」そして「ボクはここに事務所を開かなければならないんです。それが終われば帰れるはずです」
「帰れるって?」
 アユムは意外そうな顔をした。「ニッポンですよ」
 クミは口元に笑みを浮かべた。アユムはその表情の意味がよくわからなかった。何かおかしなことをいったのだろうか? もしかすると『里心のついた子供』と思われたのかもしれない。アユムはいった、「でもボクはそんなにすぐ帰りたいってわけじゃない。割とこの国は過ごしやすいし——」それはうそではなかった。たいがいにおいて、彼は出張からニッポンに帰って一週間もすると、前にいた国をなつかしむ癖があった。
「女性もきれいだから?」とクミがいった。
 アユムは笑った。「確かに——この国の人はきれいですね。それでも色々な人種の人がいますから。ロシア系の人がいたり、モンゴル系だったり」
「そのなかでもたぶん男性はロシア系の女性に魅力を感じるんでしょうね。ボディも肉感があってセクシーだし、——それに金髪」
 アユムの顔が赤みを帯びた。女性からそういった言葉を聞かされる準備ができていなかった。彼は少しのあいだ口をつぐむしかなかった。
「ボクはやっぱりニッポンの女性が好きだな」
「赤くなるところなんて正直ね」クミがいった。その言葉は嫌味ではなかった。なぜなら彼女は笑っていなかったからである。アユムはすでに彼女の上には立てなかった。まあ、立ってどうするというものでもない。男が立つべきは男の上である。
「ハマグチさんの年はおいくつ?」
「いくつ?——ボクはその前に訊きたいんだけど、なぜボクの名前を知っているんですか?」
「あら、気になる? どうってことないわ、ロビーであなたを見かけたの。床の上で股を広げているあなたを」
「見てたのか——」アユムはバツの悪そうな顔をした。「——でもそれだけじゃ、ボクがハマグチだなんてわからないだろう。レセプションにでも訊いたのか?」
 クミはかぶりを振って、「そんな図々しいことしないわ。それにレセプションじゃそんなこと教えてくれないわよ」
「じゃあどうして?」
「ヤマイさんから聞いたの」
「ヤマイさんって、——三田カンパニーの?」
「そうよ。彼もいっしょにロビーにいたの」
「そうか——」アユムは力無く下を向いた。クミが『どうかしたの?』 と訊くと、「あの会社にはずいぶん迷惑をかけているんです。ほんとうなら契約どおりに三人の技術者を——」アユムは『技術者』という言葉を使うことに戸惑いを感じた。「——派遣するはずが、未だにボク独りなんです。まあ、それでも仕事に遅れはないようにやっていますが、手や足がこうなってしまっては先行きは暗いなあ。とにかく、会社を代表するものとしてはヤマイさんに頭があがらないんです」
「それも聞いた。でもあなたが気にすることじゃないでしょう? あなたが悪いわけじゃないんだから」
「でもね——」アユムは頭をかいた。「まあ、そんなわけでヤマイさんに世話になってることは間違いない。あなたは? えーっとアヤベさん、でしたっけ」
「わたしは旅行で来たの。独りじゃないわ。わたしの連れがヤマイさんを知っていたの。彼、空港まで迎えに来てくれたわ」
「へぇ、ヤマイさんが迎えに行ったの——普通はドライバーにプラカードを持たせるんだけどな」
「わたしの連れって特別なの」
 アユムは話す言葉を捜した。何を話そうか? 彼にとってそれは難題だった。女性と自由に話すにはあと十年修行が必要だった。
 アユムはわたしにいったことがある。
「アユム、なぜ君は結婚しないんだ? もう三十を過ぎたんだろう」
「モーガン、ボクは女の子と話せないんだ。Aっちゃんと話すにも三年かかったよ。信じられるかい? 三年だよ」そしてさらにこういった、「特に好きな女の子とは話せないんだ」

 残酷だがわたしはアユムに、「それは病気だ」といった。アユムは「そうかもしれない」といった。実際アユムは自分が病気だと思っている筈だ。彼は自分をネガティブに、さらにネガティブに問いつめることができた。
 問いつめたさきに待っているものは何もなかった。

「アヤベさん、あなたの年はいくつなんですか?」アユムはそれをいった途端に後悔した。言葉を選んだあげくが、女性に年を訊くという常識的に失礼なことだった。だがわたしはそう思わない。女性に限らず、生きてきた年というものは非常に重要なものだ。それは年功序列とかそういった制度や習慣的な意味あいにおいてではなく、生きていること自体が、時間の存在を現している。
 そしてそれはメガ感性の種であり始まりであった。多くのメガ感性は、自分の歴史を誇らしげに語ることからはじまるのである。
 非常にプライベートに近い方面において、わたしは昨日のことすら話すことがきらいである。それはなぜか——あいかわらずわたしたちは、時を奪い返すことができないからである。
『いくつだと思う?』それがアユムの予想し得た応えだった。が、クミの言葉は違った。「三十八よ」
 アユムは唾をのんだ。これは性欲に満ちあふれた人間が女性に対して行う仕草ではなかった。その理由はふたつある。ひとつはアユムの予想を裏切ったこと。もうひとつはアユムより年が上だったことだ。アユムが初めて体験した相手は、大学生だった。それは彼が高校生の時で、彼女とは五つの差があった。
 アユムは女性を見て、その年齢を想像することはない。
 ちなみにアユムが初めて年下の女性を好きになったのは、彼が二十四歳の時だった。
「あなたは?」クミが訊いた。アユムが考えながらいった。
「えーっと、三十一歳、いや三十二歳だな」
「あなたって考えないと自分の年をいえないの?」
「ちがうよ、今年で三十二になるんだ。今は三十一」
「そう、じゃあわたしは三十八っていわなきゃいけないのね。わたしは先月三十八になったの」
 クミは年を重ねることも重要だとアユムにいった。彼女の研究生活において、所内の派閥や、年をとっただけで自分の地位を占め続けるものが大勢いる。彼らはインターンを含め、自分たちの下で働く者たちを自分の手足にしか考えていない。また、そうして使われてきた者たちも、一度上に立ってしまえば、また同じことを繰り返すのである。
 そう話す彼女には余裕が感じられたが、反面それが苛立ちを思わせた。そして最後にいった。
「それももうすぐ変わるかもね」
 アユムはクミの苛立ちの行きつく先を予想できなかった。彼女の顔には、すべての苦みを知りつくしたお水女独特の余裕に似た雰囲気がうかがえた。
「じゃあ、今回も研究でこちらにこられたんですか?」アユムはそういいながら、この国で研究するものといったらウォッカくらいしか無いだろうと思った。
「まあ、そうね。それも半分あるわ。ほら——ブハラって街を知ってる? そこに行くのよ」
「ああ、知ってます。あそこじゃツーリストホテルに泊まりました。世界的にも古い街らしいですね。毎朝ツーリストの人たちに会いました。ニッポン人が多いのにはびっくりしたな」
「その街の二千年祭を見に行くの」
 アユムはうなづいた。
 ブハラの二千年祭を見に行く。それは単にイサオ・セキグチの趣味でしかなかった。彼が別段中央アジアに興味を示していたわけではない。彼は古いものが好きだった。彼はそういった歴史的事実を目の当たりにしたい男だった。
「で、でも、どうしてボクと話そうと思ったんですか?」
 クミの答えはこうだった——アユムがあまりに汚かったからである。そして、
「もし無銭飲食でもされたらニッポン人には気をつけろってなるじゃない」
 クミはウェイトレスにドリンクのおかわりを頼んだ。
「それはうそだけど——何だか気になったのよ。あなたってどことなく頼りないもの」
「ボクが?——ボ、ボクのどこが?」
「汚いところ。おまけに怪我してる。その様子じゃ子供もいないし結婚もしてないでしょ」
「そう、独りだよ」アユムは『子供はいた』といおうとしたが止した。人が信じないだろう話しをうまく丸め込める自信がなかったのだ。それに今までもそうしてきた。
「まあ、結婚しなくても子供を持つ母親や父親は多いけれど、彼らは彼らなりの考えがあるわ。でもあなたって犬も育てられそうにないもの」クミが冗談だという身振りをしながら笑う。アユムは静かにそれを制すると、
「いや、そのとおりかもしれない。ま、まるで占い師みたいだな。ボクは今まで動物を飼ったことはない」
「何で?」
「親が止めろというんだ——な、なぜかというと、死ぬ姿を見たくないらしいんだ」
「そう——確かに死んだら悲しいわね。わたしも見たくない。死んだペットを葬式に出してるとこなんて絶対に見たくない」
「ボクも同じ考えです。満足に葬式も出せる人も少なくはないと思う。そ、それに人間と動物は種がちがうし、それを考えたら、ボクらはけっして動物を下等とはいえないんだ」アユムは相手が科学者であることを忘れて、つまらないインテリめいた説をぶったことを恥ずかしく思った。
「そのとおりよね。犬は人間には聞けない音に気づくし、走ればオリンピックじゃいちばんだわ。彼らには人間にできないことを可能にする能力がある。昔の人は鳥が飛ぶ姿に憧れたのだろうし、今でもそういった人はいる。少し頭が変な人もいるだろうけれど」
「彼らはボクらができないことを何でもしてみせるでしょ。彼らの目からすれば、ボ、ボクら——つまり人間のほうがよっぽど下等だ。何かをしようとするたびに、何かを作りださなきゃならないんだから。自動車とか飛行機とか」

 わたしはアユムのいった言葉にうなづくしかない。アユムの言葉にはわたしが与えた影響が見受けられたからだ。
 ラダはすぐそこまで来ている。もう少し。もう少しでわたしはラダの固いシートに身を沈め、ラダと無言の会話をしよう。

「いちばんの違いは——」クミが人さし指を立てていった。「彼らは独りでも生きられるの」そして、わたしたちは祖先から学ぶのではなく動物から学ぶべきよ、といった。
「動物に学んで、あなたが今まで学んできたことはど、どうすんだ——いや、どうするの?」
「バカね、生活体系よ」
「簡単に変わるもんかな?」
「あなたは度胸がないわね。でも誠実そうだわ」クミはアユムの肩に手を置いた。「それは変わるわ、簡単に——お店が業態を変えるようなものよ」
「そうかな」アユムはクミの話しをまじめに聞きながら、頭の良い人は何を考えているのかわからん——といった体だった。
 時計を見ると三時近くになっていた。
「アヤベさんは明日早いの?」アユムは九時と答えた。「わたしは朝七時にホテルを出なきゃならないわ」
「それじゃもう寝たほうがいいよ」
「いいのどうせ車の中で寝るから。六時間かかるんだって。そんな長い間車の中で起きていたら息が詰まっちゃわ」
 クミは五時まで——つまりこのバーが開いている時間までここにいるつもりだといった。ホテルの部屋がきらいだとも。彼女はビデがきらいだといった。それはなぜか?——ビデの水にはたいがい便器と同じ水が使われているかららしい。
 アユムはコーラを頼む。無理してつき合わなくても良いのよ、とクミがいった。「無理してるわけじゃないんです。こ、ここに来る前はずっと部屋で寝てたんです」
 アユムは流暢にしゃべったつもりだったが、実際に言葉はつぎはぎだらけになっていた。
「アヤベさんは結婚していないんですか?」話すことのない男のいえることはこんなものである。
「してない——」
 アユムは意外に思った。クミはアユムの考えうる女性の水準をはるかに越えていた。知性の面でも、外見からの美しさにおいても。こういった女性が独りでいるはずがない——アユムにとってはそのはずだった。
「——でも子供はいるの。今年八歳になるわ」
「ご、ご主人は?」
「それについては話したくないわね」

 バーの天井からぶら下がっていたテレビでは、髪の長いロックバンドが歌を歌っていた。それはこういった歌である。

  友達の家にはペチカがある
  それはとっても古いやつ
  俺の家には何もない
  暖かくなるためには家族で抱き合う
  寝るときもいっしょ
  だけどベットは二人用
  金がたまったら何を買おう
  ペチカかそれともベットか

 ♭12 アユムの最期

 アユムは『子供がいる』という言葉を聞いたためか、それとも『話したくない』という彼女の言葉がきっかけになったのか——とにかくディアナの話しをしてみようと思った。相手がクミであることもなぜか心強い気がした。
「アヤベさん、あのディアナって女の子知ってますか?」
「ローマの女神のこと?——それとも火星人のこと?」
「か、火星人のこと」
「それがどうかした? あの子、良い暮らししてるのかしら?」
「彼女は家を与えられている」
「そうじゃなくて人間的?——いや火星人的によ」クミはソファにもたれ掛かる。「彼女の身体は基本的に人間と同じ構造をしているわ。アメリカは以前のように宇宙人に対する研究成果を隠蔽はしていないと信じればの話しだけれど。今は成長する速度も、外見もまるっきり人間。人種だとアジア? 特にニッポン人。DNAもほとんど——いや百パーセント変わらないといってもいいらしいわね」
「そうするとあの子は——ディアナは人間なのか?」
「だから今まで聞いている話しをしているだけ。今のDNAも突然変わってしまうのかもしれない。安定してる細胞にガンが増殖するように」
「たとえばどんな風に変わるんですか?」
「どうかしら——外見でいえば急に髪の毛の色が変わったり、なかなか死ななかったり——たとえば寿命が普通の人の二倍あるとか。それから脳が異常に発達するなんてのも考えられるわね。すごく記憶力がよかったりして」
「ふーん」
「けれどわたしは火星人とか宇宙人だとかにはあまり関心はないわ。あの子の研究はわたしの対象外だしね。それにわたしはあの子が人間だと思っている。たぶんね。」そして、
「というより、わたしはあの子が人間だろうが火星人だろうが構わない。どんな生物でも子供には未来しか見えないわ」
 アユムは知っていた。もちろんわたしも知っている。ディアナは人間である。彼女はアジアの国が作りだした混血の可愛い女の子だ。
 それを知っているアユムが、ナディアに対する仮説を立証しようとしている人びとの話しを聞く——たとえばクミの話しを。アユムは歯がゆくなった。
「ディアナってボクの娘なんだ——子供なんだよ」アユムが真顔でいってみた。
「そう——」クミは平然としていた。「たぶんそれを証明するとしたら、あの子が火星で保護された事実をどうくつがえすかね」
「事実?」
「そうよ——事実。あの子がなぜ火星人だか知ってる? それは火星で保護されたという事実のせいなの。人の話しを断片的に聞く限り、彼女を火星人と呼べる事実はそれだけなの。肉体的にもきわだった特徴が見られない以上、彼女が火星人であるというのは、彼女を保護したのは火星の上でだから——それしか無いと思うわ」
「そうか——」アユムがいった。「じゃあ、ナディアを取り返せるのか?」
 クミは笑った。「ほんとうにあなたの子なの?——さっきは『子供はいない』といったじゃない」
「それは信じてくれないと思ったから——」
「仮にそれがほんとうとしたなら、あなたがあの子の親であることを証明しなければならないわね。それには血が必要よ。相手の方は?」
「相手って?」アユムは真顔になった。
「いやだ、女性・奥さん・恋人——どれかは知らないけれど、子供がいるってことは相手がいたってことでしょう」
「い、いるよ」
「何だか自信のない口振りね。あんまり愛してなかったんじゃない——どういう関係だったかは知らないけれど。どこにいるの?」
 『愛していないんじゃない』アユムはクミの言葉を聞いた。その言葉は彼の心に大きなくさびを刺した。
 彼がナディアのことを考えたうえで『愛』という言葉を持ち出したことはなかった。
 唐突であるが、アダムとイブの間に愛は存在していたのであろうか。
 火星の二人の間には——。
 回想するとあれはほんとうに自然な出来事だったのかもしれない。
「もういいんだ。——でもどうしてあなたはボクの話しを信用してくれるんですか」
「話しにうそもほんとうもないわ。ものごとの信用を確かめる前に話しはあるわけ。それにたいがいのことはいずれわかってくるものなのよ。だからわたし、別にあなたの話しを信用してたわけじゃないの。でも——」
「でも?」
「ディアナことを『自分の娘だ』なんていったのはあなたが初めてでしょうね。——あ、他にもいたわ、あの飛行士ね。退役軍人だったっておじいさん。ディアナを連れてきた人よ」
 アユムは悲しくなった。そしてついこぼしてしまった。
「——やっぱり信用してくれないか」

 時代は変わっていた。アユムは自分の名を変えようと決心した。アユムはまだ独りだった。

 わたしは『心』の存在を否定しない。その代わり、わたしはそれを心とは呼ばない。わたしにとってそれは『宇宙』である。人間の内部には宇宙が広がっている。
わたしはようやくラダを手に入れることができた。

(続く)



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